2016年11月11日金曜日

びーぐる32号俳句時評  竹岡一郎 




赤ン坊(アカングワ)のために


豊里友行の句集「地球の音符」(2015年12月刊、沖縄書房発行)を読む。沖縄は「沖縄歳時記」が別にあるくらい、風土の違う地域だが、本州の人間が沖縄の句集に言及しにくいのは、風土の違いというよりは、背負っている歴史の違いに因ると思う。はっきり言えば、沖縄の句に言及する事はためらわれるのだ。人によってその理由は様々で、米軍基地と日米安保の存在もあろう。沖縄に錯綜する様々なイデオロギーが手に余るのもあろう。調べるほどに考えるほどに、沖縄に対する罪悪感が湧き上がるせいもあろう。

今年の二月初め、作者からこの句集が送られてきた。書かねばならぬと思いつつ、半年間、腕を拱(こまね)いていたのは私の怯懦であり怠慢である。評論とは或る種の使命感を以って書くべきであり、そうでなければ私は評論を書く意味がない。だが、私が書く事は、沖縄の人から見れば浅薄かもしれぬ。作者はどうか御宥恕頂きたい。

鈴虫が魚網の中で鳴いている
 
月面の樹液を泳ぐ兜虫 
コオロギが虹の音色の断層だ
いずれも虫たちの有様を詠っているが、こういう捉え方はやはり沖縄独特の美しさであろう。「魚網の中で」とあるから、鈴虫の声は波の声と交錯し、協奏するのだ。兜虫は樹皮に染み出る樹液を泳いでいるのだが、月があまりにも明るく樹液を照らすので、樹皮そのものが月の表であるような錯覚にとらわれるのだ。高く低く響くコオロギの声が虹の七色の響きを持つように聞こえ、それはやがて巨大な虹を切ったときに見える断層が、音として聞こえるように思えてくるのである。この「コオロギ」の句は文法としては破綻しているが、その破綻が却って佳句の要因となっている。言葉では捉えられないものを表現しようとする意志が見えてくる。

米を研ぐ銀河の渦が冷たい


満天の星の下、米を研いでいるのだろうか。天には星が渦巻き、手元には米が渦巻いている。星を時折見上げつつ米を研いでいると、その米がやがて星と思えてくるのだ。だから、作者は米を研ぎ、米粒の水に擦れ合う音を聞いているのではない。星々を研ぎ、星々の擦れ合う響きを聞いているのだ。そのように日常の些細な動作が、宇宙的な広がりと重なり合う霊気が、沖縄にはあるのだろう。

轟音のフェンスの蝶化の耳鳴り 
強化する基地は恐竜の骨組み
一句目。空軍の轟音にフェンスがうなる様を、蛹が震え、割れ、蝶が這い出る様に重ねたのか。「耳鳴り」とあるから、生まれ出る蝶の翅のように震えるのは、作者の鼓膜かもしれない。先のコオロギの句と同じく、言葉で表現できないものを形にしようとしているのが感じられるが、この句において表現しがたく渦巻いているのは、実は作者の心情であろう。即ち、沖縄という実に困難な立ち位置であり、その立ち位置で苦闘する作者の魂である。だからこそ、魂の暗喩である「蝶」が用いられるのであり、ならば耳鳴りは戦闘機の轟音という外部の音によるだけではなく、その轟音に触発された作者自身の血の鬱屈であり滾りであるかもしれぬ。

二句目の恐竜は、史上最強の生物という意味だろうが、同時に必ず絶滅し、骨しか残らぬ生物という意味でもある。或いは遥か古代における人類の、恐怖の対象が甦りつつある意もあろうか。「基地」はそのまま「戦争」という語に置き換えられる。しかし、この句の眼目は、先の「蝶化」の句と同じく、まるで土地から発生した自然の生物のごとく基地が描かれているという点で、戦後の沖縄に生まれ育った作者にとっては、基地のある日常が、拒否権無き自然と化してしまっているのであり、その異常なる日常を、如何に、と突き付けているのだ。

ランドセル揺られて並ぶ原潜 
基地のうちそと縄跳びの子らは虹 
食卓にどっどっどっと並ぶオスプレイ 
オキナワの空に俎板痕がある
揺られて並ぶのは小学生の背にあるランドセルなのか、それとも(建前としては入港しない筈の)原潜なのか。日本では最も戦争から遠い筈のランドセルと、戦況を決定づける最終の兵器である原潜が等価に分かちがたく並んで揺れるという不条理。

虹を回すがごとく縄跳びをする子供達の姿が基地の内外にある。「うちそと」が眼目で、外にいるのは沖縄の子供達であろう。内にいるのも基地に働く沖縄人の子であろうか。或いは、米軍兵士の家族かもしれず、軍属の家族かもしれず、日本の自衛隊員の家族かもしれぬ。いずれにせよ、子供である。国籍や戦争には無関係な筈の子供達だ。

三句目は、「どっどっと並ぶ」と中七を定型に収める容易さを捨てて、敢えて更に「どっ」を加え、定型を壊した。そこに作者の思いがある。定型をはみ出して終わりなくオスプレイは並ぶ。庶民の食卓に容赦なく並ぶのだ。実際に食卓に降り立ち並ぶのは、オスプレイの発する騒音だろうが、もはやオスプレイが日常食らわざるを得ない料理の一品であるかのように感じられる。その状況を如何、と我々に問うているのだ。

四句目の「俎板痕」とは飛行機雲であろう。空という俎板に残される刃痕のごとく、飛行機雲が並ぶ。日々あまりにも軍用機は行き交うので、飛行機雲は空に痕となり、消えないように思われる。俎板に切られ、様々なイデオロギーや立場に切り分けられ、傷に塩を塗られるように、過去の記憶と歴史とに日々切り刻まれるのは、沖縄人の心であろう。ここでオキナワとカタカナで記されるのはヒロシマ、ナガサキと似ているようで微妙に異なっている。何故なら、沖縄において戦争は未だ終結していない。

終戦のない宿借りの沖縄よ 
捨石か要石かと蜥蜴鳴く 
生(なま)な表現過ぎて、余韻が無いと言えば無いが、そういう詩的表現を考慮する余地がないほどの実感がある。沖縄には終戦がない、戦争はずっと続いている、それは沖縄に生まれ育った者にしか言えぬ実感である。ヤドカリは貝がないと死んでしまう。しかし、その貝はヤドカリ本来のものではない。貝とは時に米軍基地であり、時に共産主義であり、痛ましいことに時に日本政府であったりもするのだ。沖縄人が納得し得る沖縄本来の宿とは一体何であろう。かつて侵攻された挙句、所属させられた薩摩藩であろう筈はない。琉球王国は、明治政府の琉球処分により失われた。これは本州で生まれ育った者には到底想像つかぬ無念であろう。かつての唯一の本土決戦である沖縄戦と、東アジアにおける軍事拠点としての米軍基地を考えるとき、「捨石」と「要石」の語は、沖縄の、歯を食いしばる口惜しさとして、沖縄の心に絶えずのしかかる石の重さとして伝わってくる。鳴くものが蜥蜴なのは意味があろう。蜥蜴は龍を思わせ、沖縄は龍神の島だからだ。そして霊的な観点から見たとき、沖縄の業(ごう)はそのまま日本国の業であり、沖縄の怨念は日本国の怨念である。沖縄が滅びるとき日本もまた滅び、逆に、沖縄が遂に救われるとき、日本もまた漸く救われるだろう。それを直感するとき、「要石」という語は重い。

無関心の刃なりバーコードの森 
狼が来る机の森の戦前

これらの句は警告だろう。「最大の悲劇は悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である」とは、キング牧師の言葉だ。この「沈黙」を「無関心」と言い換えても良い。それは刃となり、犠牲者の胸を抉る。その刃がやがて狼の牙となって、戦前のごとき言論統制の形を取り、書物のうず高く積まれた知識人の机を噛み砕かぬと、どうして言えよう。

せんそうのもうもどれない蟬の穴 
蝌蚪あふれ沖縄戦の余白なし 
艦砲の雨は鶏頭あまた咲く

ここで口を開ける蟬の穴も、黒々とのたうち溢れる蝌蚪も、鶏頭の血肉のような赤さも、今見ている光景である。しかし、蟬の羽化し、蝌蚪の育ち、鶏頭の咲く沖縄に、かつて血まみれの戦災犠牲者が溢れ、艦砲射撃が余白なく降り注ぎ、砲弾は島中を穴だらけにしていったゆえに、作者が見る蟬の穴にも蝌蚪にも鶏頭にも、死者の無念と恐怖が重ならざるを得ない。沖縄に生息する数多の生物に、戦争の光景が重ね合わされる。

芒野は戦没者数量れるか 
鮮やかな原野遺骨に星のさざなみ 
たましいが還れず杭になる骨よ 
囀りが一家全滅の声になる

沖縄戦の遺骨は今なお膨大な数が収集されず、供養されずに、原野に置き捨てられている。その遺骨らに「星のさざなみ」をせめて寄せようとする作者である。

写真家である作者の「辺野古」(増補改訂版、2015年5月、発行・沖縄書房、発売・榕樹書林)という写真集を見たとき、衝撃だったのは未だ晒されている遺骨であった。

四十四頁の「2008年、糸満市」と記された写真には、地の枯枝の間に髑髏が転がっている。四十七頁の「2012年、糸満市大里」と記された写真には洞(ガ)窟(マ)に水没して仰向いている髑髏が見える。

四十五頁は2010年、那覇市真嘉比の区画整理地で、遺骨収集ボランティア団体「ガマフヤー」代表・具志堅隆松氏が、遺骨を前に祈りを捧げる写真。氏の前に、六十数年どこにも還れずに杭のようになった数本の大腿骨が置かれている。四十六頁には2007年、糸満市田原陣地壕を探し出した国吉勇氏が、遺骨と共に写っている。ヘルメットをかぶった氏はカメラを真っ直ぐ見返し、手にした懐中電灯で遺骨を照らし出している。

いずれもこの十年以内の写真である。戦後六十年以上も経って、未だにこの惨状なのだ。死者達は国家の戦争による殉難者であり、遺骨は他国ではなく、日本の国土にある。素手によって収集可能なのだ。しかし、ここで遺骨収集を続ける両氏は、民間のボランティアである。政府の機関から来たのではない。

私は沖縄を訪れた時のことを思い出す。十一月だった。仕事で行ったので観光の暇はなかった。それでもひめゆりの塔と平和祈念公園だけは見た。国際通りから車に揺られて、やがて道の左右は唐黍畑ばかりとなる。所々に人が住んでいるのかどうかわからない家が点在する。戦争で一家全滅した後、遠い親戚が保存している家があるのだと聞いた。空は良く晴れているのに、風景は紗が掛かったように感じられる。それは未だ野ざらしの死者達の寂しさだ。ひめゆりの塔よりも、途中の野の風景の方が私は辛かった。そして、あの立派な「ひめゆり平和祈念資料館」も国立ではない。民間の機関だ。ひめゆりの生存者達が設立したのだ。資料館で何冊かの書籍を買った。その内の一冊、「墓碑銘」という青い表紙の本には、ひめゆりの戦没学生及び戦没教員の一人ずつの顔写真と名前、生前のプロフィールが記されている。死者達は、政府が累計した数字ではない。一人一人独自の顔を持ち、名を持ち、独自の性格と得意なもの好きなものを保持していた個人である。そのことが「墓碑銘」の一人一人の項目を読んでゆくと良くわかる。戦没したのは累計数字でも番号でも歯車でもない。喜怒哀楽を持つ個人が、個々の独自の苦痛の内に死んだのだ。
ここで私は、出来れば触れたくなかった句を、どうしても書かねばならぬ。触れたくなかったのは私の怯懦であり、この句にどう寄り添えば良いか、未だに逡巡している。

洞窟(ガマ)の首絞める赤ん坊(アカングワ)の螢

かつて沖縄では米兵よりも日本兵の方が怖かった、と私は聞いたことがある。沖縄戦の際、防空壕となった洞窟で、泣き止まない赤ん坊は日本兵の手で、或いは日本兵の強制によって絞殺された。泣き声によって米兵に場所を知られる、という理由だった。兵士が、守るべき国民の赤子を、既にその時点で、兵士と国家には、どんな大義も無い。私はインタビューを見たことがある。赤ん坊だった弟を、日本兵に殺された人の証言だった。未だに弟に服を買ってくるのだと、真新しい服を広げて、その人は言った。

この句において「絞める」の客体と主体は判然としない。主体、客体、共に洞窟とも赤ん坊とも螢とも、作者に象徴される生者とも見える。赤ん坊が洞窟というモノ、戦争という業(ごう)の首を絞めているとも取れる。一句の文法は破綻しているが、その破綻を以って、聖戦という大義など最早どこにも存在しなかった、沖縄戦末期の地獄に対抗するしかない。

木漏れ日に浮かぶ骨らの志
ここで「骨ら」と詠われているのは、死者達というだけではない。生者達でもあり、体内の血に死者達を脈々と巡らせる子孫達でもあろう。「志」という、受け継がれるものが主体だからだ。志は、この世の樹々と陽光に照らされて浮かぶからだ。

すいつくすかげもしずくもない炎天
この句においては幾つかの解釈が成り立つ。炎天は影と滴を吸い尽くすのであるが、もはや地上と天に、影も滴もない。或いは、何かを吸い尽くすのは影であり滴であるが、その影も滴もない炎天。または、影も滴もない炎天を作者自身が吸い尽くす。或いは、影と滴を、人間という血肉を持ち自我を持つ存在の暗喩として取ることも出来よう。眩い空(くう)である炎天と、影と、滴と、考える主体である作者との区別が、ここでは失われてゆくように見える。このように主体と客体とが判然としないことを欠点とする向きもあろうが、しかし現実に、追い詰められた記憶を持つ土地と、そこに生きる人間が、主体と客体の区別をつけられなくなることがある。かつて聞いた話だが、沖縄のような、空も海も花も、何もかも強烈な色彩を持つ地で、地獄の戦争が展開したとき、人間は、土地の美しさと眼前の地獄との激しい落差に、精神の均衡が保てなくなるというのだ。

三日月に魚骨の懺悔吊るしてく
魚骨を吊るしてゆくのは軒下であろうが、遥かな三日月にその骨が吊るされつつあるように見える。ここで眼目は「懺悔」であって、人間の原罪を魚骨に託しているのかもしれぬ。そして世界中、「魚骨の懺悔」という詩的な感興を抱き得る者ばかりなら、あのような戦争は起こりえなかったか。

こんこんと螢の海の母の咳
「こんこん」とは、咳の擬音語だろうが、同時に滾々とあふれる母なるものをも象徴している。母はまた霊的な存在の暗喩であり、龍神や彼の世と交流する沖縄の神人(カミンチュ)でもあり、更に深く潜れば琉球王国の霊的な柱である聞得(きこえの)大君(おおきみ)でもあろう。螢は死者の魂とも志とも取れよう。「こんこん」は、螢にも、母にも、海にも掛かるのだ。その擬音語は、「母」「海」「螢」と組み合わさっては、溢れるさまを表し、同時に「咳」と組み合わさって、病むさまをも表す。これは沖縄という土地の描写と読める。龍神の島であり、霊的な母なる者たちが輩出される島であり、かの世とも天上とも容易に繋がる島でありながら、同時に未だ戦争が癒えず、軍隊とイデオロギーに冒され病んでいる。ならば、沖縄こそが戦後日本の隠されてきた心臓といえよう。沖縄の業(ごう)は日本の業であり、沖縄の運命は日本の運命であると思う所以である。だから最後に、沖縄の可能性を掲げている句群を挙げよう。

琉球の国境線なら海蛇(イラブー)です 
まがたまの琉球が湧く蝸牛 
守宮透け琉球海路のアジアよ
ここに見られる沖縄の生物は、実に自在で明るい。現実に見ることの出来る生き物と、霊的な存在と、土地に根づきつつ世界を広げてゆく人々の未来が、渾然一体となって輝くように見える。海蛇は龍神の使いとして、平和にして自在なる国境を形作るのだ。蝸牛はその形を以って、日本の神器の力を宿し、琉球もまた日本の霊的源泉たる本来の形を取り戻す。肉ではなく霊から形作られているように透ける守宮は、まるで小さな龍のように琉球海路を、その果てに広がるアジアを見守るのである。ここに示される光景が、本来の沖縄であり、沖縄人が悪夢の鎖を断ち切るときの眼差しであろう。





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