2016年12月23日金曜日

第57号

●更新スケジュール(2017年1月13日・27日

第4回攝津幸彦記念賞 募集‼ 》詳細
豈59号  第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録
各賞発表プレスリリース

販売価格  1,080円(税込)  豈59号のご購入は邑書林まで


平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
》読む

(1/6) 冬興帖 第三 …杉山久子・曾根毅・衛藤夏子
前北かおる・山本敏倖・望月士郎

(12/3)第ニ…小野裕三・ふけとしこ・岡田由季・仙田洋子・五島高資・林雅樹
(12/23)第一…大井恒行・木村オサム・堀本 吟・網野月を・花尻万博・小林かんな


【抜粋】 

座談会からの発言記録>
「Es」第29号<光の繭>「特集・ジャンルを超えて」

震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(3)…筑紫磐井  》読む

震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(2) …筑紫磐井  》読む

震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(1) …筑紫磐井  》読む


<「俳句四季」>

<「俳句四季」1月号>俳壇観測連載168
面白い俳句とは何か―――楠本憲吉と鈴木明 

…筑紫磐井  》読む

<「俳句四季」12月号>俳壇観測連載167
ノーベル文学賞が俳句に考えさせること――浅沼璞と山本敏倖の思索  

…筑紫磐井  》読む

  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる









      <抜粋「WEP俳句通信」>

      95号

      • 新しい詩学のはじまり(6) 社会性俳句の形成①/伝統俳句の開始  …筑紫磐井  》読む


      • 真神考  … 北川美美  









      およそ日刊俳句空間  》読む
        …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
        • 12月の執筆者 (柳本々々 ) 

          俳句空間」を読む  》読む   
          ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
           好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 


          【鑑賞・時評・エッセイ】


          【短詩時評32は年末企画で裏の雑談】後編
          幸福について  
          …安福望×柳本々々  》読む
          【短詩時評32は年末企画で裏の雑談】前編
          価値について  
          …安福望×柳本々々  》読む

          ■ 中庸という強かさ (びーぐる33号より転載) 
          …竹岡一郎  》読む  






            【アーカイブコーナー】
            • 西村麒麟第一句集『鶉』を読む  》読む



                あとがき   》読む


                【PR】
                『いま、兜太は』 岩波書店
                金子兜太 著 ,青木健 編
                寄稿者=嵐山光三郎,いとうせいこう,宇多喜代子,黒田杏子,齋藤愼爾,田中亜美,筑紫磐井,坪内稔典,蜂飼耳,堀江敏幸.


                冊子「俳句新空間」第6号 2016.09 発行‼


                俳誌要覧2016「豈」




                特集:「金子兜太という表現者」
                執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                  


                特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                <辞の詩学と詞の詩学>

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                第57号 あとがき

                2016年12月30日 更新


                2016ご愛読ありがとうございました。
                あとがき、あまり更新せずでスイマセン。


                12月3日、豈忘年会に参加。

                大井さん記事がこちら。 》読む



                宴席冒頭で、今回、第3回攝津幸彦記念賞(関悦史賞、筑紫磐井奨励賞)を受賞された生駒大祐さんの受賞挨拶がありました。 とっさの挨拶でしたが、よいスピーチでした。

                2016は下記の生駒さんのスピーチで締めくくりたいかな、、と。




                第3回攝津幸彦記念賞受賞 生駒大祐さん挨拶


                攝津幸彦記念賞、誠にありがとうございます。 挨拶することを全く考えてなかったんですが…、 
                攝津さんについて考えてみると、人柄も知らないですし、句も全句集を通してしか知らないっていう身なんですけれども、豈やいろいろなところで攝津さんの句を読ませていただいて、攝津さんが諧謔味のところしか知らなかったとか、他のことを学ばなかったということを知って、いい意味で<俳句の本筋ではないところのよさ>っていうがあると感じていました。 
                もし俳句の本筋があるのだとすれば、逆に俳句は面白くない。本筋のアンチテーゼ、対立構造としての俳句、というものが攝津さんの句にはあるな、とつねづね感じて読ませていただいております。 
                本筋というより、僕は、ぜんぜん政治的に成り上がろうと思って無いですし、面白い俳句をひたすら詠もうと思っているだけなので、そういう意味では、どこかで薄ーく攝津さんと繋がっているのかな、と多分にも思っております。 
                そういう意味で攝津さんの名前を冠にした賞をいただきまして、この度はとても嬉しく思っています。 
                皆さま今日はどうもありがとうございます。


                (2016年12月3日 会場@白金高輪 インドール) 



                英語で翻訳する意味は全く無いのですが、いい加減ですが翻訳してみました。
                (by google translation) 

                Yukihiko Settsu Memorial Prize Award Speech by  Daisuke Ikoma, Esq.

                Yukihiko Settsu Memorial Prize, Thank you very much. I had not thought about greeting at all ..., 
                Thinking about Mr. Settsu, I do not even know the personality, and I know his Haiku just through his complete book, but I have read Mr.Settsu works  in various places or Ani books, 
                Mr. Settsu  Knowing that he knew only the taste or did not learn other things, in a nice sense I felt there was something called "good thing that is not a true source of haiku." 
                If you have haiku poems, conversely, haiku is not funny. I am reading his works as if his work has such a thing as a real story antithesis, as haiku conflict structure.
                Rather than a main line, I do not think that it is going to be politically upright, and I am just thinking about writing an interesting haiku, so in that sense, 
                I wonder if it is connected somewhat with him somewhere. 
                In that sense I received a prize crowning his name, I am very pleased this time. 
                Thank you very much everyone for today.

                (03.12.2016 @ indor   shirokanetakanawa )








                皆様よいお年をお迎えくださいませ。2017も俳句新空間をどうぞよろしくお願いいたします。


                おまけ映像
                下記の映像は記事とは関係ありません…
                (※映像をクリックすると音声が出ます…あしからず)







                R.I.P Pierre Barouh

                【短詩時評33は年末企画で裏の雑談の後編】幸福について 安福望×柳本々々

                【かかしの幸福について】

                安福 やぎもとさんはオズの魔法使いのかかしが好きなんですよね。

                柳本 ええ。ドロシーにいちばんはやくあえるのがいいなとおもって。ぜったいにいちばんはやくあえたひとがなかよくなるんですから。

                安福 なるほど。いちばんはやくあえたひとがなかよくなるっていいですね。

                柳本 映画で、ドロシーが別れるときに、かかしに、あなたがいちばん好きだった、っていうんだけど、そんなことよくいうなあとおもって。ライオンとかブリキがいるのに

                安福 えっ、そんなこというんですねライオンとブリキショックですよ

                柳本 でもしらない土地ではじめてともだちになったひとだからまあしかたないよねとおもって。ただそのときに自分はもしかしてブリキのほうにいるんじゃないかなとはちょっと心配になったんだけど

                安福 ブリキのほうに……。

                柳本 ええ………。

                安福 ………。


                【眼鏡の幸福について】

                安福 やぎもとさんは眼鏡歴何年なんですか? 私は0年です。

                柳本 そんなに実はないんですよ。ずっと裸眼の人生だったので。でもだんだん眼鏡って仮面みたいでいいなとおもって。それでさいきんかけてますけどかけるようになるともうずっとかけてますね。だからかけてみてシャア・アズナブルっていうひとのきもちが少しわかったというか。

                安福 ……………。

                柳本 ただよくみえなくてりょうてをばたばたしたり、柱にしがみついてることもあるけど。

                安福 あっ、そうなんですね。ちょっとそっちの可能性も思ってたんですよ。

                柳本 柱にしがみつく可能性をですか?

                安福 いや、仮面の可能性です。

                柳本 フェリーニの映画『81/2』がすきで、あの映画もまあ眼鏡映画なんですよね。あとマルクス兄弟とかウディ・アレンも眼鏡映画かなとおもう。ひとはだれしもマントをつけて前に出たいとかってやっぱあるんじゃないですかね。変装癖というか。ギブスを意味もなくつけてたりだとか。錫杖を握りしめてたりだとか。

                安福 ああ、なんかわかります。眼鏡かけてると、眼鏡のひとになれますね。

                柳本 眼帯をしたいとかいろいろあるとおもうんですよね。羽根帽子とか、鍵フックとか。

                安福 船長のほう行ってますけど、でも会うひと会うひとに、どうしたんですか? ってきかれますよ。

                柳本 そこは照れくさそうにするんでしょうね。

                安福 ………………。


                【生の幸福について】
                安福 やぎもとさん、短詩時評で一時期死についてたくさん書いていたじゃないですか。竹井紫乙さん(http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/09/tanshi27.html?m=0)とか小坂井大輔さん(http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/09/tanshi26.html?m=0)とか。死って希望がありますか?

                柳本 死に希望はないですよ。

                安福 希望ないですか。

                柳本 ないと思いますよ。でも死に近い場所に希望があると思います。ぎりぎり近い場所に。そういう場所にかえって生もたたずんでいるんじゃないでしょうか。

                安福 ぎりぎりちかい場所かあ。

                柳本 こないだふらふらまちを歩いていてそう思ったんです。これちょっとまずいかな、と思いながら。でもそれはそれでいいかなとおもって。

                安福 ふらふら歩いてたんですか。あるいてそうですね。いいとおもいます。

                柳本 いい、って……。でもふらふらオッケーだとはおもったんですよね。そういうときも人生にはあるのかなって。

                安福 ふらふらオッケーかあ。あり、なんだろうか…。


                【眼の幸福について】

                柳本 さいきんヘンリー・ダーガーの画集みながらダーガーってどうしてあっちの世界にいるようにみえるんだろうって考えてたんです。奈良美智さんにはそれはないでしょう。

                安福 たしかにダーガーはとんでますね。人にみせるつもりまったくなかったからかな。

                柳本 奈良さんみてるとでもこっちへの意識ありますよね。

                安福 なんですかね。やっぱり他者の眼を意識するかしないかじゃないですか。目の量かな。

                柳本 あ、そうだ。それですよ。

                安福 目の量? ああ、そうかあ。奈良さんのはじっとみてきますね。目は重要ですね。

                柳本 やすふくさんの眼って●なのにじつはだんだんそれを大きく誇張することでやすふく的内面をもってきちゃってるとおもうんですよね。

                安福 え、持ってきちゃってますか?

                柳本 だからやすふくさんの●についてなにか書くのだとしたらたぶんもうすこしつっこんでかかなきゃならないんですよね。ただの●じゃなくてたぶん成長してる。たぶんそれは●を繰り返し描くうちにじぶんの文法としてとりこんだんだとおもいますよ。なんか●ばっかりになってきたな。

                安福 おおなるほどねもうすこしききたいですけど

                柳本 でも涙がでたじてんで●が変質したんだとおもいますね●も成長するんですよ。

                安福 でもたしかに、奈良さんも眼が大きくなっていってるとおもう。たいてい大きくなっていくんじゃないかな


                【幸福について】

                安福 ちょっと幸福について考えてみると、幸福って、幸福なときはわからないですね。なくなってから、あの時幸福だったって思い出す気がしました。だから死ぬ直前に幸福について語るのが一番良さそうですね。全部終わってからじゃないと幸福わからない気がして。

                柳本 死ぬ直前にすごく安っぽいことを思い出してがーんと思いながらしんでいく場合もあるとおもうんですよね。あたためますかってコンビニできかれてるシーンとか。いやいやこんなシーンいいよ、ってかんじで。いやこの思い出ちがうから、みたいに。もうこうなんていうかお花畑とかで手をつないであははははってお弁当食べてるシーンとかがいいのに。でもコンビニでなにげなくあたためますか、だいじょうぶですみたいに答えてるどうでもいいような風景が死の直前に流れるとか。

                安福 それでふと思ったんですけど、フシギな短詩のミムラさん(http://haiku-new-space03.blogspot.jp/2016/10/blog-post_18.html?m=0)の短歌みたいな別に思い出したくもないこと思い出しそうって思いました。死ぬ直前ってたぶん、目を閉じてそうで。音だけ聞こえて、その音によって思い出すものが違いそうです。そうなると死ぬ場所が重要になりますね。なんかいい音の聞こえるとこがよさそうですね。眠ってるときも眼を閉じてるけど、聞こえてくる音で夢がかわったりしますよね。ふだん視覚って一番重要だけど、夢の中だと音が重要なんですよね。おもしろいですね。

                柳本 あ、ほんとにそうですね。そうか、夢のなかでは聴覚がだいじになるってたしかにそうですね。ひとは耳を閉じられなかったからこそ、そこに幸福も不幸も受けとめざるをえないなにかがあるのかもしれませんね。目だと閉じちゃうからシャットダウンしちゃうから。

                安福 でも、そうかあ、幸福も不幸も耳からやってくるんですね。なるほどです。
                御前田あなたさんがみたくないものをみえないようにする魔法をみにつけたといっていたけれど、耳も聞きたくないものをきこえないようにする魔法がいりますね。ちなみに幸せって辞書ひくと、運。めぐりあわせ。って書いてあって、幸せって運なのかって思いました。

                柳本 えっ、辞書に、幸せとはめぐりあわせだと書いてあったんですか。あ。ああ、そうなのか。そうなんですね。理解しました。
                めぐりあわせってじぶんでシャットダウンできないことじゃないですか。だからしあわせの場所って耳にちかいのかもしれないですね。めぐりあわせっておもしろいなとおもったのが、基本的には意志と無関係なところですよね。もちろん努力とか意志でめぐりあわせをひきよせることはできるんだけど。でも運とか運びって努力ともちがうんですよね。だからこれからは、しあわせってなんですか、ってきかれたら、じきにわかるものですよ、って言おうとおもう。ああちゃんと幸福論の話ができたじゃないですか。よかった。

                安福 しあわせ、辞書でひいてよかったです。あ、ちなみに辞書は学研現代新国語辞典改訂第四版のでひきました。これまだつづきがあって。不幸をあとでひいたら、よくないことや苦しいことがあって、めぐまれないこと。ってなってたんですよ。そうか、じゃあ幸せってめぐまれることかと思って、恵まれるをひいたんです。恵まれるをひくと、運よくよい物事を与えられるってなってました。二番目の意味が幸せである。でした。幸せってひとからもらうんかなと思いましたよ。火と一緒やなあって。いつかもらえるんですよ、きっと。信じてたらもらえるんじゃないですかね。だから、やぎもとさんがいうように、じきにわかるものだし、時機にわかるものですね。幸福は火をたくように時期が来たらとつぜんやってきますよ。

                柳本 ああ、幸福は火なのか……。もうこれ以上わたしがよけいなことをいわないうちに次のパートにうつりましょう。


                【蛸の幸福について】

                安福 やぎもとさんの岩田多佳子さん(http://haiku-new-space03.blogspot.jp/2016/10/blog-post_28.html?m=0)の回のフシギな短詩、納得だったんですよ。わたしをばらばらにし、世界をいきいきさせるって。

                やぎもとさんの文章よんで、ステンレスの木でわたしやたら蛸のことかんがえてたんですけど、なんでかわかりました。やっぱりこの句集のなかの私って蛸だなあって思ってしまいました。蛸とかの軟体動物って、足きってもまた再生するんですよね。

                柳本 ああそうか。精神分析的主体って蛸的なのかなあ。おもしろいですね。

                安福 うん。

                逃亡をはかる親指いっぽん  岩田多佳子 
                両腕を一年干したままの窓  〃

                の句って切り落とされてるのに血が流れてないかんじがしてて不思議だったんですけど、蛸の足で考えたら、切って世界に置いていったとしてもまた再生するからそんなたいしたことじゃないですよね。

                柳本 あ、ほんとだ。そうか。

                安福 あとですね、

                ひだり眼がナミブ砂漠から戻る  岩田多佳子

                の句を読むと、なくした眼が戻ってきたりするんですよね。世界へ眼だけ偵察にいったみたいに感じました。

                一本目の足がノサップ岬にある  岩田多佳子

                この句だと、世界のいろいろなところに私の足跡、痕跡を置いていってる感じがしました。

                母体から離れていこうとしてる腕  岩田多佳子

                も母体が宇宙船のイメージがあって、腕は偵察船として離れていこうとしているみたいって思いました。

                柳本 うーん、なんかすごいですね。納得です。

                安福 あと、「わたしをばらばらにし、世界をいきいきさせる」ってわたしの一部を世界にお供えしているような感じもしました。
                世界にわたしを差し出してるような。わたしを差し出すと世界っていきいきしだすんですね。

                柳本 ああたしかにね、たかこさんの句集読んでいて、そういう感触ありました。世界にわたしを投げ込んでいくというか。ダイヴしていく感覚。うーん、そうかあ。すごい。

                安福 あの、

                だぶだぶの着物で立っている歴史  岩田多佳子

                をもう一度考えると、この着物のだぶだぶって私を世界に差し出しつづけたから、身体が小さくなって昔の着物がだぶだぶになってしまったのかなって思いました。

                柳本 安福さん、解釈師ですね。おもしろい。

                安福 「ステンレスの木」というタイトルの句集だけど、柔らかいものがたくさんでてくるの不思議ですね。「ステンレスの木」っていうのはふにゃふにゃな私の理想の私なんですかね。この句集の中の私ってステンレスみたいな硬質でまっすぐな私になりたいんでしょうね。

                柳本 ああ、そうなのか。ってこんかい、納得して相づちしか打てなかったので次のパートでがんばります。


                【俳句の幸福について】

                安福 俳句の話で、野間幸恵さんの『WATER WAX』を昨日寝る前に読んでたんですよ。俳句って、世界を剪定してるようなきがしました俳句は世界を調理してるというか

                柳本 「なる」の文学ではないですよね、俳句は。川柳は「なる」の文学な気がするなあ。変身ものというか。だから川柳なら、古池をみたらカエルといっしょに飛び込んでいくとおもうんですよね、俺も俺もって。
                そういうふうに「なっ」ていくというか

                安福 「なる」かあ、

                もう二度と馬は霧で出来ている  野間幸恵

                をよんで、「もう二度と」と「馬は霧で出来ている」の間になんかめっちゃいろいろあったんじゃないのって思っちゃいました

                柳本 その解釈おもしろいですね(笑)

                安福 「もう二度と」と「馬は霧で出来ている」の間ごっそり抜けてるっておもったんですよ

                つまづいて360度が旅人  野間幸恵

                でワープ感じたんですよ。つまづいて ワープして 360度が旅人にって感じが

                柳本 おもしろいなあ。この句集はたしかにアクロバティックなんですよね。で、なんでかっていうと、たぶん、言葉が水になっちゃってるからだとおもう。それが醍醐味というか。文法も液体化しちゃってるとういか。言葉や意味や文法の水漏れがおこってる。

                安福 あ、さいごの

                この世でもあの世でもなく耳の水  野間幸恵

                がなんかすごくしっくりしました。耳に水はいったら、傾けないと水でてこないじゃないですか、耳から。その身体を傾ける感じが、なんかこの世でもあの世でもないかんじと合ってるなって。傾くってどっちでもないかんじがして。そうそう、横書きなのも水って横にひろがるから、横書きなのかなって

                柳本 ああ、そうかも。たしかにプールみたいなかんじしますね。だから野間さんの俳句をよむと、俳句ってそもそもなんなんだってかんがえはじめますよね。それも思考が水化していくというか、俳句そのものが決壊するんですよね、ダムみたいに。それもおもしろい。水ももししゃべることができたらこういうんじゃないかな。「ぎゃくに、おもしろい」って。

                安福 …………。


                【雑談の幸福について】

                安福 これいま話してることも記事になっていくんですか。

                柳本 なっていきますね。この「なっていきますね」もいまなっていってますね。

                安福 こういうのってでもあれですね、自分の意外性ってじぶんじゃわかんないですね。

                柳本 そうかもしんないですね。

                安福 ひとにいわれないとじぶんのことわからないです。

                柳本 相手が、あっそんなこというんだ、にいつも活路があるきがしますね。それはひいては、自分はそんなことかんがえてたのか、につながっていくきがする。

                安福 あ、それいいことばですね。ではその言葉で今年をおわりにしましょう。

                柳本 あ、そうですね。じゃあ、そ

                安福 それでは、よいお年を。


                (画:安福望)





                《附録:人生のテーマ曲10選》

                【安福望の10曲】

                1、映画『マグノリア』Save Me
                2、映画『マグノリア』Wise Up
                3、映画『LIFE!』space oddity
                4、映画『喜劇とんかつ一代』とんかつの唄
                5、小泉今日子「My Sweet Home」
                6、ネクラポップ「人間の屑」
                7、クレイジーケンバンド「コロ」
                8、SPARTA LOCALS「POGO」
                9、ZONE THE DARKNESS 「奮エテ眠レ」
                10、あがた森魚「佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど」


                【柳本々々の10曲】

                1、カヒミ・カリィ「Cat from the Future」
                2、東京ナンバーワンソウルセット「夜明け前」
                3、ボブ・ディラン「stuck inside of mobile with the memphis blues again」
                4、椎名林檎「月に負け犬」
                5、明和電機「明和電機社歌」
                6、三上寛「小便だらけの湖」
                7、ゲーム『ファイナルファンタジー1』の「カオス神殿のテーマ」(植松伸夫)
                8、スピッツ「トンガリ'95」
                9、映画『八つ墓村』の「道行のテーマ」(芥川也寸志)
                10、矢野顕子「すばらしい日々」(奥田民生)

                【抜粋】<「俳句四季」29年1月号>俳壇観測連載168/面白い俳句とは何か―――楠本憲吉と鈴木明  /筑紫磐井



                一般読者のための句集

                私は、多くの句集を読んで批評している。しかし、時折、プロフェッショナルな立場を作りだしてしまっているのではないかと反省している。私の周囲にいる人たちもそうなのであるが、余りそれを何も疑問にしないできた。しかし、限られた人が作り、それと同質の人が読み、それを批評していることで果たして文学としての俳句が進歩するのだろうか。

                そこに一般読者は介在していない。これは第二芸術論でも指摘されたことだ。第二芸術論で指摘された俳句が芸術であるかどうかはボブディランがノーベル文学賞を受賞する時代にあっては余り問題ではなくなったが、読者がいないことは解決していない。
                一般読者の中に、特定の俳句に共感することがないとはいわない。それが俳句をきっかけになる人もいる。しかし一般読者の存在はこれと別である。

                一般読者を対象とした句集とは句集を読んでしまってから感心するのではなく、句集を読もうとさせる句集でなければならないはずだ。そして、一般読者に読ませるためには面白い俳句でなければならない。これはおかしい俳句とは違う、どんな悲しくても、涙を流しても面白い俳句がある。面白いとは、感興があるということだ。

                現在読む句集は、予めこの作者がまとめた句集ならという予断で読むことが多い。これは一般読者が面白い句集ではない。面白い句集とは一般読者が読みたくなる句集なのだ。
                また、我々は俳句がうまいとはいうが、うまい句集も一般読者が面白い句集ではない。多分、客観写生や花鳥諷詠は、一般読者にとってうまくても面白い句集ではないだろう。虚子は面白いことをいっていた。「面白くない俳句を作る、その作句態度を是非必要とします。面白くない俳句態度を我慢して、ここから出発すれば上達することが出来るのであります」。虚子の言葉に従う限り、一般読者にとって面白い句集ではないだろう。虚子の言葉は一般読者に悔い改めろといっているのだが、気まぐれな一般読者は虚子のいうことなど聞かないから、一般読者はますます句集から離れてゆくだろう。

                一般読者を対象としないという信念を持った句集があってもいいが、時に立ち止まって一般読者が面白い句集とは何かを考えてみることも必要ではなかろうか。


                面白い句集

                客観写生や花鳥諷詠が面白くない理由は俳句の記述内容や表現ばかりに作者が夢中となり、それらが結合する情緒に無関心であることによるものだと思う。情緒がなければ一般読者は面白いとは思わない。

                私がこうした点で間違いなく面白いと思うのは楠本憲吉である。すっかり俳句史では忘れられた感のある憲吉だが、一時は俳壇の寵児であった。虚子の評価も低くはなかった、ましてジャーナリズムはこぞって憲吉を取り上げた時代があった。その理由は、憲吉俳句の面白さにあったと思う。しかし、料亭灘萬の御曹司で才走った話術と文才、俳句ジャーナリズムではない一般ジャーナリズムでの知名度の高さ、現俳協からも俳人協会からも離脱したこと、これらすべてが俳人にとっては不利に働いたようだ。


                汝が胸の谷間の汗や巴里祭 
                背後より薔薇の一撃喜劇果つ 
                オルゴールに亡母の秘密の子か僕は 
                天にオリオン地には我等の足音のみ 
                枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば 
                ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し 
                アイリスや妻の悲しみ国を問わず 
                チューリップ女王へ葉みな捧げ銃 
                死んでたまるか山茶花白赤と地に 
                天に狙撃手地に爆撃手僕標的

                素材は様々であった。専門俳人から見ると軽薄で卑俗という批判はあるが(俳句は元々卑俗を根本原理として生まれたのだからそれで悪いわけはない)、その時代の情緒を対象と結びつける卓抜な能力を憲吉は持っていた。俳句はどんなに高邁で文学的・哲学的になってもいいが、第一歩はここから始まらなければならない。

                私は座右の筆頭に『楠本憲吉全句集』をおいている。仕事で腐ったときだけではなく、俳句で憤懣やるかたないときや、才能が涸れかけたときに読むのである。草田男句集や龍太句集とは全然別種のリラックスが身をつつんでくれるのである。


                (以下略)


                ※詳しくは「俳句四季」平成29年1月号をお読み下さい。


                <抜粋「俳句通信WEP」95号>  新しい詩学のはじまり(6)――社会性俳句の形成①/伝統俳句の開始 筑紫磐井



                伝統俳句ブーム

                 戦後俳句史において兜太と双璧として語られるのは、飯田龍太や森澄雄であろう。兜太が「前衛」であれば、龍太や澄雄は「伝統」の代表となる。しかしそれだけでは、兜太対龍太とは、「前衛」対「伝統」の代名詞で終わってしまう。もちろん、単純で図式的な戦後俳句史が読み説かれても悪くはないが、俳句に深みを与えるのは新しい歴史の見方だ。そしてもうすこし新しい戦後俳句史を作ろうとするなら、新しい切り口を幾つか考えて、試行錯誤してみることが必要だ。

                 もう一つは、兜太は造型俳句論により新しい詩学を考察した。これは現在に至るまで大きな功績として俳句史に残っている。しかし、兜太と対峙しようとした俳句理論が――特に伝統俳句に影響を及ぼした俳句理論が――いったい何であったのかはよく分からない。

                兜太と当時最も激しく対立したのは中村草田男であるが、草田男の主張が根本のところで兜太と全く異種・対立したかと言えば、そんなことはない。草田男と兜太はあるところまで同根であり、俳句を見るまなざしは同じである。対立したのは世代対立にすぎなかった。その証拠に、現在俳句の主流を占めていると言われる伝統俳句において、草田男の影響は極めて薄い。草田男があったために、現在の伝統俳句が守られたなどと言うことは全くないのである。

                 これに対して、龍太や澄雄はよほど現代の伝統の源流と言うことができる(この際高浜虚子はしばらくおいておく)。しかし、龍太や澄雄には独白的な感想は多いものの、兜太と対比できる俳句理論は生み出していない。そうしたものがなくても伝統は復活できたという考え方もあるかもしれないが、やはり詩としての主張のないジャンルは衰退するしかないであろう。

                 私は以前から、兜太に対峙するのは、実作において龍太や澄雄であったものの、理論的な対立は草間時彦や能村登四郎であったろうと主張している。拙著『伝統の探求』において述べたことと重複するがここに述べてみよう。龍太や澄雄の実作を、時彦や登四郎が理論的に裏打ちすることによって、伝統の起死回生は図られたのであろうと思っている。もちろん、理論と実践が軌を一つにしているわけではない。問題は、理論も実践も、同一の危機意識を持って進んでいたということなのである。

                 前衛俳句ブームから十年ほどたった一九七〇年前後(つまり俳人協会の法人化と前後して)、突然、俳句にとって伝統は必須のものだという論調の論文が出始める。一九七〇年に草間時彦が書いた評論「伝統の黄昏」(「俳句」昭和四十五年四月)がその一つである。さらにその直後、能村登四郎が書いた「伝統の流れの端に立って」(同昭和四十五年十二月)が出てきて、この二本の評論によって、伝統が肯定的評価を受ける潮流が生まれる。当時の商業誌(特に「俳句研究」)は、一九七〇年から五年ほどの間に「俳句の伝統」(昭和46年5月「俳句研究」)「俳句の伝統と現代」(昭和46年8月「俳句研究」)「伝統俳句の系譜」(昭和47年7月「俳句研究」)「俳句伝統の終末」(昭和50年4月「俳句研究」)などの特集を毎年のように組んでいる。一方の角川書店「俳句」は伝統に関するさらに根源的な文化に関する座談会などが行われていた。
                      *
                評論と併せて作品にも顕著な傾向が見られた。新興俳句出版社の牧羊社は(恐らく戦後俳句史上初めての戦後派作家の画期的なシリーズ)「現代俳句十五人集」を刊行しはじめ話題となった(昭和四十三年)。これらと併行するように角川書店の「俳句」では、毎号一作家ごとの大特集シリーズ「現代の作家シリーズ」(昭和四十三年)「現代の風狂シリーズ」(昭和四十六年)をはじめる。ほとんど俳句部門の受賞者のいなかった読売文学賞【注】も昭和四十三年以後、飯田龍太、野沢節子、森澄雄と受賞が続く(いずれも牧羊社「現代俳句十五人集」の句集が対象となった)。さらに角川書店は大企画「現代俳句大系」十二巻を上梓する(昭和四十七年~四十八年)が、そこからは有季定型以外の俳句は除外されていた。これらを総覧すればわかるように金子兜太を除けば、登場した俳句作家の大半は伝統俳句作家であったのである。意図的であると否とを問わず、前衛俳句ブームの後、十年たってから伝統俳句ブームというものが発生してきた訳である。そうした中で、ひとり、兜太のみが孤軍奮闘しているように、当時俳句を始めたばかりの私には見えたのである。
                【注】それまで短歌部門受賞者がが八人もいたのに対し、俳句部門はわずか三人だった。読売文学賞では短歌と俳句では顕著な差別があったのである。


                (以下略)



                ※詳しくは「俳句通信WEP」95号をお読み下さい。

                2016年12月9日金曜日

                第56号

                ●更新スケジュール(12月9日・23日

                第4回攝津幸彦記念賞 募集‼
                》詳細


                豈59号  第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録
                各賞発表プレスリリース

                販売価格  1,080円(税込)  豈59号のご購入は邑書林まで


                平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
                》読む

                (12/16) 合併夏・秋興帖 第十五 …大井恒行・筑紫磐井・北川美美

                (12/9更新)第十四関悦史・竹岡一郎・仲田陽子
                (12/2更新)第十三 椿屋実梛・田中葉月・加藤知子・小沢麻結
                (11/25更新) 第十二  中西夕紀・陽 美保子・渕上信子・水岩 瞳
                (11/18更新)第十一  松下カロ・もてきまり・内村恭子・坂間恒子
                (11/11更新) 第十…下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子 
                (11/4更新) 第九 堀本 吟
                (10/28更新)第八 ふけとしこ・山本敏倖・林雅樹・望月士郎
                (10/21更新) 第七 岡田一実・中村猛虎・佐藤りえ・前北かおる
                (10/14更新) 第六 飯田冬眞・仲 寒蟬・渡辺美保・早瀬恵子
                (10/7更新) 第五下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
                (9/30更新) 第四木村オサム・青木百舌鳥・関根誠子・小野裕三
                (9/23更新) 第三石童庵・仙田洋子・小林かんな・神谷波
                (9/16更新)第二杉山久子・浅沼璞・田代夏緒・曾根毅
                (9/9更新) 第一網野月を・小林苑を・池田澄子・夏木久

                【抜粋】 

                座談会からの発言記録>
                「Es」第29号<光の繭>「特集・ジャンルを超えて」

                震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(3)…筑紫磐井  》読む

                震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(2) …筑紫磐井  》読む

                震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(1) …筑紫磐井  》読む






                <「俳句四季」>


                <「俳句四季」12月号>俳壇観測連載167
                ノーベル文学賞が俳句に考えさせること――浅沼璞と山本敏倖の思索   …筑紫磐井  》読む

                • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる









                  <抜粋「WEP俳句通信」>








                  およそ日刊俳句空間  》読む
                    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
                    • 12月の執筆者 (柳本々々 ) 

                      俳句空間」を読む  》読む   
                      ・・・(主な執筆者) 小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
                       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 


                      【鑑賞・時評・エッセイ】


                      【短詩時評32は年末企画で裏の雑談の前編】
                      価値について  
                      …安福望×柳本々々  》読む

                      ■ 中庸という強かさ (びーぐる33号より転載) 
                      …竹岡一郎  》読む  






                        【アーカイブコーナー】
                        • 西村麒麟第一句集『鶉』を読む  》読む



                            あとがき   》読む


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                            冊子「俳句新空間」第6号 2016.09 発行‼


                            俳誌要覧2016「豈」




                            特集:「金子兜太という表現者」
                            執筆:安西篤、池田澄子、岸本直毅、田中亜美、筑紫磐井
                            、対馬康子、冨田拓也、西池冬扇、坊城俊樹、柳生正名、
                            連載:三橋敏雄 「眞神」考 北川美美


                            特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                            執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士
                              


                            特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                            執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                            筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                            <辞の詩学と詞の詩学>

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                            びーぐる33号  中庸という強かさ / 竹岡一郎



                            加藤静夫の第二句集「中略」(平成二十八年五月、ふらんす堂)を読む。あとがきには句集名の理由が記されている。「何事も中庸を旨とする性格のせいか、第一句集『中肉中背』同様、「中」の字の付く言葉に惹かれたのかもしれない。」彼は「鷹」という伝統結社に属していながら、その極めて特異な句風は結社の枠を悠々と超えている感がある。彼の第一句集に、忘れられない句がある。

                            乗り換へて乗り換へて太宰忌のふたり
                            どこまでも電車を乗り換え、ひたすら遠くへ行こうとする二人は「太宰忌」という季語によって、駆け落ちの二人であり、果ては心中の危険性を孕んでいると読める。同じ太宰治の忌でも「桜桃忌」なら甘くなる。「太宰忌」という、桜桃忌に比べれば遥かに生な言葉によって、乗り換える度にうらぶれてゆく街並や、駆け落ちする二人の煤けた表情などが浮かび上がる。「乗り換えて」のリフレインによって、螺旋を描きながら落ちてゆく二人の人生までもが見えるような気がする。この句を読んだとき、久保田万太郎を思った。

                            今回の句集は、以前篇、以後篇に分かれていて、あとがきを読むと、大震災以前、以後という区分だとわかる。「以前・以後とはいえ〈流されてゆくくちなはもいもうとも〉のように津波を想起させながら、実は震災以前の作という句もある。」と、あとがきにあるが、この「くちなは」の句に、特に震災も津波も思わなかった。むしろこの句は蛇という地祇に属するものと妹という地祇の力を宿すものが共に流されてゆく、哀惜を漂わせる句として読める。ただこの場合、蛇と妹を流す主体も地祇的な力なのだ。以前篇の中で、震災を予期させる句と言えば、

                            潮の香のまがまがしくも昼寝覚
                            昼寝という一旦死ぬ行為により、あの世の領域に入った作者が、津波の未来を垣間見る。その禍々しさが、此の世に帰る時、鼻孔に残ったのだろう。海の近くで昼寝しているのだろうから、潮の香は現実だが、その現実と重なって、未来の禍々しさが香るのだ。

                            亜米利加の傘下にありぬ猫の子も 
                            蛇衣を脱ぐ痛くない放射能 
                            梅雨菌多数決にて国滅ぶ 
                            原発の最期看取るは雪女

                            これらの句の、皮肉でありながらも何処かのんびりした観は、作者があくまでも個人として時流に接しているからだろう。国を背負う訳でも、正義を振りかざす訳でもない。どこの陣営に属しているのでもない、市井の一個人としての中庸なる感慨だ。(いわゆる正義に対して絶望している者は、このような感慨を好ましいと思うだろうし、未だ正義を信ずる向きは物足りないと思うかもしれぬ。そこは好みの問題に過ぎない。)だからこそ逆に個人としての密やかな慎ましい感慨は、国を詠ったものよりも却って心に響く。

                            米はまだある鶏頭は咲いてゐる
                             
                            今日のぶん明日のぶんの目刺かな 
                            春キャベツざくざくからうじて中流 
                            生姜湯や下着かなしき駱駝色
                            こういう感慨はひどく愛おしいものに思える。これらは人間の基本であり、この辺りを如何にクリアするかのみに大勢の一生は過ぎる。そして、それだけで良い、と作者は思っているだろうし、確かにその通りだ。(その先は、人間を超え運命を無くそうとする意志によってしか進み得ない。)掲句のような立脚点から国を詠い時代を詠うなら、先に挙げた「亜米利加」以下四句の句群のように中庸なるものとならざるを得ない。だが、その中庸さは密かな強かさを含んでいるだろう。

                            寒くて寒くてこころだんだん立方体 
                            幸せか蒲団から足が出てゐる
                            この二句など見事なものだと思う。飢え、そして寒さほど心身にこたえるものは無い。一句目は「立方体」という語により、心のみならず体の悴みと硬さをも見せている。二句目はその反対で「蒲団」という冬の季語から足が出ている余裕を「幸せか」と投げかけることにより、実は人間の幸せとはそのようなものだと看破している。つまり、幸せとは単に「不幸でない」というだけの状態だ。

                            冬たんぽぽ本気になればすごい我
                            冬たんぽぽは作者の謙遜した自画像であろう。「俺はまだ本気出してないだけ」という漫画があった。「私、脱ぐとすごいんです」というコマーシャルもあった。そんな懐かしい流行語を踏まえて、しかし冬たんぽぽという事象自体が既に凄いと言えば凄いのだ。本来春に咲くはずのたんぽぽが冬に咲いている。それはたんぽぽの気合だ。根は地上からでは想像できないほど深く真っ直ぐに伸びている。その根の深さがあってこその、冬に咲く気合である。そこは鷹という伝統結社で何十年か特異な句風を保ち続けた自負でもあろう。冬のたんぽぽであるから地味であるが、既にずっと本気は出している。

                            アスパラガス茹でるやさしさにも限界 
                            すでに女は裸になつてゐた「つづく」 
                            暖炉燃ゆ女に言はせれば空論 
                            ポインセチア(中略)泣いてゐる女 
                            繭玉や肌合はせればわかること 
                            下闇の女には触角がある 
                            女の手冷たし何を食はせても

                            性愛を喧伝的に詠うのは、簡単だ。感情を露骨に詠うだけで良い。性器の名称の一つでも出せば一層たやすい。作者は決してそれをしない。性愛を行為ではなく、生き方が如実に出る瞬間と捉えているからだろう。一句目は「茹でる」という行為が恋愛関係を暗示し、アスパラガスは作者自身の暗喩でもある。わがままな女の可愛さが目に見えるようだ。「限界」とは反語で、無限に優しくなれる筈の作者である。二句目は風俗小説のようでありながら、「つづく」に男の側の或る逡巡が見て取れる。「つづく」として逃げてしまいたい気持である。三句目は男の永遠の幼児性(「空論」から推量するなら、正義にまつわる意見だろう)を女が看破しているのだが、同時に女は男にとっての暖炉でもある。四句目は句集の題になっている集中の白眉であり、この(中略)に、市井のありとあらゆる恋物語が入れられる。市井の、と限定されるのは季語ゆえだ。イベントとしてのクリスマスを想起させるポインセチアに、掃いて捨てる程どこにでもあるような、しかし当人たちにとってはかけがえのない恋愛が見て取れる。たとえイベントに過ぎずとも、折角のクリスマスに泣く女は、傍から見ても、もう可哀想でどうしようもない。五句目は繭玉に、胎児の形で眠るような女の姿態が、或いは同衾の閉じた様が浮かび、千の言葉より分り合える性愛の交感が示される。六句目、木下闇という昼の樹下が作る闇は、いわば白昼の異界であり、そこに立つ女の触角は作者のような(恐らくフェミニストの)男を探り当てる為のものか。或いは「触角」という語に、女性特有の皮膚感覚(三句目で男の空論を見抜くような感覚)を表現しているか。七句目は女の一見そっけない様が示される。だが、昔から言われることに「手の冷たい人は心が温かい」。それが嘘か真かは知らぬが、真であると信じたくて、色々食わせてみる。これは単に食べ物を食わせるというだけではなく、女の喜びそうな事を色々としてみる意もあろう。

                            泉に掌(て)そして手首や事実婚 
                            どうしても泉から手が抜けぬなり
                            下五の「事実婚」が絶妙で、俗すれすれで詩情を醸しているのは「事実婚」という、まず詩には用いられない語であったりもする。「ロードーモンダイ(労働問題)って詩的な響きだね」と西脇順三郎は言った。この二句は同頁にあって、作者を捉えて止まぬ泉としての女を韜晦的に称えている。二句目だけ読んでも、泉の神は大抵女性であることを思うなら、清らかなそして尽きせぬ神話性とでもいうべき女人性は伝わってくる。

                            一切の責任は香水にある
                            この句など巧みさが見えすぎるきらいはあるのだが、香水の本意をこれほどあからさまに示した句も思い浮かばない。何故なら、香水とは惑わしの道具でもあり、いわば俗の極みだからだ。この句の強さは言い切るようなリズムにある。

                            ゆふざくら六時前とはいい時間
                            夕桜がいかにも美しい。中庸なる勤め人の一日の仕事を、桜はさりげなく荘厳している。勤めたことのある者なら、定時少し過ぎたあたりで帰れる喜びはわかるだろう。今日も一日頑張ったという疲れと、さてこれからは自由な時間という喜びがある。尤も、これはある一定の年齢以上の感慨であり、働けば働いただけの報酬があった良き時代の風景だろう。鷹主宰・小川軽舟は、「鷹」平成二十三年七月号の「秀句の風景」にこう評している。

                            「これは職を退いた元サラリーマンの感慨だろう。勤めていればちょうど会社の退け時だが、仕事の疲れも出る。若い時分ならいざしらず、さあ夜を楽しもうという気にはならぬ。

                            別に何をする訳でもない。そろそろ風呂に入って飯でも食うかという時間。春宵一刻値千金などと気負うこともない。「いい時間」という口語がなじむ一句だ。」

                            小川軽舟は作者の現在から元サラリーマンと解釈しているが、現職の勤め人と解釈しても充分鑑賞できる。日本のサラリーマンのささやかな理想に、日本の花である桜が寄り添っているのだ。そしてサラリーマンという中庸を過ごしてきた作者が目を向けるのは、同じ穏やかな境遇の者だけではない。

                            半玉の手を逃れ来し子猫かな 
                            スワヒリ語らし風邪薬欲しいらし 
                            あしたから店に出る子や半仙戯 
                            葱の香の強き温泉芸者かな
                            一句目、子猫はあっという間に成猫となり、半玉はやがて酸いも辛いも噛み分けて、一人前の芸妓となるだろう。ならば、「子猫」は半玉のあどけなさを象徴するか。子猫の逃れる様は半玉からあどけなさが失われてゆく様につながろう。二句目、スワヒリ語はアフリカ東岸部で広く使われる言葉だから、黒人が冬の日本の薬局に居るのだ。冬の無い国からやって来た黒人が、言葉のわからない日本で寒さに襲われて風邪を引いている。気の毒だ、と作者は思っているが、双方とも言葉が分らないので、手を差し伸べるのも中々難しいところだ。それでも相手の身振り手振りから風邪薬が欲しいらしいとまではわかる。三句目は今らしくない気もする。明日から店に出る子の年齢は、半仙戯(ブランコ)から察しが付く。奉公に出るのだろうか。だとすれば、これは作者の記憶の中の子、戦後、昭和二十年代から三十年代の情景ではあるまいか。四句目の温泉芸者も同様の懐古的な印象を受ける。今挙げた境遇の者達に作者の目が向けられる様、それは正義をかざすのでも同情しすぎるのでもなく、高みから冷たく観察するのでもない。同一の地平に、少し離れたところで、只哀しみの目で以って見ている。その目の原点は次の句に示されていよう。

                            セーターの袖てかてかす昭和とは
                            昭和の戦後の子供とは、まさにこんな風であった。少なくとも、下町の子はこうだった。「三丁目の夕日」にクローズアップされるような良い事づくめの時代ではなかった。普通に差別があり、暴力があり、町は汚かった。混沌が混沌のまま何の疑問もなく受け入れられ、先延ばしにされた。(その代償は、作者が〈鉄筋の劣化ひそかや寒月下〉と集中で詠った如し。)当時は一寸お洒落な物だったセーターの袖が、絶えず拭われる鼻水でテカテカしていた時代。その時代を多くの者が懐かしむのは、高度成長期で希望にあふれていたからでも共同体の連帯が強かったからでもないと思う。希望だの連帯だのは後から文化人がくっつけた見栄えの良い理由であり、本当は戦後の復興の傍らで、庶民の間では混沌が混沌のまま、誰にも裁かれず安んじていたからではないか。ここに作者の中庸の原点があるなら、その中庸は実に強かなものだ。

                            一重瞼だからこんなに暑いのか
                            一寸説明しがたい諧謔である。妙に納得も出来る。季語は自分である、とは小川軽舟の言だが、その言を以って言い換えるなら、一重瞼だからこんなに自分なのかともいえるし、また時候という個人とは無関係なものを、作者から生ずるものとみなす荒業でもある。

                            先祖代々地球に棲んで時々風邪 
                            父はいま海市の路上生活者 
                            土砂に突き刺す藜の杖やそれが墓 
                            死にたいと云うて南京豆ぽりぽり
                            一句目では、国や民族を超えた視点が簡潔に展開される。その苦難は時々風邪を引くくらいのものだという開き直りが地味であると同時に豪壮だ。二句目、父は亡霊なのか。道端で暮らしていても大して困っている様子ではない。それは父のいる処が海市であるからで、旋回する火の輪の如くこの世は幻であるが、今や全くの幻に、恐らくは幻と認識しつつ安住している父は作者以上に強かであろう。三句目は一般的には犬猫や鳥の墓だろうが、一概にそうとも言えないのはアカザの杖が足腰を守ると言われて老人に愛好されるからだ。(実利としては、ひどく軽くてしかも丈夫なので愛好される。)このアカザの杖を突き刺すことにより、その杖の主の姿を思い浮かべてしまう。ドシャ、と乱暴な突き放したリズムからは老人の性格や動作が浮かび上がる。頑強で因業な老人である。そうなると、下五の置き方はかなり衝撃的だ。まるで身寄り無く行き倒れた老人が埋まり、その遺品である杖がそのまま墓とされたようにも読める。このような乱暴な生と死の「健康さ」(健康、という言葉を思わず使いたくなるほどの強かさ)は、中上健次の書く小説の人物に通じるところがある。四句目の「健康さ」は一目瞭然である。南京豆を矢継ぎ早に食っているから決して自殺しないというわけでもないが、そういう者は意外にあっさりと、南京豆でもつまむように死ぬかもしれぬ。南京豆を食べるのは女であろう。男では絵にならない。呑気に「死にたい」と言う、食欲旺盛な女を半ば呆れ、半ば不安を抱きつつ愛おしく見ている。「ぽりぽり」というリズムは、女の在り方を示すと同時に、作者の包容性をも表している。男にとって、中庸とは、まずフェミニストたる事の謂か。フィリップ・マーロウの名言を持ち出すまでも無く、男は女を守ろうとするとき、一番強かなのだ。

                            誰もみなはじめは風邪と思ふらし 
                            狼に少し遅れて人滅ぶ 
                            ゆたんぽの栓の抜けたる事象かな
                            さて、その強かな眼が見た人類滅亡は掲句のごとし。一句目は戦前なら結核であろうし、一昔前ならエイズだろう。今の日本なら放射能汚染の可能性も出て来た。未来において、致死性のウィルスが人類を滅亡させる様は映画でも小説でも語り尽されてきた。掲句は、その導入部を立ち上げている。実際、そんな風な些細な予兆の裡に、死はあっけなく現れる。蔓延してしまえば、地球規模で見て、日本狼の滅亡も人類の滅亡も大した時間差ではない。三句目は、滅亡とは何の関係もないのだ。にも拘らず、ここに並べたのは、仮にこの三句を続けて読んだ場合、滅亡も、湯たんぽの栓が(恐らくは寝床で)抜けた事象(事象とはまた大げさでもあり冷静でもある)も、大変さにおいて大して変わらないのではないか、と、うそぶくような作者の強かな開き直りが垣間見えるからだ。多分、生き残るのは作者のような人間で、即ち、「中庸」と称される強さを背骨に持つ者だろう。そんな作者の傑作を挙げるなら、

                            水着なんだか下着なんだか平和なんだか

                            水着と下着の違いは何だろう。撥水性とか速乾性とか、素材の違いはあるだろうが、男にはわからない。それが秘めやかなベッドであれば下着であり、衆人環境のプールであれば水着なんだろうと思うばかりだ。では、「平和なんだか」の後に続くものは何だろう。下着だと思っていたものが実は水着だったりする如く、平和だと思っていたものが本当は違うものだったりする。それは何なのか、人の頭の数以上に解答はあろう。その無限に枝分かれする正解を、どれも正解または誤謬と見極めるために俳句の短さがあるのなら、掲句は混沌に立つ俳句の中庸を顕現していると言えまいか。






                            【部分転載】座談会 「震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(3) 筑紫磐井



                            【欠落しているもの――ディスコミュニケーションの可能性】

                            筑紫:
                            ・・・ちょっと一つコミュニケーションの話で例を挙げたいんですけれども、東大の福島智(さとし)さんてご存知ですか。失明して耳も聞こえないという二重苦の方で東大教授。

                            司会:いらっしゃいましたね。

                            筑紫:そういう不自由者の社会について教えられているんですが、最初目が見えなくて、それから耳が聞こえなくなったということなんで、歳取ってから次々手段が奪われていくものですから、コミュニケーションがなくなってしまうとどうなのかというということを講演を依頼して伺ったことがあります。人との会話が成り立たないことというのは、非常に大きなハンディキャップであるけれど、じゃ、そういう中で今の世の中、一見コミュニケーションが溢れているように見えるけど、コミュニケーションって一体何なんですか、とちょっと禅問答みたいですが伺ってみたんです。するとしばらくして言われたんですけど。コミュニケーションとしてラジオを例に取ると、二台のラジオのスイッチ入れて向かい合わせて喋らせておく、これはコミュニケーションじゃないと思います、といわれるのです。

                             コミュニケーションの本質は聞くことですから。発信がなくたって聞く姿勢があって受け止めればコミュニケーションのきっかけみたいなのはできるけど、喋りまくっている人同士は、あれはコミュニケーションは成り立っていないと言われるんです。多分そこら中で現在いろいろな情報が出ているものも、発信はしているけど受け取ろうとしてないのならば、発信はあるけれどコミュニケ―ションは存在していないことになります。その時以来できるだけわたしは寡黙になるようにこころがけています(笑)。

                            筑紫:ただ、一方的に望んで声が聞こえるのを待つ、それもコミュニケーションかもしれない、神の声を待ち望むようにね。ラジオから声が出るか出ないかを一時間に渡って待ち続ける(例えば終戦の玉音放送を)という、そこにも一種のコミュニケーションの本質があると思うんです。だから何も言われなくたって、それで満足する人もいるかもしれないというね。あとは欠落の問題ですけれど、何て言うのかな、俳句は欠落がないことが欠落かなという気もします。欠落のないままにもう永遠に俳句は続いちゃうかもしれない。そこはまさに欠落がないことが大きな問題。

                            ただ、念のために言うとその代表者が高浜虚子で、虚子が言うんですね。俳人は季題以外にできるだけ関心は持たない。牡丹といったら牡丹を頭に思い浮かべて、牡丹の俳句を作ればよい。もちろんそういう中に少し社会関心があってもよろしいという、牡丹季題の体系を乱さないように作りなさいという指導をやっていて、今の俳人の八割方は多分、そっちのほうと思うんですが。虚子のやり方が正しいとは思えないですけれど、無批判で俳句を作っていくやり方の中に何か今回の震災の反省点が滲み出ていく可能性が、それこそ震災を詠むと言わない震災の詠み方みたいなものが、少しずつあちこちには出ているような気はしますね。短歌・詩の方にすると歯痒いでしょうけれど、もう俳句に許されるというのは、きっとそういうところなんじゃないかなと。


                            司会:最初に筑紫さんが言われたように、できたものに対してどう読むかということの重要性ですよね。)

                            加藤:筑紫さんが八割方とおっしゃる、ぼくはその残り二割に期待をかけたいと思うんですけれど。・・・)


                            筑紫:期待はしたいけど、ちょっとそういうふうに残るかどうかわかりません。たぶん、特に俳句特有のそういう定型の叙し方の中で、今おっしゃられたような意味を辿るような、なぞる行動によって成功しているかどうか。

                            わたしはちょっと違う意味でヒントになるのかなと思うのは、金子兜太のお弟子さんで亡くなられた阿部完市という人がおりまして。非常にユニークな作家・評論家で、いろんなことを言っているんです。

                            その一つに俳句の本質を詰めていく場合に、「意味」であってはならない、「意識」だというのです。

                            窪田空穂の「気分」に近いかも知れない。


                            要するに、多分今のも五十嵐さんの句は意味の領域なんですけど、それを意識のところまで持っていけば、まさに名句に行くだろうというのは、阿部完市の方法論でした。ただ、それは阿部完市の場合は成功しているんですけどそれほど簡単に万人に向くかは難しいです。

                            でも、俳人はそれぞれ独自のそういう手法を開発しないといけない。正直言って、虚子以降の俳句で十本の指に入る名句というのは、ほとんど意味がない俳句ですね。

                            箒木に影といふものありにけり」とかね、これも極めつけの名句なんだけれど説明するのは難しい。意味じゃない。何か俳句独特のそういう技法を個人個人が開発していって、そういう震災俳句だったら震災俳句、戦争俳句だったら戦争の俳句を詠む。

                            阿部完市が生きていたら、たぶん震災俳句もそういうやり方で詠んでいたと思います。露骨に意味は辿り切れない。残されたのはそういう方法かなと、わたしは思っていますけれど。


                            【意味と意識  今後への視点】

                            筑紫:わたしが思うには、十七文字の中で季語と切れ字を入れて、さらに意味と意識を入れてというとそんなに盛りだくさんの中ではたしてどうやればいいのかわからないという気がしているんですよね。

                            だから何かを犠牲にする。季語を捨てる、定型を捨てる、その中でたとえば阿部さんのように意味は捨てていくしかないでしょうね。意識を捨てちゃって意味だけにすると、俳句と言う言語空間は小さすぎて十七文字の中で作れるのはほとんど限られていますよね、常に問題になる類想句になってしまう。

                            別の意味でちょっと面白いと思ったのは、角川書店が年鑑の震災俳句特集でいろんな人に依頼して書かれたものの中に、宇多喜代子さんの「かぶとむし地球を損なわずに歩く」という句をあげられている人がいるんですが、これは『記憶』っていう二〇一一年五月刊の句集で、二〇一〇年までの作品なんですよ。だからこの記事を書いた人は、震災が起こる前の宇多さんの句を引き付けて、この東日本大震災に思うという特集で書いちゃっているというのがひとつ。

                            (広瀬:僕も一番良いのがこの句だと思いました。)

                            筑紫:これは震災知らないときの。

                            (広瀬:まさしく予言的ですよね。)


                            筑紫:そう、そう、そう。鑑賞者はわざと「意味」を取り違えているんです。それともうひとつ面白いなと思ったのは角川俳句年鑑「諸家自選5句」からの抜粋資料。これは江田さんが選ばれたんですね。これを見てわたしも納得したんですけど、実はこれらは全部題詠句集になっていますよね。津波・地震・余震、どんな詩人や歌人が選んでも題詠句で選んでしまうんです。

                            意識しないで題詠句を選んでしまう、そういう意識構造が俳句を作る場合も、読む場合もあるんです。これが俳句の本質なんじゃないかなと思います。短歌や詩がどうなのかよく分からないんですけれど、ある意味で(題詠を強制する)恐ろしい世界がこういうふうに俳句の場合はあり得るということを理解していただきたいです。

                            広瀬:やはり、時を経て突出していく句というのは、意識の句が多いのでしょうか。)

                            筑紫:と思いますね。

                            広瀬:というのは、やっぱり意義があるところで。)

                            筑紫:並べてみると分かるんです、「意味」で並べてしまうと同じ句ばかり、類想句になるんですね。「意識」があって初めて飛んだ関係が生まれるのかなという気がします。


                            (2015年3月22日)



                            [あとがき]

                            3回の連載を終るに当たって、少し補足したい。第1回の、私の詠まれてしまった俳句をどう読むか――「沈黙せよ」と「発声せよ」という私のテーゼに共感され、広瀬氏から、短歌の機能には「文芸」と「実用」と「気分」の3つがあると述べられているところから、共感することが多かった。

                            特に第2回の【言葉から生まれる思想②――詠む以上は作者として傷つくべきだ】に関して、震災俳句をひとつの例においてみると、広瀬氏の語られる詩と私の述べた俳句においてジャンルの違いを意識することはほとんどなかった。以下、私の発言に対して広瀬氏の答えたものを掲げるが、広瀬氏の言いたいこともよく分かったし、私の話したかったことも分かってもらえたように思う。

                            よく俳句は言葉であるというが、表現はそれぞれのジャンルにおいて異なっても、その言葉の向こうには思想・哲学があるのであり、そのレベルにおいて詩も短歌も俳句も違いはない。こんなのは当たり前のことなのだが、座談会後にむしろかえって俳人に分かってもらえなかったのではないかという苦い思いをしている。


                            【言葉から生まれる思想②】筑紫Aに対して

                            広瀬:あえてする必要はないんでしょうけれども、被災者から批判されるような歌を詠うとして、それを受け容れることによって逆に自分たちがどう生きているのかが露出する場合もありますよね。自分たちはこういうところに生きているということを表現することは必要かなと思います。それは別にこの3・11に限ったことではもちろんないんですけれども、人間が生きるということはある意味で非常に残酷なことですよね、社会の仕組みを含めて全てが残酷性に満ちている。そういうところが露出された作品を作った上で、被災者なり誰なりから批判され、それで傷つくのかどうか分かりませんが、創作者がその批判を受け容れるというあり方というのはとても重要であると思いますね。

                            俳人一人一人が残酷を持っていることに気付けば、花鳥諷詠や社会性の向こうにある意味ももう少し深く理解できるであろう。極楽蜻蛉のような花鳥諷詠や社会性はあり得ないと思う。

                            【言葉から生まれる思想②】筑紫Cに対して

                            広瀬:難しいですね、良い悪いではないんでしょうね。個というのが出ましたけども、個として個に対して詠う、あるいは詠む、詩を書くというのは、悪くはないと思うんですよ。ところがこの一連の震災関連の作品を見ていると、よく言われるように一万人という集合体が亡くなったのではなくて、一人の死が一万回起こったのだという視点からの作品というのは、あんまり見当たらないような気がして。一人が一人に対して詠むというときには、トレードオフじゃないですけど、同じレベルの反作用を自分が背負わなきゃいけないという、その覚悟は要ると思います。作品の出来が悪いと冒頭で言いましたけども、それはなぜかと言うと覚悟のある詩がないんじゃないかなと。本当に死にそうな人に対して「あなたの詩を詠むから、俺も覚悟する」というやり取りはないですよね。あるいは書き切れていない。

                            震災俳句が震災俳句であるがゆえに非難される理由はない。覚悟のある詩でないことが非難となる。しかし、覚悟のない詩を覚悟がないということは、実は、非難ではない。「覚悟のない詩を覚悟がないという」こと自身、それを言う人にも覚悟があるか問い詰めているからである。お前ごときに、そんな非難をする資格があるかが問われるのである。では我々は沈黙すべきであるか。そこで再び冒頭の問題に立ち返る。俳人は、詩人は、「沈黙せよ」と「発声せよ」を一身に引き受けなければならないのである。

                            【言葉から生まれる思想②】筑紫Dに対して

                            広瀬:大きい括りで詩の真理というところは、そういうところを備えていると思いますね。それぞれの様式の中で、結局は哲学、思想が後づけでも先付けでもかまわないと思うんですけども、それが形式に見合った言葉で出てくるという。

                            およそ思想のない詩などはない。退嬰した思想の詩、無自覚な思想の詩、大勢に迎合する思想の詩、(いやことによるとなまじ思想を持つことに)怯える詩があるばかりなのである。


                            【短詩時評32は年末企画で裏の雑談の前編】価値について 安福望×柳本々々



                            (『かばん』2016年12月号の特集「描く短歌」において編集人のながや宏高さんの提案により、イラストレーターの安福望さんと「絵と短歌とペン」という対談をさせてもらった。「安福望さんはいかにして安福望さんなのか」という〈対談〉は〈雑談〉としてもう少し続いたので、〈裏の雑談〉としてこちらに収録させてもらうことになった。ちなみに特集チーフも務めさせていただいた『かばん』2016年12月号は初の電子出版の試みもしているのでぜひお読みいただければ幸いです。特集「描く短歌」の執筆陣として、岡野大嗣さん、久真八志さん、少女幻想共同体さん、唐崎昭子さん、東直子さん、光森裕樹さん(五十音順)に絵/文をかいていただきました)

                            【パジャマの価値について】

                            柳本々々 うん、いい言葉ですね。「今のペンの方がより楽しい」。安福さんのその言葉で今回の対談を終わりにしましょう。

                            安福望 …………………。

                            柳本 …………………。

                            安福 ………。

                            柳本 ………………。

                            安福 ……あの、今年のやぎもとさんの「短詩時評」に「蛇、ながすぎる」っていう「名前の練習」がありましたね。

                            柳本 あ、はい…。

                            安福 ……読みました。それを読んで俳句のことを考えたんですが、俳句ってきっちりしっかりしてるなっておもってたんですよ。名詞で終わるからだとおもうんですけど……。

                            柳本 ……あ、そうか、たしかに季語って「浮いてこい」とかそういう特殊な季語もあるけれど、名詞が多いかもしれませんね。わたしも、短歌・俳句・川柳の違いって、音数というよりは、季語があるか・ないかじゃないかとさいきん少し思ったんです。季語があることでシステムががらっと変わってしまう気がして……………。

                            安福 「蛇、ながすぎる」のタイトルの話で名詞=体言でおわるタイトルは堂々としているっていう話があって、そうか俳句って堂々としてるのかもって思いました。それで「こころ」は「ここれ」に活用できないってはなしで、俳句の中の季語も変化できないものですよね。夏の季語が秋の季語に変化できないなって…………………。

                            柳本 …ああほんとですね! だからある意味で季語がないたとえば川柳だと倒錯ができるというか、すこし《狂う》ことができるんですよね。あぶないひとになれるというか。季語の活用不可能性っていうのはそういうのを逆に阻止するところがあるのかもしれないって思いますね。俳句をしているひとは長生きをするってどこかで読んだことがあるんですが、もしそれがほんとうなら、それが季語のシステムなんじゃないかって思うことがあるんです。倒錯しないというか。《健康》になるというか………………。

                            安福 ………あと、ライトノベルのタイトルがどんどん長くなっているってはなしで、新海誠さんの映画『君の名は。』の「。」はめちゃくちゃ長くなりそうだったから、無理やり「。」を入れて長くなるのをとめたのかなっておもいました。やっぱりいつまでたってもあの「。」気になるんですよね。

                            柳本 あ、そういえば、『君の名は。』も庵野秀明さんの『シン・ゴジラ』もタイトルがかえって短いですよね。過去のパッケージを使ったリメイクってそういう意味では「今」のむやみやたらな長さに拮抗することができるかもしれませんね。過去は変えられないし、短かった。そこから、はじまる。しかも句点の「。」があるの意味深ですね。ほんとだ……。

                            安福 ……………。

                            柳本 ……………価値かあ…。

                            安福 ……………。

                            柳本 …………………。

                            安福 あ、そうだ、やぎもとさんの『フシギな短詩』の荒木飛呂彦さん村上春樹さんの回なんかもそうだと思ったんですけど、美術館から絵をもちだして、そとで話してるかんじなんですよ。美術館で絵を鑑賞するんじゃなくて、外にもちだしたうえで話すっていうのか…。

                            柳本 ああ……なんかこう、電話で話してるかんじですかね。電話口で話す感想文というか。もしもし、あのね、というかんじの。電話口だからときにパジャマでまじめなことをしゃべってる感じもあるくらいの。

                            安福 ああ……そうかも……。

                            柳本 …………。もしもしかあ。…………いや、価値かあ…。

                            安福 ……。


                            【価値について】


                            安福 あ、そうそう対談の映画の話もそうだったんですけど、やぎもとさんとお話してから、いろんなことってもう一回もどってくるんだなって思いましたよ。いままではそんなもどってくるとおもってなかったので。ながれてくかんじでした

                            柳本 あ、そういえばわたしも、たとえば、斉藤さんの、歩く短歌って、図書館でであったのが、2010年かなあ、それくらいなんです。それから投稿するのに三年かかったし、そこからそのさいとうさんの短歌の感想かくまで、つまりきょうまで三年かかったんだけど。ああまた戻ってきたんだなとおもって。出会い直し、ってことかな。出会い直す、ってすきなんです、あの、ヘレン・ケラーがね、unlearn って単語をつかっててつまり、学んだことをもう一回ほどいて学びなおすってことなんだけど。出会いも、なんどもほどいて、もういっかい出会い直すんじゃないかとおもって

                            安福 ほんとですね。出会い直し、いいですね。

                            柳本 価値にきづくってそういうことかもしれないですね

                            安福 あ、ほんとだ。そうですね。ほどいてもっかい出会いなおすとまたべつのこととつながりますね。

                            安福 さいとうさんの短歌なんですけど、やぎもとさんの「船」を定型詩とみるのなるほどなあって。星に降りたら歩くしかないように歩いたの星って読者なのかな。

                            柳本 ああそれおもしろいですね。

                            安福 短歌が星におりたら、勝手によまれてくかんじ。

                            柳本 そうなのかもしれないですね。

                            安福 でも最初、ひきこもりの歌かなっておもいました。船のなかだと、他者とコミュニケ―ションとるのに手紙かくしかないかなってそこから、星にでたら、歩いて他者に直接あうしかコミュニケーションできないから、歩くしかないように歩いたのかなってなんかだれかと出会いたいような歌に思いました

                            柳本 のりべんのうたもあるくうたですよね。

                            安福 あ、ほんとですね。誰かに会うかもって歩いてたら、ぶちまけられたのりべんしか会えなかったのかな。でものりべんがあるってことは、だれかいたんですよね。タイミングがわるかったですね。

                            柳本 わたしがおもうのは、歩くのって、その場所のルールをうけいれるしかないんだなとおもって。のりべんがぶちまけられててもルールなんですよ。うけいれるしかない。じぶんのものがたりにはできない。よけるしかない。

                            安福 あ、そうかよけるしかないんですよね。

                            柳本 ぶちまけられたのりべんばっかじゃないかとおもって、この世界は。たとえばシンゴジラもなんできたかはわからないけれど、ぶちまけられたのりべんだとおもう。巨大不明生物に名前をつけたところでどうにもならない。災害もそうですよね。

                            安福 ああ、そうですね。

                            柳本 ルールが最適化できない部分がこの世界にはぜったいあるんですよ。ルールが最適化できないもの。それがぶちまけられたのりべんだとおもう。

                            安福 ほんとよけるしかないんですね。

                            柳本 だれかが傷つかなきゃ成立しない世界がある。防護服きて作業しないと成立しない世界。

                            安福 そうですね。みんな幸せってないです。

                            柳本 なんでしょうこれはのりべんってきづいてものりべんが修復できるわけじゃないですよ。その意味でひとは「歩くしかないように歩く」ことしかできない。

                            【太宰治の価値について】

                            安福 やぎもとさん、フシギな短詩で東さんをとりあげられたじゃないですか。

                            柳本 ああそうですね。そのころ『十階』をずっと読んでいて勇気をもらっていました。なんだろう、この東さんの日記のなかには、ひとが生活のなかで〈書く〉こととどのように共に暮らしていくかがいろんなかたちで書かれているように思うんですよ。それがすごく好きですね。好きだし、勇気づけられる。書くことってちょっと〈十階〉に暮らすようなことだと思うんですよ。すこし地上からは離れている。でも天上ってわけでもない。十階特有の風が吹き、雨が降り、陽がさしこんでくる。そういう〈すこしだけ〉高い異界のような場所で暮らすこと。

                            安福 わたし、30歳のときにはじめて個展したんですけど、ブックカフェみたいなところで。作品と一緒にすきな本も何冊かもっていったんですよ。そのとき『十階』ももっていきました。あと笹井さんの歌集も。東さんの本、はじめて読んだの『十階』だと思います。

                            柳本 あ、そうなのかあ。東さんの《ふたしかさのなかにあるたしかさ》みたいなものにぐっと引き込まれたんですよ。

                            安福 東さんのフシギな短詩よんでて、これやぎもとさんの文章よまないとわたし全然読めない歌でした。だからなるほどと思いながら読みましたよ。それで、なんでこの歌読めないのか考えてたんですけど、「桜桃忌」と「フィンガーボウル」がわたしには遠い言葉なんですよね。普段使わない言葉。

                            柳本 ああそうですね。

                            安福 あの東さんの歌はなんか取り残されたかんじがするんですよね。しかも姉がもどってこないきがする。それでもわたしはなにかを語ろうとしている。なんのためだろう、ってかんがえたんです。わたしも姉は帰ってこないんだろうなって思いました。この姉、死んでんじゃないのって。

                            柳本 桜桃忌に太宰治だから死のイメージにあふれてますねたしかにね。

                            安福 出かけてゆきました、だから家からって最初思ったんですけど、家にフィンガーボウルあるのかなっておもって、どっかレストランとかで姉とごはんたべてそこにあったんかなフィンガーボウルっておもって、それが姉と会ったさいごなんだろうなって。

                            柳本 ええっ! すごい面白い解釈しますね。びっくりと納得がいちどにきた。

                            安福 それでこれは妄想すぎるんですけど、フィンガーボウルわたしどこでであったかなって考えたら、結婚式のときにテーブルにあった気がしたんですよね。それでこれ姉が結婚する歌なのかもってちょっと思いました。姉妹でだれかの結婚式についこの前まで一緒にでて同じテーブルにいたはずなのに、気付けば姉が結婚式してるという。結婚すると女性って名前がかわるじゃないですか。それって、旧姓の自分が死ぬかんじがして。それと同時に新しい名前の自分が生まれるんですよね。

                            柳本 ああ、その発想はありえるかもしれないですね。

                            安福 「桜桃忌」と「フィンガーボウル」の間に「姉」がいるんで、桜桃忌とフィンガーボウルが姉を召還したような気もしました。姉がでかけた記憶を、ですかね。何か思い出すって、一つの単語じゃなくて、二つ以上が重なったら、別のものを思いだすのかなと思いました。こう思ったのも桜桃忌とフィンガーボウルが遠い単語だから、「姉は出かけてゆきました」だけがわたしには近くて浮き上がってみえたんですよ

                            柳本 ああそうかあ。やすふくさんがフィンガーボールになじみがないってところから引っ張り出された解釈なのがとてもいいと思いましたね。つまりこう自分のなかのちょっとした生きてしまった違和というか、日常的気付きから解釈をしていったというか。そうかあ、そういう解釈もできるのかあ。東さんの短歌はそのひとの所属しているジェンダーとか階層とかで意味が少しずつ変わってくるのがいいなっておもうんですよね。だからわたしの立場から読めば太宰治から読んでああいう解釈になったし、やすふくさんの立場から読むと結婚式とかからそういう解釈になる。そういうのってとてもおもしろく感じるし、忘れちゃいけない部分なんだろうなって思います。

                            【指先からソーダの価値について】

                            安福 フシギな短詩で小津夜景さんの記事よんだんですけどね、たしかに記憶ってゼリーな気がしました。なんでなんですかね。なぜかゼリーがぴったりですよね。

                            柳本 夜景さんでフシギな短詩を書くならゼリーだなとはなんとなくずっと考えていたんですよ。でも書けるかなあとかなんとなく考えていて。それで俳句の福田若之さんの小津夜景さんと記憶をめぐる文章を読んだときになんとなく、ああそうかそういうことなのかと自分が書きたいことがわかりはじめて。それでも、あれやっぱりちがうかもとめげたりもしたんですが、夜景さんの『フラワーズ・カンフー』を読んだときに、あ、そうか、やっぱりいいんだ、とまたわかりはじめて。でもサイダーの句はぜんぜん想定していなかったんですよ。でも書き始めたときに、あ、サイダーなんだな、これでいいんだなっておもって。

                            安福 サイダーをほぐすってできるんじゃないかなって思いました。サイダーって炭酸がはいってるじゃないですか、炭酸と水にほぐすことができそうな気がして。

                            柳本 いや、サイダーをほぐすことができると思えるなんてひと、あんまりいないんじゃないかな(笑)。あの、なんだっけ、「牛乳をかむ」とかってありましたよね、あれはなんだったんだろ、なんかすごくふしぎな表現ですよね。牛乳かめないだろ、っておもうんだけど、でもなんかなんとなくこどものころそういう表現があった。

                            安福 サイダーって炭酸と水じゃなくて炭酸とシロップが入った水だから、ほぐしても白紙の状態のただの水にはならないなって思って、ほんとだ、書き込まれた状態だ、やぎもとさんの言うとおりだなって思いました。

                            柳本 あ、それおもしろいですね。あ、そうか、サイダーって無色だけど、炭酸があるからすでに無色じゃなくて書き込まれているんですね。それおもしろい見方ですね。そうか、だからひとって炭酸に惹かれるんですかね。

                            安福 サイダーのあの炭酸の泡って、やぎもとさんがゼリーが記憶っていっていたように、私には記憶のように思うんですよ。なんとなく。

                            柳本 ああそれもおもしろいですね。炭酸の泡ってパッケージングだから、記憶のパッケージングと重なるのかな。やすふくさんにいわれていまかんがえたら、あ、そうなのかなって。今日マチ子さんが炭酸を印象的なかたちで描いていたけれど、あれも学生時代っていう記憶のパッケージングですよね。どこか無責任で、でもあぶないことをしちゃうと責任が発生してとりかえしがつかなくなっちゃうような、そういうなにか刺激的で、でも美しい、はかない時代。

                            【名前の価値について】

                            安福 やぎもとさんもフシギな短詩で書かれていた穂村弘さんの「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう」の短歌のことを思い出して、これずっと夢の中でお会いしましょうだと思ってたんですけど、光ると消えるから夢から醒めるってことなのかなって。だから夢の外で会いましょう、現実で会いましょうってことなのかなって思いはじめました。「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。」の後ろについてる「。」がずっと気になってたんですよね。「夢は音がないから嫌いだよ なんでなんにもしゃべってくれなかったの?/石井僚一」も好きなんですけど、この短歌と「夢の中では~」の短歌は矛盾してしまうなってずっと考えてたんです。「夢の中では~」の短歌は夢で喋ると光るが一緒っていってるから、夢の中で喋ったりするのか。音があるってことなのかって。作者が違うけど、好きな短歌は同じ世界にいてほしいなって勝手な気持ちでいて、気になってたんです。この二首がずっと。

                            柳本 ほむらさんの短歌もでも音がないですよね光ることがしゃべることっていうのは音がないことですよね。夢のなかの音ってたしかにかんがえてみるとおもしろいな。そういえば夢のなかの音ってどうだったかな。光は聴覚じゃないものね。またいろいろみえてきましたね。

                            安福 あ、そうかあ、ほむらさんのも音がないのか。しゃべるからあると思ってました。光ること、自分が光ってるっていうのはわからなさそうですね。ひとが光ってるのはわかるのだろうけど。なんか怖い世界ですね、夢って。わたし、夢のなかで音ないんですよね。だからいしいさんの短歌よんで、そうそうっておもったんです。たしかに音ないなって。夢で光を感じるときって起きる時だった気がしました。でもそうしたらいつも夢ではなにをみてるんだろうっておもいました。「夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと」って夢の中だと音が光になるんですよね。やっぱり音がないのかな。なんか普通によんだら、最初からそう書いてるやんかってなりますね。ぐるぐる考えすぎてるのかな。

                            柳本 ただこれそもそもぐるぐるですよね。しゃべることは光ることなら、光ることに音が与えられるので。

                            安福 あっ、ほんとだ! あの少し関係あるかもしれないんですが、やぎもとさんの名前、「々」ってね、漢字だと思ってたんですけど、記号なんですね。読めないって音がないってことなんですね。々って無音なんですね。名前なのに音がないってかっこいいなっておもいました。

                            柳本 たしかにそういわれるとふしぎですね。音がないのかあ。じゃあそこで消えるんですね。ああそうか、じゃあしゃべることはひかることを一字であらわすと々になるのかあ。夢って々のことなんですね。名前なのに音がないっておもしろいですね。あ、そうだ、「やぎもと」さんってはじめから呼ばれたことがないんですよ。たぶん、ひとりくらいじゃないかな、はじめからそうよんでくれたの。いつも、やなぎもとで。だからもともと間違えられた名前としてこの世界でいきてるんだってきもちはこどものころからあったような気がしますよ。「々」って「どう」や「おなじ」の変換ででるんですが読みにくいし打ち込みにくいから恐縮してるんですねいつも。で、やっぱりときどき問い合わせももらうんです。この名前はなんなのかと。それも恐縮しているんですが。「あとがきの冒険」で山田露結さんのことを書いたときにあっと思い出したんだけど、私の筆名、曾祖父の筆名を使っているんですよ。短歌とか川柳をしていたひとで。でも、まあ、曾祖父はいったいどういう気持ちでこんな名前をつかってたんだろうと思うことはあるけれど、名前が手にいれられなかったのかもしれませんね。けっきょく。名前の価値ってなんなんだろう。名前の幸福とか。だからもしドロシーにくっついてオズの国にわたしがいくなら、オズの大王からもらうのは「名前」ですよね。

                            安福 々と光と音かあ。たしかになんかむすびつきそうですね。々って目にはみえてるのに、音が、名前がないってふしぎですね。夢のなかだと々は光ってそうだ。やなぎもとの「な」を封印するもののような気もしてきました。々って。なんだろ打ち消すためのもの? やなぎもともともとさんって言いにくいですよね、やぎもともともとさんがやっぱりしっくりきます。々々かあ。なんかカタカナみたいでもありますね。

                            柳本 自己紹介のときとかあいてに余計な心的ショックあたえたくないから、今でも柳本です、ってさらっということにしてます。

                            安福 心的ショック(笑)。

                            柳本 出オチみたいになるので。やなぎ・ほん、っていう柳・本でもよかったんですけどね。ただ、ホンさんってちょっとアジアになっていきますからね。

                            安福 アジアになりますね(笑)。

                            柳本 やぎ・もと、とかね。まあそもそも、やぎがおかしいんですよ。柳はやぎじゃないんだから。

                            安福 ああ、そうですよねふしぎですね

                            柳本 先祖がかってによみにくいって抜いたらしいんですよ。

                            安福 えっ、そうなんですね!

                            柳本 もうめちゃくちゃなことになってますよ、みょうじもなまえも。

                            安福 めちゃくちゃから生まれた々々ですね。

                            柳本 ……!?

                            【だぶだぶの価値について】

                            安福 「あとがきの冒険」や「フシギな短詩」で取り上げていた岩田多佳子さんの川柳なんですが。

                            柳本 はい、句集『ステンレスの木』ですね。

                            安福 あの句集って木だけじゃなくて、水も出てきますよね。あ、そういえば、やぎもとさんは水をめぐって野間幸恵さんながや宏高さんのも書いてましたよね。

                            柳本 短詩で水ってなんか重要なキーワードみたいですね。たぶん、水って濡れると形質がもとにもどらないそういう宿命観みたいなものがあるのと、あと水ってどこにでもいけちゃう柔軟性や越境性をもってるからだとおもうんだけど。それは野間さんとながやさんから学んだことです。

                            安福 うん、水ね。それで、岩田さんの句集の水の句なんですが、

                              産まれたわ四十トンの水と朝  岩田多佳子

                            でその前の前の場所に、

                              満水のサクラ並木の栓を抜く  岩田多佳子

                            こういうふうにあって、木が水になっていくのかなって思いました。木と水って字似てるなってこの前気付いたんですけど、岩田さんもそんなこと考えたのかなって。

                            柳本 世界の根っこにあるものとしては木も水も原理的な形質ですしね。

                            安福 ええ。最後の方に水がでてくるのが気になったんですよね。木になれない木が水になるのかな。

                            柳本 この句集ってなんていうかな、人があんまり出てこないんですよね。出てきてもないがしろにされちゃうというか。この句集の跋文を書かせていただいたんだけど、書いているときはずっとエコ文学批評みたいなものを意識していました。思い出していたとういうか。あとよく南方熊楠のことを思い出したり読んだりしていました。

                            安福 この句集、木→林→森と木を植えていったけれど、木って木になれないやつとかでてきて、更生施設にいかせたりするからめんどうだなって気付いてステンレスを使うんかもって思いました。

                            柳本 この句ですね、

                              木々になれない木の更正施設  岩田多佳子

                            これはじめみたときヤンキー句なのかなあって一瞬おもったけど、でもやすふくさんの解釈がいいと思いますね。エンジンの木の句ありますよね。

                              エンジンの掛かったままの木が並ぶ  岩田多佳子

                            これ読んだとき、ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』って戯曲を思い出したんですよ。ハムレットが革ジャンを着てバイクに乗るやつ。あるいはカウリスマキの映画『ハムレット』を。あれは現代の設定でテレビに首をつっこんで死ぬひととかたしか出てくるんだけど、そういうデジタルパンクというか。

                            安福 あ、そうそう。『ハムレット』といえば未亡人がでてくるけれど、

                              だぶだぶの着物で立っている歴史  岩田多佳子

                            を読んだとき、なんか怖い句だなっておもったんですよ。そしたらやぎもとさんが「あとがきの冒険」で亡霊のことを話していて、「はっ」となりました。この句、未亡人に亡き夫の着物を着せられる未亡人の新しい恋人みたいって妄想しました。「はっ」として未亡人の妄想してしまいました。

                            柳本 ああなるほどね、着せられてる感なんだ。だぶだぶって。合わない服を着せられるとき、ぴっちりかだぶだぶだものね。しかもこの歴史って私的な歴史っていうかそういう恋人みたいな場合があるのか。こわいですね。それは。「だぶだぶ」ってそんなふうにみると恐怖が生まれる場合があるんだ。おそろしいだぶだぶですね。でもひとってひとの「だぶだぶ」を理解しえないですよね。そのひとが誰とであってどんなふうに生きてきたのかなんてわからない。ひとと出会うとそういうだぶだぶと出会うこともあるんだ。たとえば誰かと出会ってもそのひとがどんな「だぶだぶ」をもっているかなんて理解しえない部分もあるんだから。だんだんいい感じでおそろしくなってきましたね。これは。まいったなあ。…………。

                            安福 ……だぶだぶの価値かあ……。

                            柳沢 ……価値かあ。

                            安福 あの、すいません、柳沢さんって……誰ですか。



                            (後編の「幸福について」に続く)


                            《附録:青春の映画10選》

                            【安福望の日本映画10選】
                            1、岡本喜八「殺人狂時代」
                            2、吉田大八「桐島、部活やめるってよ」
                            3、川島雄三「洲崎パラダイス赤信号」
                            4、黒沢清「CURE」
                            5、横浜聡子「ジャーマン+雨」
                            6、鈴木清順「陽炎座」
                            7、濱口竜介「ハッピーアワー」
                            8、三池崇史「殺し屋1」
                            9、深作欣二「仁義なき戦い」
                            10、渋谷実「悪女の季節」

                            【柳本々々の世界映画10選】


                            1、ダニエル・シュミット「ラ・パロマ」
                            2、ベルイマン「ある結婚の風景」
                            3、カウリスマキ「浮き雲」
                            4、タルコフスキー「惑星ソラリス」
                            5、キアロスタミ「桜桃の味」
                            6、アンゲロプロス「ユリシーズの瞳」
                            7、クストリッツァ「アンダーグラウンド」
                            8、キェシロフスキ「トリコロール 白の愛」
                            9、フェリーニ「81/2」
                            10、グリーナウェイ「フォールズ」