2017年5月26日金曜日

【抜粋】<俳句四季」6月号>俳壇観測173/還暦作家の回顧するわが人生 ――島田牙城と伊藤伊那男の狂気・敗残・至福 筑紫磐井

それぞれに俳壇で一応の成果を示したこともあるのだろうか、圧倒的多数を占める団塊の世代を中心に、七〇~六〇歳の中堅作家群が人生の総集編的な成果をまとめ始めている。それも、俳句作品というよりは、随筆や評論など様々な形で自己の半生を問い直し、自己表現を行っているのである。

●島田牙城『俳句の背骨』(二〇一七年二月邑書林刊)
邑書林の社主島田牙城(六〇歳。「里」代表)の評論集である。挑発的な評論を数多く発表することでも知られているが、意外なことに牙城自身にとって初めての評論集(本人は散文集と言っている)だそうである。他人の句集・評論集の出版に熱中する余り自分のことには手が回らなかったらしい。牙城はこの二十年余り膨大な発信を俳壇に対しており、邑書林からの企画と相俟って俳壇を騒がせてきた。特に若い世代の信頼は厚いものがある。
この評論集は、おおまかにくくれば芭蕉、季語、文語、仮名遣い、虚子、其十、爽波、裕明等を論じていることになるが、冒頭の講演録をまとめた「芭蕉と現代俳句」は、芭蕉と言うよりは島田牙城の人生そのものを語っているようなので先ず紹介したい。何しろ先ずその講演が、入院中の精神病院を抜け出して駆けつけて来た牙城が語るという異常なシチュエーションだったからである。それ程重症ではなかったらしいが、講演の中でも語っているし、牙城そのものが刊行に関係していた岩淵喜代子の『二冊の鹿火屋』は原石鼎の評伝である(俳人協会評論賞受賞)が、――それが描く晩年の狂気の石鼎は圧巻である――実はその本の校正を、牙城は精神病院で行っていたのである。その他にも、狂院で亡くなった杉田久女、自らLSDを体験した精神科医の阿波完市など、痴れた人々が次々に登場する。
次に狂気は神となる。じっさい石鼎は自ら神名を名告っていた。ここから、後世の人から神とさせられた芭蕉(実際、明治には「花之本大明神」として祀られたという)を語り始める。ここでは芭蕉を語ることも重要なのだが、実はその芭蕉に痴れた人々――加藤楸邨や森澄雄を牙城はこよなく愛している。「痴れる」と言うこと自体、牙城にとってのポジティブな価値なのであった。牙城が、たっぷり時間を費やして書いている爽波、裕明も痴れた側面をよく描いている。 実際私は知っている。邑書林が手がけた『加藤楸邨初期評論集成』『波多野爽波全集』も殆ど売れなかった。出版人としても牙城は楸邨や爽波に痴れていたのである。しかしそれは美しいことだと思う。
(中略)

●青木亮人『俳句の変革者たち』(二〇一七年四月NHK出版刊)
 少し本論から離れて、若手の本を紹介しよう。NHKラジオのテクストである(四~六月放送)。新鋭俳句評論家である青木亮人(四五歳。愛媛大準教授)が、正岡子規から現代の若手までを視野に入れた俳句史を紹介しているのだが、定説化した一九六〇年までの俳句史に加えて、それ以降の俳句の変革者を書いていることに注目する。二十一世紀以降のいわゆる『新撰21世代』はまだ定評もし難いがたいが、攝津幸彦、坪内稔典たち、雑誌で言えば「日時計」「黄金海岸」「現代俳句(南方社)」に拠った戦後世代・団塊世代作家たちが位置づけられていることだ。小川軽舟の『現代俳句の海図』が伝統派に特化していたこともあり、このテクストでは視野が広げられている。こうした通史によって、前出の島田牙城や伊藤伊那男の世代の痛恨を汲み取ることも現代俳句史の宿題ではないかと思う。戦後派と呼ばれた金子兜太や飯田龍太のような英雄時代ではなくなっているのだ。

※詳しくは「俳句四季」6月号をご覧ください。


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