2015年11月13日金曜日

 【時壇】 登頂回望その八十七~九十 /  網野月を


その八十七(朝日俳壇平成27年10月5日から)
                         
◆難民や空いっぱいの鰯雲 (西東京市)吉田悠

長谷川櫂と大串章の共選である。長谷川櫂の評には「三席。手の施しようがないという感じの鰯雲」と記されている。大串章の評には「第三句。シリア難民の姿を見ると心が痛む」と記されている。長谷川の評の中の感情はいたって客観的である。「手の施しようがない」という表現の中には難民への同情は少ないように受け取れる。難民、たぶんシリア難民だろうが、難民の様子や状況は見立てで言うならば「鰯雲」であると評しているのだ。現在の状況をどう受け取るか?どう見るか?と掲句は問いかけているのだ、と評している訳だ。それに対して大串の評は「心が痛む」と評者自身の感情を移入して掲句を読もうとしている。
作者は現地の様子を行って見て来たのであろうか。テレビその他の報道で知ったのであろうか。テレビなどを通じての見地は、特に政治的にシビアな問題は、何かの媒体を介すると弱まる気がする。

◆往復の道しるべかな彼岸花 (札幌市)香田眞梨子

大串章の選である。座五の季題「彼岸花」はその花の色彩故に目立つものである。道標にするには持って来いのものであるかも知れない。上五の「往復」は、誰か先達に教えて貰っていて、道標として既に知っていたということか。それとも往路で見定めておいて、復路の道標にしようと考えたのであろうか。作者は往路に居るのか、復路に居るのか不思議である。

◆蜩の折目正しく啼きにけり (川西市)上村敏夫

稲畑汀子の選である。ちょうど毎年、この頃に啼きだす、という意ではないだろう。啼き方そのもの、いや作者の耳へ「折目正しく」聞こえているということだろう。一匹ならばカナカナの調子だろうが、林の中で多数のカナカナが一斉に啼いている様子を筆者は想像した。強弱が波状になっていて、その波が規則的に感得できるからだ。

◆意識して我の前過ぐ秋の蝶 (いわき市)馬目空

金子兜太の選である。評には「馬目氏。そう思う人の歌ごころ羨むべし。」と記されている。一読、秋の蝶を擬人化して艶の側面から捉えて読みたい句である。評のように作者の感性に焦点を当てて評をしなければならないのだが。


その八十八(朝日俳壇平成27年10月12日から)
                          
◆名月に地球の未来尋ねけり (日進市)松山眞

大串章の選である。評には「第一句。名月を見上げながら地球の未来を思っている。名月は何と答えただろう。」と記されている。名月は何の返事もしないだろう。地球から生まれた月は、地球と未来を共にするであろうからだ。それでも作者は「尋ね」るのである。つまり「尋ねけり」は尋ねた事実であり、それだけの動作だけを叙しているので、俳なのである。

◆絵の中の葡萄の方が美味そうな (東京都)竹内宗一郎

稲畑汀子の選である。評には「二句目。写生の題材となった葡萄が置かれた画室。絵に描かれた方が美味そうとは妙。」と記されている。画室を想定すれば、作者は絵の上手なのか?!静物の葡萄の萎びてしまった様が目に浮かぶ。

「絵の中の葡萄」であるから、本来は無季だが、評にあるように画室に置かれた葡萄を想定すれば、つまり「絵の中の葡萄」と比較することが出来るということは、実物があるということだろう。

◆明るくて何処かが淋しい竹の春 (高松市)桑内繭

稲畑汀子の選である。「明るくて」と「淋しい」は正反対の性格を示していないところが味噌である。ポジティヴ、ネガティヴで大別するならば逆方向だが、両の言葉は一直線上にある感覚を表現する対の言葉ではなくて、微妙に異なっている。座五の季題「竹の春」の様子を上五中七で説明しているというよりも、座五で季を示しながら上五中七は作者の心象を表している。

◆NO WAR人文字の一人秋の空 (山口市)浜村匡子

金子兜太の選である。評には「浜村氏。その人文字の美しさよ。」と記されている。正義より平和を重んじることは日本の国是である。むしろ平和を創出し維持するために正義が必要なのだ。イコールでもある。平和希求の思いは、人類全ての人是であるのだ。

◆帰省子は昼寝だけして帰りたり (東京都)芳村翡翠

金子兜太の選である。娘なのか?息子なのか?疲れているということか。それよりも実家への安心感ではないだろうか。上五の「帰省子は」から中七の「昼寝だけして」への散文調を座五の「帰りたり」で俳句調におさめている。


その八十九(朝日俳壇平成27年10月19日から)
                          
◆少しずつ遠くの山へ秋の雲 (東京都)藤森荘吉

稲畑汀子の選である。「秋の雲」が「遠くの山へ」流れてゆく景を思い浮かべた。中七の後に切れがあり、座五の季題「秋の雲」が季の確定の役割のみに働いているとしたら、「少しずつ遠くの山へ」行く別の何かがあることになる。それは作者本人のことにもなるであろう。

「少しずつ遠く」を南から北へ、と想像した筆者は関東の住人だからであろうか。

◆もの言わぬ土の誇りや稲は穂に (横浜市)谷田信夫

金子兜太の選である。「花は葉に」の季語とは反対に座五の季題「稲は穂に」は、出穂を寿ぎ、愛でている季語だ。中七の「土の誇りや」は切れ字「や」で示された、掲句の主題である。発芽と出穂、は植物自体の力であると共に、「土の誇り」の験である。この験を確認した時の感動は大である。上五と座五の関連が幾分、原因→結果的かも知れない。

◆生きてゆくことが仕事だ敬老日 (春日部市)柳澤正

金子兜太の選である。評には「十句目柳澤氏。まさにしかり。」と記されている。上五中七の散文調の措辞に対して、座五に季題「敬老日」を配置して俳句に仕上げている。その分、季語の有効性が顕示されている作品である。それにしても潔い覚悟ではある。独立不羈の精神は何ものにも勝る。

◆案ずるな親のことなど吊し柿 (河内長野市)西森正治

長谷川櫂の選である。作者は親の立場にある方であろう。その親から子へのエールと受け取った。親の事は案じずに自分のことに精出せよ、と激励しているのだ。少々クサい句意であるが、俳句にしたからこそ真っ直ぐに言えたのである。句や歌にすることで言いにくい事柄を、照れくさい事柄を言ってのけることが出来るのだ。

座五の季題「吊し柿」の効き方が凄い。

◆敬老日千万人の二人かな (敦賀都)村中聖火

大串章の選である。微笑ましい。ご夫婦が、共に健在で揃ってその中の二人となった事実を祝いたい。二人で一つに考えている意識は、作者にとっては当たり前なのだ。羨ましい。


その九十(朝日俳壇平成27年10月26日から)
                          
◆月落ちてビル垂直にもどりけり (岐阜市)天草一露

金子兜太の選である。少々硬質な内容であるが、月には「妖し」の世界が似合うだろう。もしくは視界に月がある時の「見え方」の変化の様かも知れない。月には垂直に建っているビルを傾斜させたり、歪めたりする力があるのだ。座五の「もどりけり」に俳句的表現の力の偉大さを感じる。

◆いもうととわたしのほっぺあきの色 (東京都)福元泉

金子兜太の選である。評には「十句目福元氏。「ほっぺ」で姉妹の年齢が分らなくなる面白さ。」と記されている。上五中七の「いもうととわたしのほっぺ」は作者が眺めている幼い姉妹であろう、と筆者は想像した。妹が出来たことで、自身が姉になり、「わたし」を意識するようになったのだ。「わたし」に姉としての素振りや雰囲気が醸し出されていたのだろう。姉であり妹であるが、作者から見ると二人の頬は全く同じに見える。その二人の頬が秋色になっている。「あき」の平仮名書きが二人の年齢を示しているように思う。

◆ひざのねこわれをあたためねむりけり (新潟県弥彦村)熊木和仁
長谷川櫂の選である。評には「一席。ひらがなの極楽浄土とでもいうべき一句。この猫のなんと安らかなこと。」と記されている。評の通り、前掲句同様に平仮名書きの効果を求めた作品である。句中に猫への愛情が横溢しているからこそ暖かさを感じるのである。文字の上での「あたため」以上の効果がある。イメージの膨れ上がる句である。

◆冷まじや酒にぶつける喉仏 (川口市)星野良一

長谷川櫂の選である。通常ならば「酒」と「喉仏」のベクトルが逆方向を示している筈である。表現上、俳句上逆にすることで、俳味が増している。作者である主体の体の一部の「喉仏」であるから、「喉仏」の方が不動であり、スタンダードなのが通常である。筆者にはその事実が逆転して「喉仏」が「酒」へぶつかって行くことが、「冷まじ」く思えてならない。

その九十一(朝日俳壇平成27年11月2日から)
                       
◆微生物埋め育み山眠る (銚子市)下谷海二

長谷川櫂の選である。評には「「山眠る」という季語の新たな展開。今年のノーベル賞を題材にして。」と記されている。中七の「埋め育み」にもあるように「埋蔵している」という意味に座五の季題「山眠る」を拡大解釈しているようだ。むろん冬の季題だが「微生物」にとっては現在の注目されている度合いからすると冬の時代を過ごしてきたのかも知らない。中七と座五の間で軽い切れを生じている。「山眠る」はあくまでも季題なのだ。

◆ぎんなんのことは任され寺男 (横浜市)橋本青草

長谷川櫂の選である。ギンナンはややこしいものだ。第一臭い!拾い集めてからの処理にも手間と工夫が要る。食した時の珍味を思えばこその越さねばならぬ過程である。季節になると寺の近隣の人たちも手伝ったりする。当然、分け前を考えてやらなければならず、その分け前を過不足なく配分することは厄介この上ない。中七で一度切れを生じている。むろん「任され」たのは寺男であろう。が、作者、寺男、主語の関係性に不思議さが残る。

◆木の実降り音に迷ひのなかりけり (浜田市)田中由紀子

大串章の選である。評には「第一句。木の実の降る心地よい音。「迷ひのなかりけり」と一気に言い下したところが爽やか。」と記されている。評のように木の実の降る音を心地よいと感じる感性の豊かさが羨ましい。まして音の中に迷いの無いことまで聞き取っている。座五の「なかりけり」の叙法には賛否があるかも知れない。

◆振り返るときの紅葉の濃かりけり (北海道鹿追町)高橋とも子

稲畑汀子の選である。評には「一句目。山路を行く紅葉狩りであろう。途中で振り返った時に気付いた美しい情景。発見の感動。」と記されている。登山やトレッキング中の景であろう。五合目くらいまでは木々の間を辿る山道であるから景が開けることはあまりない。山頂に近づいたり谷間に差し掛かると突然に眺望が展開することがある。足場を気にして下を向いたきり歩きとおすと見逃すことがある。後で、山頂での仲間との語らいの中に出た話題まで気が付かないことがある。座五の「濃かりけり」の叙法には古風な落ち着きがある。


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