2016年1月22日金曜日

第35号

-豈創刊35周年記念- 
第3回攝津幸彦記念賞発表
※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定
  • 攝津幸彦賞(関悦史 生駒大祐 「甍」
  • 筑紫磐井奨励賞          生駒大祐「甍」
  • 大井恒行奨励賞  夏木久「呟きTwitterクロニクル」
各賞発表プレスリリース
募集詳細




  • 2月の更新第36号月5日 第37号2月19日



  • 平成二十年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

    (1/29更新)歳旦帖、第二堀本 吟・渡邉美保・林雅樹
    小野裕三・ふけとしこ・木村オサム

    (1/22更新)歳旦帖、第一もてきまり・小林かんな・堀田季何
    杉山久子・曾根 毅・夏木久


    (1/22更新)冬興帖、第九竹岡一郎・田中葉月
    (1/15更新)冬興帖、第八…真矢ひろみ・堀田季何
    小沢麻結・筑紫磐井
    (1/8更新)冬興帖、第七…神谷波・仲寒蟬・岡田由季
    小林苑を・福田葉子・浅沼 璞
    (1/1更新)冬興帖、第六…花尻万博・水岩瞳・下坂速穂・岬光世
    依光正樹・依光陽子・飯田冬眞
    (12/25更新)冬興帖、第五…堀本 吟・月野ぽぽな・羽村 美和子
    石童庵・もてきまり
    (12/18更新)冬興帖、第四…坂間恒子・望月士郎・青木百舌鳥
    (12/18更新)秋興帖、追補…福田葉子
    (12/11更新)冬興帖、第三前北かおる・ふけとしこ・川嶋ぱんだ
    とこうわらび・林雅樹・早瀬恵子
    (12/4更新)冬興帖、第二内村恭子・渡邉美保・小野裕三
    佐藤りえ・木村オサム・栗山心
    (11/27更新)冬興帖、第一曾根 毅・杉山久子・陽 美保子
    小林かんな・山本 敏倖・網野月を・夏木久


    【毎金連載】  

    曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
      …筑紫磐井 》読む

    曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む

    • ♯ 29   たよりにしながら …  宮﨑莉々香  》読む
    • ♯ 30   飲むしかない   … 宮本佳世乃  》読む
    • ♯ 31  極めて個人的な曾根毅様へのメール  … 家藤正人  》読む
    • ♯32  二度目の日常 … 田島健一  》読む
        【対談・書簡】

        字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
        その2 中西夕紀×筑紫磐井  》読む
        (「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ」過去の掲載は、こちら )
        評論・批評・時評とは何か?
        その13 …堀下翔×筑紫磐井  》読む 
        ( 「評論・批評・時評とは何か?」 過去の掲載は、こちら
        芸術から俳句
        その3 …仮屋賢一×筑紫磐井  》読む 
        ( 「芸術から俳句へ」過去の掲載は、こちら



        およそ日刊「俳句空間」  》読む
          …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香 … 
          •  1月の執筆者 (竹岡一郎, and more…) 

           大井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 

          【鑑賞・時評・エッセイ】

          【句集評】 『天使の涎』を捏ねてみた -北大路翼句集論ー
          (びーぐる29号から転載)  …竹岡一郎   》読む     前号掲載序論 》読む 

          【短詩時評 第11巻】Welcome to the Hotel Nejimaki  
          『川柳ねじまき』第2号を読む- 
          …柳本々々  》読む 

           <前号より継続>
           【俳句時評】 『草の王』の厳しい定型感 -石田郷子私観 -
           (後編) …堀下翔  》読む   
          【短詩時評 十席目】新春一首徹底対談-柳谷あゆみを、今、連打する-
           …法橋ひらく×柳本々々  》読む  
            朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (九十四)
          …網野月を  》読む 
            中島敏之の死
          …筑紫磐井 》読む
          【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
          …堀本 吟 》読む 



          リンク de 詩客 短歌時評   》読む
          ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
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              【アーカイブコーナー】

              赤い新撰御中虫と西村麒麟 》読む

              週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                  あとがき  》読む


                  【告知】

                  冊子「俳句新空間」第5号発刊予定!(2016.02)
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                  筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                  <辞の詩学と詞の詩学>
                  川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                  筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆














                  特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                  執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                  特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                  執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘





                  【短詩時評 第11巻】Welcome to the Hotel Nejimaki -『川柳ねじまき』第2号を読む-  / 柳本々々



                   近所の木立からまるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。妻がそう名づけたのだ。本当の名前は知らない。どんな姿をしているのかも知らない。でもそれに関係なく《ねじまき鳥》は毎日その近所の木立にやってきて、我々の属する静かな世界のねじを巻いた。
                    (村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」『象の消滅』新潮社、2005年、p.35)

                   作品を書くとき、常にぼんやりとだけど「読者」を想定しているような気がする。それは川柳や俳句や短歌や詩を読むのが好きなひとであり、川柳という言葉は知ってても実体は知らないひとであり、あるいは本は好きだけど短歌と俳句の区別はつかないひとたちである。… 
                  街を歩いていて、どこかの店から「ホテルカリフォルニア」が聞こえてくれば、 
                    Such a lovely place… 
                   と、音楽にあまり造詣のないわたしでもつい口ずさんでしまうように、ある日、どこかの町角で、だれかの口からふっと自分の句の断片が洩れたりしないだろうかと、夢想する。 
                    (なかはられいこ「れいこさんにもなんか書いてもらいます」『川柳ねじまき』第2号、2015年12月)


                  今回はつい先日発行されたばかりの川柳誌を取り上げてみたいと思います。なかはられいこさん及びねじまき句会が発行している『川柳ねじまき』第2号(2015年12月)です。

                  このねじまき句会における〈ねじまき川柳〉は不思議で幻想的な感じの川柳が多いんですが、その不思議さは村上春樹の小説に出てくる〈ねじまき鳥〉の不思議さにも似ています。つまり、どこか日常に、とても身近な場所に息づきながらも、非日常に踏み込まない限り見つけ出せない〈なにか〉なのです。それはまさに現代川柳の不思議さそのものなのではないかとも思います(余談だけれども、思想家のツヴェタン・トドロフもたしか〈幻想〉の定義を《日常と非日常の〈ためらい〉》としていたように思います)。

                  実際どのような感じの句があるのか『川柳ねじまき』から一句ずつ引用してみたいと思います。


                    百人の腹筋揺れて冬野原  なかはられいこ

                    風船の日々ふくらんでゆく住所  二村鉄子

                    泣いている自然界にはない声で  丸山進

                    モザイクを一日おきにかけている  三好光明

                    灯台の8秒毎にくる痛み  八上桐子

                    罰として「ど」の音だけを聞かされる  米山明日歌

                    ピリオドを打つとむくむく出てくる無  青砥和子

                    雫だったことはつららには内緒  安藤なみ

                    ガチャピンでもムックでもなく鉄仮面  魚澄秋来

                    あるようで無い蓮根の肋ぼね  北原おさ虫

                    牛乳寒天わたくしを包囲する  妹尾凛

                    全方位的に完璧な煮くずれ  瀧村小奈生

                    風呂の栓抜くとながれる蛍の光  中川喜代子

                    よく眠る人から鍵を渡される  ながたまみ


                  このような感じの日常と非日常をゆききする不思議な句が並んでいるんですが、今回は句を〈読む〉ということはせずに、〈誌面〉を読むということをしてみたいと思うんですね。それが『川柳ねじまき』の独特の川柳空間構成にもなっていると思うからです。


                  この『川柳ねじまき』の誌面の特徴として、〈川柳ができあがる現場そのものを見せる〉っていうのが言えるんじゃないかと思うんです。川柳誌だから川柳だけを載せておけばいいんだ、というのではなくて、CDのライナーノートのように連作の下に毎回連作ごとに解説が書いてある。読者は連作を読みながらいつでもその解説に目を移せるようになっています。曲を聴きながら解説を読むように、連作を読みながら解説が読めるようになっている。しかもその解説っていうのは、前のページで連作を語り終えたひとが次のひとの連作の解説をリレー方式で書く形になっているんです。つまり、川柳を語り終えたひとが、次のひとの川柳の解説を語るというそういう構成になっている。これがとても大きな特徴になっている。


                  このことによってどういう効果が出るのでしょうか。


                  私は、こう、思うんです。私たち読者はまず〈川柳=詩的形式〉を通してその作者に出会う。その作者のことを川柳連作によって知る。作者の詩にまず触れる。そして次にその作者に解説で出会う。解説というのは非・詩的形式ですから、理屈のとおった文章として再びその作者にであうわけです。〈川柳=詩的形式〉から降りた作者に〈解説=非詩的形式〉として出会う。


                  川柳を書くあなたと、解説を書くあなたに、出会う。ふたつのレベルでものを語る〈あなた〉と出会う。

                  そのときそのひとりひとりの作者がどんなふうにふだんの言語のチャンネルから、川柳の詩的チャンネルへと〈詩的跳躍〉を行っているのかが手に取るようにわかるのではないかと思うんです。ああ、川柳ってこんなふうに詩的跳躍するのかと。いわば、ねじまきの彼女ら/彼らが〈詩の跳び箱台〉をジャンプするしゅんかんそのものが〈まざまざ〉とその誌面では語られているのではないかと思うのです。

                  なかはられいこさんはふだんから〈百人の揺れる腹筋〉について考えているわけではないし(たぶん)、妹尾凛さんはふだんから〈牛乳寒天に包囲されている〉わけでもない(たぶん)。なかはらさんも妹尾さんも〈川柳〉という形式を通してそこまでジャンプしているのです。〈川柳〉という形式を通してはじめて出会うことのできる〈腹筋〉や〈牛乳寒天〉が、ある。そのことをこの『ねじまき川柳』の誌面はあらわしている。誌面が、語っているのです。ギイイイイイイイイイッと。

                  〈解説〉という詩的跳躍できない言論が、きちんと川柳を語ったすべてのメンバーによって書かれているからこそ、その〈ジャンプ〉の様子がわかる。そうした〈川柳の文法〉がつくられているその〈しゅんかん〉が〈実況〉的にわかる誌面になっているのです。

                  川柳をつくっている人間はふだんはなにを考えているのか、でもそのふだん考えていることが川柳を通して〈どう〉跳躍するのか、躍動するのか。〈どうやって〉ひとは川柳によって次元の違うチャンネルに向かうのか。そういう〈川柳そのものが湧いてくる根っこ〉に疑問が向くような仕組み=仕掛けになっている。それがこの川柳誌の機械仕掛けのように埋め込まれた〈ねじまき鳥〉の正体なんじゃないかと思うのです。

                  この『川柳ねじまき』では第1号でもそうだったんですが、「ねじまき句会を実況する」という句会の実況中継が記事になっているものがあるんですね。それもひとつの『川柳ねじまき』の大きな特徴だと思うんですよ。対談でも、鼎談でもない。レポートでもない。句会の実況中継です。多声的なライヴがそのまま誌面化されている。そこでも読み手は、川柳をつくっているめいめいがジャンプしようとしたり、ためらったり、ジャンプのタイミングをうかがったり、勢いよく跳躍していったりするさまを実況というライヴ感覚で知ることができる。現代川柳は非日常的で不可思議ですが、必ずそこには日常と地続きのジャンプがあることを『川柳ねじまき』の誌面は教えてくれる。

                  以上のように、読者が〈川柳〉がつくられている現場そのものへと立ち会えるような仕掛けがたくさん施されている。それが『川柳ねじまき』だと思うんです。

                  句がどこか〈よそ〉でつくられているのではなく、〈いま・ここ〉で、こんなにもすてきな場所で、〈Such a lovely place〉でつくられているのだということ〈そのもの〉を誌面にする。それがホテル・カリフォルニアのような、ホテル・ネジマキなのです。

                  〈川柳〉に出会うってどういうことなんだろう、〈詩〉に出会うってどういうことなんだろう、〈言葉〉に出会うってどういうことなんだろう、とよく考えるのですが、たった一句でひとは〈川柳〉に出会う場合もあるし、なにか・どこかの場所で、ホテル・カリフォルニアのような〈閉じこめられた愛しい場所〉で、ある〈裂け目〉に不意にたちあい、そこから・そのしゅんかんに〈川柳〉に出会う場合も、ある。ひとは句の強度だけでなく、句ができあがる〈現場〉そのものからその〈現場の強度〉とともに句とであうこともある。実況的にひとはその渦中のなかで〈言葉〉とであうこともあるのです。

                  イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のホテルは、カフカの「掟の門」のように、出たり入ったりすることは自由だけれど、でもそこから二度と逃げることはできないという奇妙な逆説の空間を紡いでいました。悪夢のような、天国のような二重の空間を。

                  わたしたちはふだん、自由に何気なく〈ふつう〉の言葉を交わしながら、あるとき、句を、歌を、詩を、つむぎ、つむいでしまい、その一点に〈つかまり〉、二度と出られなくなってしまう〈しゅんかん〉がある。それは語る時にも、読む時にも、そのどちらの時に《も》です。わたしたちは語り手として、読者として、言葉に、つかまる。

                  でも、そのとき、はじめて、ひとは、〈言葉〉に対して「はじめまして」が言えるようにも、思うのです。つまり、ひとは〈つかまってしまった〉ときにはじめて「はじめまして」が言えるのではないか、「はじめまして」のことを真剣に考えることができるのではないか。

                  イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」でもたしか最後はこんなふうに歌われていました。もうこの記事の最後まで来ましたので(異例ではありますが)歌いながら今日は時評を終わりにしてみようと思います。「ここではなんだっておまえの好きなようにしていい。いつでもこのホテルから出たいときに出ていいんだ。けれど、おまえはもうここから一生抜け出せない。おまえはつかまってしまったのだ。はじめまして」

                   「野望は語らないと具現化できないって、むかし、おぎはらさんがゆってたよ」と教えてくれたのだった。 
                  いつか出会うはずのひとたちに、「はじめまして」を言い続けたい。川柳という形式の端っこを、ひっぱったり伸ばしたりして、確かめながら。 

                    (なかはられいこ「れいこさんにもなんか書いてもらいます」『川柳ねじまき』第2号、2015年12月)

                  『天使の涎』を捏ねてみた (びーぐる29号より転載)  / 竹岡一郎



                  四月に面白い句集が出た。北大路翼の「天使の涎」。新宿歌舞伎町という、いわば日本の九龍城の一角にて、バー「砂の城」を営みながら二〇一二年から二〇一四年の三年間に作り続けた二千句を、それこそ味噌も糞も一緒に叩きつけたような句集である。

                  帯文は、画家の会田誠。「ジュースミキサー」という巨大な絵を描いている。高さは三メートル位もあったろうか、巨大なミキサーの中で微笑みながら血泥になってゆく少女の群。展覧会場で、いつまでも仰いでいた記憶がある。つまるところ、どんなに取り繕おうとも現実の世界とはまさにこのように、美しい初々しいものが見る間に血泥と化してゆくではないか。

                  装画は、漫画家の新井英樹。「ザ・ワールド・イズ・マイン」という漫画で、賛否を巻き起こした。殺人鬼と郵便局員の二人行脚の物語で、途中からヒグマドンというヒグマに似た怪獣が暴れまくる。物語の最後、世界中の核兵器が地球を吹っ飛ばす直前に、太平洋上に島と膨れ上がったヒグマドンが慟哭する。私が一番感情移入したのは、その時のヒグマドンだった。

                  当代最も過激な二人の絵師が推す句集は、勿論面白い筈だが、或る中堅の伝統俳人に感想を聞いたところ、「雑すぎる」の一言であった。成程、雑であるか。「俗すぎる」。成程、俗情であるか。では、句集中のこんな句は。

                  蛇口から今朝の始まる花の冷え 
                  夏を待つ生き物にある湿りかな 
                  ぶかぶかの靴履くやうな風邪心地 
                  古着屋の雪の匂ひと火の匂ひ

                  見事なものではないか。伝統俳人が唸るような、しかも上品な俳句だって、その気になれば作者は幾らでも作れる筈だ。しかし、どうも作者は喧嘩を売りたいのだろう。何に対してか。伝統に対して? いやいや、そんな、人間の作った小さな器に対してではない。

                  啓蟄のなかなか始まらない喧嘩
                  街における喧嘩には、ある一定の儀式がある。先ず眼を合わせ、次に睨み合い、低い呟きの応酬があり、それは互いの力量と緩みを窺っている。突然、バネが弾けて拳が飛ぶ、または蹴りが入る。野次馬は漸く安心する。物事があるべきところに収まった安心感だ。啓蟄が利いている。虫たちは地上に出て直ぐに食らい合うわけではない。機会を窺っているのである。

                  へらへらとして花の夜の命乞ひ
                  「へらへら」が、或る種のチンピラの絶妙な描写となっている。つまんない男だな、と思わせる命乞いがあるものだが、そんな男にも夢はあり希望はあるのだろう。それが花なのだ。「花の夜」と置いたのは作者の、命乞いする者への優しさである。

                  かくも寡黙花を殺めてきし人は
                  花、即ち桜を何と観るか、恋と観るか、夢と観るか、希望と観るか。幸せとも理想とも観えようが、要するに人が明日を思うために必要な美しいもの。桜が日本人の美意識である事を考えると、この花は動かない。雪の冷たさや月の遙かさでは困るのだ。花を殺めてこそ、この寡黙の裏の無音の慟哭が響く。
                    さつきまで遺体が乗つてゐたタンポポ 
                    炎天や家なきものは常に寝て
                  タンポポは作者自身であろう。さっきまで遺体に圧されていた事を思いつつ、無言で咲いているのは、どこの誰ともわからぬ死者を悼むからだ。一方で、何の為ともわからぬ体力を誰の為ともわからぬ明日へ温存させるために出来るだけ寝ている浮浪者を容赦なく灼き、晴れ渡っているのも作者である。灼熱の惨たらしい天でありたく願うのは、世界の惨状に対抗せねばならぬからだ。

                  秋天の青は俺には要らぬ色
                  「要らぬ」は反語であり、痩我慢だろう。本当は欲しくてたまらぬからこそ、要らぬ、と言わねばならぬ。それとも、秋天の青など自分には勿体ないと、健気にも思いつめているのか。欲しい、と素直な少女のように言ってみたくはないか。

                  秋深む中年の目が少女のやう
                  秋と共に憂い深むとき、通りすがりの何者でもない中年の目が少女のそれに見えるのであれば、それは秋天の青が欲しいと言っているのと同じことだ。

                  呼んでくれ俺なら朧にゐる叫べ
                  呼んで叫んでくれなければ、自分と、朧である世界との境目は、遂に判然としないのだ。救われたく、救いたいのか。救う事により救われたいのか。或いは、遂に救われない諸々をせめて掬い上げたいのか。

                  饐えかへる家出の臭ひ熱帯夜 
                  薄氷や十六歳で客を取る 
                  キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事
                  思春期の体臭は、熱帯夜にこそ満ちるのだ。饐えかへる、とは行き処無いことの暗喩である。どこもみな袋小路のように熱の籠る今夜にこそ、この生きて有る体から発する、行き処の見当らぬ臭いは、不安のように、捨て鉢の遣り切れなさのように積み上がる。

                  それでも、女なら、年頃ならば、身一つでも稼げるのだ、全く心を捨ててしまえば。只、捨てたと思っても捨てきれぬのが心で、捨てられない心はいつ毀れるか分らず、毀れてからまだ有った、と気付くものだ。この世に最も儚く毀れるのが薄氷であるなら、十六歳という年齢そのものが薄氷とも観えようか。

                  そんな風に心を壊しつつキャバクラ嬢に成ったりもする。行き処無くともノルマがあるのは、ライバル店は雨後のナメクジの如く殖えるからで、だが、どうせ店に義理なんかない、「あたしの体で食えてる店だもの」。

                  目の前の燃えている店は昨日までいた店かも知れず、実入りがいいと聞いて明日から移ろうと思っていた店かもしれず、友達のトモちゃんやこの前ラーメン驕ってくれた従業員のジュン君がいた店かも知れず、ライバル店とは云っても燃えて喜ぶ義務なんかなく、それでも冬の火事はとても綺麗、これで雪とか降れば良いのに。きっと清々しいよ。このまま大雪になって何もかも埋め尽くしたその真ん中に、火事だけが永遠に立ち上がり照らしていれば良いのに。

                  そんな女の気持ちが見えたくないのに見えてしまうのは、作者も似たような体験をしているからで、いや、考えてみれば、子供の頃からそんな思いしかなかった。

                  新宿公園ぶらんこも砂場もない 
                  日暮れまで蟬泣く墓地が原風景
                  ぶらんこや砂場を目で探すとき、作者は子供の自らを探しているのだ。新宿公園に一目瞭然、ぶらんこや砂場が無いように、無邪気な自分など、子供時代にさえどこにも居なかった。覚えているのは、日暮れまで居た墓地だけだ。腰掛けると寂しい冷たい墓石の上は、しかし夏だから何だか心地良くもあった。そんな風景が自分の根っ子で、蟬は鳴くのではなく、泣いていた。幾ら記憶を辿ってみても、そうとしか聞こえなかったことが、無性に腹立たしい。

                  産道で見たことのある秋夕焼

                  この寂しさはそもそも生まれ落ちる時からのものだ。胎内の血の色が寂しいなら、出産の際の母の出血は、自分の浮かんでいた寂しさが、そのまま外界へと溢れ出した色だ。それが空に充ち、秋夕焼となるのなら、今仰ぐ空の色は、母と自分の共有する寂しさだ。

                  それを見ている自分は、果たして何者なのか。いや、そもそも人間なのか。母の股だと信じ込んでいたものは、実は木の股だったりしないか。

                  悴んで人間になる途中かな

                  皆、自分が人間だと思ってないか。人間であることに確信は有るか。人間性とか人間愛とかいうだろう。自分がそんな高邁な美しいものだと思うかい。疑い始めると、思わず悴んでしまわないか。地にへたりたくならないか。悴んでへたりたくなるなら、疑うだけの心があれば、実はそれこそが高邁なる美しい人間と謳われるものになる途中で、だから悴む事は良いことだ。

                  周囲が人間だと言ってるから、疑いも無く人間の振りをしている連中は、せっかく人間と生まれながら遂に人間とは成れないよ。死際に果たして人間だったろうかと疑う破目になるよ。成れなかった後悔の猛吹雪の中でまた乞う次回、ってことになるさ。

                  真夜中の地下はいつでも吹雪きをり 

                  かの屋台吹雪く夜だけにあらはるる

                  真夜中の地下は、どこもいつでも吹雪くように思われる。吹雪くのは、地下の隅に吹き溜っていた、さまよう一念の堆積か。暗冥自体が吹雪いているのか。吹雪は、根の堅洲国から吹くのか。
                  屋台は救いかもしれぬ。罠かもしれぬ。吹雪く夜だけに現われるところが曲者である。矢も楯もたまらず、立ち寄りたくなるからだ。そもそも何だって、こんな吹雪の夜に、自分は一人で居るのだ。吹雪であり、暗黒が広がる此処が何処で、なぜ此処に居るのかわからない自分とは、何なのか。
                  吹雪だから屋台が来るのか、本当にそうか。実はあの屋台が現れるから吹雪くのではないのか。屋台が、吹雪を背負って来ているのではないか。

                  寡黙なること冬を冬だと思ふこと

                  こんな寡黙さ、こんな当り前すぎる思いを護持する事によってしか立ち向かえない時がある。それが日常の手ごわさで、なぜなら、日常は目立たぬ形で常に死へと続いているからで、ならば、夥しい死を詠おう、立ち向かうために。

                  この町を出るため寒鴉の餌に 
                  凍畑を掘れば重なり合ふ骸 
                  透き通るやうな白さや蛆がわく 
                  骨壺を抱いてゐさうな日傘かな 
                  鳥籠を抱く葬列が死火山へ 
                  短命の虫をうらやましく思ふ 
                  死にきれぬ分だけ夜が長くなる

                   鴉の翼を得る為に、鴉の血肉と成ろうか。凍てが緩むまで、骸は溶けずに形を留めていようか。死を蔵すると意識される時こそ、肉体は美しく見られるだろうか。日傘の下に懐かしく抱かれたいのは、己が遺骨であるか。空の鳥籠に残る死を捧げれば、火山は復活するか。虫よりもなお儚く夕べに白骨となるやもしれず、生きる苦にのたうつ身を、なお覆う夜は、生にも死にも属さないだろうか。

                  自分の死は、まあ、受け容れられるのだ。こんなもんだろう、と。だが、死んじゃいけない人間もいた。例えば、

                    月に怯える猫をかばつてゐるだらう
                  この句には、「亡き君の誕生日をFacebookが届け続ける。生きてあれば。」の前書きがある。月に怯える猫は最弱の猫であろう。生きてあれば、そんな猫をかばう君であった。死してなお、そんなことを続けるだろう君なのだ。君が生きてあれば、世界はその分柔らかく有ったのだろうか。

                  霜夜二人死ぬ順番の選べざる

                  さて、好きな人の為に先に死ぬ事を選ぶか、それとも好きな人を看取るために後に死ぬ事を選ぶか。同時に死ねれば一番良いかもしれぬが、こればっかりはどうにもならぬ。せめて生きている間は柔らかく在りたいのだが、如何せん、霜夜。寒さにかたくなな肉体。

                  投石に夏のすべてを捧げたわ

                  こんなことを言ってしまう女を、作者は抱きしめるのだろう。石は、絶対に届かない天に向かって投げられ、その行為に女の夏の全てが在るのなら、全てを捧げて清々しく空っぽな女を、今は作者が充たさんとするか。

                  絶頂のその先にある蝶の脚 
                  黙禱もキスも目を閉づ蟬時雨

                  蝶の脚が見える絶頂は、性愛の絶頂か。その絶頂の先に、女は死を抱き、男は虚無を抱くなら、蝶は魂の暗喩であろう。魂のか細い、糸のような脚が見えている。女の魂か、男である作者自身の魂か、それとも新宿という不夜城が、もし一つの魂を持っているのなら、その脚は意外とこんな風に、折れそうに儚く見えるのか。

                  黙禱は死者の為に沈潜する行為であり、キスは恋人の心に沈潜する行為である。より深く沈むために目は閉じられるのだが、視界無き時に天より降り注ぐ蟬時雨は、それは蟬の命のように儚い永遠が降り注いでいるのだ。死に隣り合う命が、破局に隣り合う恋が、降り注いでいる。見えない滝のように降り注ぐ性愛あるいは死、それは作者が胸底へと沈め続ける、何ものへと向けるかも遂に判然としない糾弾、或いは希求、即ち慟哭。

                    灯を消せば彼方より来る滝の音

                   滝とは霊的な場であって、この世に有りながらあの世に属するものでもある。それは方円の器に従う水の集まりでありながら、岩をも削るエネルギーでもある。作者が灯を消して闇に浸る時、滝の音が訪れる。音のみであるから、水という物体でさえもない、永遠に流れ続けるエネルギーの響きなのだ。

                  棄つるべし激しき滝になるために

                   もとより棄てるものなどハナから待たぬから、かくも雑にして俗なる二千句の惑乱が成るのだ。上品なる良識の内に住んで、穏便に大人らしく善良に且つこの上なく傲慢に、美と醜、正義と悪徳、カタギなる思いとヤクザなる思いを峻別していれば、もっとマトモな、誰にでも共感できる、「身の丈に合った」、伝統の中に安住する教養ある人々から拍手と同意を得られるような、そんな句集が出来た筈だが、そうする為には冷血に捨てねばならない多くの、今までもこれからも顧みられず捨てられてきた心、多くの、暢気な、捨鉢な、泣いたり笑ったりしながら或る日ふっと消えて行方も分からぬ男たちや女たち、新宿歌舞伎町の六道輪廻を流れゆく魂たち、これらの魂の一つ一つが時折見せる奇跡を、誰が掬い上げるのか。

                  「棄つるべし」とは、反語である。滝の激しさとは、慟哭である。絶えず入れ代わり立ち代わり現われる数多の惨たらしさに、ただ寄り添って立つ滝なのだ。

                  私はここで、この句集には収められていない、作者の一句を思い出すのだ。

                    毛虫焼く頭の中で蝶にして   《新撰21(邑書林、2009年)所収》
                  毛虫を焼かねばならぬのは、暮らしの業である。蛾にはなっても絶対に蝶にはならない毛虫を、せめて蝶になったところを思いつつ、焼く。焼くのは人間の都合である。毛虫を蝶にするのは、運命を超えんとする衝動である。この句を読んだとき、作者の苦しい思いは胸を打ったのだ。だから、ずっと憶えていた。毛虫の句に籠められた遣る瀬無さの発展形として、この句集が立ち上がる。毛虫を毛虫と容赦なく認識しつつ、それでも何とか蝶とならぬか、と探し回る過程なのだ。探し物は見つかるか。見つからない嘆きを再び「天使の涎」の中に探すなら、

                    星空が硬くて月が自転しない

                   月は作者であろう。月はどこかに飛んでゆきたい訳ではない。自転したいだけなのに、それすらも出来ない。星空を、硬い、と感じる心。星空を虚空とも自由とも思えないのは、あまりにも遙かな何か、人間には殆ど不可能な自由を希求しているからだ。

                  天高し毒持つ魚を叩きつけ

                  地へ叩きつけるのだろうが、心情としては、到底届かぬ天に対してだ。人間と生まれた限り、いや、仮に天部と生まれたって手の届かない何か、それを自由と呼ぶにはあまりにもおぼろで、だが、人間は思考することが出来るから、その何かを推し測ることが出来、そして毒を持つ。毒、とは届かぬ祈りである。水棲の、低きにしか住めぬ、魚という自分を、考えるだけでも眩暈のする遙かさへ叩きつける、それが俺のやり方だと、作者は言うのだ。雑にして俗と見なされても、それが作者の、身を引きちぎるような全力であり、伝統俳人達の目にどれほど悪趣味に見えようとも、


                  俺にしか着れない浴衣の柄がある


                  少し照れつつ開き直りつつ、股が見えるほど浴衣の裾をはだけ、アスファルトをぐわらぐわらと駆けてゆく、あの男が、北大路翼だ。




                  2016年1月8日金曜日

                  第34号 

                  -豈創刊35周年記念- 
                  第3回攝津幸彦記念賞発表
                  • 攝津幸彦賞(関悦史 生駒大祐 「甍」
                  • 筑紫磐井奨励賞          生駒大祐「甍」
                  • 大井恒行奨励賞  夏木久「呟き(Twitter)クロニクル」
                  【佳作8編】
                  赤野四羽「王土」
                  打田峨者ん「直線距離」
                  北川美美「熊の眼」
                  嵯峨根鈴子「ラストシーン」
                  佐藤成之「返信」
                  曽根毅「西国名所図会」
                  小鳥遊栄樹「オルゴールから歯車零れ」
                  山本敏倖「ボク」
                  (順不同)

                  各賞発表プレスリリース
                  募集詳細

                  ※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定





                • 1月の更新第35号1月22日



                • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む


                  (1/15更新)冬興帖、第八…真矢ひろみ・堀田季何
                  小沢麻結・筑紫磐井

                  (1/8更新)冬興帖、第七…神谷波・仲寒蟬・岡田由季
                  小林苑を・福田葉子・浅沼 璞
                  (1/1更新)冬興帖、第六…花尻万博・水岩瞳・下坂速穂・岬光世
                  依光正樹・依光陽子・飯田冬眞
                  (12/25更新)冬興帖、第五…堀本 吟・月野ぽぽな・羽村 美和子
                  石童庵・もてきまり
                  (12/18更新)冬興帖、第四…坂間恒子・望月士郎・青木百舌鳥
                  (12/18更新)秋興帖、追補…福田葉子
                  (12/11更新)冬興帖、第三前北かおる・ふけとしこ・川嶋ぱんだ
                  とこうわらび・林雅樹・早瀬恵子
                  (12/4更新)冬興帖、第二内村恭子・渡邉美保・小野裕三
                  佐藤りえ・木村オサム・栗山心
                  (11/27更新)冬興帖、第一曾根 毅・杉山久子・陽 美保子
                  小林かんな・山本 敏倖・網野月を・夏木久


                  【毎金連載】  

                  曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
                    …筑紫磐井 》読む

                  曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む
                  • ♯25   「対立の魅力」 …  野住朋可  》読む
                  • ♯26   「花修」雑感  …  杉山 久子  》読む 
                  • ♯27   贈られた花束 … 若狭昭宏  》読む
                  • ♯28   終末の後に   … 小林かんな  》読む

                    【対談・書簡】

                    字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
                    その2 中西夕紀×筑紫磐井  》読む
                    (「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ」過去の掲載は、こちら )
                    評論・批評・時評とは何か?
                    その13 …堀下翔×筑紫磐井  》読む 
                    ( 「評論・批評・時評とは何か?」 過去の掲載は、こちら
                    芸術から俳句
                    その3 …仮屋賢一×筑紫磐井  》読む 
                    ( 「芸術から俳句へ」過去の掲載は、こちら



                    およそ日刊「俳句空間」  》読む
                      …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香 … 
                      •  1月の執筆者 (竹岡一郎, and more…) 

                       大井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 

                      【鑑賞・時評・エッセイ】
                      New‼
                      【句集評】 『天使の涎』を捏ねてみた -北大路翼句集序論ー
                      …竹岡一郎  》読む 
                       【俳句時評】 『草の王』の厳しい定型感 -石田郷子私観 -
                      (後編) …堀下翔  》読む   
                      【短詩時評 十席目】新春一首徹底対談-柳谷あゆみを、今、連打する-
                      …法橋ひらく×柳本々々  》読む 

                       <前号より継続>
                        朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (九十四)
                      …網野月を  》読む 
                        中島敏之の死
                      …筑紫磐井 》読む
                      【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
                      …堀本 吟 》読む 



                      リンク de 詩客 短歌時評   》読む
                      ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
                      ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





                          【アーカイブコーナー】

                          赤い新撰御中虫と西村麒麟 》読む

                          週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                              あとがき  読む


                              【告知】





                              筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                              <辞の詩学と詞の詩学>
                              川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                              筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆











                              特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                              執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                              特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                              執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘




                              冊子「俳句新空間」第4号発刊!(2015夏)
                              購入ご希望の方はこちら ≫読む


                              豈57号刊行!
                              豈57号のご購入は邑書林まで

                              第34号 あとがき

                              2016 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
                              そして、寒中御見舞い申し上げます。

                              暖冬と言われる今季、寒の入とはいえ、梅の花が咲きはじめています。
                              本年も「BLOG俳句新空間」どうぞよろくお願い申し上げます。

                              2016新春第一号として、
                              第三回攝津幸彦記念賞」各賞を発表いたしました! 
                              生駒大祐さん、夏木久さんおめでとうございます。
                              そして佳作の皆様も。 

                              作品が紹介できないのが残念ですが(作品は豈59号に掲載予定)、2月発行予定の冊子『俳句新空間5号』に「豈」に先駆けた、”プチ先行特集”を組む予定です。 どうぞお楽しみに‼

                              そして俳句帖では、冬興帖がつづいておりますが、歳旦帖まもなく掲載開始いたします。

                              執筆では新春にふさわしく どっとご寄稿が!

                              新春対談2本! 筑紫磐井×中西夕紀 、法橋ひらく×柳本々々。
                              時評は堀下さんの石田郷子論(後編)。 堀下さんは現在、成人式出席のため旭川帰省中です。
                              なんとなくまだ少年ぽさの残る堀下さんですが、どんな大人になっていくのか楽しみですね!

                              そして大人の男、竹岡一郎さんが久々の登場です。 ぶっちぎりの一郎節がはじまる‼‼?  まずは序論から。

                              ***

                              年末からの仕事が片付かなく、全く正月気分が味わえなかった北川です。
                              時間というものは本当に残酷なものです。映画や美術館もそろそろ行きたいなぁ。


                              ご近所の方から、年齢をスピードに例える、という話を伺いました。
                              20歳であれば20キロ走行、50歳であれば50キロ走行、90歳であれば90キロ走行・・・
                              金原さんはといえば、100キロ走行で覆面パトカーが追っているかもしれません。
                              なんとなく人生のスピードとしてわからなくもない換算・・・。
                              堀下さんと金原さんでは80キロの差があるということになります…。

                              と今まで全く年齢を意識したことがなかったのですが、自分の人生の時間について考えハッとする新春第一号でした。

                              では本年もどうぞよろしくおつきあいください。


                              北川美美

                              芸術から俳句へ  筑紫磐井× 仮屋賢一   インデックス

                              ※掲載開始 2015年10月2日



                              芸術から俳句へ  筑紫磐井×仮屋賢一 

                              字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ  中西夕紀 × 筑紫磐井  掲載インデックス

                              ※掲載開始 2015年11月27日


                              字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ

                              その1
                              その2

                              【第三回攝津幸彦記念賞】 各賞発表   プレスリリース


                              29編の応募作品より、下記の作品を豈創刊35周年記念第3回攝津幸彦記念賞受賞作品として決定しました。

                              • 攝津幸彦賞(関悦史  生駒大祐「甍」
                              • 筑紫磐井奨励賞   生駒大祐「甍」
                              • 大井恒行奨励賞  夏木久「呟き(Twitter)クロニクル」



                              • 佳作8編

                              赤野四羽「王土」
                              打田峨者ん「直線距離」 
                              北川美美「熊の眼」 
                              嵯峨根鈴子「ラストシーン」 
                              佐藤成之「返信」 
                              曽根毅「西国名所図会」 
                              小鳥遊栄樹「オルゴールから歯車零れ」 
                              山本敏倖「ボク」 
                              (順不同)

                               

                              受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定。

                               平成28年1月3日

                              豈 発行人 筑紫磐井
                                 編集人 大井恒行

                              (本賞は匿名篤志家による基金で運営)



                              【参考・過去の受賞作品】

                              ●第1回攝津幸彦記念賞(攝津幸彦論)受賞作(評論)
                              関悦史「幸彦的主体」
                              神野紗希「諧謔のエロス―真昼の帝国―」
                              野口裕「ふるさとの訛なくした攝津はん 珈琲ええ味出とるんやけど」 

                              ●第2回攝津幸彦記念賞受賞作発表 》読む(作品・評論の両枠)
                              作品
                               正賞:花尻万博 準賞:小津夜景、鈴木瑞恵
                               佳作:佐藤成之、しなだしん望月士郎山田露結夏木 久山本敏倖
                              評論   受賞該当作なし
                              関連記事 (第2回攝津幸彦記念賞――3つから /筑紫磐井)》読む




                              ※第4回も28年度中に募集予定

                              【短詩時評 十席目】  新春一首徹底対談 法橋ひらく×柳本々々-柳谷あゆみを、今、連打する-



                              わたしの人生で大太鼓鳴らすひとよ何故いま連打するのだろうか  柳谷あゆみ

                              (『ダマスカスへ行く 前・後・途中』六花書林、2012年)


                              【ジェット噴射から始まる】


                              柳本々々(以下、Y): こんばんは、2016年最初の短詩時評です。今年はじめの短詩時評は同じ「かばん」会員でもある歌人の法橋ひらくさんをゲストにお招きして、ふたりが共通して好きな柳谷あゆみさんの歌集『ダマスカスへ行く 前・後・途中』のなかの一首について話し合ってみたいとおもいます。今回は新年初めということもあって少し羽を伸ばしてそんな自由な企画でやってみたいと思います。ひらくさん、よろしくお願いします。


                              法橋ひらく(以下、H): よろしくお願いします。2016年ってなんか字面だけでもすごい未来的なイメージなんですけど意外とまだ車が空飛んでたりはしなくて安心します(笑)。

                              Y: たしかにそうですよね、わたしもジェットパックを背中にしょってジェット噴射で空を飛んで歌会や句会に出かけたりする時代が2016年なのかなとか以前は思っていたんですが、ジェット噴射で窓辺から飛び立つにはあと10年くらいはかかるのかなと思っています。

                              H: あと10年でジェット噴射……!(笑)。

                              Y: …………!?


                              【大太鼓を鳴らすのは誰だ!?】


                              H: さてさて。柳谷さんの短歌、面白いですよね。ずっと前からファンなんですけど、じゃあどのくらい柳谷さんの短歌を読み解けているかというとそんなに自信もなくて、今日は柳本さんとの対談ということで色んなヒントや驚きをもらえそうで楽しみです。

                              Y: ええ、柳谷さんの短歌おもしろいですよね。私もファンなんです。ちなみに私が『かばん』に入会させていただいたきっかけは柳谷さんの短歌だったんです。このひとの短歌はなんだかとてつもないと。なんだか短歌がすごいことになっていると。いろんなびっくりがあったんです。先日ひらくさんとお話させていただいていたときにお互いが柳谷さんの短歌の話になってそこからきょうの対談をさせていただくことになりました。

                              H: あの日はなかなか盛り上がりましたね。今日取り上げるこの一首、柳谷さんらしさの炸裂した歌だと思うんですけど、柳本さんはどんな風に読まれていますか?

                              Y: そうですね、たしかに柳谷さんらしさを感じる短歌ですよね。まずこの短歌には〈「大太鼓鳴らすひと」っていうのは誰なんだ問題〉というのがあるように思うんですね。わたしはこの「大太鼓鳴らすひと」っていうのは〈外部〉にあるような「人生そのもの」或いは「神さま」みたいなものなんじゃないかとおもうんですよ。なにかこう、柳谷さんの短歌をみてるときにプラスティックの歌もそうなんですが(「ゆっくりとわかるのだろうほっとかれそのままでいるプラスティックを」)、自分ではいかんともしがたい・どうしようもない〈なにか〉がいつも〈このわたし〉をみつめている気がするんです。それこそ、柳谷さんの歌集のタイトルの言葉を借りれば、「ダマスカス」という〈外部〉がいつもわたしをみつめているとか。読み手も「ダマスカス」ってなんだろうって緊張感が歌集を読むときにあるように思うんですよ。なにしろたぶんこれから「ダマスカスへ行く」わけですから、そういうアトラクションに乗り込むような緊張感がある。だから〈人生のわけわかんない力〉がわたしには「大太鼓」のように思えるんですよ。

                              H: なるほど……早くも驚きの視点を提示していただきました。柳本さんはこの一首の中の〈ひと〉を人間ではない、運命的な不可視のチカラとして読んでらっしゃるんですね。

                              Y: そうなんです。なにか柳谷さんの短歌っていつも〈得体のしれない大きなちから〉と向き合っている感じがするんですよ。タイトルの「ダマスカス」も決して「地名」だけでなくて、そうした〈得体のしれない大きなちから〉という感じがします。そうした〈大きなちから〉のなかに入っていくのが「ダマスカスへ行く」ことなのかなって。ひらくさんはどう思われましたか。

                              H: 僕はこの歌、恋愛の絡んだ歌かと思って読んでいました。かつてとても好きだったひと、消化しきれない感情を抱いている相手のことを〈わたしの人生で大太鼓鳴らすひと〉と呼んでいるのかと。

                              Y: あ、それだとぜんぜん違った視点でおもしろいですね。恋愛かあ。恋の歌ですね。

                              H: 多分、今はもう何の関係性があるわけでもないのだけど、自分の人生史上でのその相手の存在の大きさはどうにも無視できなくて、それはまるで大太鼓を鳴らされているかのようだという……そんな風に読んで(わかるなあ)なんて思っていました。

                              Y: なるほど。ひらくさんの短歌にもよく〈記憶〉のテーマが出てくるんだけれども、なにかこう〈記憶〉を抑圧していて、思い出さないようにしているんだけれど、その思い出さないようにしていることそのものが揺り動かされるかんじですよね。記憶の大太鼓、というか。

                              H: まさにそんなイメージかもしれません。あるいは、抑圧したつもりのない自然に薄れた記憶であっても、無意識の海からふいに還ってくることもありますしね。〈何故いま連打するのだろうか〉という下句、少なからず主体は苛立っていますよね。何かのきっかけで、例えばかつての恋人の近況を偶然耳にしたとかそんな場合に、その相手に対峙したときの自己価値の不安定さ──影響される側、動揺させられる側である自分──を再認識してしまったことへの苛立ちがここには表れているんじゃないかなぁと感じるんです。相手に対する自分の弱さを感じているという点では、〈人生のわけわかんない力〉に対峙する〈私〉という構図も同じですね。

                              Y: そうか、たしかに恋愛とか記憶って、〈じぶんがどうにもできない巨大なちから〉と向き合うことにもどこか近いですよね。ある意味で、恋愛とか記憶ってそういう〈人生のわけわかんない力〉に向き合いつづけることですもんね。ひらくさんの歌集のタイトルが『それはとても速くて永い』というすごく印象的なタイトルで、私は〈記憶〉のテーマを一文にまとめられたような印象がしたのですが、なにかこう柳谷さんのこの大太鼓の短歌はそのタイトルを裏返したような、〈それはとても遅くて短い〉というような、〈なぜ今なんだよ!〉というひらくさんのおっしゃった〈苛立ち〉のようなものもあるのかもしれないなと感じました。

                              H: それはとても遅くて短い……(笑)。見事に裏返しですね。でも確かに、この歌に描かれている状況はその通りですね。

                              Y: ええ(笑)。ひらくさんの歌集のタイトルがそもそも〈時間〉との関わりがとても深いと思うんだけれども、柳谷さんの歌集もサブタイトルに「前・後・途中」とあるように〈時間〉との関わりを読者に示唆していると思うんですよね。


                              【恋と神】


                              Y: で、この短歌で次にわたしが気になっているというか、ひらくさんにお聞きしてみたいのが「連打」という言葉の選択です。よくゲームでボタンを連打するっていう言い回しがあるけれど、どこかこの歌には〈ゲーム性〉のようなものがあるんじゃないかと思うんですよね。柳谷さんの歌集に「シャイとかは問題ではない一晩中死なないマリオの前進を見た」っていう歌があるんだけれども、そこでは「マリオ」の〈人生〉が歌われている。「シャイ」っていう〈内面〉なんて問題じゃないんだ。「死なないマリオの前進」というゲームリアリズムのなかの〈無敵〉が大事なんだっていう、ちょっとこれもどこかで「神さま」と通じているような歌でもあると思うんですよ。「神さま」って言ってますが、宗教的な意味ではなく、超越性というか、わたしを大きな世界からみている〈誰か〉です。そういう〈誰か〉がいるんだってことがわかっている。でもその〈誰か〉にひれふすわけじゃなくて、「何故いま連打するのだろうか」とこちらから問いかけたりもする。そういう訴えることもできる「神さま」です。

                              H: そう、〈連打する〉この言い回しも絶妙ですよね。まさに柳谷節って感じがします。連打するというからにはそこにはある程度の〈経過する時間〉があるわけで、音楽で言えばサビにあたるようなそんな盛り上がったひとまとまりの時間のイメージでしょうか。そしてここにはその〈経過する時間〉にじっと耐えている、やり過ごそうとしている主体の姿があるように感じます。柳本さんの読みでは、〈やり過ごす〉というよりも、より積極的に〈問いかけて〉いる主体の像が結ばれますね。

                              Y: ええ。そこをどうとるかで読み手の位置も変わってくるかもしれませんね。恋愛ベクトルだと〈やり過ごす〉主体になってくるかもしれないし、そういう読み手が関わりながらこの大太鼓を受ける主体を成立させていく短歌なのかもしれない。つまり歌は読み手にもこう言っている。おまえも連打しなさい、この太鼓(歌)を。

                              H: なるほど。じゃあ僕はその呼びかけに答えるカタチでこの歌を<恋の歌>だと読んだわけですね……歌会とかでよく「ひらくはロマンチストだね」って言われるんですけどやっぱそうなのかな(笑)。ここらへん、特定の他者を相手とするか「神さま」を相手とするかによって読みのバラけてくる部分かもしれませんね。

                              Y: そうなってきますね。

                              H: そういう意味では神さまってやっぱり優しい存在ですよね。こちらが求める限りいつまでも打ち切られることなく対話できるわけですから。……話が逸れましたけど。

                              Y: あ、そうか。たしかに。神さまって〈沈黙〉が〈饒舌〉になる存在だから(祈りは通じるし神さまはきっと最後には答えてくれる)、たとえば片想いの恋愛相手とちょっとその点似通ってはいるんだけれども、でも神さまが一切肯定(わたしにイエスといってくれる)が多いのに対して、恋愛相手はこのわたしを記憶の底からでもたたきのめすことがありますよね(わたしにノーをつきつけてくる)。そこらへんはベクトルが変わってきますね。〈だれ〉とむきあっているかで。

                              【決意の一閃】

                              Y: で、ですね。この短歌でもうひとつ気になったのが、時間分節というか、先ほどもお話しましたが、ひらくさんの歌集のタイトルが『それはとても速くて永い』という〈時間〉を想起させるようなタイトルになっているのだけれど、柳谷さんの歌集にもサブタイトルに「前・後・途中」っていう〈時間〉が刻印されているんですね。前もって時間のプロセスを読み手がかいくぐっていくことが予期されている。「大太鼓」の歌も〈大太鼓の連打〉によって人生が区切られていく、そういう〈区分ソング〉ということもできるんじゃないかとおもうんですよ。神さま、わたしの区分はこっちです! という主張というか。「大太鼓」なので相手も本気でこっちを区分しようとしているけれど、いやそうじゃないんだ、わたしの大太鼓はもっと後にあるんだというか。そういう意味では〈プロテストソング〉でもある。

                              H: 区分ということについては僕はそこまで思いが至らなかったのだけど、プロテストソング、というのは面白いですね。それはすごく本質を突いているような気がします。柳本さんのおっしゃる〈何か大きな外部的存在への問いかけ〉という意味でもそうですし、恋愛の絡んだ歌なんじゃないかという僕の読みにおいても〈内側で揺らぎそうになる自己価値へのプロテスト〉という意味では同じですね。外に向くか、内に向かうかのベクトルの違いはあれど。大太鼓っていう道具立ても重要なのかな。例えばもし、ここで演奏されている楽器がフルートだったりしたら、フラ~っとついていきたくなっちゃうかも(笑)。

                              Y: フルートだったら(笑)。あ、そうか。そういう楽器視点で考えるのは、おもしろい! この歌の楽器が「大太鼓」であるのがたしかに重要ですね。ひらくさんがおっしゃるようにフルートやタンバリンだったらとつぜん自分をもっていかれない感じはあるんだけれど、「大太鼓」だともう有無をいえない感じがある。どこどこどこどこどこどこどこどこ叩かれては、言葉も意志も思想も太刀打ちできないですね。楽器の音律にのって歌うわけにもいかないし、踊るわけにもいかない。鳴らしているのを無理に止めようとしても、反撃されて「ばち」で叩かれそうじゃないですか。笛とかでたたかれてもだいじょうぶそうだけれど、ばちだとすごく治療に時間がかかりそうなので。痛そうですよね。そういう「大太鼓」って武器のイメージがあるんです。トルコの軍楽隊が太鼓を打ち鳴らしていたり、戦争と太鼓ってたぶん関係が深いと思うんだけれど(ちょっと太宰治の「トカトントン」も思い出しますが)、どこか戦争のイメージもまとっている歌なのかもしれないなとおもってしまう。

                              H: 太鼓と戦争、かぁ……言われてみれば確かに、大型の太鼓っていうのは洋の東西を問わず〈勇猛さ〉の表現として演奏されやすい楽器ですね。

                              Y: ああ、そうですね。行進とか前進の楽器ですもんね。

                              H: 勇猛さを保証するのは決意の強さだと思うので、その意味では大太鼓っていうのは〈決意〉の象徴なのかもしれない。

                              Y: うんうん。

                              H: 演奏スタイルから言っても、大太鼓やシンバルなんかを叩くのにはある種の瞬間的な決意が要りますもんね。

                              Y: なるほど! 決意や瞬間の楽器なんですね。

                              H: そう考えると、この歌の大太鼓を連打されている状況というのは〈自分の決意を問われている〉感覚の表現なのかもしれませんね。プロテストのためのプロテスト、ではなくて、何らかの決意を固めるまでの時間稼ぎとしてのプロテスト、なのかもしれません。


                              【それぞれの〈ダマスカス〉】


                              Y: そうか、いままでひらくさんのお話をうかがってきてわかったのですが、この柳谷さんの一首って〈決意の歌〉でもあるんですね。いま大太鼓鳴らされてる、だったらわたしはわたしの大太鼓を鳴らして決めなきゃ! でないと決められてしまう、っていう。だからあっちから時間分節されないで、このわたしがこの瞬間を決めるんだっていう〈決意と瞬間の一首〉になっている。2016年、〈決意の瞬間〉を求められるたびにこの柳谷さんの一首を思い出してみようと思います。

                              H: 〈決意と瞬間の一首〉。なんかすごくカッコよく決まりましたね。そのフレーズ欲しいな……(笑)。そう、で、この瞬間を決める決意というのは「自分のことは全部自分で決める」という頑なさのことではなくて、どうしようもない大きな力による誘いをどんな風に受け入れるか、あるいはどんな風に受け入れずにいるかという〈意志〉のことなんでしょうね。自我を最上位に置かない意志というか。この感じが柳谷さんの持ち味なのかなという気がしてきました。

                              Y: ああ、なるほど。柳谷さんの歌集にはサブタイトルに「前・後・途中」と付けてあったけれど、まさにそういう〈自我の向こう側〉にあるコントロールできない〈時間〉のプロセスを楽しもうという感じもありますよね。たとえば「ダマスカス」は決して自分の支配できる領域にはならないんだけれど、でも、その〈支配できなさ〉のプロセスを逆に楽しんでしまうというか。それが〈生きる〉ってことでしょう、っていう。めいめいが持って生きていかなければならない〈ダマスカス〉ってあるわけですからね。私も「ダマスカス」には行ったことはないけれど、でも私が生きなければいけない〈ダマスカス〉はある。それはコントロールできないものとして。しかし、その過程を楽しむものとして。

                              H: そっか。割と自分、コントロール欲求の強い方なので、それで柳谷さんの短歌に惹かれるのかもしれないなぁといま柳本さんのお話を聞きながら思いました。誰の中にもある<ダマスカス>、良いですね。僕にとっては何だろうな……。たくさん話しましたけど、こうやってお互いの読みを共有しあうとなんか深まっていく感じがすごいですね。

                              Y: ほんとうにそうですね! 一首だけを徹底的に話し合うってなかなかない機会だと思うけれど、たった一首でも〈それぞれの読みの立場〉に立ってみることでいろんな歌の読みの可能性が相互作用でひらけてくるということがわかりました。この歌集の〈ダマスカス〉のような、価値観が違うもの同士が集いながら価値をすり合わせ相互作用によって言語感覚を新しく更新していく場所。〈読みの場所〉というものもそういうふうにあるものかもしれませんね。短歌というものは、一首が成立したあとから、〈短歌の読み〉が次から次へと生まれてくるものではあるけれど、でもその〈短歌の読み〉をめぐる〈時間〉というのも、ある意味では〈それはとても速くて永い〉し、また一方では〈それはとても遅くて短い〉ものでもあるかもしれないなと思いました。〈永遠と、いっしゅん〉のなかにずっと〈短歌の読み〉はある。きょうはひらくさんからいいお話をいただきました。ほんとうにありがとうございました!

                              H: いえいえ、こちらこそです! 予想していた通り、柳本さんとの対談、とても刺激的でした。面白かったぁ。ありがとうございました!

                              Y: 最後にひらくさんにひらくさんご自身の短歌からの自選歌五首をお願いしました。今回は歌集刊行以降の歌から選んでくださったそうです。

                              H: 自選歌、歌集からはどうも決めきれなかったので、歌集刊行以降の歌から今の気分で5つ選んで、それとなく連作っぽくも読めるような順番で並べてみました。今の自分の気分はなんかこう、字幕なしで外国の映画をぼんやり観てるみたいな、そういう感じに惹かれてるみたいです。

                              Y: 「字幕なしで外国の映画をみてるみたいな」ってすごくよい言葉ですね。たぶんそれは純粋に〈ひかり〉を感じているってことなんじゃないかと思うんですよね。言葉、でもなくて。映画って、ひかりですもんね。そして〈ひかり〉っていつも〈いま・ここ〉に満ちているものですよね。読ませていただいたのですが全体的に「ひかり」に満ちていて、ひらくさんの短歌の新しい質感を感じ取れるとてもすてきな連作になっていると思いました。新春にふさわしい短歌を最後にいただいたと思います。きょうはほんとうにありがとうございました。


                              【法橋ひらくさんの自選歌五首】

                              寝たふりの後部座席でわかってた(もう着くんだね)光でわかる 
                              アンニュイは春の季語かもしれないね染谷将太が老けていっても 
                              それからの話もしようこれからは語尾に「けど」とか付けずにもっと 
                              こぼれそうな青いひかりに指をあてずっと見ている夜、熱帯魚 
                              幸せな気分でいるよ五年後の夏の陽射しの中であなたは

                              【俳句時評】   『草の王』の厳しい定型感――石田郷子私観(後編) 堀下翔



                              『秋の顔』(ふらんす堂/1996)にみられる石田郷子(1958-)の形式に対するういういしさは、同時代の女流作家、ことに吉本ばなな(1964-)や鷺沢萠(1968-2004)のそれとよく似ているのではないか、という思いがずいぶん前からある。まず表現者としての出発時期が近い。石田の「木語」入会が1986年。吉本が「キッチン」、鷺沢が「川べりの道」でそれぞれ文壇デビューを果たしたのが1987年である。

                              吉本ばななの最初期の長編で、のち、彼女の作品としてはもっとも先に文庫化もされた『哀しい予感』(角川書店/1988)、あるいは、鷺沢萠が、自身に韓国人の血が流れていることを知り、そのアイデンティティを主題にしはじめる前の、若書きの短編集『海の鳥・空の魚』(角川書店/1990)あたりを読むと、その印象は甚だしい。よしんば情景描写や三人称視点の記述であっても、そのいわゆる「神の視点」自体に女性性を強く感じる文体が、彼女たちに共有されている。女流作家、ああ、この言葉もいまではほとんど古くなってしまっただろうけれど、その人たちにしか書けない、抒情と鋭敏さの間をたくみに縫いまわる文体というのは昔からあって、たとえば幸田文、有吉佐和子、そして向田邦子あたりまでの作家のことであるが、彼女らの和文脈を思わせる丁寧で連綿とした書き方の延長線上に、吉本や鷺沢はある。そんな彼女らにとっての新規性は、その女流らしさを引き受けながらも、泥臭さがなく、ライトであるに点あろうか。

                              その古い一軒家は駅からかなり離れた住宅街にあった。巨大な公園の裏手なのでいつでも荒々しい緑の匂いに包まれ、雨上がりなどは家を取り巻く街中が森林になってしまったような濃い空気がたちこめ、息苦しいほどだった。 
                              (吉本ばなな『哀しい予感』角川書店/1988/引用は1991年の角川文庫版)


                              日が傾きはじめ、窓から射しこむ光に照らされた床が濃いオレンジ色になった。そのオレンジ色の床に寝そべったまま、汀子はうとうとしてしまったらしい。耳に風鈴の涼しげな音が心地よかった。/次に目覚めたのは、風鈴がひどく激しく鳴ったからだった。睡りと覚醒の中間のところで、何であんなに鳴っているんだろうと訝しく思い、ふと目覚めてみると、それは風鈴ではなくドアのチャイムなのだった。 
                              (鷺沢萠「天高く」『海の鳥・空の魚』角川書店/1990/引用は1992年の角川文庫版)

                              吉本、キレのいい一文目と、接続詞を多用して呼吸が長い二文目との響き合いが巧みだ。鷺沢の方は最後の文の冗漫さがたゆたうような寝覚めの心地を再現している。「なのだった」に味がある。いずれもコシがあって、一部だけ抜き出してこれは向田邦子ですなどと言われたら分からない。情景描写がやや類型的であるが、そこが若書きたるゆえんであり、かつ石田郷子の〈冬帽子まつすぐな眼でありにけり〉〈その中の眠りの深き夏蚕かな〉〈あたらしき鹿のあしあと花すみれ〉(以上『秋の顔』)などに見られる、ともすれば能天気とも思われる純粋でさっぱりとした描写が連想されるところである。

                              何が言いたかったかと言うと、石田郷子は、そういう新しい時代の作家群の一人のような気がする、ということだ。さっき幸田文から向田邦子までの小説家の名前を挙げて、吉本や鷺沢と微妙に断絶していると述べたが、石田のことを考えるとき、その名前は例えば星野立子、中村汀女、そのあとの時代であれば、岡本眸あたりと、置き換えることができる。上の世代と同じ筆脈をもって、丁寧な書き方をしていながら、何を書いても明るくなってしまい、そのことがついにはモラルになる新しさが、彼女たちの持ち味である。形式に対するういういしさが、そのような形で顕在化する、幸運な世代であった。

                              余談だが、吉本ばななといえば、せりふの文体や物語の構造に少女漫画の影響がしばしば指摘されてきた作家である。筆者には大塚英志が複数の著書にわたって言及しているのが印象に強い。消息は原亜由美「吉本ばなな「キッチン」と大島弓子「七月七日に」――「えり子さん」と「母さま」――」(「歴史文化社会論講座紀要」2012)に詳しいのでご参照を願いたい。「形式」という言葉を接点に石田から吉本へ連想が及んだゆえんの一端である。

                              さてそのように形式に捧げられたと言えよう第1句集『秋の顔』を経て、第2句集『木の名前』(ふらんす堂/2004)において石田は、その形式において書くべき対象を見定めている。自然と自己との交わりである。第1句集の時点ですでに、都市や人間、文化よりも自然を題材にする傾向が強かったが、『木の名前』に至ってそれはいっそう顕著になる。かつ、これは非常に重要なことであるが、単に自然をうつしとるのではなく、それに心を寄せる主体自身が、一句の中に書き込まれている点で、特徴的である。

                              掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ 石田郷子

                              句集表題句となったこの一句にしてそれはあらわである。眼前の一樹をゆかしく思い、その存在感を書きとどめようとするときに、彼女が言挙げするのは、木の姿ではない。おのれと木が触れ合い、名前を呼んだこと、その印象が「冬はじめ」と隣接する、さえざえとした、心の深く及んでゆくものであったこと、それが述べられるのである。

                              さへづりのだんだん吾を容れにけり 石田郷子 
                              うごかざる一点がわれ青嵐 
                              ここに母佇ちしと思ふ龍の玉

                              など、『木の名前』のうちの名吟には、主体とのかかわりにおいて自然が描かれる句が多い。

                              ことごとくやさしくなりて枯れにけり 石田郷子

                              この句は少し変な構文をしている。『秋の顔』所収の〈来ることの嬉しき燕きたりけり〉が、連体形の奇妙な掛かりようによって、主体と燕とがよろこびを同じゅうしているかのように表現されたのと近いが、掲句の場合は、接続詞が重要な働きをしている。まずこの句、いったいどういうことを言っているのだろうか。副詞「ことごとく」は、「やさしくなり」に掛かっているわけだが、ではその主体は何かと言うと、明示されていない。この上五中七が下五「枯れにけり」へ流れてゆくので、上五中七の主語も、この「枯れ」ていったもの、すなわち何かの木であろうと思われるが、ここにはひとつ、木が「やさしくな」るというのがよく分からない、という問題がある。「やさしくな」るという動詞はふつう人間を主語にとって用いる。とすればここにおいて、一句の主語は木であると同時に人間にもなり、「優しくなり」「枯れ」てしまった木は人間のイメージと重なる。冬に向けて葉を落してしまった木は、何かを失って立ち尽くしながらも「やさし」い気持ちでいられる人(老人でも、もっと若い人でもいいのだが)として提示され、人生の必然に対する覚悟に裏打ちされた穏健さを湛え始める。このイメージの二重写しをさらに重層的なものにしているのが接続助詞「て」である。「て」というのは非常に難しい助詞で、異なるセンテンスを一文のうちに収める働きをしているわけだが、その前後における主語が、同一のものになるか、それとも主語も変化するのかは、まるきり文脈に依存するのである。すなわち掲句であれば、「やさしくな」ると「枯れ」るの主語が異なる可能性がある。それはたとえば、木を見て「やさしく」なってゆく主体から、その主体の視点がそのまま移動するかのように、「枯れ」てゆく木へ、ピントが変化してゆくようなものである。どこまでが人間で、どこからが木のことか判然としない不安定な文体によって、主体と対象が一体化している。やはりこれも、自然と自己との交わりの句なのである。

                              あるいはこの句、

                              音ひとつ立ててをりたる泉かな 石田郷子

                              について、長谷川櫂が同句集の栞にこのようなことを書いている。

                              泉のほとりで泉の底からもれてくる音に耳を傾けているあなたの横顔がみえるところがとてもいい。

                              どんな句だってそれを書き留めた人間がいる以上、その書き手の存在はどこかに感ぜられるものではないかと思う向きもあるかもしれないが、掲句のような純粋な叙景句の場合、なかなかそのことには気づきがたいものである。こんな句に作者の存在を感じ取るとはさすが長谷川櫂だと敬服した次第。

                              自然を題材にしようとする作家は、古くから、叙景を志す場合が多い。大正俳壇的な遠景の句にせよ、素十の草の芽俳句的な近景の句にせよ、自然描写はそのディティールに終始しがちである。人間が登場する場合も、他者としてのそれである。また、立子・汀女らの句に見られる生活感とも、ニュアンスが少し違う。生活を離れたところで自然に心を寄せながらも、私性を意識し、あるいは思わずもそれがにじみ出てしまう、石田郷子はそのような作家だ。

                              小川軽舟が『現代俳句の海図』(角川学芸出版/2008)において指摘したとおり、俳句史停滞の予感が充満した中で俳句を書き始めた昭和三十年世代の作家にとって、手元にあるのは俳句形式のみである。何を書くか以上にいかに書くかという点に強く関心を持ち、表現レベルの更新、すなわち形式への奉仕を目論む者の多い作家群が、昭和三十年世代であると言えよう。こと、出発がやや遅れた石田はいわゆる「平成無風」に直撃しているのであるが、そんな中で彼女が、形式に身をゆだね始めたのち、おのれが書くべき対象を発見したのは注目に値する。

                              さて第3句集『草の王』(ふらんす堂/2015)が刊行された。第2句集からずいぶん時間が経っている。第2句集以降、大木あまり・藺草慶子・山西雅子とともに同人誌「星の木」を創刊しているし、総合誌で名前を見ることも多かったから、かなりの作品が溜まっている筈だと、かねてより気にしていたものだった。「鷹」2014.8掲載のインタビュー「俳人を作ったもの」(シリーズ第6回/聞き手:高柳克弘)で刊行が予告されているのを読んで、ほっと胸をなでおろしたのはよかったが、結局その後2015年9月まで待たされたので、ずいぶんどきどきさせてもらったことになる。

                              手に取って、帯の自選句に、

                              大杉を恃みぬ人も寒禽も 石田郷子 
                              狼のたどる稜線かもしれぬ

                              といった句が並んでいるのを見たときには、ひやひやした。自然への傾倒が深化した結果、人間と動植物が同じ立場で描かれる、童話的世界観に突入してしまったのではないかと思ったのだ。それに2句目、いまどき「かもしれぬ」といった表現で勝負する時代でもあるまい。

                              ぱらぱらとめくったところに、「転居」の前書きをつけた

                              夕河鹿セブンイレブンまで三里 石田郷子

                              という句を見つけたときにも驚いた。こ、これは自分のライフスタイルに酔っているタイプのやつではないか……???

                              だがそれは杞憂であった。『草の王』は、既刊2句集に見られた自然詠をいっそう鋭い切り口によって深めていった成果が惜しみなく披露される、たいへんな句集であった。

                              手の出る素材の範囲にやや狭い印象があった第2句集までとは異なり、語彙が格段に増え、言葉の展開にもきびきびとしたものが見られるようになった。定型感が強いのも特筆せねばなるまい。石田特有の自在な文体も、洗練度を増し、清潔感がある。

                              『草の王』にはたとえばこのような句が収録されている。

                              浸しある杵に笹子の来てをりぬ 石田郷子 
                              白椿なればしづかに歩み出づ 
                              一瞬の夕日のつよし蘆の花 
                              冬の虹紫濃きと思ふのみ

                              1句目、杵と笹子の意外な出会い。もうひとつ「浸しある」が意外だ。予定調和を感じさせない構成に確かな手ごたえがある。「来てをりぬ」がやや擬人的で、小さな鳥に対するまなざしが感ぜられる。2句目、「なれば」が面白い。白椿であるからしずかに歩み出すのだ、という論理関係を述べる。ほんらいこの接続助詞「ば」の前後には因果関係はない筈であるが、白椿の「白」が「しづかに」のイメージと呼びあうし、またそのさっぱりとした感じが、「歩み出づ」という、たとえば「歩き出す」などではない格調だかい書き方と、りんりんと響きあうので、順接の論理関係もなるほどと思わせる力が強い。椿と心の通っていることを信じて疑わざる書きぶりである。3句目はある意味平凡なことがらであるが、強靭な定型を背に当てながら発せられることで、強く迫ってくる言葉となった。「つよし」が平仮名なのが石田らしくていい。4句目、冬の虹に対する印象を述べたあと、それを「のみ」と断定した。ただそう思うだけである、と、なにゆえにか切り捨てられた冬の虹が、さむざむとした空にひどく寂寞と残されている。なぜ「のみ」とまで言われなければならないのか分からぬため、ひじょうに理不尽で、そのために印象に残る。

                              集中の白眉はこの句であろう。

                              みみなぐさ目覚めよき人ここへ来よ 石田郷子

                              みみなぐさは、はこべに似た花で、夏のはじめにささやかな花をつける。こういう地味な花の名前を持ってくるのがまずうれしい。耳慣れないこの花の名前に、いったい何が語られるのであろうかと襟を正す思いになる。そして中七下五で、「目覚めよきひと」が「ここ」へ呼ばれる。早起きの人へ、一緒にこの花を見ようと語りかけているのだ。朝の早い時間に出る野のすがすがしさは、「目覚めよき人」というさっぱりとした言葉、あるいは「来よ」という切れ味のよい命令形が裏打ちする。この「目覚めよき人」とは不特定多数のことを言っているのだろうか。この花を誰かと一緒に見たい、誰かいないか、そんなかそけき思いに、「目覚めよき人ここへ来よ」という言葉が不意に発せられた、そういう解釈もいい。あるいは、だれか一人の顔を思い浮べているというのはどうだろう。いつも目覚めのよいあの人よ、ここへ来てくれよ――この場合は、命令形に、つよい信頼が感ぜられたりもする。思い描く一人がありながら、それが、「目覚めよき人」と一般化して述べられるので、この「目覚めよき人」は、読者にとっての誰のことであってもよいような、無限の広がりを持つことになる。どちらにせよ、主情の及ばない凛然とした文語体で述べられているため、清潔感が強い。ひびきのよさと相俟って、鋭く胸に届けられる。

                              この句集の成果は、定型に対して自由であることが句の生命であった若書き時代を通過し、定型に厳しく身を置くことによって、若書き以上の言葉の瞬発力を呼び起こし得たことにあろう。それは、自然を愛し、自然を凝視する過程で要請された、きびしい時間の落とし子であったにちがいない。第1句集から微妙に軸足を動かしつつ、いっそう、よりいっそう深まってゆく自然への心のよりように心が動かされ、それをしかと書き留める表現の精悍さに呆然とする。大切にしたい句集である。


                              等身大の文体――石田郷子私観(前編) 》読む


                              『天使の涎』を捏ねてみた -北大路翼句集序論ー   / 竹岡一郎



                              「びーぐる」29号に載せた北大路翼論を転載するに当たって、この論を書くに至った縁由を書けと、筑紫磐井さんからの要請である。要請に応えて、甚だ不明瞭ながら、思う事を綴ってみる。

                              まず、「天使の涎」は作者からは送られてこなかった。「鷹」という伝統結社の無鑑査同人など、「天使の涎」にとって最も相応しくない読者であろうから送るだけ無駄、と北大路翼は考えたのではないかと思ったりもする。

                              読みたい気持ちを抑えられなくなったので、夏になってから、とうとう自分で買った。しかし、作者の近影写真をあらかじめ見ていたため、こんなヤクザめいた風貌の者とは付き合いたくないな、とも思っていたのだ。中身を開けてみると、これがまた実に読み難い。こんな薄い本に二千句も詰め込んだら、読みやすい筈はないのである。一応最後まで読んでダメだったら捨てようと思った。まず否定ありき、で読み始めたことを、此処に告白しておく。とりあえず最後まで読んだ。それからもう一度最後まで読み、三度最後まで読んで、これは、と思った。四度目は、良いと思われる句に付箋をつけてみた。ピンクの表紙の本の上に緑の付箋がブロッコリーのように実った。五度目に余程良いと思われる句を書き抜いてみた。かなり厳しく批判的に書き抜いた。付箋つけた句を全部書き抜くと、手が疲れてしまうからだ。原稿用紙五枚、百句余り書き抜いた。

                              「びーぐる」で私が与えられている枠は原稿用紙にして十七枚弱、他に予定していた作家は何人かいたのであるが(実に端正な句風の、しかし既視感甚だしい伝統若手作家について書こうかと思っていた)、書き抜いた北大路句を読み直している内、評したくて我慢出来なくなった。

                              二千句の内、千五百句は取れない。五百句は佳句、更にその内、百句は胸揺さぶられる句だ。これは伝統俳人の句集と比較する時、驚異的なヒット率である。例えば、三百五十句が句集の平均的な収録句として、八十句も類想や既視感なく読める句が有り、内十七句に胸揺すぶられる、そんな句集が一年の内に何冊出るだろうか。

                              ここ一、二年の内にそんな感銘を受けた句集というと、例えば、高野ムツオの「萬の翅」、渡辺誠一郎の「地祇」、宇多喜代子の「円心」等が浮かぶ。明確な問題意識を常に持っている俳人の句集に佳句が多いのは当然であるから、北大路翼の句集も彼の、新宿歌舞伎町という混迷へ向ける眼差しを思えば当たり前なのであるが、それにしてもたった三年の句業である。若さゆえと云っても、やはり常人以上のエネルギーがあろう。

                              尤も、私なら、五百句に凝縮する。全く既視感の無い五百句で以て狼煙を挙げる。その狼煙は五十年後に良く見える事と成ろう。「天使の涎」に類句類想があるという意味ではない。広く世間を見渡した時、俗情に凭れる部分が千五百句あるという意味である。それは必ずしも欠点ではない。斜めに見れば一つの戦略であり、好意的に見れば北大路翼の優しさであろう。切り捨てる俗情など無いという優しさだ。そのことは本論中に書いてある。

                              その俗情は、伝統俳人達が褒め称えてやまぬ、いわゆる「日常性」ではない。むしろ健全な市民が目を背け、眉を顰め、見ない振りをして通り過ぎる俗情だ。置き捨てられた者達の俗情であり、祈る事を知らぬ者達の意識せずして行われる祈りであるかもしれぬが、いわゆる幸福なる「日常」ではない。

                              人が「日常」というとき、それは出来るだけ問題意識無い、健全な市民生活の形態を指している。しかし、高度成長期を裏で支えていたのが朝鮮特需、ベトナム特需であったことを鑑みるまでもなく、「日常」は地獄に支えられている。だが、それは見てはいけない。見ない事が正しい俳人の在り方だ。

                              「俳句は極楽の文学である」と虚子は言い、その極楽の背後には地獄があるというのが一般の解釈であろうが、本来、虚子が言う事ではない。それを渡邊白泉が言うなら、或いは石田波郷が言うなら、或いは三橋敏雄が言うなら、重く響くであろう。だが、文学報国会において俳壇を主導した虚子が言う言葉ではない。

                              地獄に支えられながら何事も無き如く見える「日常」に俳人は懈怠し、怯懦し、諦め、その「日常」を受け入れることが俳句の目的の全てであり、それ以外に此の世で達成すべき高みは無いように思い始めているのだろうか。俳句で詠うべき事と詠うべきでない事を暗黙の了解の内に設定し、他のジャンルの見方を取り入れることを忌避することにより、清らかな小器である安全地帯を作り出し、その地帯の狭さゆえに頻出する類句類想に目をつむってでも、そこに生涯留まりたいのだろうか。遂には、その穏やかなる「日常」を絶対視し、俳句なる形態の核と見做し、あろうことか聖性化し始めるかもしれぬ。(この世の果ての地獄の袋小路を抜けた曠野に佇むたった一人こそが聖性を仰ぐのであるが、その聖性は、世を謳歌するという目的にとって、ましてや結社の拡大という目的に当っては甚だ邪魔であるからして、それ以外のよりお手軽な、誰もが容易に到達できる「日常」を聖性化せねばならぬ。)


                              その時、遂に俳句は文学たる事を止め、伝統芸能と化すだろう。その時の為の言い訳はずっと前から用意されてきた。即ち、「俳句は文学ではない。」私はそれを信じたがっていた時期があった。骨董に耽溺していた頃だ。黙って見ればピタリと判る眼を信じたかった。俳句は例えば、桃山の焼き物を目指すものだと思っていた。今はそれを信じない。なぜなら、それを信じるなら、もはや俳句を作る事は無駄だ。高野素十や中村汀女のような天才を読めば足りる。現代において、彼等ホトトギスの大作家の上に更に付け加えることなど何も無い。

                              茶道においては、江戸期以降の衰退した茶碗を誉めるために、様々な見どころが設定され、その衰退した形式(「戦国の、殺し合いと隣り合わせにある緊迫した友誼の形態」、ではない茶道)を保持するために、茶人は「結構なお点前です」というのであるが、俳人はその「結構なお点前」を褒められるために、茶碗の見どころを事細かに設定する如く一句の見どころを予め設定し、俳句という形式に安心を求める人々の為に、堅牢な白い巨塔の如きを作った。

                              かつて青山二郎が「日本の陶器」というエッセイにおいて、現代の茶道を批判した一文を思い出す。『集って来るのは「新しい信者」だけである。新興宗教が何十万人の人間を集めても、信者は信者であって、それが世間では無いと気が付いた雑誌はない。』

                              その信者同士、教団同士のバランスを取るのが俳壇政治というもので、それは本来、文学とは何の関係も無い。

                              政治といえば、かつて藤田湘子が酔っ払うたびに繰り返し私に絡んできたことを思い出す。湘子は苦虫噛み潰したような顔で、いつもこう言ったのだ。

                              「一郎、俳壇は政治だ!」

                              それが湘子の戦争宣言だったのか、自嘲だったのか、憤懣だったのか、諦めだったのか、恐らくそれら全てであっただろう。私が返す言葉はいつも同じだった。

                              「先生。それは承服できません。」

                              湘子はそれを聞くと、いつも黙ってしまうのだった。

                              私はそれを承服する訳にはいかない理由があった。それを承服すれば、俳句は志賀直哉かもしれぬが、中上健次ではなくなり、政治力を持つ者とその帰依者達による既得権益の宴であって、たった一人で神話に抗し世界に抗する最速の詩ではなくなる。

                              また、小澤實に私は言ったことがある。

                              「俳句だって詩じゃないですか。詩として優れているかどうか、それだけが判断基準でしょう。」

                              その時の小澤實の悲しそうな顔が、二十年経った今でも忘れられない。

                              「一郎、それはそうだ。だが、そう言い切れる奴は少ないんだ。」

                              その時、私と小澤實の間で論じられていた「詩」とは、何よりも「言葉が神秘の力を持つ組み合わせ」という意味だった。詩は日常に潜む事もあるかもしれぬが、ひとたび詩がその神秘を顕し咆哮する時、詩は「日常」を遙かに凌駕する。

                              「天使の涎」は相当売れたと聞く。インターネットなどを調べると、伝統俳人でない一般読者に支持されたのは事実である。そのくらい売れた句集といえば、娼婦俳人と呼ばれた鈴木しづ子の句集がかつて五千部売れた事を思い出す。鈴木しづ子は俳壇が黙殺しようとし、その黙殺は一時的に成功したように見えたが、近年復活し、また広く読まれるようになった。本当に力がある作家はどんなに黙殺されても、必ず復活する。作品に否応ない力があるからだ。攝津幸彦がその良い例だろう。私は、攝津の、あの軽やかな神秘を未だに解明できていない。そして俳壇は未だに攝津を認めていない。しかし、私ごときがますます確信するまでもなく、攝津は天才である。さて、次に論ずるのは実際の北大路翼ではないかもしれぬ。出来れば天才と化して欲しい北大路翼かもしれぬ。御了承頂きたい。評者は作家に期待するものだからだ。




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