2015年11月27日金曜日

第31号

攝津幸彦記念賞詳細
受賞者まもなく当ブログにて発表予定‼

12月の更新予定日に誤りがありました。
12月の更新(第32号124・第331218
正しくは以下となります。訂正しお詫び申し上げます。



  • 12月の更新第32号12月11日・第33号12月25日




  • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

    (12/4更新)冬興帖、第二
    内村恭子・渡邉美保・小野裕三
    佐藤りえ・木村オサム・栗山心
    【毎週連載】  

    曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
      …筑紫磐井 》読む

    曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む
    • # 15   見えざるもの …  淺津大雅 》読む
    • #16    曾根毅という男 … 三木基史  》読む

    【対談・書簡】


    字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ
    その1 …筑紫磐井・中西夕紀  》読む
    「芸術から俳句へ」(仮屋、筑紫そして…)
    その2 …筑紫磐井・仮屋賢一  》読む 
    過去掲載分
    その1  
    「評論・批評・時評とは何か? (堀下、筑紫そして…)



    およそ日刊「俳句空間」  》読む
      …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香 … 
      (12月の執筆者: 佐藤りえ・宮﨑莉々香…and more  )
       井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 



      【鑑賞・時評・エッセイ】
       【短詩時評 第なな回 な譚 
      -榊陽子とみっつの〈な〉を探して-
      …柳本々々  》読む 

       ■ 朝日俳壇鑑賞 ~登頂回望~ (九十一~九十三)
      …網野月を  》読む

      ■  中島敏之の死
      …筑紫磐井 》読む

       【俳句時評】 等身大の文体――石田郷子私観(前編) 
      …堀下翔  》読む  

      リンク de 詩客 短歌時評   》読む
      ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
      ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





          【アーカイブコーナー】

          赤い新撰御中虫と西村麒麟 》読む

          週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



              あとがき  読む

              ●俳句の林間学校 「第7回 こもろ・日盛俳句祭」
               終了いたしました。 》小諸市のサイト
              シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」   … 仲栄司 》読む 
              小諸の思い出2015  北川美美  》読む 



              冊子「俳句新空間」第4号発刊!(2015夏)
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                  筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                  <辞の詩学と詞の詩学>
                  川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                  筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆











                  特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                  執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                  特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                  執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                  第31号 あとがき


                  寒くなりました。皆さま風邪などひかれていませんか。

                  あとがきをまったく書かないまま2か月経過…大変失礼いたしました。予想通り夏以降もろもろ建てこみ、あっという間に年末なだれ込み状態・・・すでに11月が終ろうとしています。

                  今号も執筆陣の皆様のお蔭で無事更新できました。ありがとうございます。

                  今号より冬興帖がスタート。 年明けには歳旦帖がスタートします。
                  最初の到着は、第一句集『花修』鑑賞が続いている曾根毅さんからスタートです。その曾根さんの句集評も順調に14まで来ました。まだまだ続きます。 

                  筑紫さんの書簡は新たに中西夕紀さんを迎え新連載「字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ」が開始となりました。日本の中心ってどこッ? と突っ込みたくなりますが、俳句の精神世界の話になりそうなタイトル命名の気配ですが…乞うご期待です。「字余り・字足らず」の日盛俳句祭シンポジウムレポートをご執筆いただいた仲栄司さんは現在、シンガポールへ転勤。ご覧になっているかなぁ。シンガポールからのご執筆を栄司さん、お待ちしております。

                  ところで詩客側の俳句時評(http://blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku/e/3d3d798bcbcceb598aa67ce58f6decb2)に掲載されている秋月祐一さんに当ブログの冬興帖最終に登場いただきましたが、短歌からの方だったんですね。
                  越境で面白い記事を書いていただけそうな予感がしています・・・。


                  そろそろ一年の総集編としてブログの記事など振り返ってみたいと思います。


                  12月のおよそ日刊・俳句新空間ではまた新メンバーが加わる予定です。黒岩さんと仮屋さんもどうぞ入稿よろしくお願いいたします。(とここで私信)
                  明日は豈の忘年会@白金です。


                  今後ともご愛読よろしくお願いもうしあげます。
                  テリマカシ! Terima kasih


                  北川美美

                  字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ (その1) / 中西夕紀・筑紫磐井



                  【その1】

                  はじめに

                  「BLOG俳句新空間」では様々な対談を併行して進めている。座談会になっていないことには理由がある。論者に様々な意見があり、A,B,Cそれぞれの関心が重なるわけではないことが大きいが、さらに座談会として話が流れているように見えながら、必ずしもABの関心と、BCの関心が同じではないこともあり、ABの座談部分と、BCの座談部分が異なる文脈で語られている為である。座談会の傾向として、鼎談で、AとBが語りCが全く沈黙してしまう部分があることはよく見られるはずだ。もっとも有名なところでは、昭和14年8月の山本健吉司会の「俳句研究」座談会「新しい俳句の課題」(いわゆる人間探求派座談会)がそうである。中村草田男と加藤楸邨が実によくしゃべり、石田波郷はろくに応答すらしていない。波郷のこの態度に、これを読んだ俳人たちは翌月号で非難のコメントを寄せている。しかしこれは座談会という形式が悪かったのだ。草田男・楸邨の熱心な(人間探求派らしい)話題に反対の態度を持った波郷(当時すでに古典派に転向しつつあった)は沈黙しているしかなかったからである。その意味では、「人間探求派座談会」という後世のネーミングそのものが間違っていたわけである。

                  対談がいいのは、相手の言うことに反対であったら反対発言すればよいのである。反対であるが沈黙していると・・・・対談原稿が出来上がらない。

                  まあこんなこともあり、本当は3人、4人で語り合った方が面白そうな話題だが、3本の対談が並行して進み、交差しながら離れてゆく形で記録された。

                  今回は、他の対談へ闖入を予定していた中西夕紀さんと対談してみることとした。話題が自由律から字余り、字足らずの話題となり、この夏に小諸で行った日盛り俳句祭のシンポジウムの話題と重なり合うことになったからだ。

                  あのシンポジウムでは、時間の制約もありあまり語りきれない人が多くいたので、フォローアップという意味でもちょうどよいであろう。

                  出来れば二人以外の関係者にも参加していただければありがたいが、それは成り行き次第となりそうだ。前書はこれくらいにして開始したい。

                  筑紫:

                  [「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その12」(筑紫磐井)の読後感を頂戴した]・・・・若い作家との対談をご覧いただき、ご意見まで頂戴しありがとうございます。言いたかったのは、花尻氏の作品を見て、定型が分らなくなった、とか、自由律なのか何かわからない、過去の連作と比較してよくない、というような「俳句は575」と考えている固定観念が見えるようだということでした。オジサンやオバサンたちでなく、詩人とか若い作家がこうした固定観念を持っているのが愉快です。作品のいい悪いを離れて、放った批評の言葉が俳句を狭くしているようにみえました。とはいえ、中西さんの、

                   <いろ   に詩情は感じられませんでした。>

                  はごもっともです。私も同感です。ただ面白いのは、詩歌の中に日本では定型詩があり、定型詩の中に俳句があり、俳句の中に自由律があり、その自由律の作品として「いろ」が詠まれてしまったことです。詩情は感じられなくても作品として確立してしまったことが大事なのです。
                  詩歌には著作権があり、俳句にも著作権があり、自由律にも著作権があるとすれば「いろ」に著作権があることになります。

                  いろ   青木此君楼

                  の作品があることを知った段階で中西さんが「いろ」を使って俳句を詠むと(たとえば「秋蝶来何いろと問ふ白と答ふ」なんて)ひょっとすると此君楼の著作権侵害になるかもしれません。もちろんこれは文芸の問題ではなくて法律の問題です。

                  私自身野暮なことを云うつもりはありませんが、しかし「俳句はどこまでぎりぎり切り詰めていって俳句の本質が残るのか」という根本的な問題にぶつかります、これは大事です。問題は此君楼を超えて短律の自由律(特に山頭火や放哉)は常に575の俳句を脅かしていることを言いたかったのです。

                  同じことは現代詩についても云えます。
                  三木露風の「赤とんぼ」の詩があります。その第4節は、

                  夕焼け小焼けの赤とんぼ  
                  とまっているよ竿の先

                  です。「赤とんぼ」の詩の起承転結の「結」にあたるなかなか巧みな詩です。
                  しかしこれは、三木露風が小学生時代に習作で詠んだ

                  赤とんぼとまっているよ竿の先

                  に「夕焼け小焼けの」をつけたものだそうです。詩の中に俳句の自治領が存在しているわけです。
                  これくらいぐすぐす状態の中で現代詩と俳句と自由律があるとしたら、「定型は何だかわからない」というような批判はナンセンスであることが分ると思います。定型とは定型があると思った人の心の中にあるのであって、定型という客観的な属性があるわけではないのです。正岡子規は、字余りを、定型の字余りではなく、「字余りの定型」として考えて作ればいいじゃないかと言っています。575が定型ではないのです。576も定型です、675も定型です、・・・(無限に続きます)。

                  話が長くなりました。続きは又。

                  中西:

                  お返事ありがとうございました。

                  (中略)

                  今回、定型のことで私も疑問がわきました。

                  定型に「字余りの定型」があるというのは私には不思議に思えました。
                  定型があるから、それに対する字余りと字足らずがあるのではないでしょうか?
                  それは定型と比べて、字余りであり、字足らずなのだと思いますが。

                  たとえば、「字余りの定型」が675だとしたら、「字余りの定型」というのも変な言葉ですが、たとえば、上6の字余りの定型というのがあるのなら、定型は動くということになりませんか?
                  上6の定型は定型と言われた時点で、字余りではなくなるのでしょうか?今度は上7から字余りということになるのでしょうか?

                  定型は動かないから定型といわれているのかと思いましたが。

                  「575が定型である」と言ったら、原理主義なのでしょうか?磐井さんの批判対象ですか。

                  私は俳句が今まで続いているのは、定型のお蔭だと思っています。俳句という形式が定まって以来、575という定型があったから、その律が面白いと感じる人たちが時代を越えて、次々と作り続けてきたもののように思います。

                  現在、575にするために、使う言葉が古典調で、現代人には使い慣れていないせいで、文法的な間違えも多く指摘されているところですが、それでもこの形が捨てきれない魅力があるのだと思います。

                  この間の日盛会のシンポジウムに戻りそうですね。磐井さんの定型とは流動的なものなのでしょうか?

                  では、何に対して字余りであり、字足らずと言えるのでしょうか。「字余り字足らずの定型」でしたら、すべて定型という認識で、字余りも、字足らずもなくなるのではないでしょうか。

                  こんがらがってきました。シンポジウムはパネラーに磐井さんが坐るべきだったようですね。
                  我々4名(寒蝉、伊那男、睦、夕紀)はだれもが原理主義的で、磐井さんのような進歩的な発想はしていませんでした。

                  続くと書かれていましたので、次回をたのしみにしております。



                  参考掲載
                  シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」   … 仲栄司 》読む 

                  【短詩時評 第なな回】な譚-榊陽子とみっつの〈な〉を探して- / 柳本々々



                  榊(陽子)は、私川柳の個我や怨嗟や情念などとは殆ど無縁の後発世代であり、いま、川柳の今日的な興趣を愉しんでいる最中である。
                    (石田柊馬「違った表情-榊陽子の川柳」『川柳木馬』146号・2015秋)

                  ベタ、言葉遊び、破礼句、悪意、社会性、コトバ化と、現代川柳の要素をオールマイティーに操れる選手ですな、榊クンは。
                    (飯島章友「川柳プロレス中継-榊陽子VS川柳-」前掲)

                  句の中の“犯す”とか“痙攣”“太腿地獄”“姦通罪”に“分泌液”という言葉。日活ロマンポルノの題名かっていう位に、これでもかと言葉でずりずり、ごりごりし過ぎちゃって?でも、ここらの際どい言葉が句の中で浮かずにちゃんとバランス取ってるとこがスゴくない?
                    (酒井かがり「わけいってわけいって白雪姫の闇-榊陽子の戯れ言-」『川柳杜人』247号・2015秋)

                  「バランス感覚」と「作者としての直感」が榊(陽子)の強みである。「靴」「さなぎ」「ナカジマくん」「焼きナス」「ササキサン」などのチョイスは、この直感とバランス感覚によって引き出されている。
                    (兵頭全郎「脱げてしまった靴のその後-榊陽子のバランス感覚-」前掲)

                  「ササキサン」の下の部分は以前から出来ていたんです。上五をずっと考えていたんですが締切ぎりぎりになって浮かんできたのが「ササキサン」でした。
                    (榊陽子「川柳ステーション2014 破調の品格」『おかじょうき』2014年10月号)

                  さいきん、川柳界では榊陽子さんの特集があちこちの柳誌で組まれています。たとえば(これは去年だけれども大きなイベントとして)『おかじょうき』(2014年10月号)において榊さんをゲストに迎えた「川柳ステーション2014」におけるトークセッション「破調の品格」(榊陽子・徳田ひろ子・奈良一艘・むさし・Sin)があり、今年では『川柳木馬』(第146号・2015秋)に石田柊馬さんと飯島章友さんが榊さんの川柳に関する歴史的論考・言語的考察を、『川柳杜人』(247号・2015秋)に兵頭全郎さん、酒井かがりさんのやはり言語的論考とカテゴリー的考察が載っています。

                  つまり、いま、榊さんの川柳を〈どう〉読むかをめぐっていろんな言説が敷設されているわけです(おそらく榊陽子さんが言説化される際にいまいちばん語られている主題は榊さんの川柳の〈バランス感覚〉のように思います)。

                  で、榊さんの川柳についてわたしも今回考えてみたいんですが、榊さんのよく引用される句のひとつが次の句なのではないかと思うんですね。

                  ササキサンを軽くあやしてから眠る  榊陽子

                  この句は第十七回杉野十佐一賞大賞作品なんですが、この句には「ササキサン」という名前表記のふしぎなあり方と、〈あやす〉という名前表記という表面さに終わらない身体的関わり(あえていえば中身志向)が見いだせます。

                  「ササキサン」(名前へのタッチ)と、「軽くあやしてから」(中身へのタッチ)と、「眠る」という名前/中身の境界からの奈落(タッチの縫合)がワンセットになっている句なのではないかとおもうんですよ。

                  で、このふたつの〈な〉、〈名前〉と〈中身〉というふたつのトピックから榊さんの川柳をみてみたいとおもうんです。

                  まずは、〈な〉まえ(名前)。

                  名はすすき姓に訛りを引きずって  榊陽子
                  腰から下は連名にしておきました  〃
                    (『川柳木馬』146号・2015秋)

                  榊さんの川柳のなかの〈名前〉ってなんなのかというとひとつは〈身体性〉です。それは決して表面にとどまっていず、「訛りを引きず」るものであったり、「腰から下」がリンクしていくものでもあったりする。つまり、別の言い方をするなら、〈名前〉というのは〈拘束具〉なんですね。自分が自分だけで完結せず、故郷や他者に勝手にリンクしていってしまうもの、それが〈名前〉です。

                  ですから、「ササキサン」という「ササキさん」でもなく「ささきさん」でもない分節しがたい名前表記は「ササキサン」自体が「ササキサン」としかいることができないような〈拘束性〉をひとつ表しているようにおもうんですよ。「ササキサン」は「ササキさん」にも「佐々木さん」にも「笹木さん」にも「榊さん」にも「ささきさん」にも、なれない。「ササキサン」と名付けられてしまった以上、「ササキサン」は「ササキサン」なのです。わたしたち読み手にはこれ以上の分節は許されていません。

                  では、ふたつめの〈な〉かみ(中身)にうつりましょう。

                  ちょっとだけおもちゃ売り場で臓腑見せ  榊陽子 
                  口中によからぬ犬を飼っており  〃 
                  視聴覚教室に舌はいらないの  〃
                    (前掲)

                  榊さんの川柳において、どうも〈中身〉というのは〈場所違い〉と関係があるらしいんですね。たとえば「おもちゃ売り場」で「見せ」られる「臓腑」、「口中」の「よからぬ犬」、「視聴覚教室」の不要な「舌」。どれも中身が〈あるべき場所〉と違うために〈不要感〉が漂っています。

                  つまり言い換えるなら、これら〈中身〉は場所を間違えているために〈中身〉たりえていないのではないか、ということができるように思います。

                  榊さんのササキサンの句には、「軽くあやしてから」と書いてありました。
                  しかし「軽く」と程度の軽重まで書かれていながら、わたしたちには「ササキサン」を措定することはできないので〈なにを・どう〉「あやして」いるのかという実態=中身がわかりません。「ササキサン」が猫なら、赤ん坊なら、大人なら、人形なら、わかります。でも、「ササキサン」は「ササキサン」に拘束されたままで、わたしたちがそれを開封することはできないのでこの〈あやす〉はブラックボックスになっている。〈中身〉がわからないのです。

                  ひとつめの〈な〉は、名前の拘束として。
                  ふたつめの〈な〉は、中身の錯綜として。

                  ここで最後の〈な〉を用意してみたいとおもいます。ファイナル〈な〉は、〈な〉らく(奈落)です。

                  すすり泣く儀式からずり落ちる  榊陽子 
                  どの子ともはぐれるように歩き出す  〃 
                  歯を見せてバッタは死んでゆくんだね  〃

                  榊さんの川柳には、〈ならく〉があります。「ずり落ちる」、「はぐれるように歩き出す」、「死んでゆく」。「儀式」、「どの子とも」、「バッタ」=〈類〉といった〈全体性〉から〈はぐれる〉こと。

                  ササキサンの句の結語は、「眠る」でした。これはもう語り手が〈語り〉をやめ〈た〉ことをあらわしています。語り手は眠りの奈落に落ちたので、それ以上は語らない、ササキサンの意味も語らない、あやすの意味も語らない、ということです。

                  こうした〈語りの禁制〉(意味をさぐることの禁忌)が榊さんの川柳にはあるような気がします。「ササキサン」は「ササキサン」でしかないじゃないか、と。

                  だから、わたしたちは榊陽子の川柳を読むたびにひとつの〈奈落〉をみているようにおもうのです。そこが意味の行き止まりなんだけれども、その奈落に落ちることをあなたは受け入れられますか、と。

                  ずり落ちて・はぐれて・死んでも、クールでいられますか。それとも、それでもやっぱり、節操もなくはしたなく意味を求めずにはいられませんか、と。

                  どう、なんでしょうか。

                  書き込むためのカレンダーが眼の前にあったとしても、書き込まないでいられるのでしょうか。
                  わたしは、どう、だろ。

                  はしたなくひかりかがやくカレンダー  榊陽子
                    (前掲)

                  あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければ子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。
                    (岡崎京子「ノート あとがきにかえて」『リバーズ・エッジ 愛蔵版』宝島社、2008年)  (前掲)

                   【時壇】 登頂回望その九十一~九十三 /  網野月を

                  九十一(朝日俳壇平成27年11月2日から)
                                        
                  ◆微生物埋め育み山眠る (銚子市)下谷海二

                  長谷川櫂の選である。評には「「山眠る」という季語の新たな展開。今年のノーベル賞を題材にして。」と記されている。中七の「埋め育み」にもあるように「埋蔵している」という意味に座五の季題「山眠る」を拡大解釈しているようだ。むろん冬の季題だが「微生物」にとっては現在の注目されている度合いからすると冬の時代を過ごしてきたのかも知らない。中七と座五の間で軽い切れを生じている。「山眠る」はあくまでも季題なのだ。

                  ◆ぎんなんのことは任され寺男 (横浜市)橋本青草

                  長谷川櫂の選である。ギンナンはややこしいものだ。第一臭い!拾い集めてからの処理にも手間と工夫が要る。食した時の珍味を思えばこその越さねばならぬ過程である。季節になると寺の近隣の人たちも手伝ったりする。当然、分け前を考えてやらなければならず、その分け前を過不足なく配分することは厄介この上ない。中七で一度切れを生じている。むろん「任され」たのは寺男であろう。が、作者、寺男、主語の関係性に不思議さが残る。

                  ◆木の実降り音に迷ひのなかりけり (浜田市)田中由紀子

                  大串章の選である。評には「第一句。木の実の降る心地よい音。「迷ひのなかりけり」と一気に言い下したところが爽やか。」と記されている。評のように木の実の降る音を心地よいと感じる感性の豊かさが羨ましい。まして音の中に迷いの無いことまで聞き取っている。座五の「なかりけり」の叙法には賛否があるかも知れない。

                  ◆振り返るときの紅葉の濃かりけり (北海道鹿追町)高橋とも子

                  稲畑汀子の選である。評には「一句目。山路を行く紅葉狩りであろう。途中で振り返った時に気付いた美しい情景。発見の感動。」と記されている。登山やトレッキング中の景であろう。五合目くらいまでは木々の間を辿る山道であるから景が開けることはあまりない。山頂に近づいたり谷間に差し掛かると突然に眺望が展開することがある。足場を気にして下を向いたきり歩きとおすと見逃すことがある。後で、山頂での仲間との語らいの中に出た話題まで気が付かないことがある。座五の「濃かりけり」の叙法には古風な落ち着きがある。


                  その九十二(朝日俳壇平成27年11月8日から)


                                           
                  ◆難民はひたすら歩く月明り (西海市)前田一草

                  大串章の選である。評には「第三句。旧満州で敗戦を迎えた私達は、匪賊に襲われ隣町まで歩いて逃げた。その時母は産後一カ月だった。」と記されている。評は難民の非常なること、と非情なることを言っている。と同時にこの句が今現在の時事のみの事柄を扱っていないことも言っている。月という天体は非常にも非情にも対応する。「月明り」は万物を照らしている。中七の「・・歩く」の終止形の切れがいささか弱いかも知れない。

                  ◆冷まじや老いさらばへて妻看取る (横須賀市)菅沼ひろし

                  稲畑汀子の選である。評には「一句目。老老介護という悲しい現実に住む人々。夫婦の片方が認知症になった作者の心を「冷まじ」という季題が語っている。」と記されている。認知症に限らず、病気や怪我もあり得る。夫婦だけでなく親子もある。老々のみならず病病もある。弱者が弱者を看取るのだ。将に「冷まじ」い。筆者も父を看ていて、病病介護の状態にある。今はまだ父の笑顔にふっと暖かみを感じたりできている。

                  ◆あさがたにあきを見あげて目がさめる (東京都)福元泉

                  金子兜太の選である。評には「小二福元さんの中七が特に子供らしい。」と記されている。評には「子供らしい」とあるが、秋を見あげるのは、俳人としての素質のように思う。秋を目覚めの時に感じることも。

                  ◆火の中で笑うたやうな秋刀魚かな (横浜市)西ケ谷将雄

                  長谷川櫂の選である。生あるものが生あるものを食して生きているのだ。食されるものも笑って食されたいであろう。(感情の問題ではなくてである)その為には食すものに心が要る。アイヌやネイティヴアメリカンのアニミズムに似た心の持ち様であろうか。


                  その九十三(朝日俳壇平成27年11月16日から)
                                      
                  ◆冬仕度捨つることより始まりぬ (枚方市)柳楽明子

                  稲畑汀子の選である。「冬」の意味が深い。むろん掲句の場合は、一年のうちの冬季を意味しているのだろうが、人生の冬期をかすかに匂わせているようにも読むことが出来る。座五の「・・ぬ」の完了がより深みを演出している。

                  ◆限りなく伸びる夜霧の耳なるよ (さぬき市)野﨑憲子

                  金子兜太の選である。評には「野﨑氏。夜霧立ちこめ、音響だけが限りなく伝わる。その懐かしさ。」と記されている。ヴィクトール・E・フランクル著の『夜と霧』を惹起させる。視覚的確認を人は欲しがる。聴覚的情報の方が質量ともに豊富でより正確なのであるが。多角的認知に拠る安全性を望むのであろうか。評に言う「懐かしさ」よりも、耳は安堵感を希求して「限りなく伸びる」のであろうと考える。

                  ◆机より落ちても廻る木の実独楽 (岩倉市)村瀬みさを

                  長谷川櫂の選である。評には「二席。落下してもバランスをとって廻りつづける独楽。元気な子どものように。」と記されている。団栗などに短い竹串を挿して独楽遊びをしたりする。たぶんあれであろう。俳句では無暗矢鱈な「も」を敬遠するが、この場合の「も」は効果大である。逆に「も」が無ければ成り立たない。子供は元気であり、同じく元気な玩具を好むものである。

                  ◆五郎丸のための空あり秋高し (千葉市)笹沼郁夫

                  長谷川櫂と大串章の共選である。大串章の評に「第三句。五郎丸のあのキックのために秋空はある。」と記されている。ラグビーボールの軌道と背景の青い秋空は似合いすぎる程似合う。「のための空」なのである。

                  ◆コスモスの白は無口に生まれけり (熊本市)坂崎善門

                  大串章の選である。作者の感性であり、断定である。白いコスモスが無口と言われなければならないほど、他のコスモスが雄弁ではないだろう。他色のコスモスと比しているのか?それとも白い他花と比しているのか?

                  2015年11月13日金曜日

                  第30号

                  攝津幸彦記念賞
                  詳細
                  締切ました。
                  受賞者決定次第当ブログにて発表予定
                • 11月の更新第31号11月27日




                • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

                  (11/20更新)秋興帖、第九
                  …秋月祐一・青木百舌鳥・飯田冬眞 
                  宮﨑莉々香・北川美美・大井恒行・筑紫磐井

                  (11/13更新)秋興帖、第八浅沼璞・中村猛虎・西村麒麟・坂間恒子・五島高資・真矢ひろみ
                  (11/6更新)秋興帖、第七…下楠絵里・田中葉月・豊里友行・水岩瞳・羽村 美和子
                  下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
                  (10/30更新)秋興帖、第六…渡邉美保・ふけとしこ・佐藤りえ・望月士郎
                  衛藤夏子・小野裕三・堀本 吟・小林苑を・林雅樹
                  (10/23更新)秋興帖、第五…もてきまり・木村オサム・仲田陽子・月野ぽぽな・関根誠子
                  ななかまど・真崎一恵・とこうわらび・川嶋ぱんだ
                  (10/16更新)秋興帖、第五…内村恭子・小林かんな・石童庵・陽 美保子・堀田季何・小沢麻結
                  (10/9更新)秋興帖、第四…淺津 大雅・仮屋賢一・大瀬良陽生・神谷波・仲寒蟬
                  (10/2更新)秋興帖、第三…五島高資・山本敏倖・網野月を・岡田由季・音羽紅子
                  (9/25更新)秋興帖、第二…早瀬恵子・曾根 毅・前北かおる・夏木 久
                  (9/18更新)秋興帖、第一…杉山久子・池田澄子・青山茂根


                  【新連載】  

                  曾根毅『花修』を読む毎金00:00更新予定) 》読む  
                    …筑紫磐井 》読む

                  曾根毅『花修』を読む インデックス 》読む
                  • #11   水のように  … 藤田亜未  
                  •  #12   花は笑う  … 丑丸敬史 

                    【同時連載】


                    「芸術から俳句へ」(仮屋、筑紫そして…)
                    その2 …筑紫磐井・仮屋賢一  》読む 
                    過去掲載分
                    その1  


                    「評論・批評・時評とは何か? (堀下、筑紫そして…)



                    およそ日刊「俳句空間」  》読む
                      …(主な執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱 … 
                      (11月の執筆者: 依光陽子、北川美美…and more  )
                       井恒行の日々彼是(俳句にまつわる日々のこと)  》読む 



                      【鑑賞・時評・エッセイ】


                       【俳句時評】 等身大の文体――石田郷子私観(前編) 
                      …堀下翔  》読む 

                      【短詩時評 第六羽】俳誌『オルガン』の墜落(Fall)する俳句を読む -ときどきは未知の暴力的出来事(Violent Unkown Event)を暴力的に思い出しながら-  
                      …柳本々々  》読む 

                       ■ 朝日俳壇鑑賞 ~登頂回望~ (八十七~九十)
                      …網野月を  》読む

                      リンク de 詩客 短歌時評   》読む
                      ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
                      ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





                          【アーカイブコーナー】

                          赤い新撰御中虫と西村麒麟 》読む

                          週刊俳句『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』総括座談会再読する 》読む



                              あとがき  》読む

                              ●俳句の林間学校 「第7回 こもろ・日盛俳句祭」
                               終了いたしました。 》小諸市のサイト
                              シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」   … 仲栄司 》読む 
                              小諸の思い出2015  北川美美  》読む 



                              冊子「俳句新空間」第4号発刊!(2015夏)
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                                  筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                  <辞の詩学と詞の詩学>
                                  川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 



                                  筑紫磐井「俳壇観測」連載執筆











                                  特集:「突撃する<ナニコレ俳句>の旗手」
                                  執筆:岸本尚毅、奥坂まや、筑紫磐井、大井恒行、坊城俊樹、宮崎斗士


                                  特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                                  執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘

                                  【俳句時評】 等身大の文体――石田郷子私観(前編) 堀下翔


                                  俳句という形式を自由に使ってみたい、というのは俳句を書いている人間がしばしば抱いている思いだ。定型のくびきの中にあって、闊達に言葉どうしが組み合わさり、定型を感じさせながらも、決して定型以上の類型を感じさせない、そのような作品には、嫉妬を覚えながらも、いやおうなしに心が湧きたつ。

                                  たとえば石田郷子(1958-)の第1句集『秋の顔』(1996)などは、何度読みなおしても古びない自由な文体を有した一冊である。両親ともに波郷門という出自を持ちながら、山田みづえの「木語」で俳句を書き始めたのは1986年というから、出立は20代の終わりとやや遅い。第1句集に収められているのは、それから10年間の、もっとも初々しい作品群だ。作家のういういしさといっても、その現われ方にもいろいろあるだろうし、ともすれば単純に、俳句が下手、ということになる場合もしばしばであるが、石田の場合は、形式に対する好奇心という、作家としておよそ恵まれた形をとっていたようである。

                                  来ることの嬉しき燕きたりけり 石田郷子 『秋の顔』

                                  石田郷子的な書き方は、この一句を見ると分かる。形容詞「嬉し」の連体形「嬉しき」が「燕」に掛かっているので、「嬉しき」と「燕」とはそれぞれ修飾・被修飾の関係にあることになるが、この「嬉しき」の主体は、「燕」ではなく、燕を待つ人間の方だ。遠いところから飛来した燕の無事をよろこび、またそれによって春をはつらつと実感する「燕来る」という季語の本意を、「嬉しき」という言葉で、丁寧に、平明に、この作者は開陳する。かつまた、「嬉しき」が構文のうえでは「燕」に掛かっているがために、燕じたいも、無事に飛来を遂げられたことを、しんそこ嬉しく思っているような感じがある。

                                  情感の平明さは、この場合、その純度があまりにも高いので、かえって味になっている観もあるが、そうはいってもやはり、これだけでは単純が過ぎる。凡庸を避けているのが、独特の構文である。先述の、人間と燕の両方のよろこびを匂わせる「嬉しき」の掛かり方もそうであるし、あるいは、「来る」という動詞のリフレインも、ひじょうに効果的だ。下五の「きたりけり」は上五の「来ることの」に対してダメ押しになっているわけだが、よし、下五の「きたりけり」を外して……ちょっと適切な言い換えが思いつかなかったのでこのさい定型はあきらめるが……〈来ることの嬉しき燕かな〉ぐらいの句であったとしたら、どうしたって、上五の観念を一句全体が抜け出せない。下五の「きたりけり」があって初めて、「燕来る」の実感は作者の手にするところとなったのである。上五中七の「来ることの嬉しき」はもともと、いわばその予感ともいうべき胸のたかぶりであって、下五の「きたりけり」がもたらす感動には、予感が実現したことをかみしめる性質が含まれていただろうし、かつ、〈来ることの嬉しき燕きたりけり〉と一句が完結したのちは、その成立から離れて、上五中七の「来ることの嬉しき」もまた、燕飛来の喜びに満ちた言葉として定着することになった。いささか大回りをしているかもしれないが、この構文からは、そのような消息が読み取れるような気がする。

                                  もうひとつ、この句は「こと」が面白い。

                                  「こと」はひじょうに難しい言葉である。それ自体が何かを意味するものではない。具象性を欠いていているので、たとえばこの句であれば、「来ることの」というふうに「こと」と接続されることによって、燕という眼前の実体をたしかにうたっていながら、しかし、一句そのものは、作者の心中に終始しているような、現実と区切られた印象をおびる。すなわち、一句が私性のうちに落とし込まれている。また、もっと簡単なこととして、「こと」自体が意味を持たないがために、十七音に組み込まれることで、一句の意味の密度が低くなる。この句の場合は、下五の「きたりけり」が平仮名表記であることとあいまって、さっぱりとした印象を読者に与え、それが、句の平明な情感を裏打ちすることにもなっている。

                                  シンプルな言葉だけで書かれ、一見、たやすく生み出されたようにも思われる句であるが、しかし、こんなふうに、さまざまな方法が試みられているのだ。

                                  〈来ることの嬉しき燕きたりけり〉はひじょうに石田郷子的な書き方を体現していて、以上に雑然と述べた彼女の文体の特徴は、『秋の顔』全体を通じてもたびたび立ち現れてくる。

                                  枇杷の実を空からとつてくれしひと 
                                  春潮を胸のたかさと思ふとき 
                                  梅干すといふことひとつひとつかな 
                                  思ふことかがやいてきし小鳥かな

                                  に見られる、抽象的な名詞や、

                                  ゆきのした早瀬となつてゐたりけり 
                                  鹿の瞳の濡れてをりたる若葉かな

                                  といった、Be動詞や助動詞で引き延ばした表現の多用はその最たるである。いずれも、高純度な印象で書きとめられる身辺と一致する、ライトな文体である。

                                  もう一点、彼女の文体で心に残るのは、決して数が多いわけではないが、何度か現われる、「くる」という動詞である。

                                  花菖蒲どんどん剪つてくれにけり 
                                  枇杷の実を空からとつてくれしひと

                                  「けり」「し」という文語助動詞が用いられているので、これらの句はもちろん文語で書かれた俳句ということになるが、しかし、これらの句は、決定的に文語的世界とはかけ離れた表現をしている。それが、「くる」である。現代語と文語とを分ける性質には、いろいろなものがあるが、そのうち、もっとも表現上でみぢかなのが、現代語における授受表現の発達である。「くれる」「もらう」「あげる」「やる」といった、授受に関する動詞を、われわれは日ごろ補助動詞として、複雑に組み合わせて用いている。「~してやってくれ」などの表現が持つ正確なニュアンスは、あんがい、別の言葉で説明するのが困難であったりする。現代語独特の表現なのである。この授受表現にあたるものが、文語においては、われわれが高校時代に古典の時間でたいへんお世話になった、敬語表現である。「たまふ」「申す」「はべり」といった敬語動詞の煩雑な絡み合いに泣かされた方も多い筈だ。石田の句、「けり」「し」という文語助動詞を用いるのであれば、現代語的な発想で現れる「くる」ではなく、古典的な敬語表現「たまふ」を用いたほうが、コロケーションとしては正確であった。

                                  現代語助動詞「た」を文語助動詞「けり」に変換できた人が、動詞においてそれができなかいわけがない、というのは過言だろうか。筆者には、この「くれにけり」「くれし」が、言葉を使う上での石田の立ち位置をよくよく表明しているように見える。口語ではなく、文語を用いることで、口語的世界を見直そうとしている点では、いわゆる「擬古典派」と同じだが(石田といえば、俳句を書き始めた時期がやや遅いとはいえ、擬古典派が大きな影響力を持った昭和30年世代の作家である)、かといってぎりぎりまでストイックに古典的世界に視点を置くのではなく、口語で発想し、等身大の私性を句に髣髴とさせる、それが石田郷子の方法なのである。

                                  それだけではない。もっとさまざまな形で、石田の作品には、単なる自然詠ではありえない、〈私〉の存在が、たんねんに書きこまれている。それについては、次号、あらためて書こう。じつをいえば今回の時評は、この9月に刊行された第3句集『草の王』(ふらんす堂/2015)について書いてみる予定だった。執筆にあたって第1、2句集を再読するうち、『草の王』にいたる石田郷子の書き方が、ある点では一貫し、またある点では変容していることに気が付いた。そのため、とりあえず第1句集をめぐるあれこれから、素直に書きはじめることにしたのである。『秋の顔』がわれわれに印象付ける自由さについても、次号、もう少し書いてみたい。




                                   【時壇】 登頂回望その八十七~九十 /  網野月を


                                  その八十七(朝日俳壇平成27年10月5日から)
                                                           
                                  ◆難民や空いっぱいの鰯雲 (西東京市)吉田悠

                                  長谷川櫂と大串章の共選である。長谷川櫂の評には「三席。手の施しようがないという感じの鰯雲」と記されている。大串章の評には「第三句。シリア難民の姿を見ると心が痛む」と記されている。長谷川の評の中の感情はいたって客観的である。「手の施しようがない」という表現の中には難民への同情は少ないように受け取れる。難民、たぶんシリア難民だろうが、難民の様子や状況は見立てで言うならば「鰯雲」であると評しているのだ。現在の状況をどう受け取るか?どう見るか?と掲句は問いかけているのだ、と評している訳だ。それに対して大串の評は「心が痛む」と評者自身の感情を移入して掲句を読もうとしている。
                                  作者は現地の様子を行って見て来たのであろうか。テレビその他の報道で知ったのであろうか。テレビなどを通じての見地は、特に政治的にシビアな問題は、何かの媒体を介すると弱まる気がする。

                                  ◆往復の道しるべかな彼岸花 (札幌市)香田眞梨子

                                  大串章の選である。座五の季題「彼岸花」はその花の色彩故に目立つものである。道標にするには持って来いのものであるかも知れない。上五の「往復」は、誰か先達に教えて貰っていて、道標として既に知っていたということか。それとも往路で見定めておいて、復路の道標にしようと考えたのであろうか。作者は往路に居るのか、復路に居るのか不思議である。

                                  ◆蜩の折目正しく啼きにけり (川西市)上村敏夫

                                  稲畑汀子の選である。ちょうど毎年、この頃に啼きだす、という意ではないだろう。啼き方そのもの、いや作者の耳へ「折目正しく」聞こえているということだろう。一匹ならばカナカナの調子だろうが、林の中で多数のカナカナが一斉に啼いている様子を筆者は想像した。強弱が波状になっていて、その波が規則的に感得できるからだ。

                                  ◆意識して我の前過ぐ秋の蝶 (いわき市)馬目空

                                  金子兜太の選である。評には「馬目氏。そう思う人の歌ごころ羨むべし。」と記されている。一読、秋の蝶を擬人化して艶の側面から捉えて読みたい句である。評のように作者の感性に焦点を当てて評をしなければならないのだが。


                                  その八十八(朝日俳壇平成27年10月12日から)
                                                            
                                  ◆名月に地球の未来尋ねけり (日進市)松山眞

                                  大串章の選である。評には「第一句。名月を見上げながら地球の未来を思っている。名月は何と答えただろう。」と記されている。名月は何の返事もしないだろう。地球から生まれた月は、地球と未来を共にするであろうからだ。それでも作者は「尋ね」るのである。つまり「尋ねけり」は尋ねた事実であり、それだけの動作だけを叙しているので、俳なのである。

                                  ◆絵の中の葡萄の方が美味そうな (東京都)竹内宗一郎

                                  稲畑汀子の選である。評には「二句目。写生の題材となった葡萄が置かれた画室。絵に描かれた方が美味そうとは妙。」と記されている。画室を想定すれば、作者は絵の上手なのか?!静物の葡萄の萎びてしまった様が目に浮かぶ。

                                  「絵の中の葡萄」であるから、本来は無季だが、評にあるように画室に置かれた葡萄を想定すれば、つまり「絵の中の葡萄」と比較することが出来るということは、実物があるということだろう。

                                  ◆明るくて何処かが淋しい竹の春 (高松市)桑内繭

                                  稲畑汀子の選である。「明るくて」と「淋しい」は正反対の性格を示していないところが味噌である。ポジティヴ、ネガティヴで大別するならば逆方向だが、両の言葉は一直線上にある感覚を表現する対の言葉ではなくて、微妙に異なっている。座五の季題「竹の春」の様子を上五中七で説明しているというよりも、座五で季を示しながら上五中七は作者の心象を表している。

                                  ◆NO WAR人文字の一人秋の空 (山口市)浜村匡子

                                  金子兜太の選である。評には「浜村氏。その人文字の美しさよ。」と記されている。正義より平和を重んじることは日本の国是である。むしろ平和を創出し維持するために正義が必要なのだ。イコールでもある。平和希求の思いは、人類全ての人是であるのだ。

                                  ◆帰省子は昼寝だけして帰りたり (東京都)芳村翡翠

                                  金子兜太の選である。娘なのか?息子なのか?疲れているということか。それよりも実家への安心感ではないだろうか。上五の「帰省子は」から中七の「昼寝だけして」への散文調を座五の「帰りたり」で俳句調におさめている。


                                  その八十九(朝日俳壇平成27年10月19日から)
                                                            
                                  ◆少しずつ遠くの山へ秋の雲 (東京都)藤森荘吉

                                  稲畑汀子の選である。「秋の雲」が「遠くの山へ」流れてゆく景を思い浮かべた。中七の後に切れがあり、座五の季題「秋の雲」が季の確定の役割のみに働いているとしたら、「少しずつ遠くの山へ」行く別の何かがあることになる。それは作者本人のことにもなるであろう。

                                  「少しずつ遠く」を南から北へ、と想像した筆者は関東の住人だからであろうか。

                                  ◆もの言わぬ土の誇りや稲は穂に (横浜市)谷田信夫

                                  金子兜太の選である。「花は葉に」の季語とは反対に座五の季題「稲は穂に」は、出穂を寿ぎ、愛でている季語だ。中七の「土の誇りや」は切れ字「や」で示された、掲句の主題である。発芽と出穂、は植物自体の力であると共に、「土の誇り」の験である。この験を確認した時の感動は大である。上五と座五の関連が幾分、原因→結果的かも知れない。

                                  ◆生きてゆくことが仕事だ敬老日 (春日部市)柳澤正

                                  金子兜太の選である。評には「十句目柳澤氏。まさにしかり。」と記されている。上五中七の散文調の措辞に対して、座五に季題「敬老日」を配置して俳句に仕上げている。その分、季語の有効性が顕示されている作品である。それにしても潔い覚悟ではある。独立不羈の精神は何ものにも勝る。

                                  ◆案ずるな親のことなど吊し柿 (河内長野市)西森正治

                                  長谷川櫂の選である。作者は親の立場にある方であろう。その親から子へのエールと受け取った。親の事は案じずに自分のことに精出せよ、と激励しているのだ。少々クサい句意であるが、俳句にしたからこそ真っ直ぐに言えたのである。句や歌にすることで言いにくい事柄を、照れくさい事柄を言ってのけることが出来るのだ。

                                  座五の季題「吊し柿」の効き方が凄い。

                                  ◆敬老日千万人の二人かな (敦賀都)村中聖火

                                  大串章の選である。微笑ましい。ご夫婦が、共に健在で揃ってその中の二人となった事実を祝いたい。二人で一つに考えている意識は、作者にとっては当たり前なのだ。羨ましい。


                                  その九十(朝日俳壇平成27年10月26日から)
                                                            
                                  ◆月落ちてビル垂直にもどりけり (岐阜市)天草一露

                                  金子兜太の選である。少々硬質な内容であるが、月には「妖し」の世界が似合うだろう。もしくは視界に月がある時の「見え方」の変化の様かも知れない。月には垂直に建っているビルを傾斜させたり、歪めたりする力があるのだ。座五の「もどりけり」に俳句的表現の力の偉大さを感じる。

                                  ◆いもうととわたしのほっぺあきの色 (東京都)福元泉

                                  金子兜太の選である。評には「十句目福元氏。「ほっぺ」で姉妹の年齢が分らなくなる面白さ。」と記されている。上五中七の「いもうととわたしのほっぺ」は作者が眺めている幼い姉妹であろう、と筆者は想像した。妹が出来たことで、自身が姉になり、「わたし」を意識するようになったのだ。「わたし」に姉としての素振りや雰囲気が醸し出されていたのだろう。姉であり妹であるが、作者から見ると二人の頬は全く同じに見える。その二人の頬が秋色になっている。「あき」の平仮名書きが二人の年齢を示しているように思う。

                                  ◆ひざのねこわれをあたためねむりけり (新潟県弥彦村)熊木和仁
                                  長谷川櫂の選である。評には「一席。ひらがなの極楽浄土とでもいうべき一句。この猫のなんと安らかなこと。」と記されている。評の通り、前掲句同様に平仮名書きの効果を求めた作品である。句中に猫への愛情が横溢しているからこそ暖かさを感じるのである。文字の上での「あたため」以上の効果がある。イメージの膨れ上がる句である。

                                  ◆冷まじや酒にぶつける喉仏 (川口市)星野良一

                                  長谷川櫂の選である。通常ならば「酒」と「喉仏」のベクトルが逆方向を示している筈である。表現上、俳句上逆にすることで、俳味が増している。作者である主体の体の一部の「喉仏」であるから、「喉仏」の方が不動であり、スタンダードなのが通常である。筆者にはその事実が逆転して「喉仏」が「酒」へぶつかって行くことが、「冷まじ」く思えてならない。

                                  その九十一(朝日俳壇平成27年11月2日から)
                                                         
                                  ◆微生物埋め育み山眠る (銚子市)下谷海二

                                  長谷川櫂の選である。評には「「山眠る」という季語の新たな展開。今年のノーベル賞を題材にして。」と記されている。中七の「埋め育み」にもあるように「埋蔵している」という意味に座五の季題「山眠る」を拡大解釈しているようだ。むろん冬の季題だが「微生物」にとっては現在の注目されている度合いからすると冬の時代を過ごしてきたのかも知らない。中七と座五の間で軽い切れを生じている。「山眠る」はあくまでも季題なのだ。

                                  ◆ぎんなんのことは任され寺男 (横浜市)橋本青草

                                  長谷川櫂の選である。ギンナンはややこしいものだ。第一臭い!拾い集めてからの処理にも手間と工夫が要る。食した時の珍味を思えばこその越さねばならぬ過程である。季節になると寺の近隣の人たちも手伝ったりする。当然、分け前を考えてやらなければならず、その分け前を過不足なく配分することは厄介この上ない。中七で一度切れを生じている。むろん「任され」たのは寺男であろう。が、作者、寺男、主語の関係性に不思議さが残る。

                                  ◆木の実降り音に迷ひのなかりけり (浜田市)田中由紀子

                                  大串章の選である。評には「第一句。木の実の降る心地よい音。「迷ひのなかりけり」と一気に言い下したところが爽やか。」と記されている。評のように木の実の降る音を心地よいと感じる感性の豊かさが羨ましい。まして音の中に迷いの無いことまで聞き取っている。座五の「なかりけり」の叙法には賛否があるかも知れない。

                                  ◆振り返るときの紅葉の濃かりけり (北海道鹿追町)高橋とも子

                                  稲畑汀子の選である。評には「一句目。山路を行く紅葉狩りであろう。途中で振り返った時に気付いた美しい情景。発見の感動。」と記されている。登山やトレッキング中の景であろう。五合目くらいまでは木々の間を辿る山道であるから景が開けることはあまりない。山頂に近づいたり谷間に差し掛かると突然に眺望が展開することがある。足場を気にして下を向いたきり歩きとおすと見逃すことがある。後で、山頂での仲間との語らいの中に出た話題まで気が付かないことがある。座五の「濃かりけり」の叙法には古風な落ち着きがある。


                                  【短詩時評 第六羽】俳誌『オルガン』の墜落(Fall)する俳句を読む-ときどきは未知の暴力的出来事(Violent Unkown Event)を暴力的に思い出しながら-  柳本々々




                                       をあきのかぜと書く 裂け目  福田若之
                                    (「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」『オルガン』3号・2015年11月)

                                  葛からの不在の屋敷からの道  鴇田智哉
                                    (「目」前掲)

                                  対岸を呼ぶ声落つる秋の水  生駒大祐
                                    (「秋」前掲)

                                  檀の実空が斜めになり了る  宮本佳世乃
                                    (「みのり」前掲)

                                  こおろぎの上五に夜のメモリあり  田島健一
                                    (「風上差分」前掲)

                                  ここに登場する92人は、皆名前が Fall で始まります。未知の暴力的出来事を調査する委員会から発行された名簿の名を拝借しました。名簿にある1900万人の中から代表的な人々を名簿同様ABC順に挙げます。本作品は92言語で表されており、これは最新の英語版です。 
                                    (ピータ・グリーナウェイ「ザ・フォールズ/THE FALLS」1980年『ピーター・グリーナウェイ初期作品Vol.2』紀伊國屋書店、2005年)

                                  3時間余りの映画を見ての一般的な意見はこうです。鳥類学または鳥がもしくはさらに重要な重力による死と空を飛ぶ夢がこの現象を作る原因だというものです。どちらかというと人より鳥に関わる現象です。
                                    (ピーター・グリーナウェイ「クリエイティブプロセス」前掲)

                                  今回考えてみたいのが『オルガン』(3号・2015秋)の福田若之さんの「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」からの一句です。

                                  これはそもそも『オルガン』のなかの「テーマ詠・上五」に基づいた連作なんですが、その〈上五〉が「●●●●●」と欠けているところから始まっているというおもしろい一句です。

                                  タイトルわきに「あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」という詞が添えられていますが、出だしから読み手はとつぜん〈墜落〉を強いられるのです。

                                  「X(上五)」をあきのかぜと「書く」のその「書く」が、上五の不在によって失調して、〈書く〉行為が遂行しえない句になっています。目的格が不在のままなんです。

                                  でもその一方で〈書く〉行為を遂行しえてもいるというふしぎな句になっています。「あきのかぜと書く」と語られているので、「あきのかぜ」とは書いているわけです。だから「XをYと書く」のXが不在なんだけれどもYは確定している。半ば記述しそこねつつ、半ば記述している。

                                  【2、コンスタンス・O・ファラバー(Constance Ortuist Fallaburr)】 
                                  ズッカーマイアー語を話す中年の女性的女性です。長年、飛行に興味を抱いてきましたが、VUEで尾骨が肥大して徐々に飛べなくなりました。鳥の責任論には常に疑問を抱き、過度に重力を重視して飛行を避けています。 
                                  【25、アードナウアー・ファラッター(Ardenaur Fallatter)】 
                                  VUEから17年目の記念日に亡くなりました。VUEで身長が伸び9つの命を得ました。4つはガボンで崖からダイブしVUEの自殺者救出に使用。残り5つの命は伝記によれば、連合アフリカ会議の所有に。会議はジャンプを公開するよう彼を説得。彼は大麦畑に飛んで9つ目を失いました。チェシャーでのVUE飛行大会です。遺体はガボンで最後の望みを果たしました。崖から投げられたのです。  
                                   
                                    (グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)

                                  で、わたし、いつも思っていたんですが、俳句でも川柳でも短歌でも出だしの5音が始まったら走り出さなくちゃならないですよね、さいごまで。

                                  それがいつもちょっとふしぎで、これはなんなんだろうと。〈そうする以外にありえないだろうか〉といつも思っていて、でもこの句をみたときに、不在の上五というのはありうるんだろう、とおもったんです。それは任意のnでもないわけですよ。そこにはなんにも書かれていなかったわけだから。

                                  だからこれはこういう上五に対する意識が〈不在〉や〈墜落〉となってあらわれている句なんじゃないかとおもうんですね。

                                  【9、マシャンター・ファラック(Mashanter Fallack)】 
                                  英語は彼女にとって、鳥の学名の品位を落とす言葉でした。カナリア諸島生まれを一時は否定しました。父親は鳥小屋を作る建築家で、医者の母はプールで溺死しました。代謝が活発になり、眠れぬ夜は鳥の文学を研究、鳥用語の理解推進運動も始めました。好きなトルス・ルーパー作品は「スズメ週間」。 
                                  【26、アグロピオ・ファラヴァー(Agropio Fallaver)】 
                                  92番目の言語は彼以外話し手がおらず、彼の死で消えました。中年の女性的男性でファラヴァー語の話し手。 
                                    (グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)

                                  で、この福田さんの〈墜落の句〉からもうひとつ思うのは、〈進化論的ベクトル〉の否定というか、実は俳句や短歌や川柳っていうのは〈進行=進化〉しかないように思える表現形態なんだけれども、〈遡行〉ってかたちがありうるのではないかっていうことなのではないかとおもうんですね。

                                  たとえばひとは俳句や川柳なら上五→中七→下五と読んでいくし、短歌なら上の句→下の句と読んでいくわけだけれども、出だしが欠如していた場合、タイトルにもあるように「頭から墜落」していく以外にないわけです。意味的墜落というか。墜落しながら、中七や下五から〈遡行〉していくしかない。
                                  そういう短詩の〈読み〉としての進化論的ベクトルを否定している句なんじゃないかとおもうんです。ベクトル自体が任意化されている句なんじゃないかと(〈墜落〉というのは進行方向=ベクトルを失うことですよね)。

                                  瀬・手・音・舳・眼などをあらわす秋の声  福田若之
                                    (「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」前掲)

                                  任意について考えた場合、たとえば同じ連作内にあるこれも「秋の声」を〈任意〉としてとらえた句なんじゃないかとおもうんですよ。それは「瀬」でも「手」でも「音」でも「舳」でも「眼」でも「n」でもありうるかもしれない。でもその〈どれ〉でもない。〈どれで《も》〉ありうるのだけれども。

                                  福田さんの句は上五の〈不在〉なのだけれども、こうした〈不在〉及び〈墜落〉はたとえば茨木のり子のこんな詩にも見いだせるんじゃないかとおもいます。

                                    わたしが一番きれいだったとき
                                    街々はがらがら崩れていって
                                    とんでもないところから
                                    青空なんかが見えたりした

                                    わたしが一番きれいだったとき
                                    まわりの人達が沢山死んだ
                                    工場で 海で 名もない島で
                                    わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

                                    (……)

                                    だから決めた できれば長生きすることに
                                    年とってから凄く美しい絵を描いた
                                    フランスのルオー爺さんのように
                                                  ね

                                    (茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」『茨木のり子詩集』思潮社、1969年)

                                  最終連の最後の二行の「ルオー爺さんのように」の「に」から「ね」までの〈圧倒的な不在=墜落〉。
                                  このときこれまで「わたしが一番きれいだったとき」と必ず連の頭で入っていたリフレインの音律と速度が崩れ、「わたしが一番きれいだったとき」という〈時間〉がもう誰にも(言語でさえも)埋めがたいということが、わかる。ここで音調や音律がつまずくことによって、墜落することによって、これまで順調にきた言葉の律動が、「とんでもないところから」「がらがら崩れてい」く。

                                  「わたしが一番きれいだったとき」は戦争によってもう戻らない。その〈戻らなさ〉を〈語る〉ことで埋めるのではなく、語り〈え〉ないことで、埋め(ないかたちで埋め)る。埋められないものとして。誰も埋められない。語り手本人が埋められるわけでもない。福田さんの句の上五のように〈不在=墜落〉としてしかここは語りえない、生者も死者も語り得ない空白になっている。ここで、読み手は、墜落せざるをえない。

                                  【11、カルロス・ファラントリー(Carlos Fallantly)】 
                                  6月12日のVUEの夜、妻の脳卒中で夫の愛は七面鳥へと移行。彼は温室に住み、七面鳥会社を経営。 
                                  【12、ミュージカス・ファラントリー(Musicus Fallantly)】 
                                  ダ・ヴィンチのメモをVUE歌の歌詞に適用。飛行のパイオニア92人を称える合唱曲も書きました。とても複雑で物語的要素が多く、飛行の種類を列挙します。主な登場人物はパイロットや飛行家、それに操縦士、ガラーなどです。ガラーはアラウ語で水上を飛ぼうとする人です。イカロスも、それでした。合唱曲はヴァン・リカールに捧げられました。1889年にエッフェル塔から身を投げたフランス人です。 
                                    (グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)

                                  ちなみにこういう言語の墜落や失墜は、俳句や詩だけでなく、小説にもあらわれているとおもうんですね(それぞれの表現形態にあわせながらいろんなところに Fall はあらわれているのではないか)。
                                  たとえば〈なんにも言うべきこともない空間〉を言語で構築するのがうまかった内田百閒に「件」(大正十年一月)という短篇があるんですが、「私」がとつぜん予言する半獣妖怪「件(くだん)」になってしまう物語です。

                                  件の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、自分がその件になろうとは思いもよらなかった。からだが牛で顔丈(だけ)人間の浅間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立っている。……あんな仕構えをして、これから三日の間、じっと私の予言を待つのだろうと思った。なんにも云う事がないのに、みんなからこんなに取り巻かれて、途方に暮れた。
                                    (内田百閒「件」『ちくま日本文学001 内田百閒』ちくま文庫、2007年)

                                  で、人々から予言しろ予言しろとせまられるんだけれども、けっきょくなにひとつ、〈言うことができない〉。最終的にこの物語は予言をひとつもできずに「大きな欠伸(あくび)」で終わるんですが、〈あくび〉という言語化/意味化できない〈非言語〉によって言う/言わない/言える/言えないの折衝が行われた物語が幕を閉じる。言語的墜落によって終わるわけです。

                                  月が黄色にぼんやり照らし始めた。私はほっとして、前足を伸ばした。そうして三つ四つ続け様(ざま)に大きな欠伸(あくび)をした。何だか死にそうもない様な気がして来た。
                                    (内田百閒「件」前掲)

                                  言語的墜落によってさまざまな〈裂け目〉が出てくる。ある場合には、それは茨木のり子の詩のように〈戦争下の非言語〉として出てくるかもしれないし(ひとは喪失を語れるのか)、内田百閒の小説のように〈強制される発話への抵抗〉として出てくるかもしれない(ひとは何かを語らなければならないのか)。また、それらふたつを含んだ〈非言語的発話〉としての空白から始まる福田さんの句のように、〈始めてしまうことの拒絶〉としてあらわれるかもしれない(ひとは始めることを始めなければならないのか)。

                                  【15、スターリング・フォーランクス(Starling Fallanx)】 
                                  ベレー帽や鳥帽子、厚紙の箱のコレクターで、歌手で花火ファン、放浪者、ナイチンゲールの権威です。マニホルド渓谷に行く途中の籔でVUEに遭遇。どのVUEにも付き物ですが、彼女も不死を感じました。疑いなく娘より長生きするでしょう、孫娘や、その娘よりも。血縁関係が薄くなり絆を求められなくて、また放浪して別の家庭を持つのです。再出発の機会は無数です。ジャズ・クラブなどに行く間、彼女はかかしを探します。VUE被害者が鳥との関係を断てる唯一の場所です。 
                                  【36、カステル・フォールボーイズ(Castel Fallboys)】 
                                  VUE前は有能なパイロットでした。1階の戸口をふさぎ屋根からしか入れなくして、飛行のため筋肉の成長を抑え、足を使わずムクドリのような足取りにしました。天気が変わるとひどく不安になり、秋の夜は渡り鳥について海まで行き、いつも渋々引き返しました。
                                    (グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)

                                  〈始まり〉の不在(或いは言語の失墜=墜落)という構造によって〈終わり〉の時間や速度さえも変わってくる場合がある。始まりがないということは終わりを意識しなければならないし、終わりから始めなければならないから。でも、不在のままの〈始まり〉は始まることはできない。始めることができないなら、終わることもできない。墜落しつづけるしか、ない。

                                  短詩には始めから定型に内在された時間や速度が自動的に埋め込まれているのかもしれないけれど、それを構造的にズラすことはできる(〈墜落〉という未知の暴力的出来事を通して)。
                                  福田さんの句は、そういう句なんじゃないかとおもうんです。というよりも、構造を自覚し(てしまっ)た短詩は時間や速度からズレていくしかないのではないか(読み手をも、ゆるやかに、突き飛ばしながら。墜落をゆっくりと示唆しながら)。
                                  そうして、墜落しながらも、Fall しながらも、なんとかそこに暴力的に言葉を這わせ、沿わせていく。言葉は速度に追いつかないけれど、言葉そのものが速度をうんでいくように。おちながら。

                                  ながれぼしそれをながびかせることば  福田若之 
                                    (「書き出し あるいは始まるかという問いの欠如に伴う頭からの墜落」前掲)

                                  【92、アンシア・フォールウェイスト(Anthior Fallwaste)】 
                                  多くの不死のVUE被害者ができなかったことを達成。鳥威嚇地に埋葬されたのです。鳥との関係を断ちたい人々の伝説の聖域です。 
                                    (グリーナウェイ「ザ・フォールズ」前掲)