2016年6月24日金曜日

【抜粋「WEP俳句通信」92号】 連載 <三橋敏雄「眞神」考5>より抜粋  / 北川美美


「円錐」69号 特集/戦後派俳人作品を鑑賞する -読む。時を、我を。―
の座談会において、山田耕司氏は三橋敏雄論を書く難しさから話をはじめている。

山田 さて、三橋敏雄。 三橋敏雄論は書きにくい。それは素材と句の関係を追うだけで収まりがつくわけでもなく、季語や定型においてどこかにかたよらせてくりあげることもできず、『眞神』に至っては難解で歯が立たないというような傾向があるからだと思います。

難解で歯が立たないというような傾向>― 論客である山田さんがそういうのである。確かに難解である。三橋敏雄カッコイイ!だけでもいいのかもしれないが、どう読んだらよいのか、何故カッコイイのか、『眞神』への興味は尽きない。

2010年秋に山田耕司×北川美美にて書簡<三橋敏雄を読む>を交わしていた。開始間もなく、震災が起き、書簡を続けるどころではない状況となり立ち消えになってしまった。その後開始となった、詩客そして当ブログに継続掲載の<「真神」を誤読する>、タイトル命名は、実は、山田さんとの会話で生まれたもので、「誤読」ということで相当気持ちが楽になり勝手なことを書きつづけ、また気が大きくなったことも確かである。 

円錐における「戦後俳句」特集は現在も続行しているので、山田さんの三橋句についての論考を読むことはこれからも可能だろう。

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さて本題。「WEP俳句通信」に於いて88号より<三橋敏雄『眞神』考>として連載を開始している。「WEP俳句通信」ではすでに67号に於いて<問題としての三橋敏雄>という特集を組んでおり、三橋敏雄句の論考掲載に積極的である。豈掲載の拙文<三橋敏雄句の「淋しさ」の変容>をご覧の編集部から連絡があったのがこの連載のきっかけだった。「戦後俳句を読む」において三橋敏雄鑑賞をはじめてから、五年が経過していることになる。


『眞神』は三橋敏雄第二句集である。(敏雄の句集は、収録作品の制作年順の刊行ではない。)。有名句「絶滅のかの狼を連れ歩く」が収録されている句集といえば解り易いかもしれない。制作年で昭和40年―48年、昭和48年10月に端渓社より刊行された。現在は、邑書林文庫として『真神・鷓鴣』が読める。


私は三橋敏雄の句集中、「眞神」が芸術性高い作品であると思っていることは現在も変わりがない。おそらくそれは、前述の<難解で歯が立たない>ことに所以しているといえよう。

WEP俳句通信での<「眞神」考>は当ブログでの「『真神』を誤読する」に加筆・修正を加えたものであるが、新たな発見もある。しかしながら<「眞神」考>においても誤読であることに変りはないのである。

4年前の <「真神」を誤読する>のテーマ解説としてこんなことを書いている。
【『眞神』を誤読する】 テーマ解説  北川美美(詩客)初出:2012年1月20日  》見る






【「眞神」考⑤】では、39句目-57句目を鑑賞するもので、句集収録順の鑑賞である。【「眞神」考⑤】特徴としては、「なし」という不在の措辞が三句含まれていることだろう。

「なし」とは今、目の前にない不在ということだ。無いことを詠むとはどういうことなのか、いくつか概略を紹介してみたい。

(39)真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし 

 中七の詠嘆「や」を受けての下五「なし」により一気に意気消沈となる。特異なのは、「燃えてなし」として、今、ここに存在しないものを詠うということだろう。写実でもなく空想でもない、存在の不在という事実である。
「真綿ぐるみ」で保管された「ほぞの緒」は、干からびた繊維質の生体になり、人が人と管で結ばれこの世に来た証でもある。管が切れた後の個としての繋がりが見えてくる。親子、友人、恋人、夫婦、社会、国家…、世界は実際には目にみえない繋がりで結ばれている。
「なし」という不在を即物的に云うことにより、もともと目にはみえない人との繋がりがリアルな存在として逆に浮かびあがる。それは超五感により作用するのではないだろうか。
(後略)

(45) さかしまにとまる蝉なし天動く  

蝉は鉛直線上すなわち重力の方向と反対に頭を上に静止している。その他の止まり方を見たことがない。鉄棒で振り子状に半身を逆様にして、蝉の様子を見ていたのだろうか。「なし」につづく「動く」という措辞が視点の動きを示し躍動感が増す。また「天動く」に時間経過があり、しばらく蝉の声を聴きながら蝉を見ていることが想像できる。


(55) 草荒す眞神の祭絶えてなし

(前略)
別の側面として、この句に於いても新興俳句先師たちの弔いの意が「眞神の祭」にあることが考えられる。「絶えてなし」とは再起しないことであり、末裔も残党も新興俳句には無く、新しい俳句のみが存在するだけだ、という目標に向かう宣言と解すことができ痛快さがある。
 新興俳句は、やがて既成俳壇を席巻する勢いを示していったが、昭和十五、六年にかけて国家権力が介入し、数字にわたる弾圧を受けるにおよんで壊滅した。(「渡辺白泉全句集」帯/三橋敏雄/沖積舎)



その他、掲載鑑賞句をいくつか紹介してみる。


(48) 野を蹴つて三尺高し父の琵琶歌 
(前略)
上掲句は、先人の巨匠たちを意識する心象として父の「琵琶歌」が詠まれ、「三尺高し」(注:近世で罪人を三尺高いところに縛りつけたという意味がある)は新興俳句弾圧ということが頭をよぎる。そのもろもろを「野を蹴つて」いく、つまり既成概念や過去の呪縛から解放されることを言っていると推測する。

(53) 沸沸と雹浮く沼のおもたさよ
一見、雹が浮く沼の写実を詠嘆した句である。氷の粒である「雹」に対して、煮えたぎる、あるいは沸き出る意の「沸沸」を使用している。確かに沸騰する湯の状態は底から湧いているにも関わらず、物が投げ込まれているように見え、激しい落雹の状態が伝わるのだが、現実のベクトルは句の表現とは異なる。よって掲句は写実でありながら創作である。  
落雹であるならば、降下方向(↓)となる筈であるが、措辞「沸沸と」「浮く」を用い、その方向を上昇(↑)させ矛盾が生じている。更に「浮く」に反して「おもたさ」を置き、句の中に言語の相反関係がある。言葉の持つベクトルの向きの違いをひとつの作品に収め、物理的にはあり得ない言語上の景を表現している。ここに俳句形式に於ける芸術性があると言えるのではないか。
(後略)


当ブログでの<「真神」を誤読する>も続行予定。
ラベル: 「真神」を誤読する 》見る



【「眞神」考】、詳しくは、【WEP俳句通信92号】をご覧いただければ幸いである。





92号以前はAmazonで購入可能な号もある。



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