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2016年4月22日金曜日

【短詩時評 17○】歌集の冒険-中家菜津子歌集『うずく、まる』批評会レポート@中野サンプラザ-  柳本々々




  うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前  中家菜津子
  (中家菜津子『うずく、まる』書肆侃侃房、2015年)

 二三分して、細君は障子の硝子(ガラス)の所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿を覗いて見た。夫はどう云う了見か両膝を曲げて海老のように窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肱に挟まれて顔がちっとも見えない。
  (夏目漱石『門』1910年)

 エストラゴンは、坐って、靴を脱ごうとする。しかしじきにあきらめ、からだを丸めて、頭を両足のあいだにつっこみ、両手を頭の前で組む。
  (ベケット、安堂信也・高橋康也訳『ゴドーを待ちながら』白水社、1990年)


先日、2016年4月17日に中野サンプラザで行われた「中家菜津子歌集『うずく、まる』批評会」に参加してきました。第1部は「野村喜和夫さんに聞く 詩型は越えられるか」という野村喜和夫さんに加藤治郎さんがお話を聞く形の短歌と詩の接点や境界をめぐる対談、第2部は「パネルディスカッション『うずく、まる』をめぐって」司会は中島裕介さん、パネラーに石川美南さん、遠藤由季さん、染野太朗さん、藪内亮輔さんが登壇されそれぞれの立場から歌集の分析とディスカッションが行われました。

その批評会のなかでパネラーの方々のお話をききながらずっと考えていたのが、〈うずくまる〉身体のバランスとアンバランスだったんです(ちなみにこの「アンバランス」というのは当日のひとつの鍵語にもなっていました)。

うずくまる、って自分でしてみるとわかるんだけれど、〈へん〉なんですよね。なにか、バランスがよくて、かつ、アンバランスなんです。たとえばうずくまってみるとうまくうずくまれなかったりして〈ぐらぐら〉したりしますよね。妙にアンバランスで体勢維持がなかなか難しい。どうも本来的な姿勢ではない。ふだんナチュラルにしているようなデフォルトの体勢ではないんです。けれどもその一方で、おそらくわたしたちが胎児の頃にずっとうずくまる姿勢をとっていたことからもわかるように、どこかでなにかに包まれているような、あたたかい〈母胎回帰〉的な姿勢でもあるように思うんです。つまり異様にバランスの取れた姿勢。その極端なバランスとアンバランスのはざかいにあるのが〈うずくまる〉身体なのではないかと。

で、なんでこんなことを考えていたかというと、当日の批評会で(私が感じた)主なキーワードとしてあがっていたことばが二つあったんです。

それは、〈自走性〉と〈ステレオタイプ〉です。

〈自走性〉っていうのは、わたしの意図や意志をこえて言葉が勝手に走っていく感じで、たとえば上の中家さんの歌なら、「まる/ゆる/まる/なる」と〈音〉が歌のベクトルを引っ張っていく部分があるわけです。意味ではなくて。言葉が〈自〉分で〈走〉っていく〈性〉質を帯びている。これが〈自走性〉です。

〈ステレオタイプ〉というのは、決まりきったイメージのことです。ああこれよくみたことあるよね、というのがステレオタイプ。テンプレートという言い方もされていました。たとえばこんなふうな女性の描き方はステレオタイプじゃないかという使い方がされます。

で、ちょっと不思議だったのがこの〈自走性〉と〈ステレオタイプ〉って実は相反するものなんじゃないかと言うことなんです。〈自走性〉っていうのはわたしの意図や意志やイメージをこえて言葉の音律によって勝手に言葉が言葉によって引きずりまわされていくことですから、ステレオタイプのイメージをはみ出していくはずなんです。ところがこの歌集にはそうした〈自走性〉がある一方で、〈ステレオタイプ〉のイメージを感じさせる部分がある。これがとても不思議だなあと思いながら、お話を聞いていたんです。なんだろうこれは、と。

で、この〈自走性〉と〈ステレオタイプ〉のバランス/アンバランスのありようって〈うずくまる身体〉そのものでもあるんじゃないかと思ったんです。なにか極端に相反するベクトルがあって、で、それを統合できないかたちで、不穏なかたちでパッケージングしているのが〈うずくまる〉という様式なのではないかと。それはバランスとアンバランスに、ステレオタイプと自走性をつねに包含しつつ、引き裂かれている。うずくまる身体のぐらぐらしている感じと、そうでありながらも超越的ななにかに包まれ還っている感じ。

つまりそれってなにかというと歌集としての〈全体性〉によってはじめて到達できている〈全体性〉としての〈相反したイメージ〉だとおもうんですよ。歌の一首単位では浮かび上がってこないものが、歌集というパッケージングによってうずを巻きながら浮かび上がってきた。短歌一首一首だと出てこない働きのようなものが歌集単位として、〈全体性〉としてみるとなんだかふしぎな感じで現出してきた。

それはこう言い換えてもいいかもしれない。

歌集をつくるということは、どういうことなのか?

今回の批評会の第1部で野村喜和夫さんと加藤治郎さんのおふたりがおっしゃっていたことに〈詩集をつくること自体は創作そのものである〉という言葉があったんです。それは〈あるひとつのコンセプトを提出するものである〉と。なにかそこには一首や一句をこえた〈創作行為〉がでてくるっていうことです。そしてもしかしたらそれはときに書き手や語り手の思惑をこえてあらわれることもあるかもしれない。たとえば未来の読者がそのコンセプトをひっぱりだしたりするかもしれない。

野村さんと加藤さんの対談をきいていたときに私は思ったんですが、歌集や句集、詩集というのはひとつの〈全体性の希求〉なんですね。それまで一首単位や一句単位ではわいてこなかったものが〈全体性への希求〉によって出てくる。それを書き手や読み手は、歌集・句集・詩集としての全体的なパッケージングとして受け取る部分がある。

つまりそれってなんなのかというと、〈場所が与えられる〉ということなんではないかと思うんです。

わたしたちはなぜ歌集/句集/詩集を読むのかというとそれは〈場所を受け取る〉ためではないかと。その書き手/語り手のいようとする/いてしまった〈場所〉を考えるためではないかと。わたしたち自身もその〈場所〉へとダイヴしながら。決して場所化できない場所を〈共に〉かんがえること。トポスとしてのうずに巻き込まれること。それが歌集を読むことじゃないかと。

その意味で示唆的だったのが、当日パネラーだった藪内亮輔さんのレジュメだったんです。藪内さんのレジュメの引用歌の組立方が、歌集に掲載されている順番通りにそのままレジュメに歌を並べ、構成し、配置し、テーマ分割し、再組織化していくというふうにつくられたレジュメだったんですね。

つまり、藪内さんは自らの枠組みは用意しながらも、読者が歌集をはじめから終わりまでページをめくりながら読んでいくように、それをたどり、追体験するように、レジュメを構成していった。それは藪内さんがこの歌集にひとりの〈渦のなかに入った読者〉として〈場所を与える〉という行為だったと思うんですよ。そしてそのことによって〈場所を与える、ことを考える〉契機がうまれる。

そのとき私は、ああ歌集を読むっていうのはそういう自らの場所性と歌集の場所性が接近し、ずれ、不穏なうずを、らせんを、重なりを、つくっていくことかもしれないなと思ったんです。

歌集によって〈全体性〉は希求される。しかし、提出された〈全体性〉というのは、読む過程で〈未遂〉もしていく。それが読むことの生態的ダイナミズムです。そこには全体性が逸脱していくような〈不穏な全体性〉がでてくる。でもそのらせん的なズレによってこそ、わたしたちは歌集を読みながらその歌集を〈何度も〉生き直してゆくことができるのかなとも思うんです。

だから、わたしたちが歌集を旅するというのは、そういった〈不穏な渦(うず)〉に巻き込まれていくことなのかなと思うんです。それが今回の批評会をとおして、中家さんの歌集『うずく、まる』をとおして、わたしが、たぶん、到達した場所だったんです。

歌集とは、生きられる《うず》なんだ、と。


 ばらばらになったあばらを海原にばらまけば
 渦潮
 しばらくは未来にしばられる
 一度も晴れたことのない素晴らしい闇に浮かぶ
 銀河
 そのまばらに散った青い星の上に
 荊の蔓を渡るバランスであなたは立っている
 散緒(ばらお)が切れるまでのあいだ


  (中家菜津子「散緒」『うずく、まる』書肆侃侃房、2015年)

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