2016年3月18日金曜日

第39号

-豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定
各賞発表プレスリリース
攝津幸彦賞(関悦史 生駒大祐 「甍」
筑紫磐井奨励賞          生駒大祐「甍」
大井恒行奨励賞  夏木久「呟きTwitterクロニクル」
募集詳細





  • 3月の更新第39号3月18日



  • 平成二十八年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

    (3/25更新)春興帖、第二曾根 毅・木村オサム・渡邉美保


    (3/18更新)春興帖、第一仙田洋子・仲田陽子・杉山久子

    (3/18更新)歳旦帖、第八北川美美・中西夕紀・筑紫磐井


    【毎金連載】  

    曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
      …筑紫磐井 》読む

    曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む

    • ♯45   まぶしい闇 … 矢野公雄 》読む
    • ♯46   Giant Steps … 九堂夜想  》読む
    • ♯47   夜の端居  …  西村麒麟  》読む
    • ♯48   得体のしれないもの … 山岸由佳  》読む

            【対談・書簡】

            字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
            その2 中西夕紀×筑紫磐井  》読む
            (「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ」過去の掲載は、こちら )
            評論・批評・時評とは何か?
            その14 …堀下翔×筑紫磐井  》読む 
            ( 「評論・批評・時評とは何か?」 過去の掲載は、こちら
            芸術から俳句
            その4 …仮屋賢一×筑紫磐井  》読む  
            ( 「芸術から俳句へ」過去の掲載は、こちら



            およそ日刊「俳句空間」  》読む
              …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
              •  3月の執筆者 (柳本々々…and more. ) 

               大井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 

              【鑑賞・時評・エッセイ】
                朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (百五~百八)
              …網野月を  》読む 
              【短詩時評 15校目】蟻まみれの転校生が読む『桜前線開架宣言』 
              -ブルデュー・山田航・小池正博-   
              … 柳本々々   》読む



              <前号より継続掲載>
              【短詩時評 14時】フローする時間、流れない俳句 
              ―『しばかぶれ』第一集の佐藤文香/喪字男作品を読む-
              柳本々々 × 喪字男  》読む 


               【俳句時評】 『草の王』の厳しい定型感 -石田郷子私観 -
               (後編) …堀下翔  》読む               (前編)  》読む
              【句集評】 『天使の涎』を捏ねてみた -北大路翼句集論ー
              (びーぐる29号から転載)  …竹岡一郎   》読む     序論 》読む 

              【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
              …堀本 吟 》読む 

              リンク de 詩客 短歌時評   》読む
              ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
              ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





                  【アーカイブコーナー】

                  new! 川名大論争 アーカイブversion1  》読む

                  週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                      あとがき  》読む
                      ★under construction


                      【告知】

                      冊子「俳句新空間」第5号発刊予定!(2016.02)








                      筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                      <辞の詩学と詞の詩学>
                      川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 




                      筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆
                      最近の名句集を探る











                      特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                      執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                      特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                      執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                       【時壇】 登頂回望その百五~百八 /  網野月を

                      その百五(朝日俳壇平成28年2月14日から)
                                                 
                      ◆邪魔になる葉を一つ取るシクラメン (小樽市)辻井卜童

                      稲畑汀子の選である。評には「二句目。水を切らすとすぐ萎えるシクラメン。邪魔な葉を取るのも世話のうち。」と記されている。俳句における叙述の緊張感はあまり感じられない句である。シクラメンの手入れの方法の実践本に掲載される文言のようでもある。中七の「・・る」と座五の季題が連続するような読みも出来るところがあるので、いわゆる散文的な叙法を感じるのかも知れない。それにしてもシクラメンを世話した経験のある人には実感として感じられる句であろう。

                      ◆大雪の日曜日とて猫来る (長崎県小値賀町)中上庄一郎

                      長谷川櫂の選である。評には「二席。ぽっかりあいた空白のような大雪の日曜日。その中をよぎってゆく猫がいい。」と記されている。「大雪」は二十四節気であろうか?去年二〇一五年の節気「大雪」は十二月七日で月曜日であった。「おおゆき」と読めばカレンダー的には問題ないが、そんな荒天の日に「猫来る」ことがあり得るであろうか。
                      兎も角、寒い日に猫が訪ねて来てくれることにはほっこりした感じがあり、「大雪」と「日曜日」の取合せの中で、「日曜日」の一時の憩いに軍配を上げたかたちになっている。

                      ◆落葉掻く木影のごとき翁かな (沼津市)林田諄

                      大串章の選である。評には「第二句。翁が木の間で静かに落葉を掻いている。「木影のごとき」が言い得て妙。」と記されている。この「翁」はこの景の中に同化していると思われる。上五の「落葉掻く」という動作をしているのだが、一瞬をとらえて写真にしたような句作りである。それにしても「翁」は古めかしい語彙ではないだろうか?

                      ◆廃屋にあらず暮雪に灯したる (米子市)中村襄介

                      大串章の選である。最近の句には「廃屋」や「空き家」が多いようである。それぞれ田舎であったり、都会であったりで使い分けているようだ。掲句は閑村の景であり、「暮雪」の「灯し」は叙景句の王道である。





                      その百六(朝日俳壇平成28年2月22日から)
                                               
                      ◆日向ぼこ日本は海に寝転んで (長野県川上村)丸山志保

                      金子兜太と長谷川櫂の共選である。兜太の評には「丸山氏。日本列島自体が太平洋に寝転んで日向ぼっこの印象。自分もその列島の一人。」と記されている。日本列島はほぼ南北に細長いので、太平洋の西の隅で横になっているように見えるかも知れない。そんな事を空想しながら日向ぼっこしてウツラウツラしているのだろう。

                      ◆春よ来い母に記憶のあるうちに (東京都)山内健治

                      長谷川櫂の選である。評には「一席。もう一度、見せてやりたい春。やはり記憶に値する地球の麗しい春。」と記されている。同感である。筆者の実母は二十年前に他界したが、義母は健在である。ただ記憶の方は覚束なくなっている。今年の春を記憶に留めておいて欲しいと願いばかりだ。上五は「春よ来い」と命令形で呼びかけになっている。座五は「あるうちに」と条件を示しているのだ。口語俳句の旨味を上手に使いこなしている、と言ってよいだろう。

                      ◆マスクして都会を泳ぐ魚なり (廿日市市)和泉忠伸

                      大串章の選である。筆者の勝手な解釈だが、「魚」は人を表しているように読んだ。加えて「魚」は複数形であって、したがって人々、もしくは都会にいる人の群れくらいの意に解してみた。とすれば、インフルエンザの保菌者も、また感染しない様に用心している人たちもどちらもマスクが手放せないでいる都会に生活する日本人の生態を活写していることになる。

                      ◆大声を出すは控へて福は内 (北海道鹿追町)高橋とも子

                      稲畑汀子の選である。評には「三句目。小さな声で福は内と豆を撒く」と記されている。大人になると恥ずかしさから屋外での豆撒きに声のトーンを控えたりするものだ。うちの中では比較的大きな声を出していてもだ。子供たちはそうでない。隣家の元気な子供の声が聞こえてくると、ふっと暖かい気分になったりする。これは都会の景なのかもしれない。

                      その百七(朝日俳壇平成28年2月29日から)
                                                
                      ◆着膨れて脳裏の軍歌声にせず (津市)田中保男

                      長谷川櫂の選である。評には「一席。「声にせず」の思いをひそかに思いやる。「着膨れて」に存在感あり。」と記されている。昨今の世相は政治が右寄りな分、庶民の言動は右翼思想や人種差別的言動を嫌うようになっている。それは全く自然なことなのであろうが、旧軍人の命をかけて戦った誇りと戦友との深い絆を確かめる意味合いでの「軍歌」も一方では存在するのだ。評にあるように「着膨れて」の状況の呈示と、「軍歌声にせず」の行為はたとえ詩の世界でなくとも緊張感をうみつつ、相互が一直線上に存在しない事もあって、この微妙な捻れ現象が掲句の枠組みを大きくしている。
                      筆者は全くの平和主義者である。誤解の無いように願いたい。

                      ◆落葉籠底抜けてゐてなほも立つ (東京都)望月清彦

                      大串章の選である。底抜けして壊れ果てている落葉を入れる籠である。背負うほどの落葉籠であろうか、底が無くとも立っているのである。役立たずになっても立ち続ける籠には、一抹の寂しさと共にプライドも感じてしまう。男性句の典型であると考える。

                      ◆ただ姉の顔見るだけの寒見舞 (西宮市)山際ヨネ子

                      稲畑汀子の選である。評には「一句目。共に齢を重ねてきた姉妹。訪れても、元気な顔を見るだけで別れてきた。寒中を見舞う作者の優しさ。」と記されている。句意には評以上の何かがあるように思われる。何らかの理由で話が交わせないのであろうか、と。十七音の中には表現していないので、読者が勝手に解釈すればよいことだろう。但し、どんな読みをしたところで評のように作者の優しさを感じ取ればいいのである。座五の季題「寒見舞」の包含する世界が十分に描かれているからだ。上五の「ただ・・」と中七の「・・だけ・」の重複が少々煩いように感じる。

                      ◆老いれば乾く春愁は慈雨である (三郷市)岡崎正宏

                      金子兜太の選である。評には「岡崎氏。春は老人の心身ともに乾く季節だが、春愁がこれを潤してくれる。」と記されている。評の言う「春は老人の心身ともに乾く季節」なのであろうか?まだ解らない筆者だが、評者のような年齢の方が仰るのだから異論を挟む余地はないかも知れない。
                      乾いた老人の心が動いたのだ。たとえそれが「春愁」であったとしても、心が動いた事実だげで、十分に潤いを齎してくれるのだ。




                      (「朝日俳壇」の記事閲覧は有料コンテンツとなります。)

                      【短詩時評 15校目】蟻まみれの転校生が読む『桜前線開架宣言』-ブルデュー・山田航・小池正博-  柳本々々



                       山田(航)は自身のインターネットサイト「トナカイ語研究日誌」のなかで、膨大な歌人の作品を読み、評をのこしている。調べものをしようとして、歌人の名前を検索サイトに入れると、必ずといってよいくらいこのサイトが検索結果にあがってくるほどだ。この、だれに頼まれたわけでもない「千本ノック」のような行為自体、山田とその短歌のもつ特徴をよくあらわしている。それは、がむしゃらさ、にがさ、孤独、でもあきらめない、ロマンチックな側面、ださかろうとかっこわるかろうと有無をいわさない情熱、こつこつと築きあげていく力。
                        (梅崎実奈「山田航/無数の声の渦に紛れよ」『桜前線開架宣言・紀伊國屋書店新宿本店限定購入特典』201512月)

                       余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗うが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あって、この世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。
                        (夏目漱石『文学論』1907年)

                       現代における成熟とは他者回避を拒否して、自分とは異なる誰かに手を伸ばすことーー自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙へ手を伸ばすことに他ならない。
                        (宇野常寛「時代を祝福/葬送するために」『ゼロ年代の想像力』ハヤカワ文庫、2011年)

                        島宇宙から島宇宙へと枢機卿  小池正博
                        (小池正博『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、20163月)


                      社会学者のピエール・ブルデューが提唱した概念に「文化資本」というものがあります。

                      ブルデューがそれによって指摘したのは、眼に見える財産(貨幣)という経済資本だけでなく、ひとは〈文化〉も資本としてもっている。知識や教養、学歴や趣味、価値観なんかもそのひとの資本なんだ、そういう文化資本によってそのひとをめぐる固有の〈場〉のありかたも変わってくるんだということだったと思うんです。そういうふだんは眼にみえない資本を「文化資本」と呼んだ(もちろん、眼にみえる形においても自宅の本棚の文学全集やリビングに流れるクラシック音楽なんかもひとつの「文化資本」となるでしょう)。

                      そういう文化資本をもってひとは文化のなかで言葉をつむぎながら自分の位置を移動していきます。〈場〉をめぐってブルデューはこんなふうに述べています。

                       私が〈場(シャン)〉と呼ぶのは、統計的社会学を行う人々が考えるような、たんなる人々の集合、個人の総体のことではないのです。ひとつの社会的構造、個人達に課される諸関係からなる一つの空間のことなのです。……〈場〉の概念を、私は物理学から借りて使っています。〈力の場〉と、そこに入ってくる分子、すなわち個人を、想像して見ることが出来ます。一人の作家に起こるであろうことを理解するということは、彼の上に働くであろう諸々の力を理解するということです。
                        (ピエール・ブルデュー、石田英敬訳「セミナー 文学場の生成と構造-ピエール・ブルデューを迎えて-」『文学』19941月)

                      ここにあるのはひとりの表現者をその〈内面〉からとらえるのではなく、ひとりの表現者がどのような文化資本を携えながら・どのような場で・どのような諸関係を結びつつ・どのような力学のもとで〈表現〉という力学的移動をしていくかという〈場〉をめぐる考察です。ブルデューにとって、文学や文化や社会とは「はじめに言葉ありき」ではなく、「はじめに場ありき」なのです(或いは「はじめに文化資本ありき」)。

                      先日、現代短歌のアンソロジーが上梓されました。山田航さんの『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』(左右社、201512月)です。私はこのアンソロジーが画期的な理由のひとはつねに短歌や歌人がおかれる〈場〉への意識を研ぎ澄ましていることにあるんじゃないかと思うんです。たとえば山田さんはこんな「まえがき」から始めています。

                       ぼくは大きな勘違いを一つしていた。寺山修司から短歌に入ったぼくは、歌集というものをヤングアダルト、つまり若者向けの書籍だと思い込んでいたのだ。短歌が世間では高齢者の趣味だと思われていたなんてかけらも知らなかったし、実状をそれなりに知った今でも心のどこかで信じられない。どうせなら、ぼくと同じ勘違いを、これから短歌を読もうとする人みんなすればいいと思う。みんなですれば、もう勘違いじゃなくて事実だ。 ぼくは短歌のおかげで大人にならなくて済んだから、今はとても楽しいです。
                         

                      (山田航「まえがき」『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』左右社、201512月)

                      ここにあるのは〈短歌〉が「高齢者の趣味」としての高齢者の〈文化資本〉でしかなかったことの〈愕然〉であり、しかしそこから出発することによって、〈文化資本〉としての〈短歌〉をもういちど〈べつのかたち〉で〈アンソロジー〉として位置づけ直そうとする〈毅然〉ではないかとおもうのです。

                      実際、本書のなかにおいても山田さんはこんなふうに歌人をめぐる〈場〉を解説されています。たとえば野口あや子さんの解説を引用してみようと思います。

                       野口あや子という歌人の貴重な資質は、「地方都市のヤンキー層の女性」という文化的背景を抱えたまま、そういった層の「言葉にならない言葉」をすくい上げることに成功していることだろう。それは「東京のインテリ層の男性」という、社会的に特権を持っているポジションの者から見れば眉をひそめるようなものも少なくないかもしれない。しかし、ぺらぺらと流暢に話す強者の言葉など、文化は一切必要としていない。  (前掲)

                      ここで問われているのは、言語を発する〈場〉そのものです。ブルデューの研究によって多くの学問が自己反省的に学問自身のおかれている場の権力性を自己言及的/再帰的に問われたように(つまり、学問とは〈何か〉、ではなく、学問をしているおまえは〈誰〉か、が問われた)、山田さんが短歌をとおして問いかけているのは、短歌とは何かであると同時に、短歌を詠んでいる/読んでいるあなたとはいったいどこに・誰としている〈なにもの〉なのか、という〈場〉をめぐる問いです。もちろんそれはこのアンソロジーを読んでいる読み手も(そして今書いているこの〈わたし(柳本々々)〉も含めて)ただちに問いかけられるものなのです。だれも安全な領域にいることは許されない。すべての人間が〈前線〉にひっぱりだされ、みずからの言語的・文化的位置を問い直される。それがこの『桜前線開架宣言』なのです。

                      〈東京〉に住むということそのものも〈文化資本〉であるという〈東京的無意識〉も〈浮き彫り〉にさせながら、そこにありとあるフロンティアを拮抗させつつ、脱臼させること。たとえば雪舟えまさんの短歌のこんな解説をみてましょう。

                       「土地」というのが実は雪舟えまの短歌を読むうえでとても重要な要素である。土地と交感し、楽しみ、ときに一体化して睦み合う。しかし決してその土地に埋もれることはなく、故郷すらも旅人のようにしか歩けない。…… このような思想は、札幌という近代以降に生まれた年だからこそ育まれた、全く新しいタイプの土俗性だ。近年の雪舟は東京から北海道小樽市へと移住し、北海道を舞台とした小説にも挑戦を始めている。しかし内容はSF的だったりする。これは「北海道的想像力」としてむしろ自然なことであり、北海道に現代日本文学のフロンティアがあることを予感させてくれる。  (前掲)

                      「前線」をあちこちに〈陣地戦〉的にさがしだし、ありとある無数の「前線」を引くことによって、中央で特権化された「前線」を突き崩すこと。それもまた本書のひとつの特徴だとおもいます。「桜前線」とは〈固定〉せず〈移動〉する〈前線〉そのものなのですから。

                      「あとがき」を山田さんはこんなふうに締めくくっています。

                       ハイ・カルチャーとしての短歌に安穏としないで、何らかの権威に対しての「ノー」の突き付けがあること。現代日本文化のエッジとして力を発揮している歌人たちを、揃えてみたつもりです。 二十一世紀は短歌が勝ちます。この本で選んだ四十人がきっと、九八年のワールドカップ日本代表みたいになりますよ。  (前掲)

                      「ハイ・カルチャーとしての短歌」という固定化された〈文化資本〉としての〈短歌〉ではなく、〈文化〉の〈場〉のなかでさまざまな諸関係を結びつつ、〈文学場〉だけでなく、〈文化場〉のなかで文化の力学をそのつどそのつど即応的に切り崩していくこと。その意味で、〈場〉のゲームをめぐる〈サッカー(ワールドカップ)〉や「現代日本文化のエッジ」という「文化」という言葉で最終的にこのアンソロジーが結ばれていることはとても興味深いことだと思います。いわば、〈文化の場〉とはなにかを問うかたちでこのアンソロジーは終わっているからです(ちなみにタイトルの「前線」という言葉もつねに読み手に〈場〉を想起させるトポロジカル(位相的)な言葉です)。

                      ここで先日上梓された小池正博さんの第二句集『転校生は蟻まみれ』(編集工房ノア、20163月)をみてみたいとおもいます。小池さんは「あとがき」をこんなふうに書かれていました。

                       「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を越えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。
                        (小池正博「あとがき」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア、20163月)

                      私はこの「「川柳」は何も支えてはくれないからだ」という言葉がとても印象的だったんですが、この言葉は実は山田さんのアンソロジーと期せずして通底している言葉でもあるのかなと思ったんです。つまり、「短歌/川柳」を恩寵としてそこから主体を受け取るのではなく、いまある〈場〉のなかで〈場〉を意識しつつそこから「短歌/川柳」を一時的〈前線〉として送り出していく主体です。

                        慢心はいけませんねと左馬頭  小池正博

                         ぞろぞろさまよう雨後のソグド人  〃 

                        五秘密の顔のひとつが分からない  〃

                         アウトなど阿部一族は認めない  〃

                      句集を読んですぐに気がつくのは語り手の〈文化資本〉をめぐるタームが頻出することです。「左馬頭」(日本史的教養)、「ソグド人」(世界史的教養)、「五秘密」(宗教史的教養)、「阿部一族」(文学史的教養)。

                      ここでは明らかに語り手のもつ〈文化資本〉をめぐる〈場〉が意図的に前景化しています。ところがそれと同時にもうひとつの特徴がある。それは、そうした教養的な〈文化資本〉的なタームを用いながらも、川柳という構造/文体のなかで構造的に卑俗化させることです。

                      「慢心はいけませんねと~」「ぞろぞろさまよう雨後の~」「~の顔のひとつがわからない」「アウトなど~は認めない」などの文体のなかに埋め込んでいくことで、〈教養的ターム〉を〈卑近な文体〉にひきずりおとす。

                      この句集の語り手はこうした〈文化資本的言辞〉と〈非・文化資本的言辞〉のはざかいとしての〈前線〉をたえず送り出しているように私には思われるのです。それが語り手にとっての川柳をつむぐ独特の場所なんじゃないかと。そう考えたときにこの句集のタイトルにもなっているこの句の意味もおのずとわかってくるように思います。

                        都合よく転校生は蟻まみれ  小池正博

                      「転校生」とは何かを考えた場合、転校生とは、名目上学校に所属していながらも、いまだその場のルールを内面化しきれていない点でその学校にとっては〈他者〉的存在でもあります。そこに所属しつつも・所属しきれない存在、それが「転校生」なのです。わたしはこの句集の語り手のひとつの特徴はそうした「転校生的語り手」としての位置性としてあるんじゃないかとも思うんです。どこかの〈場〉に置かれとどめながらも・そこに属することをしようとはしない〈転校生〉のような語り手。そしてそのただでさえ、〈前線〉を規定することが困難な「転校生」という位置性に「都合よく」や「蟻まみれ」といった位置性に対する恣意的なノイズを加えていく。そのことによって〈前線〉はさらに問い直されていくのです。
                         戦争に線がいろいろありまして  小池正博

                      ピエール・ブルデューの理論を考える理論、山田航さんの現代短歌を考える現代短歌アンソロジー、小池正博さんの現代川柳を考える現代川柳句集。

                      以上を通過しながら私がいま思うのは、〈前線〉というものは今やたえずあちこちに〈散在〉してあるものじゃないかということです。その〈遍在〉する〈前線〉に対して、めいめいがおのおのの固有の〈場〉を意識化しひきうけながら、(全体と全体がとっくみあう〈機動戦〉ではなく)部分的に〈陣地戦〉的言語/文化活動を繰り広げていくこと。

                      それが、いま、要請されていることなのかなと、おもうんです。桜は、もう、すぐそこです。

                        これからは兎を食べて生きてゆく  小池正博

                        ざわめきとして届けわがひとりごと無数の声の渦に紛れよ  山田航





                      2016年3月4日金曜日

                      第38号

                      -豈創刊35周年記念-  第3回攝津幸彦記念賞発表
                      ※受賞作品及び佳作は、「豈」第59号に、作品及び選評を含めて発表の予定
                      各賞発表プレスリリース
                      攝津幸彦賞(関悦史 生駒大祐 「甍」
                      筑紫磐井奨励賞          生駒大祐「甍」
                      大井恒行奨励賞  夏木久「呟きTwitterクロニクル」
                      募集詳細




                    • 3月の更新第39号3月18日



                    • 平成二十年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

                      (3/4更新)歳旦帖、第七真矢ひろみ・小沢麻結
                      水岩瞳・西村麒麟

                      (2/26更新)歳旦帖、第六下坂速穂・岬光世・依光正樹
                      依光陽子・竹岡一郎・陽 美保子
                      (2/19更新)歳旦帖、第五神谷 波・早瀬恵子
                      望月士郎・山本 敏倖
                      (2/12更新)歳旦帖、第四浅沼 璞・坂間恒子・網野月を
                      近恵・前北かおる・内村恭子
                      (2/5更新)歳旦帖、第三青木百舌鳥・しなだしん・五島高資
                      仲寒蟬・佐藤りえ・石童庵
                      (1/29更新)歳旦帖、第二堀本 吟・渡邉美保・林雅樹
                      小野裕三・ふけとしこ・木村オサム
                      (1/22更新)歳旦帖、第一もてきまり・小林かんな・堀田季何
                      杉山久子・曾根 毅・夏木久

                      (2/19更新)冬興帖、追補…北川美美
                      (1/22更新)冬興帖、第九竹岡一郎・田中葉月


                      【毎金連載】  

                      曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
                        …筑紫磐井 》読む

                      曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む

                      • ♯ 41  2016年2月、福岡逆立ち歩きの記―鞄の中に『花修』を入れて― … 灯馬  》読む
                      • ♯ 42 世界の行進を見る目 … 大城戸ハルミ  》読む
                      • ♯43   『花修』の植物と時間 … 瀬越悠矢  》読む
                      • ♯44  伝播するもの  … 近 恵  》読む


                            【対談・書簡】

                            字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
                            その2 中西夕紀×筑紫磐井  》読む
                            (「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ」過去の掲載は、こちら )
                            評論・批評・時評とは何か?
                            その14 …堀下翔×筑紫磐井  》読む 
                            ( 「評論・批評・時評とは何か?」 過去の掲載は、こちら
                            芸術から俳句
                            その4 …仮屋賢一×筑紫磐井  》読む  
                            ( 「芸術から俳句へ」過去の掲載は、こちら



                            およそ日刊「俳句空間」  》読む
                              …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
                              •  3月の執筆者 (柳本々々…and more. ) 

                               大井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 

                              【鑑賞・時評・エッセイ】
                                朝日俳壇鑑賞】 ~登頂回望~ (百~百四)
                              …網野月を  》読む 
                              【短詩時評 14時】フローする時間、流れない俳句 
                              ―『しばかぶれ』第一集の佐藤文香/喪字男作品を読む-
                              柳本々々 × 喪字男  》読む 



                              <前号より継続掲載>
                              【短詩時評 十三形】久保田紺と吉田知子 
                              -わたしに手を合わせるおまえは誰だよ-

                              柳本々々  》読む 
                               【俳句時評】 『草の王』の厳しい定型感 -石田郷子私観 -
                               (後編) …堀下翔  》読む               (前編)  》読む
                              【句集評】 『天使の涎』を捏ねてみた -北大路翼句集論ー
                              (びーぐる29号から転載)  …竹岡一郎   》読む     序論 》読む 

                              【特別連載】  散文篇  和田悟朗という謎 2-1
                              …堀本 吟 》読む 

                              リンク de 詩客 短歌時評   》読む
                              ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
                              ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





                                  【アーカイブコーナー】

                                  週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                                      あとがき  》読む


                                      【告知】

                                      冊子「俳句新空間」第5号発刊予定!(2016.02)








                                      筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                      <辞の詩学と詞の詩学>
                                      川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                                      筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆










                                      特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                                      執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                                      特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                                      執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                                      【短詩時評 14時】フローする時間、流れない俳句 喪字男×柳本々々-『しばかぶれ』第一集の佐藤文香/喪字男作品を読む-



                                      【めぐりあう時間/俳句たち】

                                      柳本々々(以下、Y) どうもこんばんは、もともとです。きょうは俳句の方から喪字男さんをゲストにお招きして去年の年末に発行された俳誌『しばかぶれ』を軸に喪字男さんと俳句と非・俳句の〈あわい〉のような場所についてお話できたらなと思っています。

                                      喪字男(以下、M) こんばんは。僕がTwitterを引退したことで、みなさんがましゃロスみたいなもじょロスになって仕事を休んだりしてないか心配でなりません(笑)。僕は今、養育費を稼ぐのにちょっと頑張っています。生きていますのでどうかご安心を。

                                       はい(笑)。喪字男さんは今回の『しばかぶれ』のプロフィール欄にも「最近、ツイッターから足を洗いました」と書かれていましたね。

                                      で、この『しばかぶれ』(第一集・2015年11月)という俳誌なんですが、この号は中山奈々さんの特集号で中山奈々さんという表現者が多面的にわかる面白い誌面構成になっていて奈々さんの表現を立体的に知るためにはとても参考になるというか必読の俳誌なんですが(今月第2週の「フシギな短詩7[中山奈々]」『およそ日刊「俳句新空間」』にて中山奈々さんの俳句と〈傷〉をめぐって取り上げさせていただく予定です)、それだけでなくこの『しばかぶれ』の中の俳句作品の連作の構成も少し変わっているんですね。たとえば佐藤文香さんの「ヒビのブブン」という俳句作品はすべて横書きで掲載されています。これは「●SNS編」という小タイトルもあってネット用語が埋め込まれている句もあるのでむしろ横書きの方がナチュラルな感じもするんですが、すこし引用してみましょう。

                                        何んとらーめん(送り仮名それでうp)  佐藤文香

                                        # 秋(ハッシュタグアキ)へ何グラムか、写真  〃

                                        銀やんま夜を引用RT         〃


                                      たとえばこれを縦書きにするとハッシュタグなんかもまったくふだん見慣れない感じになるので横書きはナチュラルといえばナチュラルですが、考えてみるとふだんわたしたちが短詩にまず出会うのって〈横書き〉から入っているのかなという感じもします(今この記事も〈横書き〉なわけです)。

                                       確かにTwitterっぽい感じですよね。2ちゃんねるが便所の落書きならTwitterは水洗トイレでそのまま流れていくみたいな印象があるのですが、それを作品のモチーフにしたというのは意味深ですよね。頭がこんがらがりそうです。

                                       たしかにTwitterのタイムラインやLINEのトーク画面みたいに横書きだとフローというか流れていく感じがありますね。ひとつひとつの言葉が残る、というよりは、流れていくなかで全体的なまとまりとして〈感触〉をつかんでいく、流れていく言葉の群れみたいなものが流れながら風景みたいになっていく。

                                       横書きの俳句というのは不思議な感じですよね。「俳句は刺さる」というのも縦書きならではのことのように思います。

                                       「刺さる」っておもしろい表現ですね。そうか、縦書きだと〈刺さる〉かんじが出てくるんですね。

                                      M じゃあ、横書きにすれば刺さらずにどうなるのでしょう? 仮に握ったらどうなるかを考えると縦なら刺さりますが、横なら握り込められる? いや、すり抜ける?

                                       そうですよね、横にするか縦にするかでたしかにベクトルの感じが変わってきますよね。下にどすんと刺さっていくのと、横に川のように流れていく状態っておなじ言葉の連なりでも意味の生まれ方が変わってくる感じがします。

                                        横が川なら縦は滝、みたいな感じでしょうか?

                                       ああ、なるほど。滝は落ちたらもとには戻らないけれど、川なら逆流もありうるかもしれない。そう考えるとおもしろいですね。

                                       流れという意味では、横書きになって面白いのは少し長い短歌なのかもしれませんね。急降下の感じがなくてもっと、ドテッとした感じといいますか。

                                       たしかに言葉の質量や重量が変わってくるかもしれない。Twitterの140字がもし縦書きだったらもっとどかっと感じがあったかもしれないし。たしかに17音のたて/よこと31音のたて/よこでも質感が変わってきますよね。この佐藤さんの連作も17音という〈短さ〉のせいか、それとも季語が入っているせいか、ネット用語が埋め込まれていて横書きでももネットの言葉という感じがあんまりしないんですね。むしろネットと俳句のあわいの緊張感のなかに置かれた言葉のようにも思う。

                                       ネットと俳句のあわい、よくわかります。そういえば、佐々木貴子さんが最初の師匠に俳句を送った時「さあ、深呼吸して肩の力を抜き、縦書きのノートをあなたは横書きに書いてみましょう。今回は無修正で、全部にまるをあげる」と言われたそうです。僕はこのエピソードがなんだかとても好きで、よく思い出します。

                                       そのエピソードをうかがって今思ったのは、たぶん縦書きで書いていたものを横書きにすることで、或いは、横書きで書いていたものを縦書きにすることで、それまでみえなかった〈縦書きの無意識〉や〈横書きの無意識〉みたいなものが見えてくるのかなとも思います。気づかなかったことにふっと気づく、というか。たとえば太るとやせていた頃の自分にきがついたり、やせると太っていた頃の自分の感覚に気がついたりとか。この文香さんの連作も〈縦書き〉ですとんと刺したり落としたりできないような〈引っかかり〉を感じるんです。たとえば、


                                        君は鮭♂つぶやきを遡る  佐藤文香


                                      とか、これってたぶん語り手はツイッターのログをスクロールして上から下へ上から下へどんどんさかのぼっていると思うんですが、いつまでもスクロールしていく感じ、落とせないあのツイッターの過去ログをさかのぼっていってもどこにも行き着かないような感じがあるようにおもう。

                                      M Twitterの過去ログというお話を聞いて思ったのですが、佐藤文香さんの今回の横書きの俳句は一句一句が単位みたいですよね。ワンブロックというか、ワンツイートというか。凝縮された新しい漢字みたいな。 あと、無季の句も多いですよね。
                                      たとえば、


                                        元彼やLINEにゐなくなつても好き  佐藤文香


                                      この句とかです。無季の句についてそんなに深く考えたことはないんですが、恋愛的な「好き」という感情を表す言葉が効いてるんでしょうか。む、難しい。


                                        台風で面白いのは君である  佐藤文香

                                        あいたいしたいやきにくちかくおねがい  〃


                                       あ、そうですね。喪字男さんがおっしゃるように、一句でもあり、ワンツイートでもあるという〈単位のあわい〉のようなところにもあるのかなって思います。この作品では「好き」や「君」や「あいたい」っていうすごく率直な言葉が出てくるのも特徴的だと思うんですが、俳句では使うのが難しい言葉だということでしょうか。

                                       僕に限って言えば「好き」「あいたい」は難しいです。歌詞っぽくなっちゃう気がして…。そっからどう外れるかばっかり考えそうで(笑)

                                      Y なるほど。ツイートだとむしろ「好き」とか「あいたい」って合いそうな言葉だけれど、俳句だとむずかしい。でも、ツイートと俳句のあわいにあるので、「好き」とか「あいたい」が微妙な質感をもってこの連作にはあるように思うんですよね。だから「好き」とか「あいたい」って率直なんだけれど、この構造のなかではその率直さが奪われて意味のあわいのようなところにあるのかもしれませんね。
                                      俳句でおもしろいなと思うのが、季語によって流れる時間が固定されるところだと思うんですね。たとえば、佐藤さんの作品も全体的に流れる言葉のなかで流れていかないものに焦点があてられているのかなとも思う。たとえばさきほど喪字男さんがあげてくださった「元彼やLINEにゐなくなつても好き」なんかもLINEという流れていくフローな言葉のメディアのなかで「好き」という固着点によってずっと〈流れない〉ものがあるというか。さっきの「台風」の句もそうですね。台風は通過していくものだけれど、「君である」といったしゅんかん、とどまってしまう。

                                       あ、台風は季語でした(笑)。

                                      Y 台風は秋の季語ですよね。季語が埋め込まれていることで、ちゃんと《これは俳句なんだよ》ってことも喚起してくる連作ですよね。だから〈あわい〉みたいなものを考えさせられる。

                                      【季語がなかったらどうしていいかわからない】
                                       で、喪字男さんの「昼寝用」という俳句作品も今回の『しばかぶれ』には載っているんですが、これもひとつの流れる時間と流れない時間をめぐる連作にもなっているのかなあとも思ったんです。この作品も少し変わった連作の構成になっていて、たとえば頭に「片目が義眼の叔父さんは、映画館で半額にしろとゴネたことがあるんで尊敬してる。」や「一日ひとこすりで一年くらいかけてオナニーしてみたい。」、「昔のドリカムの写真を見たら未来予想図から完全にはぐれた人がいた。」という〈時間〉をめぐる詞書が置いてあるわけです。私はこれは〈叔父さんの思い出〉を〈今〉の時間のなかに置き直すことや「オナニー」を「一年」という春夏秋冬の時間のなかに置き直すことを示唆しているんじゃないかとも思うわけです。そう考えると連作のなかの


                                        あの日たしかに虫籠に入れたのに  喪字男

                                        発達の遅れし子等へ小鳥来る  〃

                                        アッコにはまかせられない晩夏かな  〃


                                      など〈時間のズレ〉のようなものが作品から浮かび上がってくるのかなとも思いました。ある時間が流れているなかで、季語によって流れない時間がでてくるというか。

                                       ふむむむ。そんなに難しいことを考えていたのかどうか、あんまり覚えてはないんですが、時間をズラしたり、引き伸ばしたりっていうのはお笑いの要素でもあるんで、や、この詞書に笑ってもらえたかどうかは別として、なんですけれど。でも俳句を作るときはお笑いの要素を少し横に置くんです。というのも、俳句は笑いをとるには向いてない気がするというだけなんですけど。

                                       あー、そうなんですか。あ、でもたしかに今そう言われてみると、間に埋め込まれている「秋の夜の喪字男人生相談室」とかってお笑いの質感がありますよね。お笑いってよく〈間〉が大事だというけれど、そういう意味ではお笑いも〈時間〉との関わりが深い言語表現なのかもしれませんね。
                                      さっきの佐藤さんの連作もそうだし、喪字男さんの連作もそうだと思うんですが、流れる時間のなかの流れないものって〈喪失〉とも関係しているように思うんです。


                                        流れゆく元親友の挙式かな  佐藤文香


                                        昼寝用安定剤をわけておく  喪字男


                                      「元親友」というのは〈親友〉を喪失したときの呼称です。「昼寝用」というのも〈昼寝〉を失ったひとのための呼称です。ただ〈喪失〉ってたぶん失えないものなんですよね。一度捨てたものはひとは二度と捨てることができないというか。失ってたら「元親友」や「昼寝用」とわざわわざ言い換える必要がない。〈喪失〉したものはどうしても別のかたちでよみがえってくる。流しても流しても失っても失ってもそれはよみがえってくる。

                                       喪失、は確かにそうですね。もともとそう言った言葉を好むタイプですし、今回は特に意識にあったように思います。言われて驚きました。自分ではわからないのですが、「中年男の哀愁」とか言われることがあるのはその辺りに起因しそうですね!

                                       「中年男」っていう「中年」っていうのも〈時間のなかに埋め込まれた人間〉ですよね。ちょうど時間の真ん〈中〉にいる人間というか。
                                      失っても回帰してくるものってちょっと〈季語〉にも似てるのかなって思うんです。たとえ春が終わっても、またいずれ春はべつのかたちをとっておなじふうなふうあいでやってくるわけですよね。なんどもなんども季語を使っては、でもまたべつのかたちでまたおなじ季語がやってくる。そういう季語とむきあってる俳句って独特というか他の短詩にはない質感があるように思います。いつも流れるものと流れないもののあわいにいつづけるというか、そういう意識をもってしまうというか。

                                       季語は確かに面白いですよね。僕はなんじゃかんじゃ言いながら俳句を作っていますので、季語はついつい意識してしまいます。といっても季語についてそんなに勉強したわけでもないんで、適当なことを言うと怒られそうですが……。僕の感覚では、季語はとても便利なんです。季語をおちょくるという行為も季語あるからこそできるもので、季語がなかったらどうしていいのかわからない。ボキャブラリーがありません(笑)。なので、無季俳句や川柳って難しいなと思います。僕にとって季語は、みんなで甘えていい存在なのかもしれません。甘えさせていただくというか。これって誰かが言ってそうですね。

                                       「季語がなかったらどうしていいのかわからない」っていう喪字男さんの言葉ってとてもおもしろいと思います。ふつうは俳句をつくらない人間にしてみれば、「季語があるのでどうしていいのかわからない」の方が大きいと思うんですね。そこに俳句をつくるときのまずファーストステップの難しさがあるように思うんですが、でもだんだんと「季語がなかったらどうしていいのかわからない」の方にふっと移行するしゅんかんがある。それって俳句を表現としてとらえるときすごく興味深い問題なのかなって思いました。
                                      「季語は、みんなで甘えていい存在」と喪字男さんがおっしゃったのも季語を考えるうえでとても興味深いんだけれど、その「みんな」という意識と、でも季語を使ったときにどうしても出てきてしまう「みんなでないわたし」みたいな部分がでてくるのが俳句なのかなっていま喪字男さんの言葉をきいて思いました。それこそ一年を循環する季語のなかで「ヒビのブブン」としての〈わたし〉が出てくるというか。喪字男さんのタイトルにならうなら、「昼寝用安定剤」のように季語は「安定剤」としての「みんなで甘えていい存在」としてあるんだけれど、でも「昼寝用」のようにその用途は個人個人でべつべつのものになっていく。

                                      M そうですね。個人的な出来事が季語によってうっかり普遍性を帯びたりするのが俳句の面白い一面なのかもしれません。

                                      【洗濯をするベイダー卿】

                                       そういえば今回の喪字男さんの連作で〈暴力性〉のようなものも感じました。短詩と暴力をめぐる親和性みたいなものって前から興味をもっているんですがたとえば


                                        色彩や汗をかかなくなる手術  喪字男

                                        鼠花火を入れしバケツをかぶりたる  〃

                                        秋風が婦長の腹にぶつかりぬ  〃

                                        長き夜の外から鍵のかかる部屋  〃


                                      どれも密閉感というか閉塞感があって、しかもそれが外から強制的にもたらされてる感じもするんです。外傷的というか。「外から鍵のかかる部屋」っていうのは言ってみれば〈監禁〉だし(バケツや手術もある意味であけてとじたり、かぶせたりする〈監禁〉かもしれませんね)、「秋風が婦長の腹にぶつか」ることで秋風がなんだかバイオレンスなものになっている。こういう暴力と俳句をめぐっては喪字男さんはどのように思われていますか。もちろんここには直接的な暴力を感じさせる言葉はないけれど、それを予期するものがある。

                                      M 暴力的な言葉も好きです。たぶん、俳句にあんまり使われてない感じがするんだと思います。直球が投げられないので変化球しか狙わない!的な発想で情けない限りなんですが……。でも今の言葉って暴力的ですよね。僕が子供の頃は「凄い!」ってやたら言ってたんですが、今の子供達は「エグい!」っていうんですよ。ものすごく気軽に。そういうのは面白いなって思うんで使いたくなるんですよね。よく今の人の言葉遣いを嘆く人がいるじゃないですか。でも、俳句自体は真逆な存在ですよね。古典っていうか。じゃあ、合わせたらどうなるんだろう? ってなります。

                                       その喪字男さんの〈取り入れ〉に関していうと、喪字男さんの句に、


                                        長き夜のダース・ベイダー卿の息  喪字男


                                      という句がありますがこれって『スターウォーズ』のダースベイダーのことですよね。これ初めて見たとき私はダースベイダー好きだったのですごく面白いとお思ったんですが、なにが面白いかっていうとちゃんと〈俳句〉になっているんですよね。『スターウォーズ』って俳句化できるのかっていう驚きがありました。ダースベイダーの息の〈フーパー〉って音ってみんな気になってると思うんですがそれを季語の「長き夜」とかけあわせて「息」に趣がでている。ベイダー卿の「息」がひとつの風情のようになっていてこんなことも俳句でできるのかという。また「ダースベイダー」という呼び捨てじゃなく「ベイダー卿」という言い方もおもしろいですね。語り手とダースベイダーにはある〈関係〉がある。その関係性も生きていますね。

                                      M 普段から正式名称って気になる方で、というのも、関西だと「ちゃんと言わんでええから!」みたいなツッコミが返ってくるんですよ。それに、ダース・ベイダー卿あるいはベイダー卿と一回口にしてみると、何回か言ってみたくなる感があるのですが、この感じをわかってもらえる人がリアルでは皆無なので、不安なまま投句しました。なんで言いたくなるんでしょうか? 優越感なのでしょうか……。

                                       優越感もひとつの関係性ですもんね。これも考えてみると、流れる時間のなかの流れないもの、つまり〈フーパー〉と流れるベイダー卿の息のなかでそれでも季語によってとどめおかれたものなのかなあと思います。

                                      M あ、そうそう、僕は生活感が好きなんです。洗濯物が山積みなのに風鈴が吊るしてあるとかそういう感じ。人が生きてる感っていうか。気取ってない部分っていうか。そういうことなのかもしれません。

                                       なるほど。ここまで「フローする時間、流れない俳句」をめぐってお話してきましたが、最後に「洗濯物」という〈日々の生活のなかで洗濯として流れながらも・洗濯物としてとどめおかれる生活物〉が出てきたのが興味深いなと思いました。
                                      それではここらへんで終わりにしましょう。ありがとうございました!


                                      【喪字男さんの自選句五句】

                                      春一番次は裁判所で会おう 

                                      たまに揉む乳房も混じり花の宴 

                                      対UFO秘密兵器として水母 

                                      長き夜のダース・ベイダー卿の息 

                                      病棟にマグロ解体ショーのデマ





                                      • 『しばかぶれ』

                                      堀下翔、喪字男、佐藤文香、中山奈々、田中惣一郎、小鳥遊栄樹、青本瑞季、青本柚紀
                                      俳句同人誌「里」所属メンバーのうち、40歳以下の若手が結集した作品集。中山奈々旧作100句、田中惣一郎による奈々論ほか、同人の新作を多数掲載。
                                        (「21回文学フリマ東京エントリー」より)


                                      • 喪字男(もじお) 
                                      一九七四年大阪府生まれ。二〇一二年より屍派に導かれ作句開始。「エロティック・セブン vol.1」「彼方からの手紙 vol.9」に参加。「里」同人。(『しばかぶれ』同人プロフィールより)



                                       【時壇】 登頂回望その百~百四 /  網野月を

                                      その百(朝日俳壇平成28年1月11日から)
                                                                 
                                      ◆枯野果つ信号を見て人の世へ (彦根市)阿知波裕子

                                      稲畑汀子の選である。評には「一句目。好きに歩ける枯野が終わり、現れたのは信号のある道である。人の世と分けた面白さ。」と記されている。自然と人工の対照、自由と束縛の対照などは日常では同居しているもので判然としないものである。混合していると言ってもよいだろう。作者は、「枯野」と「信号」にその境界線のあることに気付いたのだ。自然から人工へ、自由から束縛へと移行する方が、その逆に人工から自然へ、もしくは束縛から自由へ移行するよりも明確に差異に気が付くことだろう。

                                      ◆顔見世やはねて日頃の貌となり (千葉市)谷川進治

                                      稲畑汀子の選である。評には「二句目。年末を彩る歌舞伎の顔見世で楽しんだ表情を、日常の顔へ戻すとは妙。」と記されている。東京の銀座(旧木挽町)にある歌舞伎座の顔見世興行は十一月である。昨年は例年同様に「吉例顔見世大歌舞伎」と銘打って、「松竹創業百二十周年」「十一世市川團十郎五十年祭」の副え題も付けられている。十一代目のひ孫にあたる堀越勸玄が初お目見得もあって盛況であった。歌舞伎の世界は十一月が年度の始まりである。吉例と称して、座の大看板の役者から花形の役者まで一堂に勢ぞろいするのが習わしだ。評の通り貌を戻すことになるのは役者ではなくて観客であろう。思わず力が入って役者と一緒に表情を作って観ているものだ。
                                      最近は松竹も大規模になり、大阪松竹座をはじめ、京都四条の南座、新橋演舞場、明治座などなどにも興行を拡げているので、なかなか一堂に会するとは言えないようだ。因みに大阪での吉例顔見世は十二月にずれ込んでしまう。

                                      ◆病舎の冬生も死もただ仰向けに (平塚市)日下光代

                                      長谷川櫂の選である。評には「一席。生きているときも死ぬときも、端然と横たわっている。病棟に並ぶベッド。」と記されている。厳粛な死を描写して中七から座五への「ただ仰向けに」の把握に不足を感じない。饒舌では決してなく、といって舌足らずにもならない。短詩の形を有する俳句にとって最も肝心な叙述の仕方をしている。とすると、上句の「病舎の冬」が多少弛緩して読める。


                                      その百一(朝日俳壇平成28年1月18日から)
                                                                 
                                      ◆冬帝の笑まふ一と日となりにけり (神戸市)池田雅一

                                      稲畑汀子と大串章の共選である。「笑まふ」とあるので、暖かくなった様子、過ごし易い日和を叙しているのだろう。座五の「なりにけり」は別の措辞を用いて句意を展開する仕方もあるが、掲句は言い切っている。好天のみを言いきって、他を無視しているのではない。ままの句意それのみで、この好日を表現し尽くせると作者が感じたのである。

                                      ◆私らも平和が総て嫁が君 (養父市)足立威宏

                                      金子兜太の選である。評には「足立氏。正月三が日くらい鼠さん頼むよ。」と記されている。選者は「平和」の文字に敏感である。元より、「平和」は最も大切なものである。上五中七の句意に季題「嫁が君」を配したのだ。三が日の鼠にもとっても「平和が総て」と読みたい。

                                      ◆義士の日に誘ひ合ふ友ありにけり (弘前市)千葉新一

                                      金子兜太の選である。周知のように十二月十四日である。新暦ならば一月の三十日くらいになるであろうか。作者は自らを義士に擬えて、同じく義士と見做した友人と一献酌もうというのだ。忘年会の季節でもあり、なかなかに乙なものである。座五の「ありにけり」が古風な感じを一層補っている。

                                      地方によっては討たれた側に肩入れして、吉良祭の法要が営まれる。

                                      ◆ふつとびしもの帰らざる大くしやみ (鶴岡市)野村茂樹

                                      長谷川櫂の選である。漢字が二つ「帰」「大」がある。「ふつとびし」「くしやみ」も仮名書きの方が語感が膨らむような気がする。どういう語感かはともかくも、意味合いが膨張するように筆者には思える。「くしやみ」が何かを吹っ飛ばしたのではなくて、そのものが「ふつとびしもの」のなのである。

                                      その百二(朝日俳壇平成28年1月25日から) 
                                                                
                                      ◆芭蕉忌や吾も枯野に近づきて (河内長野市)西森正治

                                      金子兜太と大串章の共選である。大串章の評には「第一句。「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る 芭蕉」を踏まえる。残る時間を大切にしたい。」と記されている。季題「枯野」は地理の分類であり空間を示しているが、「枯野」へ向かって散歩している訳ではなかろう。冬の季題であって掲句には時間を暗示する意味合いで詠み込まれている。「近づきて」は時間のそれである。評の通りである。評にある芭蕉の有名句は座五の「駆け廻る」から人生の晩年の焦燥感を滲ませているが、掲句はある種の清々しさ、安堵感を匂わせている。

                                      ◆裸木を男らしさよ女らしさよ (藤岡市)飯塚柚花

                                      金子兜太の選である。上五の「・・を」の後に何を補って読めばよいだろうか?「見るにつけ」「見做す」くらいの語彙であろうか?そうすると中七座五の「男らしさよ女らしさよ」は、その樹木の容姿か?実際(雄株、雌株)か?存在意義か?言い尽さない分、読者の想像をかき立てる句作りである。一本の樹木に両性の性質を見ているのかも知れない。とすると「裸木」はある種の人間の擬木法とでも言うべきか。

                                      ◆死に遅れたるが負目の賀状書く (下関市)山本洗脂

                                      長谷川櫂の選である。どうしても先の大戦を想像してしまう。筆者は戦後生まれで戦争を知らないが、父が出征した経験を有している。老父から戦争の話を聞く。とみに最近は戦争の話を聞くことが多くなった。

                                      この場合、「賀状」は誰宛てに書かれているのか?興味をそそるが、年に一度の「賀状」を書く度に「負目」を感じている事が主眼なのである。「賀」の文字が表現することが、大きい一句である。

                                      ◆平年の寒さに安堵することも (枚方市)中嶋陽太

                                      稲畑汀子の選である。評には「一句目。暖冬は有り難いが地球を思って温暖化を心配する。寒い朝を迎えた作者の心の推移が描けた。」と記されている。上五の「平成の」の指示する意味は何であろう?すでに二十八年を迎えた「平成」であり、十年間、二十年間の時間の中で、評の通り地球温暖化と考え合わせることも出来るだろう。また昭和と比較するところの「平成」と捉えることも出来るだろう。とするとこの「寒さ」は浮かれた気持ちを漸くおさめた、永遠に発展があることが幻想であることに気が付いた人間のことであろうか。


                                      その百三(朝日俳壇平成28年2月1日から)
                                                                
                                      ◆八勺の飛切燗や日の終り (岐阜市)阿部恭久

                                      長谷川櫂の選である。評には「三席。飛切燗とは威勢がいい。寒中の一日を熱くしめくくる。」と記されている。燗には、様々あるようだ。温る燗、人肌燗、上燗、熱燗、飛切と熱さが増すごとにその呼び方も工夫されている。一昔は燗と常温(「冷や」はかつては常温の呼び方であった)、だけであったが、昨今は冷蔵技術の恩恵で冷酒という分野が幅を利かせている。最近「日向燗」という呼び方を知った。著名なソムリエが広めていらっしゃる呼び方だそうだ。
                                      中七の切れ字「や」が「飛切燗」の威勢良さを確実に表現している。お酒の句作りは、酒を嗜む人の特権のように思う。

                                      ◆初夢の母は死にたること知らず (横浜市)山口功

                                      大串章の選である。評には「第一句。初夢に出て来た母、自分が死んだことも知らず楽しそうに話している。」と記されている。筆者も評の通りの句意であろうと思う。「初夢」ならではの吉事であろう。嬉しいことである。たとえ夢の中でも元気な母御に会えるとは何とも羨ましいことである。

                                      ◆風花の母逝きし日も舞ひしきる (伊賀市)西澤与志子

                                      稲畑汀子の選である。上五「風花の」で少々の切れを作り出している。「風花」を見ていると母親の命日の様子を思い出す、ということである。中七の「・・し」は過去の事象を呈示しているように用いられているが、座五の「舞ひしきる」の時制は現在形である。掲句のような時制の併用は俳句においては普通に行われていることである。一種の表現の常套手段と言っても良いだろうか。英語への訳の際に最も難しいポイントの一つであろう。

                                      掲句の場合、「風花」を見ているのは今現在であり、作者が母の思い出を想起している現在の出来事である。座五の「舞ひしきる」は母の命日の出来事であり、過去の事象だが、上五を受けて今現在の事象とも重なっているのだ。

                                      ◆雪吊りの弦響き合ふ村の真夜 (養父市)足立威宏

                                      金子兜太の選である。評には「足立氏。雪降る孤村の閑寂、染み入るばかり。」と記されている。評は句の空間指定の「村」を過大評価しているようだ。「村」の設定は作者の実態であり、「真夜」の時間設定のプライオリティーを空間指定より高く考えれば、「孤村の閑寂」というよりも「真夜の厳静」の句景を読み取りたい。


                                      その百四(朝日俳壇平成28年2月8日から)
                                                                 
                                      ◆雪よ降れ蝦夷人それに従ひぬ (小樽市)阿部恭久

                                      稲畑汀子の選である。評には「一句目。日本列島の北に位置する北海道。雪が降ることを諾う人々の暮らし。」と記されている。「蝦夷人」の底知れぬ強さを感じる。座五に「従ひぬ」といいながら、十分に雪に対応するよ、と言うことである。雪には負けないよ、ということである。それでも「従ひぬ」という叙述は、自然に対する敬虔な態度を含めてのものであろう。

                                      ◆冬濤の卸し金てふ海の面 (芦屋市)酒井湧水

                                      稲畑汀子の選である。評には「二句目。荒々しい冬の濤面はまるで卸し金のよう。厳しさが淡々と描けた。」と記されている。この「卸し金」は大根を卸す例の竹製の山の大きな卸しではないだろうか。生姜用の細かい山の「卸し金」は想像しにくい。卸し金の山形と冬濤の山形が重なるが、厳しさや荒々しさといった本質を取り合わせたものであると思う。

                                      ◆病妻を人形のごと梳き初め (盛岡市)松田昭雄

                                      金子兜太の選である。評には「松田(昭)氏。中七に籠もるのはやはりいとしさか。」と記されている。夫婦の愛情の濃やかさが横溢としている。「人形のごと」は座五の「梳き初め」に対して副詞的に働きかけているが、「病妻」の状態をも叙述している。淡々とした言い方に情に流されることのない、俳人としての作者の厳しい目がある。

                                      ◆するめ嚙み奥歯大敗大旦 (三郷市)岡崎正宏
                                      長谷川櫂の選である。評には「三席。相撲の行司のように囃してはいるが、一抹の悲哀。」と記されている。するめvs奥歯の構図である。相撲の勝敗も「大旦」の季題で括るとおめでたい雰囲気が演出される。季題の影響力の何と大きいことかを感じる。評にあるような「一抹の悲哀」は一種の諦念であろう。





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