2015年9月18日金曜日

評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その12…筑紫磐井



筑紫:この作品(「鬼」)は私が花尻氏に依頼したものですが、花尻氏に依頼した趣旨は、詩(自由詩と言う形式)と定型詩である短歌・俳句は違うものであるという既成概念を、むしろ混乱させることを期待したものです。同時連載した他の2人(小津、竹岡氏)には、花尻氏の後行作品であることもありこうした依頼はしませんでした。花尻氏の作品を見た上で、その評価も兼ねてお二人の独自の主張がにじみ出た作品が発表されるだろうと思ったからです。

ちなみに、「鬼」は、表題の「俳人の定型意識を超越する句」と、文末の《五十句》の言葉から、辛うじて五十句の独立した俳句であることを示すだろうと思っていますが、これらも作者の韜晦した表記と考えればあやふやとなります。その意味で「これは何なのだろうか」と言う森川発言は至極まともな質問のように見えますが、実は俳句と言う定型詩が繁栄を続ける特殊な日本と言う共同体で生まれる疑問であって、普遍的な疑問であるとは思いません。

日本の詩には、自由詩と定型詩があって、定型詩には短歌(五七五七七形式)と俳句(五七五形式)があり、さらに俳句と似たものに川柳と自由律俳句があるという町内見取り図が我々の頭にはあります。しかし、それが絶対的に正しいというわけでもありません。よく言われる「俳句は詩である」という言葉が真実であるなら、こんなこまごまとした見取り図は不要なわけで、言葉としてのみ評価すればよいわけです。

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読み方が判らないといわれます。それはもっともです。たぶんこんな読み方があると思われます。


①50行全体で1つの作品と見る。長編詩であり、長編小説である。「融合」でしょうか。
②かつての連作と言う形式で、1行は1句であるが、なお全体として1つの作品として鑑賞すべきもの。
③それぞればらばらの1句(1作品)である。

作者の意図は、前述の理由で③であると推測はできますが、しかし①と誤解される③、②と誤解される③であることを楽しんでいるかもしれません。作者はもはや一つの意思を伝えるわけではなく、むしろこんな当惑・誤解を期待すると言ってもよいでしょう。

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わたしは「鬼」は内容を鑑賞する作品である以上に、詩とは何か、俳句とは何かを問題提起するテクストであると考えています。例えば、「行間の緊張も弱い」と言われていますけれど、伝統俳句も連句も「緊張の弱い」のが特徴です。現代詩の行間の認識(強弱)とは異なる文芸原理はいくらでもあるのです。

(花尻氏には申し訳ないが、伝統作家の期待するような)優れた作品美しい作品を依頼したのではない、驚かしてほしいということ――まさに「鬼的」な作品を期待していたわけです。おそらくそれは感性で受け取らず、知的に受け止められることによって目的が達せられるのでしょう。

あるいは、確かに、「鬼」はテーマ性に拠りすぎているようにも見えます。全体のテーマが鬼だし、50句の中に頻繁に鬼と鬼を連想する素材もしきりに出てきます。依頼した私も、独立性が強い方がいいと考えていましたが、しかし、全体としてどのような戦略をとるかはこんな独断的な活動をする以上、比較する同行者もいないわけで、やったもの勝ちの世界ではないかと思います。

再度言っておきますが美しく調和のとれた作品を期待しているのではなくて、俳句は何であるかを深く考えさせてくれる作品なのです。詩的に十分満足する作品が必要であれば、花尻氏につぐ2番手、3番手の作家が挑戦してみればよいことです。その意味で、花尻作品ははっきりした目的をもっていたと思っています。

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花尻作品を読むに当たってのキーワードを二つ挙げてみます。

①自由律
花尻作品には、寄り添う二つの軸があると思われます。一つは、575の定型を極端に離れていること、言ってみれば自由律俳句であるのですが、自由律作家がある限り花尻氏の試みはそれほど革命的ではありません。私が言っているのは、山頭火、方哉などを言っているのではなく、

 陽に病む 大橋裸木
のような作品です。先日、船団のシンポジウムに参加し、坪内、仁平氏と語りあいましたが、坪内氏の話では、青木此君楼には次のような作品があるそうです。

 いろ   青木此君楼
世界最短とはこの作品のことを言うのでしょう。裸木や此君楼には、形式を突き詰めていった末の美意識と言うよりは、世界最短の詩としてのジャンルを確立させたいという意識が強かったのではないかと思われます。

これが作品としてどのように評価されるかは別として、私はこう言う意識(ジャンル意識)はぎらぎらとしていいと思います。それこそ、文学はとは何か、という問題意識を刺激してくれるからです。


②連作

もう一つの軸は連作です。その前に言っておけば、我々は「連作」と言う枠組みを安易に秋桜子や誓子、新興俳句の枠組みの中で考えてしまいすぎているようです。しかし連作と言う考え方はいろいろな歴史を負っているはずです。正岡子規は、俳句において連作を提案していませんが、短歌において連作を実施しています。複数の作品を詠むことを「複合作品」と仮りに呼べば、俳句における当初の「複合作品」は公表を期待していない句会における「一題10句」がそれに相当するでしょう。出された10句の内から数句が選ばれて子規の正式の作品として公表され、認知され、批評するのです。作者によって10句から絞り込まれます。

一方、短歌における「複合作品」は、歌会を経ないで10首の作品がそのまま公表され、認知され、批評されるののです。読者は絞り込んでも作者は絞り込みません。

子規は俳句と短歌でこの二つの「複合作品」を使い分けています。

  塀低き田舎の家や葉鶏頭 
  鶏頭に車引入るゝごみや哉 
  鶏頭の花にとまりしばつたかな 
  朝顔の枯れし垣根や葉鶏頭 
  葉鶏頭(かまつか)の錦を照す夕日哉 
  鶏頭や二度の野分に恙なし 
  萩刈て鶏頭の庭となりにけり 
  誰か植えしともなき路次の鶏頭や 
  鶏頭の十四五本もありぬべし

明治33年9月9日、根岸にある正岡子規の家に弟子たちが集まり、句会を行います。この運座は「一題十句」で行われ(当時の句会は99%題詠でした。雑詠の句会の記録はほとんどありません)、この時は「鶏頭」の題で、三十分ほどの間に各人は十句を詠みあげました(子規に九句しかないのは時間が足りなく一句不足で時間切れとなってしまったせいでしょう)。

この句会のことは現在では殆ど忘れられていますが、この句会で披露された一句(鶏頭の十四五本もありぬべし)が子規一代を代表する名句となったと言われます。だから、「一題十句」は子規が俳句というジャンルでもっともよく使った「複合作品」の形式であることになります(ちなみに「一題十句」は蕪村の句作を参考にして子規たちが作り出した明治のオリジナルな様式と考えられます)。

ところで、子規は、明治31年ころより従来の「句会」を発展させて「歌会」を開催しました。だから歌会のモデルとなったのは句会であり、題詠(季題に限られません)によって実施しました。ところが歌人たちは、研究が進むに従い、歌と俳句はその詩型が異なるだけでなく、性格も根本から異なり、趣味も一致しないことに気づき、十首歌から連作を創りだしたのです。

子規自身の連作短歌が最初に試みられたのが明治33年です。俳句「一題十句」と短歌の連作が異なるのは、俳句の一題十句は句会に投稿されるのが十句であり、全句公表を前提としていなかった(その一部を公表されることはあった)わけですが、連作はすべて公表したことにあります。次の「複合作品」は子規の有名な作品を含みますが、「日本」に34年に全歌公表された十首です。

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 
  瓶にさす藤の花ぶさ一房はかさねし書の上に垂れたり 
  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも 
  藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ 
  藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり 
  瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす 
  去年の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも 
  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり 
  この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日まり後 
  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

題詠と連作の関係は、新興俳句時代にも手がかりを残しています。

昭和4年4月の東大俳句会の兼題は「行春」でしたが、この時、水原秋桜子は、次の句を出しています。

  行春やほのぼののこる浄土の図 
  行春の光背のみぞ照り給ふ

そしてこの句が、昭和の金字塔とされる『葛飾』の巻尾を飾る連作「古き芸術を詠む」となるのです。

  金色の仏ぞおはす蕨かな 
  行春やほのぼののこる浄土の図 
  行春のただ照り給ふ厨子の中 
  とある門くづれて居るに馬酔木かな

当時最も革新的であった連作俳句が、実は「行春」という古い兼題の題詠で詠まれた作品であったのです。

山口誓子も、句集で、「蟲界變」と名付けた連作を発表しています。

蟷螂の蜂を待つなる社殿かな 
蟷螂の鋏ゆるめず蜂を食む○ 
蜂舐る舌やすめずに蟷螂(いぼむしり)○ 
かりかりと蟷螂蜂の貌を食む○ 
蟷螂が曳きずる翅の襤褸かな○

しかしこれは、実は昭和7年にホトトギス雑詠で巻頭を得た句でした。「かりかり」の句は決して自然の忠実な描写ではなく、蟷螂という題なくしては生まれない題詠作品であったのです。また、連作の構成と選の関係についても、誓子はこんなことを言っています。


「五句を限度とするホトトギスの雑詠欄に投吟する場合には、その規約に基づいて、一聯数句の連作俳句を、一聯五句の連作俳句に構成し直さねばならない。連作俳句が、相互に、緊密に、腕を組んでいるスクラムは、必ずしも絶対のものではない。(ラグビーのスクラムが、セヴン式にもなり、エイト式にもなるのと同断である。)/このことは、制度上寔に遺憾であるが、已むを得ないことである。」

「「五句中一句だけを削られる」ということは、その作者が未熟であった為に然るのであって、それは作者が当然負うべき譴責である。/然しながら、そのことはただちに連作俳句そのものの受けた致命傷ではない。それは単に連作俳句に於ける「個」の蒙った致命傷であるに過ぎない。/脆弱な「個」の上に、構成された連作俳句がたちどころに崩壊することは何等不思議な現象ではない。/私は連作俳句が「全」としてそっくりそのまま認められんことを理想とする。/ところが、その理想が常に必ずしも、容易くかなえられないのは、単なる雑詠の五句が、五句とも入選することの困難であることからしても、凡そ察知せらるることである。/問題は一に「個」の完成に繋ってゐる。」

重ねて言いますが、どんな理屈を誓子がつけようと、「蟲界變」は当初連作5句であった(あるいはもっと多かったかもしれません)ものが、虚子によって削除された(○印が虚子選で残った句です)ことによって雑詠巻頭として広く知られ、ついに「かりかりと蟷螂蜂の貌を食む」の1句として後世に立つことになった、一種の奇形の作品であったということができるでしょう。

つまり、我々が連作と思っているものは、時々刻々変化している、必ずしも形のない「複合作品」であったのです。

花尻作品はこんなことを考えさせてくれるいいヒントであったのです。


【補注1】

力点が俳句は何であるかを考えると言う方に移ってしまったので、あたかもそちらばかりに花尻作品の目的があるような主張になってしまい、花尻氏には不満かもしれません。ただ、これは

鴨 南北(こゑする)
比喩、花か

をどのように添削するかを基準に考えてみるといいと思います。添削のしようがなければ、この句に関しては「究極」と言うよりしょうがないのだと思います。

【補注2】

前号の山頭火の「古池」メモは『其中日記』昭和13年10月にあります。なくなる2年前のことです。

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