2016年6月24日金曜日

【抜粋「俳句四季」7月号】「俳壇観測 連載第162回/関悦史の独自性 ―――震災・社会性をめぐる若い世代」より抜粋  筑紫磐井



 「オルガン」という若い世代が最近創刊した雑誌を見てみる。毎号特集で座談会を行っており、第四号(二〇一六年二月)では「震災と俳句」と言うテーマを取り上げていた。中身を詳細に取り上げるのは頁数の関係で難しいが、座談会に先だって、宮本佳世乃(編集人)が震災俳句に対する質問を出し、各自が回答を提示しているのでこれを抜粋する。


○宮本佳世乃
「震災や時事を取り扱った俳句について、感想を求められたときに何も言えなくなってしまう。ある意味暴力的だと思う。」

○福田若之

「たとえば

双子なら同じ死に顔桃の花  照井翠 
「揺れたら関なの?」「じゃあ私も関」「じゃあ俺も」    御中虫 
瓦礫みな人間のもの犬ふぐり 高野ムツオ

といった句は僕には受け入れがたいものです。それはこれらの句が、震災と同様に、かけがえのないもののかけがえのなさを脅かすものであるように思われるからです。」

○鴇田智哉
読者として「俳句という形式は「震災俳句」に適していない」

作者として「以前と以後とで、私は確実に変わった。言葉を発する私自身が変わったのであるから、発せられる言葉も当然変わるに違いない。」

「私は「震災を」詠むのではなく、震災を蒙った私が「何かを」詠むのである。」

○生駒大祐
どう思っているか「作者としても読者としても関心がない」
どう関わっているか「避けようとしている」

○田島健一
「俳句は何かに「ついて」語ることをしない。俳句が何かを語るのではなく、俳句それ自体が語られるべき事態そのものである。」「個々が向き合うのは、顕在化しない自分自身の「現実」である。」


いわゆる「震災俳句」に批判的である。これは世代的な特徴であるかも知れない。座談会本文に触れないで言うのは早計であるが、全般的な特徴は「無関心」と言うことであろうか。それが個々によって、「受け入れがたい」「暴力的」という否定的評価と、震災を受けた個々の内面なら許容できるという限界評価などに分かれるようだ。いずれにしても、安保法案に反対する金子兜太とは対極的である。

     *       *

私は雑誌の編集もしているので、その意味で「オルガン」の編集動機に関心が持たれる。書いてある記事以上に、その背景にある編集意図を推測するのである。たぶん無関心であればこのような特集はしない。関心がないと表明することはひとつの態度であり、むしろ積極的な関心である。強いていえば、この雑誌の関心は、ある種の反「震災俳句」・反社会性であると読むことが出来るかも知れない。


※詳しくは、「俳句四季」7月号をご覧ください。







1 件のコメント:

  1. これは単に評者の能力の問題では。
    >感想を求められたときに何も言えなくなってしまう

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