2016年6月24日金曜日

第45号

平成28年熊本地震の影響により被災された皆さまに、お見舞い申し上げます。
被災地の一日も早い復興を、心よりお祈り申し上げます。
*****
-豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
各賞発表プレスリリース  募集詳細
※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含め発表予定
●更新スケジュール第46号7月8日・第47号7月22日


平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
》読む

(6/30更新)花鳥篇 第四陽 美保子・曾根 毅・前北かおる


(6/24更新)第三とこうわらび・ななかまど・川嶋健佑
(6/17更新)第二杉山久子・神谷波
(6/10更新)第一石童庵・夏木久・中村猛虎
            【抜粋広告・対談・書簡・エッセイ】

            <抜粋「WEP俳句通信」92号>
            • 連載「新しい詩学のはじまり(四)――金子兜太と栗山理一③」より抜粋 
            筑紫磐井 》読む
            • 社会性諷詠――花鳥諷詠の深化として」(30句)より抜粋
            筑紫磐井 》読む
            • 連載 「眞神」考(5) - 時空を旅するー より抜粋
            北川美美 》読む



             <抜粋「俳句四季」7月号>
            • 俳壇観測 連載第161回
            関悦史の独自性 ―震災・社会性をめぐる若い世代」より抜粋
            筑紫磐井 》読む 



            • (継続掲載)エッセイ 「文学」・文学部がなくなったあと …筑紫磐井 》読む
            • (継続掲載) 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで・・・筑紫磐井 》読む

            • 俳誌要覧2015」「俳句四季」 を少し見てみる   》こちらから
            • 【書簡】 評論、批評、時評とは何か?/字余論/芸術から俳句へ   》こちらから


            およそ日刊俳句空間  》読む
              …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
              •  6月の執筆者 (柳本々々、佐藤りえ…and more. ) 
               
              【まとめ】 人外句境  … 佐藤りえ  》読む

              俳句空間」を読む  》読む   
              ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・・・

               好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




              【鑑賞・時評・エッセイ】

              【短詩時評 21だ(よ)】
              最果タヒと木下龍也 
              -きみの『夜空はいつでも最高密度の青色だ』から、『きみを嫌いな奴はクズだよ』。
              … 柳本々々   》読む

              ■ 日常へ掌をかざしてみる 
              びーぐる31号俳句時評(平成28年4月20日発売)より転載 
              竹岡一郎 》読む

                朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (百十六一~百十八)
              …網野月を  》読む  




                【アーカイブコーナー】


                週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                    あとがき  》読む


                    【PR】


                    • 第1回姨捨俳句大賞発足

                    ――俳句新空間の筑紫磐井、仲寒蟬が選考委員に 》詳細




                    冊子「俳句新空間」第6号 2016.09 発行予定‼

                    俳誌要覧


                    特集:「金子兜太という表現者」
                    執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                    、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                    連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                    特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                    執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                      


                    特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                    執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                    筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                    <辞の詩学と詞の詩学>

                    お求めは(株)ウエップ あるいはAmazonにて。

                    【抜粋「WEP俳句通信」92号】 連載 <三橋敏雄「眞神」考5>より抜粋  / 北川美美


                    「円錐」69号 特集/戦後派俳人作品を鑑賞する -読む。時を、我を。―
                    の座談会において、山田耕司氏は三橋敏雄論を書く難しさから話をはじめている。

                    山田 さて、三橋敏雄。 三橋敏雄論は書きにくい。それは素材と句の関係を追うだけで収まりがつくわけでもなく、季語や定型においてどこかにかたよらせてくりあげることもできず、『眞神』に至っては難解で歯が立たないというような傾向があるからだと思います。

                    難解で歯が立たないというような傾向>― 論客である山田さんがそういうのである。確かに難解である。三橋敏雄カッコイイ!だけでもいいのかもしれないが、どう読んだらよいのか、何故カッコイイのか、『眞神』への興味は尽きない。

                    2010年秋に山田耕司×北川美美にて書簡<三橋敏雄を読む>を交わしていた。開始間もなく、震災が起き、書簡を続けるどころではない状況となり立ち消えになってしまった。その後開始となった、詩客そして当ブログに継続掲載の<「真神」を誤読する>、タイトル命名は、実は、山田さんとの会話で生まれたもので、「誤読」ということで相当気持ちが楽になり勝手なことを書きつづけ、また気が大きくなったことも確かである。 

                    円錐における「戦後俳句」特集は現在も続行しているので、山田さんの三橋句についての論考を読むことはこれからも可能だろう。

                    **

                    さて本題。「WEP俳句通信」に於いて88号より<三橋敏雄『眞神』考>として連載を開始している。「WEP俳句通信」ではすでに67号に於いて<問題としての三橋敏雄>という特集を組んでおり、三橋敏雄句の論考掲載に積極的である。豈掲載の拙文<三橋敏雄句の「淋しさ」の変容>をご覧の編集部から連絡があったのがこの連載のきっかけだった。「戦後俳句を読む」において三橋敏雄鑑賞をはじめてから、五年が経過していることになる。


                    『眞神』は三橋敏雄第二句集である。(敏雄の句集は、収録作品の制作年順の刊行ではない。)。有名句「絶滅のかの狼を連れ歩く」が収録されている句集といえば解り易いかもしれない。制作年で昭和40年―48年、昭和48年10月に端渓社より刊行された。現在は、邑書林文庫として『真神・鷓鴣』が読める。


                    私は三橋敏雄の句集中、「眞神」が芸術性高い作品であると思っていることは現在も変わりがない。おそらくそれは、前述の<難解で歯が立たない>ことに所以しているといえよう。

                    WEP俳句通信での<「眞神」考>は当ブログでの「『真神』を誤読する」に加筆・修正を加えたものであるが、新たな発見もある。しかしながら<「眞神」考>においても誤読であることに変りはないのである。

                    4年前の <「真神」を誤読する>のテーマ解説としてこんなことを書いている。
                    【『眞神』を誤読する】 テーマ解説  北川美美(詩客)初出:2012年1月20日  》見る






                    【「眞神」考⑤】では、39句目-57句目を鑑賞するもので、句集収録順の鑑賞である。【「眞神」考⑤】特徴としては、「なし」という不在の措辞が三句含まれていることだろう。

                    「なし」とは今、目の前にない不在ということだ。無いことを詠むとはどういうことなのか、いくつか概略を紹介してみたい。

                    (39)真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし 

                     中七の詠嘆「や」を受けての下五「なし」により一気に意気消沈となる。特異なのは、「燃えてなし」として、今、ここに存在しないものを詠うということだろう。写実でもなく空想でもない、存在の不在という事実である。
                    「真綿ぐるみ」で保管された「ほぞの緒」は、干からびた繊維質の生体になり、人が人と管で結ばれこの世に来た証でもある。管が切れた後の個としての繋がりが見えてくる。親子、友人、恋人、夫婦、社会、国家…、世界は実際には目にみえない繋がりで結ばれている。
                    「なし」という不在を即物的に云うことにより、もともと目にはみえない人との繋がりがリアルな存在として逆に浮かびあがる。それは超五感により作用するのではないだろうか。
                    (後略)

                    (45) さかしまにとまる蝉なし天動く  

                    蝉は鉛直線上すなわち重力の方向と反対に頭を上に静止している。その他の止まり方を見たことがない。鉄棒で振り子状に半身を逆様にして、蝉の様子を見ていたのだろうか。「なし」につづく「動く」という措辞が視点の動きを示し躍動感が増す。また「天動く」に時間経過があり、しばらく蝉の声を聴きながら蝉を見ていることが想像できる。


                    (55) 草荒す眞神の祭絶えてなし

                    (前略)
                    別の側面として、この句に於いても新興俳句先師たちの弔いの意が「眞神の祭」にあることが考えられる。「絶えてなし」とは再起しないことであり、末裔も残党も新興俳句には無く、新しい俳句のみが存在するだけだ、という目標に向かう宣言と解すことができ痛快さがある。
                     新興俳句は、やがて既成俳壇を席巻する勢いを示していったが、昭和十五、六年にかけて国家権力が介入し、数字にわたる弾圧を受けるにおよんで壊滅した。(「渡辺白泉全句集」帯/三橋敏雄/沖積舎)



                    その他、掲載鑑賞句をいくつか紹介してみる。


                    (48) 野を蹴つて三尺高し父の琵琶歌 
                    (前略)
                    上掲句は、先人の巨匠たちを意識する心象として父の「琵琶歌」が詠まれ、「三尺高し」(注:近世で罪人を三尺高いところに縛りつけたという意味がある)は新興俳句弾圧ということが頭をよぎる。そのもろもろを「野を蹴つて」いく、つまり既成概念や過去の呪縛から解放されることを言っていると推測する。

                    (53) 沸沸と雹浮く沼のおもたさよ
                    一見、雹が浮く沼の写実を詠嘆した句である。氷の粒である「雹」に対して、煮えたぎる、あるいは沸き出る意の「沸沸」を使用している。確かに沸騰する湯の状態は底から湧いているにも関わらず、物が投げ込まれているように見え、激しい落雹の状態が伝わるのだが、現実のベクトルは句の表現とは異なる。よって掲句は写実でありながら創作である。  
                    落雹であるならば、降下方向(↓)となる筈であるが、措辞「沸沸と」「浮く」を用い、その方向を上昇(↑)させ矛盾が生じている。更に「浮く」に反して「おもたさ」を置き、句の中に言語の相反関係がある。言葉の持つベクトルの向きの違いをひとつの作品に収め、物理的にはあり得ない言語上の景を表現している。ここに俳句形式に於ける芸術性があると言えるのではないか。
                    (後略)


                    当ブログでの<「真神」を誤読する>も続行予定。
                    ラベル: 「真神」を誤読する 》見る



                    【「眞神」考】、詳しくは、【WEP俳句通信92号】をご覧いただければ幸いである。





                    92号以前はAmazonで購入可能な号もある。



                    【短詩時評 21だ(よ)】 最果タヒと木下龍也-きみの『夜空はいつでも最高密度の青色だ』から、『きみを嫌いな奴はクズだよ』。-  柳本々々



                      ツァラトゥストラは答えた。「人間を愛してるんだ」
                      「なんで」と、その森の聖者が言った。
                     

                    (ニーチェ、丘沢静也訳『ツァラトゥストラ(上)』光文社古典新訳文庫、2010年)


                      あなたに助けられたから好きというわけでも無いし、あなたが風流人だから好きというのでも無い。ただ、ふっと好きなんだ。
                        (太宰治「お伽草紙」1945年)

                      私は自分の言葉単体よりも、その人と作り出したたったひとつの完成品を見ていたい。その人が、自分の「かわいい」を見つけ出す、小さなきっかけになりたかった。
                      ……
                      世界が美しく見えるのは、あなたが美しいからだ。
                      そう、断言できる人間でいたい。
                     

                        (最果タヒ「あとがき」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』リトルモア、2016年)

                       立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ  木下龍也 

                    (木下龍也「僕の身体はきっと君にふれるためだけにある」『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年)


                    前回は詩歌における〈わたし〉について考えてみたのですが、今回は詩歌における〈きみ〉について考えてみたいと思います。

                    2016年5月、最果タヒさんの詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア、2016年)と木下龍也さんの歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年)が刊行されました。

                    実はこの二冊には共通点が少なくとも四つあります。

                    ひとつは、ブックデザインをどちらも佐々木俊さんが手がけていること。

                    ふたつめは本のタイトルが『夜空はいつでも最高密度の青色だ』『きみを嫌いな奴はクズだよ』と助詞「は」を活かした主述構造の口語的なセンテンス=文になっていること。

                    みっつめは帯文を最果さんの詩集は作詞家の松本隆さんが、木下さんの歌集はクリープハイプの尾崎世界観さんが書いており、どちらも音楽の世界から書かれたものであること。

                    よっつめはほぼ同じ時期(2016年5月)に刊行されたことです。

                    私はこの偶然にも通底していた二冊の本を読みながら、これは偶然ではないのではないか、この二冊の共振をさぐることで、現代の詩歌のシーンにおけるなんらかの〈風景〉をつかむことはできないかと思ったんです。

                    ここでひとつの問いかけからはじめてみたいと思います。

                    木下さんの歌集のタイトル『きみを嫌いな奴はクズだよ』は、

                       あとがきにぼくを嫌いな奴はクズだよと書き足すイエス・キリスト  木下龍也

                    の歌の「ぼくを嫌いな奴はクズだよ」からとられていると思われるのですが、なぜこの歌の中の「ぼくを」を表題にするにあたって「きみを」へ転位したのか。この転位にとても重要な〈きみ〉への主題が含まれているように思うんです。

                    〈きみ〉という主題。

                    冒頭に引用した「あとがき」で最果さんはこんなふうに書かれていました。「その人と作り出したたったひとつの完成品を見ていたい」と。

                    私はこの最果さんの「あとがき」が「その人と…見て《み》たい」という〈一回性〉ではなく、「その人と…見て《い》たい」という〈連続性〉だった点が大事 なのではないかと思うんですね。つまり、「その人」=「きみ」が〈わたし〉のそばにずっと「い」るということなんです。〈わたし〉のかたわらに。一回だけ じゃ、一度だけじゃだめで、いろんなかたちで「きみ」が「わたし」のかたわらに「い」るということ。それが最果さんの詩集の全体的なひとつのベクトルに なっているとも思うんです。

                    〈わたし〉のかたわらにずっと「い」る〈きみ〉の主題。

                      夜空はいつでも最高密度の青色だ。
                      きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
                      きみはきっと世界を嫌いでいい。
                      そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。


                        (最果タヒ「青色の詩」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』前掲)


                       君という特殊部隊が突き破る施錠してない僕の扉を  木下龍也


                    この最果さんの詩にあるのは〈世界〉の強度が〈きみ〉の強度と連続していることなのではないかと思うんですね。「きみ自身を、誰も愛さない間、/きみはきっと世界を嫌いでいい」。逆にいえば、〈きみ〉が強度をもつことによってしか〈世界〉は強度をもつことができない。

                    だから〈きみ〉というのはいつでも〈世界〉に先だってある存在なのです。木下さんの歌では「君」が「特殊部隊」となって「僕の扉」を「突き破」ってくる。 「僕」を破砕するのは「君」であり、「僕」が施錠する/しない如何に関わらず〈きみ〉はやってくる。〈きみ〉のほうが〈法〉をもっている。〈わたし〉では なくて。

                    〈わたし〉を差し置いても尊重されている〈きみ〉という存在。

                    ではそのようなかたちであらわれている〈きみ〉の強度とはいったいなんなのでしょうか。なにが〈きみ〉の強度を支えているのか。

                    それは《きみがただそこにいること》だと思うんです。

                      知らない人、きみが作るものより、きみがそこにいることを、好きになりたい、そうして勝手に幻滅をしたり、それすら心地よくなりたい。それを許してくれるひとがいるなら、それだけでもう、ぼくは安心して生きて、死んでいける。 
                     (最果タヒ「水野しずの詩」前掲)

                       全身が急所のシャボン玉を追う全身が凶器の君と僕  木下龍也

                    最果さんの詩に「きみがそこにいることを、好きになりたい」と書いてあるけれど、この〈きみの存在の言祝ぎ〉をバイオレンスなかたちで過激に突き詰めると 木下さんの歌の《全身凶器》になると思うんですね。つまり、「君」がただ《ここにいること》そのものが《凶器》になるくらいに《強度》あるものになってい く。

                    そして最果さんの詩に書いてあるように「きみがそこにいること」は「生きて、死んでいける」と生死をめぐる強度に接続されていく。これは木下さんの歌でも そうです。「シャボン玉」に「急所」が与えられることによってシャボン玉に〈生死〉という身体感覚が与えられ、それが「君と僕」の《全身凶器》に通底して いく。もちろんここでは「僕と君」ではなく、「君と僕」なのです。ですからこれはこういうふうに取ることもできます。(全身が凶器の君)と僕、と。

                    〈ただそこにいるきみ〉という〈強度〉。

                    そしてこの〈きみがただそこにいること〉という強度は当然ながらそれを語る〈わたし〉とも関わってきます。〈きみ〉と〈わたしの言葉〉の問題として。

                      きみがぼくに使うかわいいという言葉が、ぼくを軽蔑していない、その証拠はどこにあるんだろう。好きとも嫌いとも言えないなら、死ねって言っているようものだと、いつだってきみは怒っている。
                        (最果タヒ「かわいい平凡」前掲)

                       冬、僕はゆっくりひとつずつ燃やす君を離れて枯れた言葉を  木下龍也


                    この詩と歌にあるのは〈きみ〉から放たれた〈言葉〉への関わり合いを〈わたし〉が決めなくてはならない〈きみへの態度〉の問題だと思うんですね。

                    最果さんの語り手は「きみがぼくに使うかわいいという言葉」が「軽蔑」になっていない「証拠」を〈わたし〉が模索し、木下さんの歌では「君」から離れて枯れた言葉を〈わたし〉が「燃や」している。

                    こうした行為というのは、そもそも「きみ」が言葉の発生源として、根っことして、〈言葉の価値〉を裁定する〈審級〉だから起こり得ると思うんですね。〈わたし〉の言葉の価値は〈わたし〉にではなくて〈きみ〉によって価値づけられている。

                    〈きみ〉は語る。決めろ、と。

                    ここで冒頭の問いかけに戻ってくるのですが、だからこその木下さんの歌集タイトル『きみを嫌いな奴はクズだよ』だと思うんです。それは「きみ」を〈嫌う〉 ということは、〈言葉〉そのものが〈クズ〉になるということだから。ここに「ぼくを」から「きみを」に転位した理由が出てくる。〈わたし〉にとっての「イ エス・キリスト」は「イエス・キリスト」以上に〈言葉〉の審級をもっている「きみ」の存在であるから。

                    だから〈きみ〉をおそれ、尊重し、〈きみ〉から放たれた/離れた言葉の測量士となるときに〈わたし〉のことばは〈最高密度〉になる。でもそれができないの だとしたら、〈わたし〉が〈わたし〉のぐるりをえんえんと周回しているだけなのだとしたら〈言葉〉なんて〈クズ〉なんじゃないか。これはそういうタイトル なんじゃないかと思うんです。そしてだからこそ、この歌集と詩集のタイトルは〈主述〉構造であるひつようがあった。

                    最果さんの詩集も木下さんの歌集もタイトルがどちらも「AはBである」という主述構造をとっています。だから長いんですね。文だから。

                    主述とは、「AはBである」という構造です。ですから、それはひとつの態度決定なわけです。たとえばもし最果さんのタイトルが『青空』だったら、木下さん のタイトルが『クズ』だったらそれは名詞=体言としていろんな読者にさまざまにひらかれていくでしょう。名詞=体言は「A」だけしか言わないので、述部の 「B」を決めるのは読者だからです。

                    名詞はさまざまな解釈を呼び起こします。だから夏目漱石の『こころ』だって〈いろんなこころ〉の解釈を呼びこむ。さまざまな解釈を呼び込む装置になっていく。名詞のタイトルとはそういうものです。

                    でもそれではたぶんダメなんです。語り手が〈きみ〉との関わり合いのなかで、読み手が〈きみ(語り手)〉との関わり合いのなかで、態度を決定しなければな らない。〈わたし〉がつむいだ言葉を〈きみ〉との強度のなかで決めなければならない。読者もこの詩集を歌集を読んで、決断しなくてはならない。わたしに とって言葉とは、価値とはこのようなものであると。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』といえるしゅんかんを、『きみを嫌いな奴はクズだよ』と決められる 価値観を。

                    だから、タイトルは、主述構造として《閉じられ》ていなければならない。それは〈ひとつ〉の文(センテンス)でなければならない。

                    それがこの二冊の〈きみ〉との関わり合いからの〈態度決定〉だったと思うんですね。

                    だからこの二冊から私がみえてきた風景は次のような風景です。言葉は〈わたしの強度〉ではなくて、〈きみの強度〉によって決まる。きみは、強い。きみの密 度はぎっしりしている。そしてその強度によって言葉の価値が決まる。だからわたしも決めなければいけない。それがわたしの詩の強度=態度に、なる。

                      きみに、血が入っていること、脂が漂っていることを、一度だって忘れたことがない。
                      ……
                      さよならぼくがいたことを、見失うきみの瞳は美しいまま。
                        (最果タヒ「美しいから好きだよ」前掲)

                       ぼくなんかが生きながらえてなぜきみが死ぬのだろうか火に落ちる雪  木下龍也


                      ――では、ただ一人の語り手、ただひとつの言葉では、そうは見えなくても、決してそれを名づけることができないのはなぜなのか。それを語るためには、少なくとも二人でなければならないのだ。
                      ――分かっている。我々は二人でなければならない。
                      ――しかしなぜ二人なのか。なぜ同じひとつのことを言うのに、二つの言葉が必要なのか。
                      ――それを語る者は、常に他者であるからだ。
                        (モーリス・ブランショ、山邑久仁子訳「木の橋」『カフカからカフカへ』書肆心水、2013年)







                    【抜粋「俳句四季」7月号】「俳壇観測 連載第162回/関悦史の独自性 ―――震災・社会性をめぐる若い世代」より抜粋  筑紫磐井



                     「オルガン」という若い世代が最近創刊した雑誌を見てみる。毎号特集で座談会を行っており、第四号(二〇一六年二月)では「震災と俳句」と言うテーマを取り上げていた。中身を詳細に取り上げるのは頁数の関係で難しいが、座談会に先だって、宮本佳世乃(編集人)が震災俳句に対する質問を出し、各自が回答を提示しているのでこれを抜粋する。


                    ○宮本佳世乃
                    「震災や時事を取り扱った俳句について、感想を求められたときに何も言えなくなってしまう。ある意味暴力的だと思う。」

                    ○福田若之

                    「たとえば

                    双子なら同じ死に顔桃の花  照井翠 
                    「揺れたら関なの?」「じゃあ私も関」「じゃあ俺も」    御中虫 
                    瓦礫みな人間のもの犬ふぐり 高野ムツオ

                    といった句は僕には受け入れがたいものです。それはこれらの句が、震災と同様に、かけがえのないもののかけがえのなさを脅かすものであるように思われるからです。」

                    ○鴇田智哉
                    読者として「俳句という形式は「震災俳句」に適していない」

                    作者として「以前と以後とで、私は確実に変わった。言葉を発する私自身が変わったのであるから、発せられる言葉も当然変わるに違いない。」

                    「私は「震災を」詠むのではなく、震災を蒙った私が「何かを」詠むのである。」

                    ○生駒大祐
                    どう思っているか「作者としても読者としても関心がない」
                    どう関わっているか「避けようとしている」

                    ○田島健一
                    「俳句は何かに「ついて」語ることをしない。俳句が何かを語るのではなく、俳句それ自体が語られるべき事態そのものである。」「個々が向き合うのは、顕在化しない自分自身の「現実」である。」


                    いわゆる「震災俳句」に批判的である。これは世代的な特徴であるかも知れない。座談会本文に触れないで言うのは早計であるが、全般的な特徴は「無関心」と言うことであろうか。それが個々によって、「受け入れがたい」「暴力的」という否定的評価と、震災を受けた個々の内面なら許容できるという限界評価などに分かれるようだ。いずれにしても、安保法案に反対する金子兜太とは対極的である。

                         *       *

                    私は雑誌の編集もしているので、その意味で「オルガン」の編集動機に関心が持たれる。書いてある記事以上に、その背景にある編集意図を推測するのである。たぶん無関心であればこのような特集はしない。関心がないと表明することはひとつの態度であり、むしろ積極的な関心である。強いていえば、この雑誌の関心は、ある種の反「震災俳句」・反社会性であると読むことが出来るかも知れない。


                    ※詳しくは、「俳句四季」7月号をご覧ください。







                    【抜粋「WEP俳句通信」92号】「社会性諷詠――花鳥諷詠の深化として」(30句)より抜粋   筑紫磐井




                    私などマダムが殺す蚊の一匹 
                    自由から解き放たれた妻くつろぐ 
                    家族には愛情といふ平均値 
                    「ほんとう」は嘘の別称 妻の寝息 
                    夫婦とは善哉 愛は日々苦し 
                    2%の金利に灯す希望かな 
                       虚子
                    頑なに俳句を思ふ それも愛 
                    辺境に誓子はをらず 虚子がをる 
                    日本語の「を」が好きな子は一年生 
                    料理下手な妻の毎日 カレー月 
                    毒殺のうはさもありし副主宰 
                    犯罪が匂ふ 薔薇咲く僕の部屋






                    ※全作品は、WEP俳句通信92号をご覧ください。





                    【抜粋「WEP俳句通信」92号】連載「新しい詩学のはじまり(四)――金子兜太と栗山理一③」より抜粋  筑紫磐井


                    (「新しい詩学の始まり」は「俳句WEP」89号より連載、「新しい詩学の始まり」(89号)、「金子兜太と栗山理一」(90~92号)と連載中。)


                    (前略)もともと芭蕉の「情の誠」は限りなく沈潜して行く孤独ではなかったのか。それは先に兜太が、芭蕉の奥処に定家の「有心」のよって立つ抽象を発見したように、冷え冷えとした心であった。そう考える方が自然だ。しかし兜太は芭蕉に学問的な価値を期待しているのではない。作家としての原理を探求している。それは造型俳句論もそうであった。そしてここでも、芭蕉の名によって新しい行動原理を示そうとしている。交わりに向うふたりごころ(情)・閉じて行くひとりごころ(心)は栗山の解釈では出てこない概念であった。

                     造型俳句論以後、兜太は「総合」の道を歩かねばならない。造型俳句論が現代における高峰であるとすれば、その周辺の連山を含めた山脈を展望することが必要だ(実はこの連山の中には虚子までを含めてよいのだが、それを積極的に進めたのは阿部完市であった。ここではその詳細までは含めない。『戦後俳句の探求』参照)。そこに情(ふたりごころ)が機能し始める。

                     いささか漠然としたいい方になってしまったが、それは兜太が、以後、造型俳句論のような緻密な方法はとらず、エッセイや評伝等の形でその総合の道を示しているからだ。『種田山頭火』(昭和四九年)『ある庶民考』(昭和五二年)『小林一茶』(昭和五五年)などにより、道筋を確認している。従って、『流れゆくものの俳諧』は、別章仕立てで辛うじて理論的な主張を整える。

                     むしろ、「ふたりごころ」と「ひとりごころ」は作品の原理としてこそ重要なのだ。第八句集『遊牧集』(昭和五六年刊)の後序で兜太は次のように述べるが、これこそ兜太の「総合」の道筋をたどる不可欠な発言なのである。

                       (中略)

                     このパラグラフ(『流れゆくものの俳諧』)では、芭蕉のあり方こそ理想的と語っているようだが、なお、兜太は一茶の立場を、このような違いが出てきたことの中に、庶民の近代とでも言うべきもののあらわれを見る。近世庶民が、ようやく独立した個体として自我を自覚しつつある風景が、そこにはあると考える、と述べ、造型俳句論で主張した「自我」や「個体」を経て芭蕉にはなかった一茶の自立が始まると考えるのである。

                     それは、後に「情(ふたりごころ)――芭蕉と一茶」(平成九年七月講演)の中で一層はっきりする。「芭蕉は、心(ひとりごころ)を攻めに攻めた立派な男だが、そして、情(ふたりごころ)が最後だと思ったのに、ふたりごころは遂に得られない、相手とじかに触れあい、相手をじかに見て、見えないものまでを見とどけるという、情(ふたりごころ)の世界というのは分かったけれど、じっさいは作品の上で実行できなかった」。一方一茶は――長文となるので私の言葉で言いかえれば――、エゴを突っ張り、凡愚に生きていった。にもかかわらずそこに表れる俳句は情(ふたりごころ)にあふれたものとなる。芭蕉が腰を抜かすような俳句、芭蕉が一茶より後の人だったら、一茶の句を読んだら絶望して自殺したいと思うような句を詠むのである、と言う。

                     こうして兜太は、俳諧史を芭蕉から一茶へ転換する。そしてこれは、「栗山の俳諧史」から「兜太の俳諧史」への転換でもあったのだ。それは、客観的・学問的な俳諧の歴史としてではなく、宗因から芭蕉・蕪村・一茶・子規・虚子・兜太を経て貫かれる現実・肉体の俳句史でもあり、実践としての俳句を語るためでもあったのである。



                    ※詳しくは、「WEP俳句通信」92号 をご覧ください。



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                    (「俳句新空間」を見たと言っていただけると販路の参考になります。)


                    日常へ掌をかざしてみる  / 竹岡一郎

                               
                    びーぐる31号俳句時評(平成28年4月20日発売)より転載


                    私の属する俳句結社「鷹」主宰・小川軽舟の句集『掌をかざす』が出た。一年間、ふらんす堂ホームページ上に毎日連載された俳句日記をまとめたものだ。日記風短文と一句が三百六十五日分収められている。帯には軽舟主宰の後書。「俳句とはささやかな日常を詩にすることができる文芸である。

                    一通り読んで、溜息をつく。句の良し悪しの判断がつかない。日記風短文が妨げになるのだ。その短文が徹頭徹尾、幸福な市民の目線で記されているせいもある。高度成長期の良き時代に育ち、故郷の父に孝行し、妻子と和合し、堅実な勤め人であり、観劇や旅行を楽しみ、穏やかな文化人である諸々の感慨。

                    関悦史に聞いてみた。

                    『掌をかざす』はどうだった?

                    あれは軽舟さんの今までの句集よりも、肩の力が抜けてる感じで、良かった

                    あの短文が辛い。幸福な市民の目線だ

                    それは君の僻みだろう、と言うには関悦史は優し過ぎる。代わりに彼はこう言う。

                    軽舟さんといえども、不幸が無い筈はないよ。不幸は公にしないという主義なのかも

                    成程。小泉八雲云う処の「日本人の微笑」を思い出す。明治時代、夫が死んだ事を嬉し気に微笑んで報告する日本人女性を見て、外国人が驚きと不快を示す。小泉八雲は言う。己が悲しみは示さない、それが日本人の美徳なのだが、外国人にはそれが解らない、と。

                    句だけから受ける印象は、中村汀女の句に見られるような精確さがある。作者は男性だから、当然、汀女のような母性の柔らかな広がりは無いが、代わりに或る「固体性」とでもいうべき確かな触感がある。短文が妨げとなるのは、あらゆる俳句日記の宿命であろうし、元々そういう企画で連載されたのだから仕方ないが、俳句日記という理由で、「句集ではない」と片づけられてしまったり、佳句が見落とされるべきではない。自分なりに公平に評価するための方策を案じた挙句、遂に句だけを全部、縦書ノートに書き写した。これで私専用のテキストは出来た。次に挙げる評は、あくまでも句だけを観たものである。

                    野(くさ)猪(ゐなき)初霜に鼻擦りゆけり

                    猪は餌を嗅ぎ探しているのだろう。猪の古称をルビに振ったあたり、単なる猪ではないとの意図が感じられる。「くさゐなき」は語源のはっきりしない語らしい。古代、猪の鳴き声を「ヰ」と称した処を見ると、「草に居てヰと鳴くモノ」の意か。今昔物語には、猪は「くさゐなぎ」と称され、人を化かすモノとして登場する。掲句の猪も「くさゐなき」と呼ぶ事により、化生の空気を纏ったモノ、人間を化かすだけの知性を持ったモノとして読む事が可能だ。そう読む時、餌を探す行為が、只の猪と読むよりも尚、哀愁を増す。

                    鉦叩三階にどう跳ね来しや

                    この鉦叩も中々ただの鉦叩ではない。三階までどう来たか、と訝しまれるだけの行動力を持っている。その跳躍は鉦叩自身にとって無益な、家の住人次第では鉦叩が害されかねない、真摯にして滑稽な努力なのだ。

                    爆竹を痛がる地べた春近し
                     
                    颱風に看板吠ゆる廃市かな
                    この二句における「地べた」も「看板」も無情の物でありながら、共に有情の感情を与えられている。一句目は春節の頃の中華街を思わせ、二句目は福島の原発近くの町を思わせる。春節の賑やかさの中、地べたに注意する者はあまり居るまい。廃市の看板となれば、一層誰も振り返らぬだろう。化生としての猪、頑張り過ぎる鉦叩、痛覚を持つ地べた、声挙げる看板。その自我を示せば示すほど、作者の眼にはあわれと映るモノ達。

                    見る間にもこぼれて萩は花減らず

                    無情に見える有情の永遠性、或いは輪廻性とでも言おうか。確実に減っている筈の花を、減らず、と見る。減らぬのは、来年の或いは去年の花の情景が、平行世界(パラレルワールド)のように現在の萩に重なるからだろうか。作者の句集「手帖」中の「五分後の地球も青しあめんばう」は、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説(世界は実は五分前に始まったのかもしれないという仮説)」に拠るのかもしれぬ。この仮説に拠るなら、作者は水の惑星の創生期に、あめんぼうのように漂いつつ立ち会っていることになる。掲句の場合、作者は常に萩の咲く初めに立ち会っているのか。それなら花が減らないのも然り。

                    春炬燵めつちや嬉しとしがみつく 
                    春装みな背中合せにパチンコ屋
                    「めっちゃ嬉し」なる大阪弁の野放図さと「しがみつく」動作が内蔵する寂しさ。庶民の賭博である「パチンコ屋」と「みな背中合せ」に暗示される孤独。春ののんびりした季語により却って浮かび上がる、ささやかに何となく過ごしてゆく日常の仄かなあわれ。

                    水見舞流されし犬戻りしと

                    洪水被害を受けた家へ見舞いに行った処、その家の犬が戻ってきたと伝えられた。犬の骸をわざわざ届ける筈はないから、犬は生きて、恐らくは自力で戻ってきたのだ。洪水の後始末に追われる困惑の中、だが愛犬であるなら、我が子の生還に匹敵する喜びだろう。この犬の逞しさは、そのまま人間の生活の逞しさに繋がるだろうし、犬は家族として愛されるものだから、生還した犬を愛おしむ心は、生活への愛に繋がるのである。洪水という大虚無に抗して、家族ではあるが人間ではない犬が生還した、これは美しい滑稽さである。

                    雁瘡を掻き饅頭に手を伸ばし
                    食べ物は美味しそうに詠え、と、これは鷹の先代主宰・藤田湘子の教えだが、掲句は敢えてその逆を行く。艶やかな饅頭に皮膚病の取り合わせは、とても美味しそうには見えない。片手は荒れた肌を掻き、片手は饅頭に伸ばされる。肉や魚に比べれば、饅頭は遙かに加工され整えられた食物であり、且つ通常は手摑みで食う物だ。右手と左手を通じて、肌の劣化である雁瘡と、見目良く整えられた食物である饅頭が、同一線上に並び且つ結ばれる。これはむごい句であろう。どんなに取り繕おうとも「食べるという行為」自体に、どうしようもなく含まれる穢れはあるものだ。

                    全財産スイスに肥やす褞袍かな

                    褞袍がふてぶてしい。国も企業も株式市場も最早信用できないので、スイス銀行に預ける。その財産さえもひとたびヨーロッパで大戦が起きれば、スイスに容赦なく没収される。「全」と付くから「スイスに肥やす」事もまた博打なのだ。ほんの十年前なら金持ちの嫌味を笑った句と読まれるだろう。EU崩壊の危機、テロの脅威、各国の民族主義の台頭が取沙汰される現代に詠われる時、掲句は財産もまた当てにならぬ滑稽さと読まれ得る。

                    夕桜使ひて器ねびまさる 
                    昭和の日貸間探しに路地暮るる 
                    留守の間に近所の祭過ぎてけり
                    良く出来た人事句で、堅実な作者像は見えて来る。「夕桜」に匂う日本の美意識と「ねびまさる」なる上品かつ艶なる状態の結合。使い込まれ古びてゆく器は、作者がかくあれかしと願う生活であろう。「貸間」「路地」の語に含まれる近過去の日本への懐古、そして戦後の昭和生まれにとっては高度成長期を偲ばせる「昭和の日」の配合。「近所の祭」から想像される町内の小さな祭、そのハレと行き違う作者の時間。しかし、ここに詠われる事物は皆、微かな滅びの匂いを纏っている。その匂いに対し作者は異邦人のように、常に一歩離れた眼差を以て愛惜の念を表す。美しい穏やかなものが、いずれ廃れ滅びる事は、作者には充分見えていて、それゆえに、かくも明晰にそのあわれさを描き出す。ただし、その明晰さはそれ自体が、事物をオブラートでくるむ働きもするのだ。先の「雁瘡」「褞袍」の句でいえば、惨さをくるむというべきか。そんな作者が、無防備に己が浮き立つ心情を描いた次の句群は興味深い。

                    妻に逢へる出張バレンタインデー

                    「逢ふ」ではなくて「逢へる」と言った処、「会」の字を使わずに「逢」の字を使った処に、妻恋が良く表われている。おまけにバレンタインデーだ。妻がチョコレートを用意しているかどうかは判らないが、妻が笑ってくれていれば、チョコはまあ、二の次である。

                    今しつつ恋懐かしき五月かな

                    恋はいつか覚めるもの、なんて常識は、作者には無縁に感じられるのだろう。「今しつつ」に恋の持続が現われている。今の恋人は当然、作者の妻であって、その妻に初めて恋した時期が懐かしいというのだ。それは五月であったに違いない。二句とも見事なほど惚気まくっていて、しかし見せつけられて鼻白まないのは、男がそれほど惚気られるのは、その恋に命懸けているからだ。よその女の反応などを考えていては、とてもこれだけ惚気る危険は冒せない。だが、掲句においてさえ、「懐かしき」なる、顧みる形容が用いられている事は一考に値する。同句集の元旦の句、「初日記一日がもうなつかしく」を鑑みて、およそ元旦らしからぬ、一日という過去を顧みる心情に、作者の、時間に対する観照と、自らの生活や道程に対してさえ常に一歩離れて見ようとする眼差を考える。

                    遠く住む妻子と一家月見草 
                    帰る家違ふ夫婦に後の月 
                    鼾聞く人傍になき霜夜かな

                    作者が単身赴任しているという情報がなくとも、妻子と別居している、しかもその別居は家庭不和等の内的要因ではなく、例えば仕事などの外的要因である事は、今挙げた一連の句から窺い知れるだろう。「月見草」そして「後の月」は家族との繋がり、そして憧憬を、「霜夜」は独居の心情を暗喩する。

                    ここに見られるのはもはや日常と化した欠如である。通常、家族とは、日常を構成する最大要因であるが、作者にとっては家族の欠如が日常なのだ。別々に暮らしていて、しかも家族として成立している事による、一般の日常とは微妙にズレる我が身の日常を、作者は絶えず感じざるを得ない。次に浮かび上がるのは、日常に潜む非日常性の存在であろう。孤独に拠って見えるもの。妻子と和合しつつも、その妻子は普段傍にいない、という日常の二重性に裏付けされる観照がある筈だ。
                    梅散ってこの世のどこか軽くなる

                    桜なら重くなる。地を覆わんばかりに散り敷くからだ。藤や萩なら、小さい花だから、最初から軽い。梅の花の重さで丁度良いと思う。日本人には親しい、香りを伴う、めでたい花でもある。「どこか軽くなる」に、奇妙な安心が感じられる。「この世の」とあるが、実際には作者が見るこの世、つまり、作者の内観がなぜか軽くなるという事だ。ここに或る明るい諦観、もっと言うなら「明晰な絶望感」とでも表現せざるを得ない心情を感じる。

                    始まりへ音遡れ雪解川

                    雪解川の激しさと渾沌を思うなら、この始まりは単に川の発生した山中に留まるものではなく、存在しようとする意志の始まり、原初に発生した或る意志力を暗示しているのだ。己が心への観照に引き付けて読むなら、この原初の意志は渇愛(タンハー)、即ち存在の意志に必ず伴う妄執、とも重なるだろう。

                    暗闇は光を憎みほととぎす

                    ウィリアム・ローの言葉を思い出す。「人が地獄にいるのは神が人を怒っているためではない。彼等が怒りと闇に包まれているのは、神より限りなく流れくる光に対して、あたかも太陽の光に眼を閉じるのと同じように眼をつむってきたからである。」ほととぎすの声は、人間の妄執の叫びと読める。「季語は自分」なる作者の日頃の主張を思うなら、作者は己が妄執に対して少なくとも自覚的である。

                    ひと抱へ運べる卒塔婆萩散らす

                    卒塔婆の数は死者の数である。一抱えでどのくらい死者の魂は運べるだろうか。運ばれる最中の死者の魂が、生きている萩に引っ掛かり、花を散らしたのだ。先に萩の句を挙げたが、散る一花一花に死者の魂が暗喩されるなら、萩の株自体が世界の暗喩と見える。卒塔婆を運ぶのは誰なのか、僧か、親族か、或いは名付け難い大いなる手を持つ誰かなのか。

                    白梅や死んでから来る誕生日

                    死が記録である以上に、誕生もまた記録である。実際の生とは無縁に、記録としての誕生日は毎年巡り来る。誕生日は極めて個人的な祝日である筈だが、掲句の如き、これほど空しい祝日があろうか。白梅を置いたのは、死者へのせめてもの手向けであり、或る明晰な意識でもある。「誕生日」と置く事によって強められる、あらゆるものがいつか必ず死ぬと観照する眼を、梅の白さに読むのだ。

                    白日のプールサイドに失踪す

                    「見失った」のではなく、「失踪」したのだ。プールという、周囲を金網か塀かに囲まれた空間の、しかも水中ではなく、硬いプールサイドで。夏のプールは混雑しているから、人に紛れる事は日常だ。これが「失踪」となると、プールサイドに開いた異空間に、いきなり呑み込まれたような不安が生じる。ここで日常は、唐突に非日常へ繋がる。そもそも日常とは何であろう。昨日と変わらずに来た今日が明日も来るとは限らない事は、東北大震災により既に思い知らされてしまった。海が町々を呑むなら、プールサイドとて異界の門の開く可能性は有るのだ。何ものも恒久ではなく、真に安心して依り得る対象はない。

                    作者と私の師事した藤田湘子の指導は、俳壇屈指の厳しさであった。だが、湘子の叩き込んだ定型感覚、言葉の精確な所作も、それを希む強い動機が作家自身の側になければ、結局、身につかない。作者の作句姿勢は、恐らく「明晰な絶望感から生ずる精確な所作」とでも表現出来よう。(それは大震災以前、単身赴任以前からの生来のものではないか。)明晰な思考に裏付けされた眼に、あらゆる盛衰が観察されてしまう、その絶望の微かな匂いを論証し切る事が出来なくとも、同じく瞬かぬ眼を持つ者なら嗅ぎ取る事は出来よう。その見え過ぎる眼が観た幻が、次の句である。

                    夜道ふと白昼に出づ春の海

                    「ふと」としか言い表しようのない、突然のしかも静謐な変化によって、夜道は白昼と化すのだ。これはどう考えても幻想詠である。しかし、このような現実を我々は既に知っている。「春の海」という、かつて季語においては穏やかな寛いだ大きさを象徴した筈のモノが、突然反転して二万人の命を奪った、あの大震災は国土レベルで刻まれてしまった。その史実により、この幻想詠はあたかも日常詠のような当然さを持ってしまう。その絶望感において、日常と非日常との境は今や何処にあろう。震災の後、そして未だ終結しない原発事故の傍らに、営々とまた日常は構築され、日常は詠まれ続けるが、それはかつての日常詠ではない。戦後の焼跡から構築され、高度成長期を目前にした頃の日常詠でもない。国土の汚染が、テロが、大恐慌が、世界大戦が常に背後に迫る日常詠でしかありえない。そして未来においては、今は非日常詠や幻想詠としか読めない句が、日常詠として読まれるかもしれぬ。掲句の「白昼」とは、実は眩い光かもしれぬ。夜道がかく照らされる、その状況は文明の唐突な滅亡かもしれぬ。「作者と読者が思い出を共有する仕組みが俳句」と、句集「呼鈴」後書に記した作者が、しかし心にふと抱くのは、このような情景である。

                    (汀女の「火事明りまた輝きて一機過ぐ」を思い出す。句の前書、「三月十日東京空襲、B29幻の如く美し」と合せ読む時、一見慎ましい汀女の豪胆と絶望を知る。その上でなお、汀女は穏やかな生活を精確に詠い続けた。)

                    家族とは焚火にかざす掌のごとく

                    句集の題名となった掲句に、作者の希望が託されているだろう。火は、文化の発祥であり、今や制御不能になった文明である。近づき過ぎれば掌は焼け失せる。離れれば掌は凍える。距離を絶妙に保って、掌をかざし続けるしかないのだ。家族という、社会の最小の単位が、掌に喩えられるのは味わい深い。掌は、それぞれ独立して動き得る指をまとめ、且つその指達の総称でもあるからだ。掲句の掌は、作者自らの掌でもあり、或いは妻の、子供らの掌でもある。日常がいつ非日常へと変貌するやもしれぬ現在、個人である己が力で以て何とか守り抜けるかもしれぬもの、それを思う事で、作者の宥め難い明晰さは、漸く和らぎ得るのだろう。




                    2016年6月10日金曜日

                    第44号

                    平成28年熊本地震の影響により被災された皆さまに、お見舞い申し上げます。
                    被災地の一日も早い復興を、心よりお祈り申し上げます。
                    *****
                    -豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
                    各賞発表プレスリリース  募集詳細
                    ※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含め発表予定
                    ●更新スケジュール第45号6月24日


                    平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
                    》読む


                    (6/17更新)花鳥篇 第二杉山久子・神谷波

                    (6/10更新)第一石童庵・夏木久・中村猛虎



                              【抜粋広告・対談・書簡・エッセイ】



                              • エッセイ 「文学」・文学部がなくなったあと …筑紫磐井 》読む

                              • (前号から継続掲載) 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで・・・筑紫磐井 》読む

                              • 俳誌要覧2015」「俳句四季」 を少し見てみる   》こちらから

                              • 【書簡】 評論、批評、時評とは何か?/字余論/芸術から俳句へ   》こちらから


                              およそ日刊俳句空間  》読む
                                …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
                                •  6月の執筆者 (柳本々々、佐藤りえ…and more. ) 
                                俳句空間」を読む  》読む   
                                ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・・・


                                 大井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 




                                【鑑賞・時評・エッセイ】

                                【短詩時評 Voice.20】
                                〈わたし〉を呼びにゆく-ムーミン・江代充・佐藤みさ子
                                … 柳本々々   》読む




                                  【アーカイブコーナー】


                                  週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                                      あとがき  読む


                                      【PR】


                                      • 第1回姨捨俳句大賞発足

                                      ――俳句新空間の筑紫磐井、仲寒蟬が選考委員に 》詳細



                                      冊子「俳句新空間」第5号発刊!(2016.02)
                                      筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆
                                      「最近の名句集を探る」






                                      特集:「金子兜太という表現者」
                                      執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                                      、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                                      連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                                      特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                                      執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                                        


                                      特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                                      執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                                      筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                      <辞の詩学と詞の詩学>

                                      お求めは(株)ウエップ あるいはAmazonにて。

                                      あとがき 第44号


                                      むむ、あとがきを三回も飛ばしている。失礼しております。


                                      前回、網野さんの時壇をまとめて掲載してしまったが今回の入稿がない。それって分割して掲載してね、という意味だったことを今頃思い、今回は、掲載なし、という羽目に、、すいません。

                                      筑紫氏のエッセイが昨今の大学事情を踏まえていて興味深く拝読。前述の網野さんは、リベラルアーツ学部の教員でいらっしゃる。


                                      以下、今号の柳本々々さんの短詩時評に絡みムーミン、その他思い出すことなどつれづれに。


                                      インターネット俳句総合誌の金字塔として燦然と輝く【豈weekly】にて高山れおなさんが現在は終刊となった『俳壇抄』(全国の俳誌を紹介する冊子。全国の図書館などに無料配布された。)について以下を書かれていた。


                                      R_Takayama 「豈」ももちろん載っております。十二句選と報告記は、昨年から同人に加わった北川美美が担当している。拙句も採られていてそれは、〈ムーミンはムーミン谷に住んでゐる〉というもの。北川美美はムーミンが好きなのだろうか。であれば、他のみなさんには申し訳ないがこの選もやむをえない。ほんとにこの句がいいと思って採ったなら、そりゃ問題だぞ。
                                      出典: http://haiku-space-ani.blogspot.jp/2010/05/blog-post_7831.html


                                      ワタシって相当選句眼が無いのね、と当初凹んでいたら、その翌年だったか角川『俳句』(と記憶)に高山れおな氏自選代表句に、なんと、<ムーミンはムーミン谷に住んでゐる>が入っていて、驚き。 あらー、と調子に乗る。

                                      ムーミンはムーミン谷に住んでゐる>の句、これ哲学的な意味、所詮おなじムジナ、ムラ組織というのか、そういうシガラミ的なことに頭がいく。最近、三橋敏雄先生の、<鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中>の鑑賞を書き直し、<ムーミンはムーミン谷に住んでゐる>を思い浮かべていた。(別件:鉄バクは本来、鉄の中にはないことが調べてわかった。だからどうってことはないのだが、その際、仮屋賢一さんにお世話になりました。)


                                      最近、高山れおな氏を見かけない(クプラスは拝読しましたが。)、と思いながら、芸術新潮を2冊購入。(2016.5月号6月号)、このところ、アート系の二大総合誌、芸術新潮と美テチョー(美術手帖)がどうも以前と雰囲気が違う。どの専門総合誌も起死回生なのだろう。この二大美術雑誌、妙にフジテレビ化、なんというのかキャッチコピーからして、テレビ化したような感じになって来ている。例えば、芸術新潮の6月号(発売中です)は「仁義なき聖書ものがたり」ですから。任侠と聖書という「取り合わせ」の妙。


                                      おっと、芸術新潮の若冲特集の「若冲ご近所マップ」なんか、これ、クプラスの俳壇マッピングと似ているんじゃないの、とか思いつつふむふむ・・・。芸術新潮はイラストがフンダンに使用されていてとっつきやすい。やっぱりこれって世の中がアニメ化されているってことなのかも。

                                      そもそもブルータスが、西洋美術史や日本美術史の保存版の特集を組み山口晃氏のイラストが冴えていて面白かったことにはじまってんじゃないかとおもってみたり。マガジンハウスが頑張っているのであれば老舗の二大芸術雑誌が黙っていませんよね。

                                      妙に読者や芸術家の先生方に迎合せず編集者が楽しんでいる感じがあり専門誌が楽しそう、というのは、購買意欲をそそる。用あって80年代の「芸術新潮」のマグリッドとセザンヌの特集バックナンバーを古書サイトで落としたら、それなりにポップな記事でへー、もともと芸術新潮はそうだったのね、と納得する。


                                      芸術新潮同5月号「ルノワールはリウマチといかに闘ったのか?」などは、不謹慎ながら「子規は脊椎カリエスとどう闘ったのか」と見えちゃったりして、へー三つという感じ。


                                      しかし、芸術新潮6月号の吉増剛造さんの校正の赤ペンなどは芸術作品でもあると感心してみる。なんだ、初稿に赤字もっと入れていいんだね!と思うのは浅はかである。これは吉増剛造先生だから赤字入れてもいい、ということなんだよね、と自問自答・・・。



                                      そういえば、某人気小説家の新潮社での担当者とやりとりすることがあり、「実は、知っているといったらご本人に失礼だが、高山れおなさんと同じ同人誌所属なんですが」、と送ったら、「えー!?」と驚かれる。 そもそも、ある句会で、「美美さんどこか所属してるんですか?」と言われたので、「ええ、豈なんですが」と言ったら、「えー‼??豈ー!?うっそー!?」と某夫人が興奮ぎみになる。 それってどう受け止めればいいの、と思いながら、現在に至るキタガワ。


                                      高山さんそんなわけで元気ですか。(見てないか。)


                                      おっとムーミンから外れて芸術新潮の宣伝らしきことになってしまったが<WEP俳句通信>での連載の宣伝をどうぞ、と筑紫相談役から持ちかけられていて、予想外の展開。自分の連載宣伝、自己宣伝っていうのかできないのよね、それが課題か、と思いながら、なんでも見せ方が出来る人と出来ない人がいるのよね、それも俳句と同じかも…と思いながら、これから書けたら書いてみようっとおもいつつ、、もう更新の時間…。 

                                      今回はこの辺で。




                                      北川美美記


                                      6/20追加

                                      およそ日刊「俳句新空間」の中の 鑑賞句の作者名<鴇田智哉>さんのお名前に誤りがありました。訂正しお詫び申し上げます。 

                                      【短詩時評 Voice.20】〈わたし〉を呼びにゆく-ムーミン・江代充・佐藤みさ子- / 柳本々々




                                       おそらくは自他の声もきこえなくなることだろう
                                       それからさきは藤のたてがみを馴らすとか
                                       その藤とわたしのような
                                       しきりとわからない関係になるのだとおもった
                                        (江代充「藤棚」『現代詩文庫212 江代充詩集』思潮社、2015年)

                                       どの句も自分が書かれている。しかし、川柳の命題でもある「私性」とはまだ少し距離があるようだ。「私性」と「わたくしごと」の違い。このいちばん大切なところを時間をかけて議論したい。
                                        (石部明「やさしくて強靭なことば」『バックストローク』創刊号、2003年1月)

                                        だれも居ない家ですみんな居た家です  佐藤みさ子
                                         (佐藤みさ子『呼びにゆく』あざみエージェント、2007年)


                                      前回の〈虚構〉の問題とも関わってくるのですが、今回は詩のなかの〈わたし〉について考えてみたいと思うんです。そこで〈わたし〉の話を始めるにあたってまず起点をムーミン谷においてみようと思います。ムーミン谷のミイがこんなことを言ってるんです。

                                       「いっとくけど、闘うことができなけりゃ、永遠に、自分の顔なんて、持てないのよ」
                                        (トーベ・ヤンソン、渡部翠訳『ちびのミイの名言集』講談社、2010年)

                                      これは『ムーミン谷の仲間たち』の「目に見えない女の子」という話のなかで、あまりにおばさんに皮肉を言われすぎて姿が透明になってしまった女の子のニンニにミイが言った言葉です。

                                      注意してみたいのは「自分の顔」が〈わたし〉に対して距離感があるということです。ミイが透明になってしまった女の子ニンニに言っているのは〈わたし〉というのはきちんと自分で〈呼びにゆ〉かなければならないものであるということです。わたし=わたしという即自的なものではない。「闘う」とミイが言っているようにそれは対自するものである。〈あらかじめ〉わたしは〈わたし〉を持っているわけではないのです。それを小さなミイは、知っていた。

                                      この〈わたし〉が〈わたし〉を呼びにゆく態度としての〈私性=姿勢〉のあり方。これを今回は現代詩と現代川柳から考えてみたいんです。

                                      『現代詩手帖』2016年5月号に「江代充が拓くもの」として詩人の江代充さんの特集が組まれました。江代充さんのまとまった詩集は2015年4月に現代詩文庫から『現代詩文庫212 江代充詩集』(思潮社、2015年)が刊行されています。

                                      江代充さんの詩というのは、〈わたし〉が独特な質感をもって配置されるのが特徴的だと思うんですが、上田眞木子さんが江代さんの詩の〈わたし〉についてこんな指摘をされています。

                                       江代さんの作品では「私」に特権化された主観は知覚のレベルにまで削ぎ落とされている。初期作品の多くで、「私」が「既知の主題」をあらわす係助詞「は」でなく、主格助詞「が」をともなって新しい登場人物として現れるのも、「他ならぬ私が」という強調ではなく、「誰かと言われれば何某ではなく私が」という距離感のある主体意識の現れである。

                                        (上田眞木子「江代さんが読みたい」『現代詩文庫212 江代充詩集』現代詩文庫、2015年)

                                      この〈わたし〉が〈わたし〉の主観=主体になれない感覚は小池昌代さんも、

                                       江代の歩行は、自分でもわからない自分の心をたどることにもなっていると思う。
                                        (小池昌代「言葉の地熱」『現代詩手帖』2016年5月号)

                                      と述べられていたことと通底しているように思うんです。江代さんの〈わたし〉は〈わたし〉に向かいつつも・呼びにゆきつつも、「既知」の〈わたし〉にはいつまでもならず、それは同化しないかたちで「たど」りつづけることしかできないのだと。

                                      ここで少し江代さんの詩から〈わたし〉をめぐる記述箇所を具体的に引用してみたいと思います。

                                       茎のゆびのあと 錆びた組み鉄 黒髪を手に取ると わたしは重たがった 
                                      (江代充「(黒髪とシグナル)」『現代詩文庫212 江代充詩集』現代詩文庫、2015年)

                                       晴れあがった枯木をふたたび確かめるために 私は向うからやってきた   
                                      (「マリアの坂」前掲)

                                       眠るのはわたしだが わたしのままであるという門からは入れない そのひとのいるにまかせること そのうちにそれをつくり それをみているわたしだけが 不思議だが眠りのうちへはいっていく
                                        (「露営」前掲)

                                      「わたしは重たがった」というあたかも〈わたし〉が〈わたし〉を距離をおいて観察しているような〈わたし〉の記述。「私は向うからやってきた」「わたしだが/わたしのままであるという門からは入れない」という〈わたし〉の乖離。

                                      〈わたし〉は「わたし」として記述されつつも、〈わたし〉が主体的・主知的に機能することはできず、〈わたし〉から分離された〈わたし〉として語られているのがわかります。

                                      そこから考えてみるに、江代さんの詩においては、言葉が語られる前提として〈わたし〉というものがあらかじめ〈わたし〉から排除されているのではないかと思うんです。だから、〈わたし〉は〈わたし〉に何度も遭遇し、再会しなおさなければならない。なんども出会っては別れ、また、〈呼びにゆ〉かなければならない。

                                      〈わたし〉は〈わたし〉を手にいれることはできない。〈あなた〉以上に。

                                       まだ見ぬわたしの国へかえろうと
                                       わたしは生きる
                                       あらゆる壁は
                                       人がそのむこうへ立ち入ったすえ
                                       そこにいる当のわたしが
                                       地続きのこちらがわへと
                                       まず最初に立ち退いてこなければならない
                                       そんな所だから
                                       却ってわたしこそ
                                       ひみつをもつのだろう

                                         (「初めのエルに打たれて」前掲)

                                      この詩において「そこにいる当のわたし」という〈当〉事者の〈わたし〉は「こちらがわ」へいる人間ではありません。「立ち退」くことでやっと「こちらがわ」へ来るような〈むこうがわ〉にいる「わたし」なのです。「まだ見ぬわたしの国」。

                                      この江代さんの詩における〈わたし〉をつねに呼びつづける〈わたし〉というのは実は他の詩のジャンルにも通底していると思うんです。それが現代川柳です。

                                      ところで現代川柳において〈私性〉の現状はどうなっているのでしょう。

                                      現代川柳を思想的にマッピングした堺利彦さんの『川柳解体新書』という本があります。そのなかで堺さんは、楢崎進弘さんの「私と他者を重ねて、なお重ならないところまで書いていく」広瀬ちえみさんの「誰のものでもない「私性」にまで持っていけるのが理想」という言葉を引きながら「粘着的な〈私性〉の止揚の問題」をどう突破できるかが現代川柳のひとつの課題になると整理しています。

                                       いま、時代の危うさの中で、作者と作品とが一体となった粘着的な〈私性〉の止揚の問題に、一部の人たちが意識的に向かっていることも事実です。
                                       (……)
                                       このことは、これまでの〈私性〉が、一つには、もともと虚構であるはずの作品を、〈私〉と〈語り手〉の混同により、〈語られた私〉=〈実生活の私〉としてナマに還元してしまっていたことと、もう一つには、本来、〈他〉と区別されるべき私自身の特異性の〈出来事〉の表現が、出発点からして、〈他〉との共通性なり重なりという普遍の場所からの発信でもあったことを意味します。
                                       

                                        (堺利彦「非在」『川柳解体新書』新葉館ブックス、2002年)

                                      べったりした〈わたし〉と〈わたし〉の同化ではなく、〈わたし〉と〈わたし〉の分離をどう言語表現として〈止揚=昇華〉していけるかという問題。

                                      楢崎さんも広瀬さんも〈べったりしたわたし〉ではなく、〈わたしがわたしを語りながらそれでもわたしのものにならないようなわたし〉を語り志向しています。これはさきほどの江代さんの詩の〈わたしのものにならないわたし〉にも通底していると思います。

                                      この「〈私性〉の止揚の問題」を考えたときに、それを突き詰めて言語化した川柳作家のひとりに佐藤みさ子さんがいるのではないかと思うんです。

                                      佐藤みさ子さんは『呼びにゆく』(あざみエージェント、2007年)という句集を刊行されていますが、〈私性に対する姿勢〉はすでに佐藤さんのこの句集のタイトルにもあらわれています。

                                      『呼びにゆく』というタイトル。

                                      「呼びにゆく」ということは、これから呼びに〈むかう〉ということですが、呼びにいったのですから呼んだあとでまたこちらに〈帰ってこなければなりません〉。この句集タイトルは、そうしたAとBの地点を往還するブーメラン的な空間を象徴しています。

                                      このタイトルの「呼びにゆく」が取られた佐藤さんの句をみてみます。

                                        たすけてくださいと自分を呼びにゆく  佐藤みさ子     
                                      (佐藤みさ子『呼びにゆく』あざみエージェント、2007年)

                                      〈わたし〉が「呼びにゆく」対象は「自分」です。これから「呼びにゆく」わけですから、ここでは「自分」は〈まだ存在していない・どこかよそにあるもの〉として描かれています。「自分」を〈呼ばれるわたし〉と措定することによって、〈わたし〉は〈わたし〉から遠方に突き放されています。しかし突き放しているままではなく、「呼びにゆく」のですから、〈わたし〉はこれから「自分」を〈ここ〉にひっぱってこようとしようとしている。呼んでこようとしている。

                                      川柳という言語表現を通して〈語るわたし〉が〈語られるわたし〉を〈呼びにゆ〉くこと。これがもしかしたら川柳のひとつの〈私性〉の到達した〈あらわれ〉なのではないかと思うんです。語る〈わたし〉が語られる〈わたし〉を通してブーメラン状に往還的に浮かびあがってくるときにはじめてそれは〈わたくし事〉を離れ〈わたくし性〉として浮かび上がってくる。

                                      〈わたし〉が〈わたし化〉することはできないが、しかしそれは〈わたし〉と呼ぶしかないような〈わたし〉を呼びにゆく。


                                        午後二時のからだ探して木から木へ  佐藤みさ子


                                        どこまでが椅子でどこから身体だろう  〃


                                        もうすこし掘ればでてくるわたしたち  〃


                                        正確に立つと私は曲がっている  〃


                                        振り向いてみるとわたしが幾人も  〃

                                      これらの句はどれも〈わたし〉が〈わたし〉と向き合ったときに起きてしまったイヴェントですが、大切なのはどの句においても〈わたし〉が〈わたし〉をけっきょくは所持も把持もできずにいる点です。それは探索の継続として(「木から木へ」)、境界の曖昧性として(「どこまでが/どこから」)、潜在的な複数性として(「でてくるわたしたち」)、正しいいびつとして(「私は曲がっている」)、背後のわたしの繁殖として(「わたしが幾人も」)、あらわれている。

                                      どの〈わたし〉も志向することができ、〈呼びに〉いくことができるものの、さいごまで〈わたしの在処/所在〉がわからないものとしてある。でもその〈わからない〉プロセスのなかでしか、浮かび上がってこない〈わたくし〉としても同時にある。

                                      それが佐藤みさ子さんの川柳の〈わたくし〉だと思うんです。そしてそれは同時に江代さんの詩の〈わたくし〉でもあると。

                                      つまり二人の〈詩〉から私が教えてもらう〈わたし〉とは、それは決して〈わたくし性の止揚〉というかたちなんかではなくて、むしろ〈止揚の未遂〉、〈わたし〉と〈わたしでないもの〉を相反合一させることの《失敗》にこそ、〈私性〉をさぐるひとつのみちすじがあるのではないかということなんです。

                                      〈わたし〉を〈わたし〉によってたえず骨折させること。

                                        首のない背中が人をかかえこむ  佐藤みさ子

                                      だからもしかしたら〈わたし〉をなくしてしまいつつも、その消えた〈わたしの残りかす〉=呼びかける透明な存在として生きていた透明な女の子のニンニは〈わたしのひみつ〉に人知れず近づいていたのかもしれません。

                                      〈わたしのひみつ〉。すなわち、わたしの〈わたし〉はいまだかつて存在〈すら〉していないということ。

                                        死んだ人も生まれた人もまだ居ない  佐藤みさ子

                                       隣室のうたうような遺骸から
                                       ふかい安堵にめぐまれた夜のこと
                                       できるかぎりくわしく
                                       あなたの職業をかたりなさいと
                                       ゆめのなかでいわれた
                                       できませんとわたしがいうと
                                       水の透明でかわいたようにみえる川床に
                                       石を投げこみ
                                       月の光でみたしてあゆみなさいというので
                                       揺れうごいてこたえた
                                       

                                        (江代充「わかれのかた」『現代詩文庫212 江代充詩集』現代詩文庫、2015年)





                                      「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事 

                                      • 抜粋「俳誌要覧2016」(東京四季出版・2016.3刊)〈俳誌回顧2015〉より
                                      筑紫磐井×中西夕紀×田島健一による鼎談 コンテンツ 》読む
                                      ①「クプラス」評抄録  》見る
                                      ②「評論」「俳句」選  》見る
                                      ③「澤」評抄録  》見る
                                      ④「ほんとうにわれわれは楽しいのか」(全文)   》見る



                                      俳誌要覧

                                      • 抜粋「俳句四季」


                                      <3月号> 俳壇観測 

                                      はがき俳信・ミニ雑誌の面白さ―――大雑誌もミニ雑誌から   …筑紫磐井  》読む

                                      <2月号>俳壇観測169  円錐と街 ――奇妙な、刺激的な、正統的な、斜視的な、・・・  筑紫磐井 》読む

                                      <1月号>俳壇観測連載168  面白い俳句とは何か―――楠本憲吉と鈴木明 …筑紫磐井  》読む

                                      <12月号>俳壇観測連載167 ノーベル文学賞が俳句に考えさせること――浅沼璞と山本敏倖の思索  …筑紫磐井  》読む

                                      <11月号>姨捨俳句大賞の杉山久子の受賞 ――他に例を見ない選考方法… 筑紫磐井 》読む

                                      ※参照 【記録】私的な記録「久保純夫と杉山久子
                                      ――「理解されてたまるか 筑紫磐井  》読む    ※参照 第1回姨捨俳句大賞発足 読む


                                      10月号 <俳壇観測 連載第165回>地名俳句と名勝小諸から吉野へ飛んで俳句の基盤を自由に考える … 筑紫磐井  》読む

                                      9月号 <俳壇観測 連載第164回>平成二九年の俳句界ー中山奈々を読みつつ明治・昭和・平成の三つの時代の俳句を考える… 筑紫磐井 》読む
                                      8月号 <俳壇観測 連載第163回> 社会性をめぐる若い世代(続)―北大路翼と椿屋実梛を対比して 筑紫磐井 》読む

                                      7月号<俳壇観測 連載第162回>「関悦史の独自性 ―震災・社会性をめぐる若い世代- 筑紫磐井 》読む

                                      6月号<俳壇観測 連載第161回>高齢期を迎えて―杉田桂「私の生活を、私ならではの発想と表現で作品化していきたい」 筑紫磐井 》読む

                                      5月号<俳壇観測第160回>深化する俳人とは?―少し変わったキャリアの持ち主たち 筑紫磐井       》見る


                                      <座談会・最近の名句集を探る>より推奨句  》見る
                                      ①稲畑廣太郎句集『玉箒』 》見る
                                      <2017年2月号> 
                                      ー恩田侑布子 『夢洗ひ』 
                                      …大井恒行、小林貴子、齋藤慎爾、(司会)筑紫磐井 》読む

                                      <2016年10月号>最近の名句集を探る46
                                        前北かおる 『虹の島』 
                                      … 齋藤愼爾・稲畑廣太郎・佐藤文香・(司会)筑紫磐井 》読む