2017年6月23日金曜日

第68号 あとがき(攝津幸彦・西郷竹彦) 筑紫磐井



 既に大井恒行氏が「日日彼是」で紹介しているので繰り返しになるが、大阪俳句史研究会編の『大阪の俳人たち7』(2017年6月和泉書院刊)が刊行された。1985年から継続して出ている近・現代俳句の研究書は、全国的にも珍しいだろう。松瀬青々や鈴鹿野風呂、岡本圭岳、後藤夜半、五十嵐播水、阿波野青畝、西東三鬼など関西独特の個性を発揮する作家たちを論じており、第7巻まで62人が取り上げられている。ともかく前衛だ、伝統だという派閥分けをしないのが気持ちよい。初期は上に掲げた比較的メジャーな作家が多かったが、後半にいたって名前だけは知っているが、作品も殆ど知らないという作家も殖えてきた。第七巻には、巻頭に高浜虚子を据えているものの、尾崎放哉、橋本多佳子、桂信子、森澄雄は現代でもメジャーな作家だが、川西和露、浅井啼魚、小寺正三は知る人が知る作家たちかも知れない。こうした作家を顕彰しようというのも、とかくメジャーに傾きやすいジャーナリズムに反抗する関西らしい研究会だ。
 三〇年も続けていると代替わりも進み、大阪俳人を論じていた人たちがいつか論じられるべき世代になっているのも興味深い。堀葦男は既に第七号で取り上げられているが、後藤比奈夫、森田峠、鈴木六林男、和田悟朗などは次の号あたりにも論じられるべき人たちであろう。
 そして、この巻で、攝津幸彦が登場している。バックナンバーを点検してみると、攝津の没年以降になくなった人たちが取り上げられていなくはないが、生年で言えば一番若いのが攝津になる。戦後生まれの始めての作家の登場だからだ。攝津幸彦がもう歴史になったというのは感慨深いものがある。「大阪の俳人たち」で取り上げるのだから攝津が大阪にいた時期――東京に出て旭通信社に入社する前の学生時代(関西学院大学)の話が中心となる。そしてこれを語るにうってつけの伊丹啓子が語っているのである。恐らく、豈の同人では、大本義幸以外の誰も知らない攝津幸彦の相貌である。もちろん、豈の攝津の回想号などで、伊丹はしばしば攝津の若い頃を語ってくれているが、こうした歴史の中で語られる攝津の姿は初めてなのではないか。
 と同時に、攝津が歴史の中に組み込まれたと言うことは、同世代の我々も歴史の中に組み込まれつつあるということを厭でも感じないわけにはいかない。私の記憶を紡ぎながら、歴史というものが音を立てて流れて行くのを感じるのである。
   *     *
 6月12日、文芸教育学者の西郷竹彦氏が亡くなられた。97歳であった。東京帝国大学応用物理学科に学び、召集されて朝鮮平壌航空隊に配属、ソ連の捕虜となり、モスクワ東洋大学日本学部講師となり、日本文学を教える。昭和24年帰国、最晩年まで、文芸学、文芸教育の研究と実践に努めた。文芸教育研究協議会(文芸研)を創設し会長を務めたから、西郷文芸学に心酔している国語教師も多いことと思う。
私の知るもっとも最近の著書が、

『宮澤賢治『風の又三郎』現幻二相ゆらぎの世界』2016.2

であるから、本当になくなる直前まで研究を進められていたことがよく分かるであろう。骨折をされて体の自由がきかなくなったという話を電話で伺っていたのだが、その間も著作活動は止まなかった。
 西郷氏の俳句との関係は、詩歌三部作というべき次の著作によく現われている。

『増補合本 名句の美学』2010.7
『増補 名詩の美学』2011.8
『啄木名歌の美学』2012
12

 文芸教育の中でもっとも難解だったのが俳句の解釈であったようだ。教育現場でどのように答えるかは教師ですら簡単にはいかない。
 『名句の美学』時代は坪内稔典氏と交流があったらしいが、残念ながら私はこの頃はまだ西郷氏とは面識がなかった。色々お話をさせていただいたのは、その後のことである。『名句の美学』の書評を文芸教育研究協議会の雑誌に掲載させていただいたのがきっかけであるが、こんなことを言っては失礼だが、私の書いた『定型詩学の原理』に通うものがあるような気がして面白く批評させていただいた。こんなご縁で、90歳をこえられた西郷氏が、たった一人で日本全国を講演して回る隙間で辛うじて時間を作っていただき、早朝、上野駅で落ちあった。恋人と会ったような気分であったが、恋人とのデートよりはかなり辛い思いをした。目当ての喫茶店に行ったところたまたま休日で、やむを得ず屋外の吹きっさらしで堅い椅子に座り、延々と話をさせていただいたのは痛烈な思い出である。流石極寒のロシア暮らしが長かった方だと感心した。
 それが縁で、三部作の最後の『啄木名歌の美学』の原稿を読ませていただき色々意見を言わせていただいた。この本の末尾には、

「・・・定型詩に詳しく、かつ実作者であられる畏友筑紫磐井氏に、原稿に目を通していただき、過ちや不適切な表現などについてチェックしていただきました。この場を借りて厚くお礼を申し上げます。」

とあるが、読み返すと何を申し上げたか今でも冷や汗が出る。ただ、氏の啄木の研究を通じて私自身、多行(3行)の論理というものを少し学ぶことが出来たのはうれしいことであった。
 一方で、私の本(『伝統の探求』)にも推薦文をお願いしたいと申し上げたところ、

「伝統と前衛を矛盾・対立とする俳壇の混迷を「題詠」に視座を据え縦横に論断する本書は、偏向させた二元的世界観に対するアンチテーゼであり、啄木の一元二面観や賢治の順違二面論に通底する革命的主張と言わざるをえない。」

と書いていただいた。私の本は決してこんなに激しくはないのだが、むしろ西郷氏の思いがほとばしった言葉と言うべきであったろう。
 西郷氏の二面ゆらぎの理論を私がよく理解できたかは疑問だが、アカデミックで閉鎖的な理論から、総合的な文芸学への氏のまなざしだけは共感することができたように思う。俳句はどんな作者でもなくなってしまえば読者にまかせるしかない。その意味では忘却を免れるのは偶然にすぎない。しかし、西郷氏の文芸学は、どこかの教室の隅で営々と紡ぎ続けられて行くのではないか。ご冥福をお祈りする。


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