2017年4月16日日曜日

【評論】ア ベ カ ン俳句の真髄 ー底のない器ー  / 山本敏倖


 アベカン俳句を一言で言えば,底のない器である。汲めども尽きぬ包容力を持ち、読み手を翻弄する。言い換えればどんな読み手でも、それが悪意に満ちた曲解であろうと、受け入れる許容性を孕んでいて隙がない。しかし見方によっては、その読みにより、読み手の力量、レベルが白日の下に晒されてしまう。つまり読み手の現在を、そのレベルを逆照射する際どさを常に秘め持つ、恐い句とも言える。アベカン俳句の志向性は、言葉の持つ可能性を最大限に発掘することと見る。そこの所を氏は「常に<次>の一句を目差すことにある。<次>とは(いつもの所)に誘導され、(いつもの俳句)に墜落し、安心するのではなく、常に新・真・深を追究する」とし、そのキーワードとして「精神の季節」と「言葉の自然」(俳句幻形)を挙げている。その次を目差すことの一つに、言葉の示す一つ一つの中心的意味から如何に遠去かり、それをどう組み合わせるかがある。従ってどうしても意味の希薄化は避けられないし、曖昧性も増す。しかしこれは、独断を許してもらえば、芭蕉翁の晩年の「軽み」志向にも通底するものが感覚され、その分研ぎ澄まされた詩的感性が要求される。又、今という現瞬間を私との関わり合いの中で捕えるという構えを、最期までこだわり崩していない。アベカン俳句が難解と言われる由縁であろう。確かにアベカン俳句は難解である。だからこそ面白いのだが。自身、難解性に関しては、歴史的事実と照合し、俳句革新は常にその当時、その時点において「難解俳句」であったことを証明している。(俳句研究一九九四年十一月号)故に難解性とは、俳句革新と同義語と見てさしつかえあるまい。その姿勢こそが、氏の作句行為における重要なベクトルと踏んでいる。人口に膾炙した句として

絵本もやしてどんどんこちら明るくする 
ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん 
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど 
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり

阿部完市に初めて会ったのは、現排協(前の秋葉原にあった頃)で第一回青年部の勉強会の席でである。その後、氏の顧問で始めた「現代定型詩の会」に参加、青年部の頃と合わせると通算十五年以上、俳句に関する薫陶を受けたことになる。ここでは氏と共に歩んだ十数年の時期に一番重なる第九句集『地動説』(平成十六年六月)に触れてみたい。

私は症状である竹の秋
 
水色は滋賀県の水の色なり 
空気銃は空気銃の重さ六月 
寒牡丹は1である証明 
それゆえにしゆうべるとの鱒であります  
しもやけしもやけまつさかさまである

『地動説』から恣意に抽く。掲句、私はは、氏が良く用いる語彙の一つ。一人称としての俳句にさらなる私を強調するとで、普遍性を獲得するというのが、一般的な解釈だろう。

小生もその域を出ていない。底のない奥がありそうに思えてならないが、現時点ではそう見る。それは症状であると言う。症状の多面的解釈を強いられる。私の、なら抵抗なく通じる。はとなると、私の存在そのものが症状ということになる。つまり助詞「は」の起用により、一句を感覚を優先した句に変貌せしめている。そこに詩的跳躍があり、謎が生じる。従ってどうしても症状のもつ多面性を探らざるをえない。どの面で受け止めるかで句の解釈は異なる。しかも竹の秋。その特殊性は群を抜く。氏はこれをあくまで言葉として使用しており、季語のカテゴリーを超えている。私と症状と竹の秋。どれもが既成の概念を払拭しており、三者の織りなすドラマが幾重にも絡まる。水色は滋賀県の水の色、一見理屈のようにも見えるが、そう思わせておいて「何かある」が氏の特徴。滋賀県が眼目。

言葉派である氏にとって滋賀県の歴史や地理、文化などの背景は余り要をなしていないように思える。無論皆無ではない。それらの影響力も否定は出来ない。が、小生の場合かなり独断的だが、まずその字面に魅かれる。滋は、「うるおう、養分になる、水にめぐまれて草木がしげる、繁茂する、そだつ、ふえる。」(国語辞典)賀は、「(先方にあったよい事を)喜び祝う。喜びたたえる。ことほぐ(言祝ぐ)」の県(圏)である。水色がそうした気分を持つ県の水の色であることは容易にうなずける。なりの断定が小気味良い。命名には何らかの理由があったはず。滋賀県の名称も又、そうしたい何かがあって不思議はない。とすれば、逆に字面からイメージして見る感覚も案外無視出来ぬものがあるのでは。現時点での解釈を試みた。他の句にも触れたかったが、枚数が尽きた。さらに遺句集となった第十句集『水売』(平成二十一年二月二十八日)とりあえずその巻頭と巻軸の句。

桜騒箱をならべて箱のこと 
猫飼いてあるいは多行形式

『水売』すべて病吟中とあり、焼き直しの句が多いすなわち助詞一つ、名詞一つ、表記等、ちょっとした違いにより一句のもつ世界を更新させている。言葉とその有り様に対し、常に正攻法であり、常に懐疑的であり、常に途中なのだ。惜しい人を亡くした。合掌。


(初出 2010年 LOTUS 15号 特集「阿部完市の軌跡」)

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