2015年5月1日金曜日

 【時壇】 登頂回望その六十二・六十三・六十四 / 網野 月を



その六十二(朝日俳壇平成27年4月13日から)

◆甘藍に蝶の来てゐる八百屋かな (加賀市)西やすのり

金子兜太と長谷川櫂の共選である。季題「甘藍」はキャベツのことであるのは周知であろう。「甘藍」は漢語である。二十枚前後の葉が出てから、葉序に従い螺旋状に茎頂を包む。つまり結球するのだが、結珠時には茎が成長せずに短縮茎である。結球はオーキシンという成長ホルモンが葉の裏側に偏るために起こる現象だそうだ。外側の葉から成長して内側が後から成長するので芯に近いところの葉が密集する。大きさでなくて重さで選ぶのは、その由縁だ。その特徴的な形状から「玉菜」と言ったりもする。このキャベツだが、菜の花と並んで蝶にはよく適うアイテムだ。掲句の季題は「甘藍」であろうが、「蝶」も並列して季題の役を担っている。掲句の俳諧味は畑ではなくて「八百屋」に蝶が勘違いして引き寄せられている点だ。両選者もこの景を愛でているのだろう。特殊な成形を有するキャベツならではの景である。

◆佐保姫の素性に詳し養蜂家 (京都市)山口秋野

金子兜太の選である。評には「十句目山口氏。蜜蜂から毎日聞いているのさ。」と記されている。金子兜太のおどけた物言いが面白い。評意はファンタジーだ。ただ佐保姫の素性自体が詳らかになっているのかどうかは定かではないが。

◆低温を祈りし花の盛りかな (枚方市)中嶋陽太

稲畑汀子の選である。評には「一句目。桜の咲く頃の寒暖に一喜一憂する日々。咲く暖かさを喜び、散るをとどめる寒さを願う人の心。」と記されている。養花天という季語があるが、将にこのことであろう。この評が詩になっている。「散るをとどめる寒さを願う」だ。が、「咲く暖かさを喜び」は掲句内には言及されていない。あくまで評は、句中に表現されていない処まで言う必要はない。




その六十三(朝日俳壇平成27年4月20日から)
                   
◆大方は袋の重さ種袋 (津山市)池田純子

長谷川櫂の選である。「種袋」は「種」に関連する季題であり、「種蒔く」は特に稲のことを言うようだが、掲句の「種袋」は稲には限らないのだろう。春に蒔く種にはごく微細なものがあって、微細なものの中には特に野菜が多い。花の種もある。果物の種のようにしっかりとした形状と質感を有していない。種のその軽さをキャッチした作者の感性は鋭い。

小さな軽い種に植物の命の軽さとデリカシーを、上五中七「大方は袋の重さ」に拠って担保している。種を入れた袋よりも軽々しい種をしみじみと感じているのだ。

◆白木蓮の俯く花のなかりけり (兵庫県太子町)一寸木詩郷

長谷川櫂の選である。たぶん作者は紫木蓮との対比から「白木蓮」としたのだろう。が、「木蓮」はそのままで白を意味するだろう。木蓮や辛夷は大概その花を上向きにして咲いている。しかし「なかりけり」の全否定は言い過ぎであろう。中にはひしゃげてしまったものもあるかも知れない。揃って上向きになっているという断定が詩的世界を創り出している。


◆鳥帰る富士の余白を花道に (羽村市)寺尾善三

大串章の選である。「富士の余白」も「花道」も比喩または比喩に準じる表現である。一句の中に二つの喩えは少々難解な気がする。また両者の比喩が相殺してしまうきらいもある。




その六十四(朝日俳壇平成27年4月27日から)
                          
◆夜桜を見し満足に抱き合へる (福津市)松崎佐

金子兜太の選である。「夜桜」だけでも艶っぽいのだが、「抱き合へる」まで言われるともうどうでも良い感じだ。「見し」で切れを作り出して、破調にしているのだが、この切りがあるのがミソで「夜桜」と「抱き合へる」が因果関係なく配置されて、並列に扱われているところが工夫のしどころだろう。作者は「抱き合へる」で読者へ男女の交合を想像させてほくそ笑んでいるのかも知れない。実は只の友人同士のハグかも知れないのだ。

◆何やかや花の愁ひの濃くなりぬ (福津市)松崎佐

長谷川櫂の選である。「おなじく!」と名乗りたいところだ。花見の好機を逃してしまわないかと危惧しているのだろう。「濃くなりぬ」という措辞は、桜の色合いが散り際に濃くなっているような様を想像させる。

◆春愁や名を忘れ顔残りゐる (武蔵野市)佐脇健一

長谷川櫂の選である。愁いの元は忘れたことよりもその人物にあるような気がする。人間同士に虫の好かないことはままあることだ。万人が博愛主義とはなかなかいかないものである。中七座五の「名を忘れ顔残りゐる」については、筆者などは日常茶飯の事だ。名を忘れても不思議と顔は覚えている。顔と名前と記憶の内に残消の差がある。

◆春の昼戦争がある不思議かな (長岡京市)寺嶋三郎

長谷川櫂の選である。反戦もここまで消化してしまえば文芸になる。消化というよりも昇華(=アウフヘーベン)ということだろうか。戦争の渦中にある人々への憐れみと「戦争がある」ことを「不思議」に思っていられることの幸福を作者は噛みしめている。一見長閑だが、真剣な思いなのだ。



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