2018年1月26日金曜日

【新連載】前衛から見た子規の覚書(10)朝日新聞は害毒である 筑紫磐井

前回の続きを述べる。
④小説
「文学中の最人望の多きは小説にして文学者の中その多数を占めたるは小説家なり。」

このように述べて、当代小説史を記述する。わずか10年ほどのものであるが同時代人として顕著な変化を読み取っている。すなわち、矢野龍渓の『経国美談』に始まり、春廼舎朧(坪内逍遥)の『当世書生気質』、二葉亭四迷の『浮雲』、尾崎紅葉の『色懺悔』、幸田露伴の小説(『風流仏』など)であり現在の近代文学史とほとんど変わらないところはむしろ興味深い。しかし、その後の本格的な作家は、子規の親友である夏目漱石はまだ小説家となる気配すらなく(子規没後の明治38年に処女作品「吾が輩は猫である」を発表する)、子規が敬服してはいた文壇から疎外されていた森鴎外が再登場するまではまだ時間があり、同時代には悲観的であった。

「大小説家ありて小説を著はすはすなわち自ら別なりといえどもその他においては競争心なるもの名誉心なるものありて多少小説の腐敗を防ぐの一助となるものにして三四年前まではなほ競争心などのために著しく進歩せしものなり。然るに今日の小説界は実にこの競争心と名誉心とを失ひつくしたり。」

こうした問題の根幹に子規は新聞小説の支配問題を見ている。

「余は小説界の事情に疎きためにその精細なる報告をなすを得ずといえども、有名なる小説家が一団結をなして天下を横行するは万人の知るところなるべし。外面の形迹上より言はば村山龍平なる一富豪がその筋力をもってあるとあらゆる有名な文学者(主として小説家)をおのが手下に網羅したるものにして、「大阪朝日」・「東京朝日」・「国会」【注】の三新聞に従事する小説家は自ら打って一丸となされたるの観ありこれを名づけて小説家買占め策といふ。坪内逍遥・森鴎外・尾崎紅葉などの三派を除きて外は多くこれ小説家買占策の餌食になりしものにてその人々は誰々なるか枚挙に耐えねばここには言はず、知る人は知るなるべし。」
【注】「国会」は「東京公論」と「大同新聞」が合併して出来た村山龍平系の大新聞。

村山とは朝日新聞の社長であった。実際新聞小説が小説界の根本をなしているのである。

「新聞小説は新聞の上でこそ一応もっともなれ、一たび新聞の上を離れてはまた完全なる小説といふべからざる筈なるにこれらの小説はことごとく再版して一冊の小雑誌となるは何事ぞ。いな、そはともかくも、頃者出版せらるる小説といへば必ず新聞小説の復刻にのみ限りたるは不思議千万の事ならずや。今日の小説界は真に新聞文学の一部分としてわずかにその命脈をつなぐものといふべし。」(新聞雑誌)

 明治25年11月19日に子規は「日本」に入社した。陸羯南から出された条件は、いやなときは出社しないでもいい、ただし月給は15円である、というものであった。子規は「日本」に就職を決めるのだがその時親戚にこんな手紙を送っている。

「尤も我社の俸給にて不足ならば他の「国会」とか「朝日新聞」とかの社へ世話いたし候はば三十円乃至五十円位の月俸は得られるべきに付きその志あらば云々と申し候へども、私はまづ幾百円くれても右様の社へははいらぬつもりに御座候」

朝日を勧めたのは陸であろうがきっぱり断っている。それくらい正岡子規は朝日新聞が嫌いだったのだ。
明治三十一年七月十三日、正岡子規が書いた墓碑銘がある。その後、4年を生きたのだが、本当の墓碑銘というよりは、社会批判と見た方がよい。月給額が上がっているのが、切実でいい。

「正岡常規又の名は処之助又の名は升又の名は子規又の名は獺祭書屋主人又の名は竹の里人。
伊予松山に生まれ東京根岸に住す。
父隼太松山藩御馬廻加番たり卒す。
母大原氏に養はる。
日本新聞社員たり。
明治三十□年□月□日没す。享年三十□月給四十円。」

正岡子規は、日本新聞社員に限りない名誉と自負を感じていたのだ。子規の全存在は日本新聞社員であった。それはこの墓碑銘でわかる。
だから、余計なことだが正岡子規の後継者は高浜虚子ではないと思う。日本新聞社員を引き継いだ河東碧梧桐なのである(碧梧桐は、陸や古島ら日本新聞の幹部が選んだものである)。

⑤文章
なお小説の問題は必然的に文体問題を含むが、子規は「文章」の中で、純粋の国文、純粋の漢文、純粋の英文、漢文の仮名くづし、直訳体、新聞体、書簡文、言文一致流を列記するが、その結論は微温である。

「各種の文体みなそれぞれの長所あればすべからくその長所を利用して或は優美に或るは繊細に或るは簡雅に或るは穠艶にもってほかの文体の及ばざるところを補益すべきなり。」
「必ずしも国文学者流の如く千年前の死文法を復活するに及ばず。けだし文法は時代とともに推移する傾向を有すればなり。必ずしも言文一致者流の如く文章と言語と一致するに及ばず。けだし最多数に解し得らるる文章は多く最上の文学ならざればなり。」(文章)

自らの執筆する擬古文調の多くの文章に対する批判が生まれない以上新しい小説は生まれない。それは後年、子規の主張する写生文を積極的に採用した夏目漱石によって初めて完成するのである。

⑥その他(院文)
子規が掲げる院文は前述の通り浄瑠璃の台本を指すが、ここでは楽曲や所作と一緒になる文学のことであり、子規としては純粋の文学としては考えておらず、ほとんど文学論としては関心を持っていない。これは連句が文学以外の要素を持っていることから論じようとしなかったのと同様である。

「浄瑠璃の各種類はもちろん謡曲狂言琴唄端唄の類をも含ましむるの意・・・要するにここに論ぜんと欲するところは独立したる純粋の文学に非ずして半ばは文学に属し半ばは音楽または所作に属する一種の合同美術中についてその文学に属する部分のみに関するなり。」
「余はここに詳論する能はざるなり。何となれば第一余は演劇のことに通ぜず第二に今日の演劇はますます文学に遠ざかるの傾向あればなり。」

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