2015年7月10日金曜日

【歌〈と〉挿絵を読む】新鋭短歌シリーズ〈の〉挿絵をめぐる―鯨井可菜子/河上ののこ『タンジブル』〈と〉岡野大嗣/安福望『サイレンと犀』― / 柳本々々



絵はなにごとも説明しない、ただ提示するだけなのである。こうした事態を言葉で説明するためには、もう一度、「類似が依拠している肯定的言説という基盤を巧みにかいくぐり、純粋な相似と肯定的ならざる言表とを、目印なきヴォリュームと平面なき空間の不安定さのうちで戯れさせる」という、フーコーのマグリット論の一節を引用するしかないだろう。この「戯れ」は、言葉では説明しにくいが、とても啓示的なものとして存在している。
  (木股知史「マンガ表現論-絵と言葉の相互矛盾-」『日本の文学 第7集』有精堂、1990年、p.140)

書肆侃侃房から出版されている〈新鋭短歌シリーズ〉。

ポップなやわらかい装幀が特徴的で、短歌の初心者でもふと手にとって入ってゆきやすいつくりのシリーズになっていると思うんですが、その〈とっつきやすさ〉のひとつに〈絵と短歌〉のちいさな・しかし・おおきなコラボレーションがひとつあるのではないかと思うんですね。

新鋭短歌シリーズは挿絵が入ってる歌集が数冊あるのが特徴的ですが、しかし歌集のなかで挿絵を使っていなくても、装画としてそれぞれがめいめいのカラーをもつ絵を選んでいる。

読者はその歌集の表紙の装画をみることによって、ある一定の安定した枠組みをもち、主題のゆるやかな予兆を感じ取り、そこからこの歌集のコンテンツへと入ってゆくことができる。それもまたこのシリーズのひとつの特徴だとおもうんです。

今回は、この新鋭短歌シリーズで歌集のなかに挿絵を取り入れている(挿絵として違う語り手を取り入れている)歌集二冊にしぼって考えてみようと思います。

鯨井可菜子さんは歌集のなかで語りながら河上ののこさんの絵とであい、岡野大嗣さんも歌集のなかで歌いながら安福望さんの絵とであう。

挿絵と短歌はどのような関係になっているのか。それはお互いにどのような意味生成を働かせているのか。

まずは鯨井可菜子さんの歌集『タンジブル』(2013年)です。この歌集の装画・挿絵を描いておられるのは、河上ののこさんです。

そもそもこの歌集のタイトル「タンジブル」とは、触れることができる、実体感のある、触知できる、といった意味合いなのですが、まずこの歌集をひらくと第一章あたまにののこさんの挿絵が入ってくるので、読者はこの歌集に対する〈トーン〉に〈触知〉することができます。

描かれたイラストでは、灯台がみえる砂浜で猫が電話を待っている。このイラストはこれから始まる鯨井さんの短歌にみられるような〈待つ〉ことの主題、〈試される〉ことの主題、〈なにかたしかなものにふれようとしてふれそこねている〉主題への接続を用意しています。

十六夜の寸胴鍋にふかぶかとくらげを茹でて君が恋しい  鯨井可菜子 
試されることの多くて冬の街 月よりうすいチョコレート噛む  〃 
彗星の近づきし日に朝食の皿を残して消えた恋人  〃 
6時、朝マック注文するときの店員さんのうでの毛 会いたい  〃 
夕暮れにむすんでひらいてチョコレートもうかけられぬ番号がある  〃


〈ふれたい〉〈たしかなものにしたい〉〈タンジブル〉なものにしたいという歌にみられる衝動がののこさんの挿絵をとおすことでやわらかくしかしたしかなかたちで提示されてゆくのが特徴だとおもいます。語り手はこの歌集において少しずつ歌を重ねながら「タンジブル(たしかなもの)」に近づいていくのですが、同時に、各章の頭に挿入されるののこさんの挿絵が〈タンジブル〉への〈イメージ〉の手助けとしても機能しているとおもうんです。

この歌集の章立て=構成は鯨井さんの人生の節目とともに分節されているのですが、そこにののこさんの挿絵がふしめふしめに挿入されている。

どんなに語り手がふれられないもの、手にできないもの、ふたしかなものを感じ取ってうたいつづけていても、節目節目において、たしかな〈絵=イメージ〉がやってくる。それはある意味で、語り手もまたあるたしかな〈イメージ〉を節目節目においていだきながらうたいつづけていたということなのではないかとおもうのです(裏返せばだからこそ〈節目〉というのはできるのです。あるイメージの把持をえて、つぎのイメージへと切断しつつ、連続していくから。絵=イメージとはこの意味で節目であり、切断であり、接続なのです)。

この歌集におけるののこさんの挿絵=視覚イメージは、やわらかくありながらも、いつも〈たしかさ〉として機能しています。抽象画ではなく、具体的なイラストとして。語り手がその〈たしかさ〉へと前進するのを介添えするようにして。

この鯨井さんとののこさんの歌集における歌と絵の関係とは、語り手と挿絵が相互に補完しあって〈タンジブル〉が錬成されていくそのプロセスにあるのではないかとおもうのです。挿絵=イメージは、語り手と、読み手の前進を介添えしてくれる。わたしたちがこの歌集を読み終えたときに〈タンジブル〉なものが節目節目にあったことを実感させてくれる。そういう機能としても働いている、と。

だからこそ、歌にとっては絵が、絵にとっては歌が、それぞれの〈タンジブル〉を補完しあう関係になっているのです。どちらに寄りすることもなく。歌〈の〉タンジブルと、絵〈の〉タンジブルを。

それがこの鯨井可菜子さんの歌と河上ののこさんの歌と絵の〈タンジブル〉な相互関係だと思います。どちらかが欠けてもいけないし、どちらかがどちらにひきこまれてもいない。それがひとつの〈たしかさ〉をたえずおくりだしてくるのです。ほかならぬ歌として〈の〉、絵として〈の〉、こ〈の〉わたしが語る/描く〈たしかさ=タンジブル〉を。

では次に岡野大嗣さんの歌集『サイレンと犀』(2014年)をみてみましょう。この歌集では、装画・挿絵を安福望さんが描いておられます。

鯨井さんの歌集の挿絵の配置と比較して岡野さんの歌集における挿絵のありかたですぐに気が付くのは、この歌集が鯨井さんの歌集よりも積極的な挿絵の配置をしている点です。鯨井さんの歌集では章立てごとに挿絵が挿入されていましたが、岡野さんの歌集では、章立てごとに入る挿絵や、その章の内部の連の終わりにも挿絵が入ってきます。つまり、章の節目だけでなく、連の節目にも絵が挿入されてきます。

で、ひとつこの岡野さんと安福さんの歌と絵の関係で大事だと思うのが、完全な照応関係にあるのではない、岡野さんの歌を逐語訳的に安福さんが絵にしているわけではない、絵は解釈なのではない、という両者のバランス関係のありかたなのではないかと思うんです。

たとえばです。考えてみれば、この歌集のタイトルは『サイレンと犀』なわけです。もし、絵が歌の解釈や説明を試みようとするのであれば、たとえば装画や挿絵で非常にインパクトのある犀の絵をもってきてもおかしくないはずです。しかしページをひらけばそこにあらわれる安福さんの動物たちは、りすやうさぎ、おおかみ、くま、ひとです。いってみれば、この歌集には、〈犀〉はいないんです。こんなに絵があるのに。

つまりこの歌集における歌と絵の関係においてはこんなふうなことがいえるのではないかと思うんです。

この歌集においては、歌の空間と絵の空間のふたつの空間が近接しながらも決して同一化しないかたちで、お互いがお互いをかすかに照応しあうようなかたちで併存しているのだと。

それはまさに『サイレンと犀』というタイトルの「と」にみられるような、〈と〉の関係のありかたです。もしこれが『サイレンの犀』だったならば、「歌の絵」のように、絵は歌に吸収されてしまうでしょう。それは「歌」を説明する「絵」。「歌の絵」になってしまうからです。

〈の〉は、一方を一方が吸収し同一化してしまうのです。それが、〈の〉の力学です。「りんごのほっぺ」のような隠喩的関係といってもいいでしょう。

ところが、〈と〉の力学はちがいます。それは、どこまでも平行線をたどりつつも、〈添い寝〉のように、同一化もせず、分離もしない換喩的関係なのです(「りんがとほっぺ」です)。

ですから、この歌集における「歌」と「絵」の関係は、「歌〈の〉絵」の関係ではなく、「歌〈と〉絵」なのです。あくまでも。

表紙をひらくとすぐに安福さんの絵がありますが、ここでは動物たちが整列をしています。この整列はおそらくひとつの〈と〉のありかたを象徴的に示しています。

ひと〈と〉くま〈と〉おおかみ〈と〉うさぎ〈と〉りすが、べったり肩を寄せ合うことなく、ある距離をもって、しかしみなおなじ姿勢で、おなじ方角をむいて並んでいる。

これが、この歌集のコンセプトである〈とととと関係〉だとおもいます。

青空とブルーシートにはさまれてサンドイッチのたねだねぼくら  岡野大嗣

先生と弁当食べる校庭のレジャーシートの海はまぶしい  〃

青空〈と〉ブルーシートにはさまれた語り手は「ぼくら」を「サンドイッチのたねだね」と隠喩的関係にもちこもうとしています。まさに「サンドイッチ〈の〉たね」という〈の〉の力学です。〈と〉の力学が、〈の〉の力学へと変換されているのです。

「先生と弁当食べる校庭のレジャーシート」の〈と〉も、「海」の隠喩として〈の〉の同一的力学へと転置されます。

この『サイレンと犀』ではどこかで語り手が〈と〉を超えて〈の〉へとおもむこうとしているのが特徴的です。しかし語り手はこえられない〈と〉があることもわかっています。

ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた  岡野大嗣

完全に止まったはずの地下鉄がちょっと動いてみんなよろける  〃

〈の〉の力学でまとめあげられていたはずのものたちが、無数の〈と〉へとばらけていくしゅんかんを、語り手は描いています。〈知っている〉からです。

「ハムレタスサンド」という隠喩は、いつかは「パンとレタスとハムとパン」へとばらばらになるし、地下鉄の〈乗客たち〉もイレギュラーな電車の動きによって「ひと〈と〉ひと〈と〉ひと〈と〉ひと」へとばらばらになります。

わたしたちは、同一化された「ハムレタスサンド」のようなまとめあげた隠喩的世界で、おおざっぱに暮らしてはいるけれど、そしてそれは隠喩の快楽的なユートピアでもあるけれど、それがふとしたしゅんかんにばらばらになって換喩的な〈と・と・と空間〉になったときに、〈現実(リアル)〉があらわれる。

だから、それを歌集は『サイレンと犀』というタイトル〈として〉、絵は整列する動物たち〈として〉、知っている。

それがこの歌集の〈と〉の空間なのではないかとおもうのです。

そしてだからこそ、それは、歌〈の〉絵ではなく、歌〈と〉絵なのです。

〈と〉は、たった一音の、ささやかな、隣接された、すぐそこにあるまぢかな距離ではあるけれど、しかし一方であまりも〈と〉おい、あっ〈と〉うてきな、〈きょり〉である〈と〉いうこ〈と〉。

その〈と〉のきょりかんのぜんぶを、ほっする〈と〉いうこ〈と〉。

マーガレットとマーガレットに似た白い花をあるだけ全部ください  岡野大嗣

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