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2016年7月22日金曜日

【短詩時評 23枚目】絵と短歌の国のアリス ながや宏高×柳本々々-描くこと・読むこと・歌うことのあわいで-



大喜利的現代短歌というか、平成狂歌とでも呼べる作風が今とみに目立ってきている。…岡野大嗣の第一歌集『サイレンと犀』は、その代表格に数えられるだろう。…
機知に富んでいて、とても面白い。鋭い社会風刺にもなっている。その一方で、作風はきわめて匿名的であり、くっきりした作者像を感じにくい。おそらくは、意図的にそういうものを殺している。
……
(木下龍也、伊舎堂仁の)こうした歌も、あるいは同じ括りとして論じられることがあるだろう。
少なくともこの二〇一〇年代においては、権力への風刺の役割を果たせる「大喜利的短歌」の方がずっと社会的に有効だし、人々に求められているリアルな言葉だといえる。そして、今、真実を叫ぶときは匿名的文体でなければ危険だという状況が、現代短歌にも確かに反映されている現実を、直視したいと思う。
 

(山田航「短歌月評 匿名の大喜利」『東京新聞』2016年1月17日夕刊)

【絵は気づいている】


柳本々々(以下、) こんにちは、やぎもともともとです。きょうは、現在『かばん』の編集人であり歌人のながや宏高さんをゲストにお招きして〈絵と短歌〉をめぐるテーマについて少しお話してみようと思います。ながやさん、よろしくお願いします。

ながや宏高(以下、) よろしくお願いします。

 まずどうしてこの〈絵と短歌〉というテーマを取り上げたいかというと、去年安福望さんの短歌と絵のアンソロジー『食器と食パンとペン』(キノブックス、2015年)が出版されました。ネットでも「短歌版深夜のお絵描き」と題して定期的に短歌に絵をつけるイベントが行われています。また歌誌『かばん』においても表紙絵を去年は東直子さんがずっと担当されていて、今年は少女幻想共同体さんが担当されています。今年の少女幻想共同体さんは杉崎恒夫さんの歌集『パン屋のパンセ』の中の歌から幻想的な絵を描かれている。

これらの歌につけられた絵をみていて私が思うのは、歌が絵に出会うことによってそれまでにはなかった短歌のイメージや、解釈の発想源を引きずり出すことがあるということです。〈絵と短歌〉という照応関係はそれまでなかった歌の位相を引きずりだすように思うんですね。

 今年度のかばんの表紙を担当してくださっている花さん(少女幻想共同体)と打ち合わせのメールをしていた時に、『パン屋のパンセ』の短歌はけっこう暗くて鬱っぽい、という話になりました。

杉崎さんの短歌は文体の温かさやユーモアの効果で全体的に明るめな印象、読後感を与えていますが、言葉の意味だけを単純に取り出すとたしかに暗くて鬱っぽいところがあります。それを絵にしようとすると表紙絵も暗くなってしまう恐れがありました。死や終わりを歌にすることが多いので、言われてみればその通りです。絵に描こうする人の「気づき」ってすごく面白いなと、花さんとやりとりしながら思いました。

 絵を描くひとだけが短歌に対して気づくポイントがあるって興味深いですね。またその気づいたポイントから絵を描いていくことによって短歌の言葉の磁場が変わることもあるってことですよね。

基本的に短歌を読むという行為は、〈言葉で言葉を説明する〉という意味に回収させてしまう行為なんですが、短歌に絵を描く行為は、〈言葉に絵を添加する〉という行為なので、言葉や意味が決定されるわけではなく、もうひとつの新しい空間をつくりだしますよね。言葉と絵をいったりきたりするという。その往復関係が空間になっていく。ながやさんのお話でいえば、杉崎さんの明るさでも暗さでもない、そのどちらも行き来するような空間をつくりだす行為というか。だから短歌に絵を描くって、解釈や説明とも言い切れない不思議な行為だと思うんですよね。

 短歌を絵にしようと思ったときに、身もふたもないかもしれませんが、おそらく言語外の表現をどう描くかで苦労して、そこをどう描くかが「短歌の解釈」になる。どう描いたのか、どう描こうとしたのか探っていけばおのずとそれは短歌評にもなるはずです。でも、かといって読み方とか答えを提示するためだけに絵を描いてるわけではないでしょうし、短歌が読者に解釈を委ねる領域があるのと同じだけ、絵の方にも見た人に委ねられる領域がありますよね。

 そうですね。そういう〈外〉の空間、外部からいろんなひとがやってこられる空間が生まれていくのも絵の強みかもしれませんね。

「絵を描く」って行為は〈言語外の表現〉ともおのずと向き合うって行為なんですね。それはときにそのまま「短歌評」にもなるし、また「短歌評」に帰着しないかたちでもうひとつの新しい〈場所〉や〈空間〉をイメージとして提出することもある。今お話していて〈短歌と絵〉のキーワードとして〈場〉や〈空間〉というものが出てくるのかなと思ったのですが。


【安福望さんとワンダーランド】

 たとえば、安福さんにとっての短歌、というか安福さんの好きな短歌ってワンダーランドなんじゃないかっていうことをよく思うんです。安福さんの絵は人間と動物が一緒にいたり、人間と食べ物や風景のサイズが逆転していたりすることが多いですよね。

 ああ、そうですね。食べ物が巨大で、食べ物そのものが家だったりとか、巨大なケーキの上に男の子やクマがいたりだとかそういう安福さんが描くワンダーな〈空間〉や〈場〉がありますよね。

 選ばれている短歌も夢の中だったり、不思議で幻想的な世界観を持っています。「不思議の国のアリス」とか「注文の多い料理店」のような、というとざっくりしすぎかもしれませんが、短歌からワンダーランドを感じ取って、安福さんなりのワンダーを絵で表現しているのが『食器と食パンとペン』なのかなと。

 今お話をきいていて思ったんですが、安福さんの著書『食器と食パンとペン』というタイトルも、「食器(場所)」と「食パン(食べること)」と「ペン(描くこと)」なんですよね。そういう〈場所〉と〈食べ物〉と〈描線〉がひとつの〈絵〉として昇華されているのが安福さんの絵なんじゃないかという見方もできるのかもしれませんね。そういうアクロバティックでワンダーな複合の仕方は、絵のダイナミズムそのもののような気もします。

 逆に、作者像が見えすぎる歌というか近代短歌は絵にしづらいのでは、という気がします。もし斎藤茂吉とか与謝野晶子の歌を絵にしようと思ったら苦労なさるんじゃないかと勝手に思っています。強すぎる個(一人の人間が背負うものが大きすぎる)はワンダーランドではなくて、地に足の着いた、今を生きる現実世界になってしまう気がしますし、淡い色づかいとも相性が悪いと思います。

 なるほど。それは絵と近代短歌をめぐる全般的な問題なのかもしれませんね。近代短歌は〈個〉の強度が強いから、〈場所〉として描こうとすると相性がどうしても悪くなるのかもしれません。あと、近代短歌を絵に描いてももしかしたら逐語訳のような〈そのまま〉になってしまうので絵として面白くないというのもあるかもしれない。〈わたしはこうなんだよ!〉っていう歌の意味の強度がはっきりしてるから。

近代短歌は〈個〉への求心力が働くので〈場〉というむしろ力が放射状に拡散していくような〈空間〉としての絵を描こうとするとどうしてもベクトルの相性が悪くなっていく。たとえば水彩の淡い色使いも拡散し浸透し放射状的な空間をつくりあげていくものなので、これが〈わたし〉だ! これこそが〈わたし〉なのだ! っていうコアを前面に押し出すような近代的な〈個〉とは相性がわるくなる。近代短歌自体が構造として絵や空間をあえて排斥していくようなところがあるのかもしれない。だからもし近代短歌を〈近代短歌的〉に絵にしようとすると近代絵画のようながっしりした油絵のような絵になってくるのかな。

 なので、安福さんの絵が世に広まっていったことと、岡野大嗣さん、木下龍也さんたちを中心とした、「匿名の大喜利的な短歌」が増えてきたことって密接な関係にあるのかなと。

 「匿名な大喜利的な短歌」というのは今回冒頭に引用した山田航さんの短歌月評による言葉ですね。「匿名」と「大喜利」というとネガティブな印象をもちそうですが、山田さんは必ずしもそれを否定的にとらえるのではなく、むしろ時代の趨勢として、「匿名」と「大喜利」の批評性をとらえています。

 短歌としては特定の人間の人生を背負わない匿名の歌の方が、不思議で幻想的な世界にしやすいと思いますし。安福化するときにもきっと表現の自由度が高いのだと思われます。


【みんなのうた】

 今までのながやさんとのお話の流れでちょっと私が思ったのは〈匿名〉ってある意味で〈みんな〉と言い換えることもできると思うんですね。〈わたし〉でもあり〈あなた〉でもあり〈みんな〉でもある。

安福さんの絵の男の子や動物の眼の〈点=●〉というのは大事な〈眼〉だと思っていて、この眼が〈わたしの表情〉というよりは、〈匿名=みんなの表情〉と結びついているようにも思うんですね。この男の子は〈わたし〉ではなく〈あなた〉かもしれないし〈みんな〉かもしれない。〈個〉ではなく〈場〉における〈瞳〉のありかたです。たとえばあえて図式的に言うと〈少女マンガ〉では瞳が緻密に描かれるけれどそれは〈内面〉をその緻密さに比例して描きこむからですよね。だから〈個=あたし〉が重視される。〈あたし〉の気持ちはこうだ! っていうことです。けれど、安福さんの瞳は〈空間〉や〈みんな〉を志向した瞳のようにも思うんです。もちろんそれは安福さんの絵のモチーフでもある〈反復〉ともつながっていくはずです。反復っていうのは〈個〉が〈みんな〉化することですから。

 安福さんの絵に登場する人間と動物の表情は喜怒哀楽がはっきりわかることがほとんどありませんよね。取り上げられている短歌の作中主体の表情とはまた別のレベルで独自に、安福さんの絵の中の人物たちは無表情になっています。

状況の有り様が淡々と描き出されていて、その〈空間〉にいるのが誰で、何を思っているのかわかりません。でもその分いろいろな感情を想像して当てはめることができるし、鑑賞する人の数だけ表情があるとも言えます。確かに〈みんなの表情〉と捉えるほうが本質的ですね。

もしかしたらあらゆる顔の表情を足して、それを足した数で割ったら無表情になるのかもしれないな、なんて気がしてきます。

 なるほど。無表情という表情の方が現在では〈豊かな表情〉かもしれないなともちょっと思いました。安福さんの絵から、現在の〈表情のドラマ〉のありかたを文化に接続して考えてみると面白いかもしれませんね。〈みんなの表情〉はどこのあたりに定点を持っているのだろうか、とか。2011年以降、〈笑う表情〉や〈泣く表情〉といった〈感情的な表情〉をわたしたちはある意味でずっと問われてきているような気もします。

ところで〈場〉につなげながら話してみると、わたしは「大喜利」というのも〈みんなのうた〉と言い換えることができるような気がするんです。「大喜利」としての〈みんな〉という〈場〉の志向。テレビ番組の『笑点』をみているとわかるんだけれども「大喜利」って〈座の芸〉だと思うんですね。お題がでて答えてさぶとんをもらったり取られたり隣の人間をいじったりいじり返したり〈座〉の丁々発止のなかで〈わたし〉が光っていく。そうすると「大喜利」って実は〈みんな〉とも通じているように思うんです。みんなの中でわたしを考えることっていう。

 「場」があって、そこにあつまる「みんな」の共同作業としての大喜利は、おもしろいことを言った人だけのものではないというか、お題をふる人、答える人、つっこむ人、それを見て笑う周りの人がいて成立しているんですね。

 『かばん』2016年6月号に「酵母と桜」という高柳蕗子さんや山田航さんの特集が組まれましたよね。読んでいて思ったのですが、お二方とも基本的に〈個〉ではなく、〈場〉から短歌を読まれる立場の方だと思うんです。そういう評論がきちんとしたかたちで出始めている。〈みんな〉という名称もちょっといろいろ使用するのにまずいところはあるんですが、〈わたし〉から歌を読んでいくというよりは、〈みんな〉の枠組みのなかにおける〈わたし〉の差異みたいなものへの感受性が出てきていると思うんです。〈場=みんな〉を常に意識する。

 高柳さんは、歌語が複数の歌人によって詠み重ねられることで成長していくということを『短歌の酵母』の中で書かれていています。また、「闇鍋」という短歌と俳句と川柳のデータベースを作成し、参照しながら評論を展開していますし、視点が〈場=みんな〉に向いていると思います。
山田さんも状況に敏感な方で、統計データを用いた評論の潮流に対して「批評ニューウェーブ」という捉え方をしていましたね。

 そういう〈場の力学〉のなかで短歌を考える評論が出ているということですよね。で、それは同時に〈そう考えさせる短歌〉が時代の趨勢として出てきているってことでもあるのかなと思うんです。
木下さんや岡野さんの歌集を読んでいておもうのは、〈わたし〉を詠むというよりは、〈みんな〉のことを詠んでいるきがしたんですね。木下さんは〈みんなのネガ〉を、岡野さんは〈みんなのポジ〉を。山田さんが『桜前線開架宣言』で木下さんの短歌における〈死〉、岡野さんの短歌における〈システム〉を指摘されていたけれど、たぶんそれって〈みんな〉というテーマでもあると思うんですね。死は葬式をみてもわかるけれど共同的なものだし、システムもみんながそこに埋め込まれているものですよね。

 決して〈わたし〉がないわけではないけれど、たくさんの人たちがいる共同体の中の〈わたし〉、システムの中の〈わたし〉というふうになっていて、〈場〉を中心に世界が回っているように思えますね。


【ふたたび、ワンダーランドへ】

 そうですね、〈わたし〉が不在なわけではなく、〈わたし〉を詠むと必然的に〈場〉を詠み込まざるをえないというか。

さいきん〈BL短歌〉にイラストをつけたものもよくみるんですが、BLっていう枠組みだってある意味では〈みんな〉のなかの〈わたし〉ですよね。関係性の枠組みだから。誰と誰が関係を組むかが大事であって、〈わたし〉ひとりでは成立しない。

ながやさんが先ほどワンダーランドを描くっておっしゃったのも、〈場〉の重視であって、〈わたし〉の放棄だと思うんです。先日たまたまティムバートンの映画『アリス・イン・ワンダーランド』を観ていたんですが、不思議の国のアリスの主題って〈場〉のルールの特権化であって、いかに〈わたし〉がないがしろにされていくかってところにおもしろさがあると思うんですね。不思議の国の住人が言語文法に忠実すぎていて狂っているようにみえたり、アリスのからだが大きくなったり小さくなったりする。あの国には〈わたし〉がいない。


 不思議の国に迷い込むと現実世界を生きていた〈わたし〉が薄くなっていくのかもしれませんね、『千と千尋の神隠し』も同様のテーマがあったように思います。名前を奪われるとか、豚になっちゃうとか。

 基本的に宮崎駿アニメーションはいかに〈わたし〉を放棄するかみたいなテーマがあるのかもしれませんね。ナウシカの人身御供的ラストシーンなんかまさにそんな気がします。〈わたし〉に固執するとムスカみたいに瓦礫ごと落下していくしかないというか。

 確かに、そういえば魔女のキキが空を飛べなくなっていたときって〈わたし〉の現状について悩んで苦しんでいたときで、再び飛べるようになるのは利他的になれたときでしたね。
アリスのからだのサイズが変ってしまうのも、世界から〈わたし〉が外されてしまう感じがゾクゾクする興味深いシーンです。

詠む側と読む側、どちらも歌の世界(ワンダーランド)に入り込んで、そのなかで想像と創造を繰り広げていくのだとしたら、高柳さんの「歌の外を見ない」評論はあたりまえになっていくし、BL読みも当然できるようになっていくわけですよね。

 自分自身にとって〈外〉をどうとらえるかが各人大事な問題になってくるっていうことですね。詠むときも、読むときも。


 その歌をつくった人がどんな人かっていうこととか、短歌史の文脈よりも、歌の世界をみんなで楽しむっていうことのほうにエネルギーが向かって、そこに場が生まれる。安福さんの絵もこうした流れの延長線上にあるのだと思いました。

 短歌というジャンルが不規則的にあちこちの領域にアクセスできる形態になってきているのかもしれませんね。今までは非接続的だったのが、どこかの地点で接続的になっていて。岡野さんや木下さんの歌集の帯文を長谷川健一さんや尾崎世界観さんという短歌ではなく音楽の世界の方が書かれているのも象徴的だと思いました。山田航さんの『桜前線開架宣言』の帯文に社会学的な文化記号が羅列されてあったのも象徴的だと思いましたし、なによりあのピンク色の表紙が短歌の〈外部〉に向けられたものでもあるのかなと感じました。あのピンクを眼にしたときにふっとなぜか岡崎京子の『pink』を思い浮かべたりもしたんですが。

 木下さんや岡野さんたちが前線にいる今の短歌(が持っている世界)って、「あるある」とか、「共感」とか、「大喜利」というよりは、〈みんな〉がアクセスしやすいオープンワールドなのかなと、柳本さんとお話しながら思いました。作品のなかの〈わたし〉が強いと、読者と作品、もしくは作者との対峙になります。もちろんそれはそれで楽しめるし自由な解釈だって可能ではあるんですが、オープンワールドならより自由に、より好きにできます。


 ああ、接続性って「オープンワールド」的ということなのかもしれない。


N 安福さんの「わたしの好きな短歌」っていうのはオープンワールド的な自由さがありつつ、安福さん自身がその世界にアクセスしやすい短歌、なのではないかと思いました。さきほど「安福さんの好きな短歌ってワンダーランドなんじゃないか」と言いましたが、改めて言い直すなら「オープンワールド型のワンダーランド」と言えるかもしれません。


 そもそも今回の話は〈絵と短歌〉というジャンルをまたぐテーマだったんですが、ながやさんがおっしゃた「オープンワールド」という言葉のように〈短歌〉というジャンル自体がすでにさまざまな隣接ジャンル、いや隣接していないようなジャンルとさえ混淆しているのかもしれませんね。そういうジャンルの越境を考える視点も〈絵と短歌〉という主題は与えてくれるように今回ながやさんとお話させていただいて思いました。ながやさん、きょうはありがとうございました。


 ありがとうございました。機会があったらまたお話しさせてください。


【ながや宏高さんの自選歌五首】

公園の砂場の砂にでもなっていつか遊んでもらうのが夢 
玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ 
思い出は魚群のように集まって大気の中を泳いでめぐる 
自販機の前は明るい ドッペルゲンガーのひとりとして笑おう 
すれ違うだけで十分うれしいよひとり乗り用のUFOだし 

【ながや宏高さんのプロフィール】


2016年度短歌誌「かばん」編集人




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