2015年5月29日金曜日

第18号




  • 6月の更新第19号6月12日第20号6月26日




  • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定) 》読む

    (6/5更新)花鳥篇、第六
    下坂速穂・岬光世・依光正樹
    依光陽子・五島高資・真矢ひろみ

    (5/28更新)花鳥篇、第五
    …水岩瞳・小林かんな・神谷波・田中葉月・福田葉子・羽村 美和子
    (5/22更新)花鳥篇、第四
    …小野裕三・早瀬恵子・浅沼・璞・林雅樹・網野月を・佐藤りえ
    (5/15更新)花鳥篇、第三
    …東影喜子・ふけとしこ・望月士郎・堀本 吟・山本敏倖・仲寒蟬
    (5/8更新)花鳥篇、第二
    …関根かな・中村猛虎・山田露結・夏木 久・坂間恒子・堀田季何・大井恒行
    (5/8更新)春興帖 追補2
    …仲寒蟬
    (5/1更新)花鳥篇,第一
    …杉山久子・曾根 毅・福永法弘・内村恭子・木村オサム・前北かおる・仙田洋子・陽 美保子
    春興帖、追補
    …林雅樹・西村麒麟・羽村美和子・竹岡一郎・東影喜子・山本敏倖・大井恒行


    【好評連載】


    「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・

    その8筑紫磐井・堀下翔 》読む


    ・今までの掲載


      当ブログ媒体誌俳句新空間』を読む … 》読む
        ●およそ日刊「俳句空間」 (おおよそ月~土00:00更新) 》読む
          …(5月の執筆者)竹岡一郎・青山茂根・依光陽子・黒岩徳将・北川美美 …
           大井恒行の日々彼是(頻繁更新)  》読む 
          ~登頂回望~ 六十七・六十八  網野月を  》読む



          【時評】
           「未成年」の行方 ―『七曜』終刊について―  
          … 外山一機  》読む

          【鑑賞】 
           上田五千石を読む テーマ 【緑雨】 
          ー 蓼科や緑雨の中を霧ながれー
          … しなだしん 》読む  
          「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行) 〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ
          ー続・18、田中裕明 「夏鶯道のおはりは梯子かな」ー
          大井恒行 》読む

          【こわい川柳を読む】
          なぜ怪談は「おわかりいただけ」ないと駄目なのか-〈そっちじゃないよ、うしろにいるよ。〉という怪談をめぐる定型性-  
          … 柳本々々  》読む 


          リンク de 詩客 短歌時評   》読む
          ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
          ・リンク de 詩客 自由詩時評   》読む 





              【アーカイブコーナー】

              ―俳句空間―豈weeklyを再読する

              第100号(最終号)2010年7月18日発行■終刊のことば
              「―俳句空間―豈weekly」の終刊にあたってなすべきこと=通時化…筑紫磐井   読む
              あとがき…高山れおな  読む




                  あとがき  読む

                  祝 仲寒蟬 芸術選奨新人賞受賞!
                   祝辞 筑紫磐井 第14号あとがき ≫読む

                  攝津幸彦祈念賞募集 詳細
                  締切2015年10月末日

                  豈57号刊行!
                  豈57号のご購入は邑書林まで

                  薄紫にて俳句新空間No.3…!
                  購入ご希望の方はこちら ≫読む

                      筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                      <辞の詩学と詞の詩学>
                      川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 

                      特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                      執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘


                      筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆




                      角川賞締切2015年5月31日‼

                      上田五千石の句【緑雨】/しなだしん



                      蓼科や緑雨の中を霧ながれ  上田五千石

                      第三句集『風景』所収。昭和五十四年作。
                      「北八ヶ岳・蓼科 四句」の前書のあるうちの一句目。他の三句は以下の通り。
                      滴りや岩に屈して径削り
                      山居さびしことにも苔の花ざかり
                      筒鳥や山姥に置く湖鏡
                      第二句集『森林』以降、前書が多くなり、『風景』も同様である。

                              ◆

                      前書の「北八ヶ岳」は、八ヶ岳連峰の北部。八ヶ岳は本州中央を縦断するフォッサマグナに沿って噴出した火山群で、赤岳を主峰に、南端を編笠山、北端を蓼科山として、二十以上の頂を擁する。北八ヶ岳は「きたやつ」と略され、全域が長野県に属する。
                      「蓼科」は、蓼科山もしくは蓼科高原を指すのだろう。山に登っていた五千石からすると、蓼科山と見るべきだろうか。

                              ◆

                      上五の「蓼科や」は、地名を置くことで、その場所を端的に想像させる。地名のイメージからは涼やかな高原が思い浮かぶ。

                      「緑雨」は新緑の頃に降る雨のこと。この句が詠まれたのは、句集前後の配置から見て、七月頃と思われる。七月というと新緑から万緑へ森の緑も深みを増す頃。だが蓼科は高原地帯で標高約千五百m。高地では七月でも木々の緑もまだ幼いのかもしれない。山の朝は七月でも肌寒さを感じるとも聞く。

                      この句では森に霧が流れる光景が詠われている。山間の森では夏霧が発生しやすい。雨が降り、霧が発生しても、夏の霧の粒は日光を反射して、森を明るくする。その風景は幻想的でもあるだろう。

                      五千石は敢えて「緑雨」を使い、蓼科の森の明るさを詠ったのだろう。いや、森に降る雨を直感的に「緑雨」と感じ、句にした五千石だろう。




                      第18号 あとがき


                      前号はあとがきをお休みしてしましました。
                      新緑の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。

                      前号は、4月に行われた海程秩父道場の潜入ルポ、そして時評が2本と賑やかになりました。
                      海程秩父道場での様子はゲスト登壇者の関悦史さんが角川『俳句』6月号の俳句時評でも触れています。あわせてご覧ください。

                      今号は5月最終。 時評は外山さん、そして柳本さんと冴えています。
                      筑紫×堀下書簡は、少々お待ちください。 じき掲載いたします。

                      さて、悲しいことを記します。当ブログ、そして豈最新号でご寄稿いただきました澤田和弥さんが去る5月9日(土)に急逝されました。 澤田さんとのおつきあいは、西村麒麟さんの第一句集についてご寄稿いただいて以来のお付き合いでした。 俳句帖への投句もお寄せいただき、今年1月20日に歳旦帖に一句いただいたのが最後の通信でした。 32歳という若さでした。 大井さんに伺い寺山修司フリークでいらしたことを知り、改めて週刊俳句などのバックナンバーを拝見いたしました。 メールのやりとりでは、大変控え目な方でご自分のことを何も語られず、いただいた年賀状のアート文字がとても個性的でいらしたことが鮮明な印象となっています。


                      心よりご冥福をお祈りいたします。




                      ままなるはなんとうつくし初東雲   澤田和弥




                      追悼の掲載を企画しています。


                      5/29 22:40追記

                      しなだしんさんの<上田五千石>、大井さんの〈特集・平成百人一句鑑賞・田中裕明>追加更新しました。


                      (記:北川美美)



                      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                      第3回攝津幸彦記念賞の詳細が決定。  》読む
                      2015年10月末日締切 作品30句。
                      ご応募をお待ちしております。



                      豈57号が発刊に。 ご購入は邑書林にてお取扱い中。

                      大井顧問のブログにも。  関連記事 その1  その2

                      豈57号 俳句作品よりご紹介。

                      <招待作家・50句>

                      夕顔のかおがきのうと異うのよ   金原まさ子
                      たましいが入り春キャベツかさばる
                      あそぶとき縄持ってくるアリスかな
                      花籠にたましいを入れ飼い馴らす
                      これは獣の寝たあとの石あたたかし

                      <新鋭招待作家>

                      同じ蚊に刺されて昼の情事かな   曾根毅

                      凩やいくつもの句を書き捨てて   冨田拓也





                      ・・・・・・・・・・


                      角川俳句賞締切5月31日‼


                       【時壇】 登頂回望その六十七・六十八 / 網野 月を

                      その六十七(朝日俳壇平成27年5月18日から)
                                               
                      ◆乱鶯や人声去りて戻る杜 (浜田市)田中静龍

                      稲畑汀子の選である。今まさに鶯の季節である。春先の初音の鶯と違って将に「乱鶯」と言ったところである。鶯の囀りと人声を比しているのだ。この諧謔はそれ程ポエジーの邪魔になるものではない。むしろステュエ―ションとして人の去った後にまたしても囀り出した鶯がよく描かれている。ただ鶯が飛んで戻って来たというよりも鶯の声が再び聞こえ出したということであろうと筆者は考える。人声は去った筈だが、作者は何処にいるのだろう。気配を消してひそと両者に耳を澄ましていらしたのかも知れない。

                      ◆日には白影には真白なるつつじ (岡山市)名木田純子

                      金子兜太の選である。評には「名木田氏。巧者の句。陽の当たり方で白つつじの味わいが違うのだ。」と記されている。「陰」ではなく「影」なのであって、「日には」のつつじと「影には」のつつじは両者ともにつつじそれ自体である。そうだとすれば「日には」「影には」は、全く条件を同一にしたつつじの対比ではない。陽の下にあるつつじと影として見えるつつじである。同一条件下の比較でないことは句の品格を損ねる要素にならないばかりでなく、むしろ視覚の対象物であるつつじの多様性を、「白」と「真白」の対比から来る味わい以上に叙すことになっている。

                      ◆修行僧顳顬で噛む甜瓜 (静岡市)松村史基

                      金子兜太の選である。顳顬の文字が難しい。何となく修行僧は理屈で甜瓜を食しているような雰囲気だ。字面というのは現代の俳句にとって肝心な要素を有している。音として俳句を聞くよりも、文字として俳句を読む機会の方が多いからだ。むろん掲句は甜瓜をむしゃむしゃ食べる修行僧の顳顬がよく動いている様子を叙している。顳顬で甜瓜を噛み砕いているように見えると書いているのでる。


                      その六十八(朝日俳壇平成27年5月25日から)
                                               
                      ◆母の日に母を誘へば父も来る (福岡市)松尾康乃

                      大串章と稲畑汀子の共選である。好いとも悪いとも言っていないのである。事実のみを言って情感を訴えるのが俳なのである。作者は母だけ来てくれれば好かったと思っているのか?それとも父が一緒に来てしまって折角母と二人きりになれるのに残念に思っているのか?父を誘わなかった私(作者)自身をはじているのか?父を誘いそびれた事実を母が誘って連れて来てくれたことに感謝の念を抱いたのか?分らない。諧謔だけの句意ならそれだけの範囲のものになってしまう。筆者はもう少し深いところの情感を掲句から感じてみたい。いろいろと想像をするが、偶々父が一緒に連れ立ってきたということだろう。

                      ◆蜜蜂の読経に埋もる無住寺 (いわき市)馬目空

                      金子兜太の選である。評には「馬目氏。発想の自由、かつ人懐かしさ。「蜜蜂の読経」は旨い。」と記されている。評に言う通り「蜜蜂の読経」が何とも上手い。無住持と蜜蜂たちの取り合わせが、少々理の整然とした構造物であるようにも受け取れるが、蜜蜂たちの読経のように聞こえる羽音だけが聞こえてくる、朽ちかけた寺を彷彿とさせ、この景は読者の眼前に出現することだろう。無駄の無い措辞で書かれて冗漫にならない叙法が俳的表現の王道を歩んでいる。

                      ◆師の教へ父の戒め柏餅 (多摩市)吉野佳一

                      長谷川櫂の選である。作者にとって柏餅の味覚は、少年期から青年期の恩師の教えと父からの戒めの言葉を思い起こさせるものなのである。三段切れ気味なのだが、それでも恩師(筆者は男性を想像した)と父の厳格さや慈しみが語り尽くされている。どれだけ言い尽しても饒舌にならない短歌と、言い切って無駄を削ぎ落としても舌足らずにならない俳句は絶品である。掲句は柏餅に込めた作者の心持が遺憾なく表現されている。味覚への追慕は生い立ちの中に潜在するものなのである。


                      【こわい川柳を読む】なぜ怪談は「おわかりいただけ」ないと駄目なのか-〈そっちじゃないよ、うしろにいるよ。〉という怪談をめぐる定型性- / 柳本々々



                      「無人さん無人さん、いないならいないまま、私たちにノーと答えてください」
                      そう呼びかけることで始まる遊びが、小学六年生のとき真野さんのクラスで流行した。

                        (我妻俊樹「無人さん」『実話怪談覚書 忌之刻』竹書房、2012年、p.203)

                      最近、娘の腹の中の子供が《しゃべるん》です、とMさんは言った。
                      「何を言っているのかは聞き取れないんですが──お腹の中から、ごにょごにょと何かしゃべる声が聞こえるんです。みんなが聞いている。ええ、私も聞きました。聞き違いじゃないですよ」
                      あれは言葉をしゃべってるんですとMさんは繰り返した。
                      「いったい何が《生まれてくる》んでしょう」
                      もうすぐなんですよと言って、Mさんは頭を抱えた。

                        (京極夏彦「もうすぐ」『旧怪談 耳袋より』メディアファクトリー、2007年、p.260)

                      怪談は、不可思議な現象に妥当な「意味」を提供する。そしてその営みは、時に、規範的な解釈コードによっても処理できない「不思議」の存在を際立たせる。
                        (一柳廣孝「怪談の近代」『文学』2014年7・8月号)

                      缶詰のラベルがまわる暗がりで  我妻俊樹

                      瀬戸夏子さん・平岡直子さん発行の川柳誌『SH』(2015年5月)における、ゲスト・我妻俊樹さんの「メタセコイア」からの一句です。

                      我妻俊樹さんは〈怪談小説〉も書かれていますが、〈こわい〉とはどういうことかを、我妻さんの川柳と小説からかんがえてみたいのが今回の文章です。

                      我妻さんの〈怪談小説〉の一冊に『実話怪談覚書 忌之刻』(竹書房、2012年)という怪談掌編集があります。そのなかであるひとつの共通する〈こわさ〉のようなものをあえて見出すとすればそれは〈あるべき場所にないひと・もの〉ということになるんじゃないかと思うんです。

                      この本のいちばん最初の掌編が、「みすずさん」です。

                      Sくんはみすずさんという女性と会う約束をしているんですが、みすずさんに会えません。ところが不思議なことに状況としては会っていることになっている。会っているものとして状況が勝手に進んでいく。Sくんはひとりのはずなのに、喫茶店の店員のひとからは連れの女性と同席していることにされている。みすずさんに連絡するとみすずさんは「お話たくさん聞いていただけてうれしかったです」という。

                      いるんだけれども・いない、〈あるべき場所にないひと・もの〉の〈こわさ〉があります。これは他の掌編にもいえることで、「部屋に戻ると、テレビの前に米袋を重ねてくずしかけたような異様なものが座って」いて「平板な男の声で」「「みんなさかさまになっていつか死ぬというお知らせです」」という掌編「みんな死ぬ」もそうだし、空にひまわりが咲いていた理由が最後に解き明かされる掌編「ひまわり」もそうだし、コンセントがなくなってしまう「「もうだめだよおれ。自分ちのコンセントが消えたり戻ったりするようになっちゃった」という掌編「コンセント」もそうです。

                      これらはあるべき場所になく・またあるべきでない場所にあるからこその〈こわさ〉です。みすずさんも、ひまわりも、コンセントもあるべき場所で機能さえしていれば、なんの問題もない。ただ、みすずさんと時空がどうしても噛み合わなかったり、コンセントが地中深くにあったりするので、それらがたとえ通常どおり機能していても〈場所〉がちがうので〈こわさ〉が出てくる。

                      たとえば上にあげた我妻さんの句もそうです。

                      「缶詰のラベルがまわる」ことは不思議ではありません。缶詰のラベルはまわそうとおもえばまわせるのだし、それを視覚的に確認することもできます。しかしそこに〈場所性〉が付与されたしゅんかん、〈こわさ〉が出てきます。「缶詰のラベルがまわる」という〈機能〉に「暗がりで」という〈場所性〉が付与されること。この「暗がりで」という〈場所性〉が与えられることによって、なぜ「暗がり」で「缶詰のラベルがまわ」っているのか、また「暗がり」なのになぜ語り手はそれを〈きちんと〉視認できているのかという〈こわさ〉が出てきます。あるべき場所でない場所で機能しているからです。

                      おなじ我妻さんの川柳、

                      夕焼けを見たいところにあてている  我妻俊樹

                      肩幅にたりないものが闇にある    〃

                      などもある意味では〈場所性〉をめぐる句として成立してるのではないかとも思います。「夕焼け」を〈操作〉し、「見たいところにあて」るなかったはずの場所をつくりだす〈場所性〉、「闇」のなかで「肩幅にたりないもの」を見出す〈場所性〉。これらは本来的になかったはずの〈場所〉に〈場所性〉を見出す所作です。だからこそ、よくよくかんがえてみれば、〈こわさ〉がでてくる。いったいなにをしてるんだ、なにをしようとしているんだ、なぜ世界をそっとそのままにしておいてくれないんだ、という〈こわさ〉です。

                      このように、もともと一般的には存在しないはずの〈場所〉に〈場所性〉を生み出す所作が〈こわさ〉なのではないかと思うのです。

                      よく心霊写真の番組では写真を紹介したあとに「おわかりいただけただろうか」というナレーションが入りますが、それもあるべきでない場所にひとの顔があることによってズレが生じ、そのズレを埋め合わせられないままに了解(おわかり)することが〈こわさ〉になっているからだとも思うのです。

                      これは現代の怪談のシーンを代表している京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』や『魍魎の匣』にもつながっているのではないかと思います。なぜなら、『姑獲鳥の夏』も『魍魎の匣』も〈そこにあるべきでないものがその場所にある〉物語だったからです。気づけばいたはずの人間がいなくなっている密室をめぐるミステリも、気づけば誰かがうしろに立っている怪談も実は〈場所〉をめぐる、もっといえば〈場所(のズレ)〉をめぐる物語なのではないかと思うのです。

                      「もし二十箇月間も子供を身籠ったままの女性がいたとして、その腹部たるや普通の妊婦の凡(およ)そ倍はある。それでいて一向に生まれる気配もない。それが事実だとすれば、矢張り尋常なことじゃないじゃあないか。不思議なことだとは思わないかね」
                        (京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社、2003年、p.23)

                      「誰にも云はないでくださいまし」
                      男はさう云ふと匣の蓋を持ち上げ、こちらに向けて中を見せた。
                      匣の中には綺麗な娘がぴつたり入つてゐた。
                      ……
                      何ともあどけない顔なので、つい微笑んでしまつた。
                      それを見ると匣の娘も
                      につこり笑つて、
                      「ほう、」
                      と云つた。
                      ああ、生きてゐる。

                        (京極夏彦『魍魎の匣』講談社、2004年、p.13)

                      〈密室で消えた夫と、いつまでも生まれないままの赤ん坊〉をめぐる物語としての『姑獲鳥の夏』や〈衆人環視のなか天女のように昇天し消え失せた少女と、匣のなかにぴったりと詰まった少女が《ほう》と鳴く〉物語をめぐる『魍魎の匣』。それらは〈あるべきでない場所性〉をめぐる物語でもあったはずです。

                      みにくいビルだ明日住んでみたいな  我妻俊樹

                      〈場所性〉を生み出す所作、〈場所性〉への言及、〈そっちじゃないよ、うしろにいるよ〉という場所的な贈り物をそのまま受け取ることから、怪談の祝福ははじまっているようにおもうのです。あなたがこわがってくれる限り、ずっとあなたのうしろにいるよ、と。

                      お墓にはこんな仕掛けがあったのか。藪さんはすごい秘密を知ったと思った。 
                      不思議な光景に見とれて藪さんはぼんやりしてしまった。誰かが近くに立ったような気がしたので顔を向けると、頭が髪の毛ばかりで顔のわからない人物が桜の木の下にいた。…
                      その人はいつのまにか藪さんの背後に立っていて、いやな臭いのする頭を近づけてきた。
                      「な、右手ばかりだろ」 
                      はっとしてその人の手を見ると、シャツの袖口から紙のように薄い手のひらが、ひらひらとのびて地面を掃くように動いていた。 

                        (我妻俊樹「右手ばかり」『実話怪談覚書 忌之刻』竹書房、2012年、p.44)

                         

                      【俳句時評】「未成年」の行方 ―『七曜』終刊について―  /外山一機



                       今年三月、『七曜』が第八〇〇号をもって終刊した。『七曜』は昭和二三年一月に誓子の主宰する『天狼』の僚誌として創刊された。創刊当時、僚誌としてはほかに『冬木』『激浪』『雷光』があったがいずれも終刊している。『天狼』の僚誌は年を追うごとに増加していったが、「共に手を取りあつてゐ」る「けうだい」(「七曜俳句会小規」『七曜』昭和二三・二)として出発した四誌のうち、最後まで残ったのが『七曜』だったのである。『七曜』は当初橋本多佳子と榎本冬一郎とを指導者とし、昭和二五年から多佳子が主宰、昭和三八年の多佳子没後は堀内薫、平成三年からは多佳子の四女である橋本美代子が主宰を継承し発行を続けていた。終刊号に掲載された橋本の言葉(「終刊について」)によれば、終刊の理由は会員の高齢化に加え、副主宰兼編集長であった川北憲央の急逝により「高齢の私の指導、これからの全てに渡る責任を考えて終結に向かう決心をした」ということであるらしい。奇しくも今年五月に津田清子が亡くなり、『七曜』の終刊したいま、誓子はその没後二〇余年を経ていよいよ遠き俳人となってゆく感がある。
                       誓子は『七曜』創刊号で次のように書いている。

                      〝おゝ成年よ、落ついて、華やかで、而して充実した〟とホイツトマンは詠つたが、〝天狼〟はさういふ〝成年〟の雑誌である。だからして、その同人の発表する作品なども、摑むべきものがわからなくて探し索めるといふのではなく、摑んだものをいよいよ確かめるといふ行き方になるのではないかと思ふ。(略)しかし〝七曜〟はちがふ。〝七曜〟は〝未成年〟の雑誌である。

                       その同人の発表する作品は、摑むべきものがわからなくて探し索め、探し索めしていゝのだと思ふ。摑んだものを確かめることなどは二の次、その作は常に試作であつてよく、その為めには、失敗に失敗を重ねていゝのだと思ふ。せいぜい手足を濡らせ。(「〝七曜〟は」)

                       『七曜』の創刊された昭和二三年前後は俳誌が次々に復刊・創刊された時期でもあった。一例を挙げれば『まるめろ』『風』『青天』『麦』『弔旗』『琴座』など、そのなかには理想とする俳句表現の姿こそ違うものの、そのなかには『七曜』と同じく「未成年」の雑誌たることを矜持とするものも少なからずあったように思う。いうまでもなく、戦後俳句表現史を形成したのは誓子ら「成年」ばかりではなかった。じっさい昭和三〇年代には、戦前からの作家が次々と鬼籍に入るなか、誓子や草田男らを鬱然たる権威として戴きながら、一方では自らの重要な仕事を成し遂げていった「未成年」たちの姿があったのである。

                      前川佐美雄に短歌を学び『七曜』に拠って俳句を始めた津田清子もまた「摑むべきものがわからなくて探し索め、探し索めして」いくうちに自らの表現にたどり着いた、かつての「未成年」の一人であったろう。

                      虹二重神も恋愛したまへり 
                      紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 
                      狡る休みせし吾をげんげ田に許す 
                      燈に遇ふは瀆るるごとし寒夜ゆく 
                      思ひがけなき燈に蛾の翅を使ひ果たす 
                      刹那刹那に生く焚火には両手出し

                       その津田は創刊当時の『七曜』を振り返って次のようにいう。

                      「七曜」のはじめは多佳子先生と榎本冬一郎さんが二人で指導してくださったのですが、そのほかにも「天狼」同人の先生がいつもいらしてました。だから、誰の雑誌かわからない。いちばん初めに誓子の句が出てくる。それから波止影夫、平畑静塔、西東三鬼の句がずらりと出てきまして、多佳子先生の句がたまに載ってないときがあるんです。文章も「根源俳句とは」「酷烈なる精神とは」「無季俳句とは」というのが出てきたりしまして。でも、それがいい文章なんです。勉強になりました。 
                      (黒田杏子他『証言・昭和の俳句』下巻、角川書店、平成一四)

                      津田のいうように、たしかに当時の『七曜』には誓子のみならず『天狼』の作家たちの句や文章が並んでいる。津田は「多佳子先生の句がたまに載っていないときがある」と語っているが、『七曜』の中心には誓子がいたのである。かつて鈴木六林男は誓子の死に際して「現在、少なくとも俳句にかかわりをもちながら、誓子の俳句や評論から何の影響も全く受けなかった、とするむきがあるとすれば、その人の俳人としての度量はたかが知れている」と言ったが(「誓子管見」『俳壇』平成六・六)、戦後俳句における誓子の影響力はこれほどに大きく、また深いものであった。もしもいまの僕たちにそれが想像しがたくなってしまっているのであれば、それは僕たちの二〇年来の傷口の深さを物語るものであろう。

                      その意味では、『七曜』終刊号掲載の「七曜八〇〇号のあゆみ」は戦後俳句史の一端を伝える貴重な資料である。相原智恵子と渡辺喜夫によるこの膨大な年譜は二段組で約三〇〇ページにも及ぶ労作であるが、それを辿っていくといくつかの興味深い事実につきあたる。

                      たとえば昭和二七年には投句欄「七曜集」に「冬浪が短くはやく岩をうつ」(京武久美)や「わが声もまじりて卒業歌は高し」(寺山修司)が入選している。ともに青森高校時代の作品である。またこの頃の『七曜』は十代作家へのアンケートを二号にわたって掲載しており(昭和二九・九、一〇)、同時に十代の作家を特集している。以下にその一部を引く。

                      父が飲む一年間の十薬摘む    丸谷タキ子 
                      柿の花散る抱擁は力いつぱいに  宮村宏子 
                      麦の穂に向ひて何か叫びたし   岩井久代 
                      近き虹車中美しき空気満つ    石野暢子 
                      むし暑き休息銀幕にシーザ死し  石野佳世子

                       表現としては稚拙で決して上出来とは言えないながらも、ここには書くことによって自らの書く根拠を見出していくような彼らの異様な熱気がうかがえる。かつて『七曜』はこうした無防備なほどの若さを持っていたのである。このうち石野佳世子は三年後の昭和三二年に亡くなっている。享年二一歳。第一一〇号(昭和三二・六)には遺句とともに同世代の丸谷タキ子らの追悼文が掲載された。

                       遺句
                      身を立てて暗き春昼師を仰ぐ
                      病臥永し食膳に土筆つく
                      春浅し吾を去りてゆく師の後姿

                      己の書く根拠がますます見出し難くなっている現在、彼らの姿は眩しく見える。それは僕たちが、彼らのいる場所を「史」として思考しうるほど遠くにやって来てしまっていることを意味してもいよう。
                      また、この頃の『七曜』で「判らない句について―十代作家に答ふ―」と題して三谷昭や西東三鬼らが一文を記しているのも興味深い(昭和三〇・一)。そのなかで『七曜』の有力作家であった堀内薫は高柳重信の「身をそらす虹の/絶巓/処刑台」について論じている。やがて『山海集』『日本海軍』へと歩みを進めて行くことになる高柳の多行形式も、この頃はまだ若い形式であった。「未成年」の俳誌とは、同時代のそうした試行にも目を配ることのできる風通しの良さもまた持っていたのである。その他、ブラジルの日系移民社会において俳句を書き続けていた長谷川清水、林越南らが同人となっているなど、『七曜』の歴史には興味深い点が多い。

                       そうした『七曜』の歴史のなかで最も重大な事件のひとつは昭和三八年の多佳子の死であろう。三谷昭は戦後の多佳子について次のように記している。
                       
                      戦争直後の空白の中で、孤立のわが身を支えるだけでもせいいっぱいの生き方といっていい筈だ。そういう時期に、奈良句会にめぐまれたということは、彼女にとって大きな倖であったといえよう。「ホトトギス」と「馬酔木」で育まれてきた多佳子にとって、静塔・三鬼等いわば野人と呼んでもいいともがらの生活と俳句は、ふしぎな魅力をもたらしたのではないだろうか。その一種の開放感というようなものが、多佳子俳句にもたらしたものを無視するわけにはいかないと思う。 
                      もとより誓子一辺倒の多佳子俳句は、やがては誓子のこころを摑み、それをもととして独自の句境を切りひらく日を迎えたであろうが、奈良俳句会で彼女の得たものが、多佳子俳句にひろがりを与え、奔放と呼んでいいような鋭いものをつけ加え、今日の多佳子俳句に到達したように思われてならない。そのような時期に、待望の「天狼」が創刊される。そこには誓子を中心に、静塔もいる、三鬼もいる、兄弟弟子の冬一郎もいる、九州時代からのつながりをもつ白虹もいる。その時の多佳子の心のときめきは、縁のうすい私にも容易に想像することが出来る。 
                      (「多佳子回想」『俳句研究』昭和三八・七)

                       多佳子にはすでに第一句集『海燕』(交蘭社、昭和一六)、『信濃』(臼井書房、昭和二二)があったが、多佳子が作家「橋本多佳子」として立ったのは第三句集『紅絲』(目黒書店、昭和二六)においてであったろう。「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」「乳母車夏の怒濤によこむきに」「罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき」「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」など多佳子は戦後『紅絲』の佳吟を次々に生み出していったが、その多くは『天狼』や『七曜』誌上に発表されたものであった。多佳子はたった一人で独自の作品世界を切り拓いたのではない。多佳子は「成年」の『天狼』と「未成年」の『七曜』の両方を往還しながら、「橋本多佳子」となったのである。その意味では、『七曜』とはまず「橋本多佳子」を育んだ場として、その功績を讃えられるべきであろう。だがその讃辞は、ついに「橋本多佳子」「津田清子」以外の目ざましい作家を生み出しえなかった場としての『七曜』への厳しい批判と表裏をなすものであろう。しかしながら、「未成年」とは本来、称賛と批判とにたえずその身を晒すことで自らを誇り高くあらしめる者の謂であったようにも思うのである。

                      2015年5月15日金曜日

                      第17号




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                      …関根かな・中村猛虎・山田露結・夏木 久・坂間恒子・堀田季何・大井恒行
                      (5/8更新)春興帖 追補2
                      …仲寒蟬
                      (5/1更新)花鳥篇,第一
                      …杉山久子・曾根 毅・福永法弘・内村恭子・木村オサム・前北かおる・仙田洋子・陽 美保子
                      春興帖、追補
                      …林雅樹・西村麒麟・羽村美和子・竹岡一郎・東影喜子・山本敏倖・大井恒行


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                            【第83回海程秩父俳句道場潜入ルポ】
                            濫竽充数(らんうじゅうすう) 
                            ~海程秩父俳句道場闖入記~   ・・・堺谷真人  》読む
                            断崖を窓辺に社会性俳句・兜太造型論を考える秩父の春 
                            ~イベント編 (講演:筑紫磐井、関悦史)~ ・・北川美美 》読む
                            【時評】
                            「豈」16号の頃のこと 
                            ―中烏編集長時代―  筑紫磐井  》読む
                             言葉の普遍性に絶望するかしないか … 堀下翔  》読む
                            【おじぎの冒険】 
                            おじぎをすれば何も見えなくなる(のかな)、おじぎをすればなにもわからなくなる(のかな)
                            -長嶋有『句集 春のお辞儀』をめぐる-  … 柳本々々  》読む 


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                            ・リンク de 詩客 俳句時評   》読む
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                                ―俳句空間―豈weeklyを再読する

                                第100号(最終号)2010年7月18日発行■終刊のことば
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                                    攝津幸彦祈念賞募集 詳細
                                    締切2015年10月末日

                                    豈57号刊行!
                                    豈57号のご購入は邑書林まで

                                    薄紫にて俳句新空間No.3…!
                                    購入ご希望の方はこちら ≫読む

                                        筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                        <辞の詩学と詞の詩学>
                                        川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史! 

                                        特集:筑紫磐井著-戦後俳句の探求-<辞の詩学と詞の詩学>」を読んで」
                                        執筆:関悦史、田中亜美、井上康明、仁平勝、高柳克弘


                                        筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆




                                        角川賞締切2015年5月31日‼


                                         【時壇】 登頂回望その六十五・六十六 / 網野 月を

                                        その六十五(朝日俳壇平成27年5月4日から)
                                                             
                                        ◆二人からふたりに戻り新茶汲む (伊万里市)松尾肇子

                                        長谷川櫂の選である。評には「二席。「二人」と「ふたり」の違いがわかる。これこそよき夫婦というもの。」と記されている。評によればはじめ「ふたり」であったものが「二人」になって、やがて「ふたり」に戻ったということだろうか?「戻り」が句の中に表現されている上五の「二人」の前の状態を惹起している。「二人」と「ふたり」はどちらがどれだけよいか、というのではないだろう。比較して良し悪しを決めようというのではないのだ。座五の「新茶汲む」が効いているからこそ、上五中七の措辞が盤石である。


                                        ◆朝寝して今日一日を予習せり (大津市)竹村哲男

                                        長谷川櫂の選である。毎朝目覚めると床の中で「死んでみる」鍛錬をすると佐賀鍋島の武士道にあるそうだ。確か山本常朝口述、田代又左衛門陳基筆録の『葉隠』(正確には『葉隠聞書』)の教えかと記憶している。まさか作者が「死んでみる」ところまで極限の状態を予習はしないだろうが、行為としては似通うところがありそうだ。「朝寝して」の言い訳の様にも聞こえるのだが。

                                        筆者は毎朝手帳を確認して物忘れが酷くなった自分の脳ミソを補っている。手帳のメモ事態が間違っていることが最近あった。情けないことだ。

                                        ◆苗木植うピアニッシモの風のなか (霧島市)久野茂樹

                                        大串章の選である。評には「第一句。風の強さを「ピアニッシモ」と言ったところに惹かれる。ピアニッシモは音楽の強弱標語。」と記されている。(『広辞苑』には「音楽の強弱標語」とあるが、実際は「強弱記号」である。)「苗木植」える時節の微風をピアニッシモと叙して、本来音量を表す(記号)用語を風量に替えて表しているのだ。「ピアニッシモ」は音量だけでなく演奏家には感情記号というか表現記号にもなり、つまりアーティキュレーションを示す効力もあるので、風の修飾語としては適合している。




                                        その六十六(朝日俳壇平成27年5月11日から)
                                             
                                        ◆吹くわれにのみ鼻濁音シヤボン玉 (東大和市)板坂壽一

                                        金子兜太の選である。評には「十句目板坂氏。かるい自虐が諧謔を呼んで、味な句」と記されている。最近は鼻濁音の使用が廃れる傾向にあるようだ。「私が・・」の「が」が鼻濁音にならないのである。「鏡(かがみ)」の「が」が鼻濁音にならないのである。筆者の勝手な解釈だが、そんな中で作者一人が鼻濁音を正確に発音する方だということだろう。「われにのみ鼻濁音」が認められるということだ。

                                        「鼻濁音(びだくおん)」の「ん」と「シヤボン玉(しやんぼんだま)」の「ん」の発音の差異が上手い仕掛けとなっている。

                                        ◆鈍感を楽しむやうに春の亀 (東京都)石川昇

                                        長谷川櫂の選である。評には「二席。何があろうと何もなかったかのように、のどか。日向ぼこでもしているのか。」と記されている。評の通りで、作者の「亀はいいなあ!?」の呟きが聞こえて来るようだ。昨今は「鈍感力」という言葉がもて囃されている。将にこの「春の亀」のことである。「楽しむやうに」よりも「楽しんでいる」と直截な表現の方が筆者は好きである。

                                        ◆その日よりクラス全員猫の親 (静岡市)松村史基

                                        長谷川櫂の選である。

                                        可愛らしい句だ!世知辛い学校教育の現場の中で、担任の先生の鷹揚さが伝わってくる。それとも、もしかしたら何処か秘密基地で世話をしているのかな?

                                        ◆更衣今年も妻の手を借りず (泉南市)藤岡初尾


                                        長谷川櫂の選である。自分の事は自分でやる、ということは大切なことである。が「妻」に何らかの事情があって「妻の手を借り」られないとしたら、この句の表現している意味合いのベクトルが別の方向へずれることになる。それでも五七五は、その何らかの事情を明かすことはない。潔く言い切ることが俳なのである。

                                        【俳句時評】  言葉の普遍性に絶望するかしないか / 堀下翔





                                        例えば岸本尚毅のこの初期の一句が僕は好きである。

                                        なきがらの四方刈田となつてゐし 『鶏頭』

                                        刈り終えられた田はさっぱりとしているがまた一方で殺伐とした感じもする。そこになきがらが投げ出されている。尋常のことではない。主語は「なきがらの四方」で、それが「刈田となつてゐ」るというからには、なきがらの置かれたまさにその場所から田は刈られていったのだという気もする。一句はその出来事を「し」として述べる。いまはただなきがらがあるのみである。ただ過去であるばかりではない。「なりし」ではなく、それは、「となつてゐし」なのだ。刈田であることではなく、刈田となること。読者がついに見ることのなかったその始終を思うとき、田の刈られようは一瞬のことではなかったか、と思うのだ。

                                        この句には自解がある。

                                        「なきがらの四方刈田となつてゐし」が生まれたきっかけは、女優の夏目雅子の訃報であった。あの夏目雅子が亡くなったのか、と思いながら電車に乗っていた。小田急だったか。厚木の辺を過ぎると車窓から刈田が見える。目に映る刈田。脳裏に浮かぶ夏目雅子のなきがら。 
                                        (岸本尚毅「私のこだわり」/『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 岸本尚毅』2011年/ふらんす堂)

                                        この文章を読んだとき僕の頭の中にはたちまちにゴダイゴの『Monkey Magic』(1978)が流れ出した。同年の大ヒットドラマ『西遊記』のオープニング曲だ。「昔々、この世に人間が現れるはるか前……」のナレーションののちにその曲は流れ出す。堺正章演ずる孫悟空のカットがたちまちに6つに分かれ、次の瞬間にはまた別のカットが大きく現れるあのオープニングは、いかにも当時のドラマの恰好よさを体現しているように思われる。堺の次に映し出されるのは美しく若い夏目雅子その人である。別段玄奘三蔵が女性と設定されているわけではなかったが、ドラマを見た誰もが三蔵は女だと思ったはずだ。

                                        『西遊記』がこの時点でテレビドラマ化されたのは、それが日中平和友好条約調印の年であったからだったろう。そんなことを思いながら、僕にはそのようなことがらがすべてゆるやかに繋がっているような気がしてならない。あの美しかった夏目雅子がいた年であり、日中平和友好条約調印の年であり、ドラマのオープニングはあのように恰好よく、特撮やメイクはちょっとダサい、1978年だ。岸本が夏目雅子の名前をだしぬけに書いたとき、僕はたしかにその刈田が1978年にある気がした。〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉もまたゆるやかにつながることがらの一つであると。一句の殺伐とした感じは、いまや回想することでしか繋がりえないその年にあってこそ分かる。安い言い方をすればそれは「空気感」とでも呼ぶべき代物なのだ。

                                        もっとも岸本にとっての夏目雅子は決して三蔵法師としての彼女ではなかったようだ。

                                        夏目雅子はNHK大河ドラマの『黄金の日々』に豪商の娘の役で出演した。夏目雅子演じるモニカという娘は、根津甚八演じる石川五右衛門にかどわかされ、悲惨な運命をたどった。 
                                        (同書「自句自解」)

                                        『黄金の日日』――踊り字じゃありません――は1978年放送の大河ドラマで主演は市川染五郎。夏目雅子は運命に翻弄されるキリシタンの娘を演じた。

                                        なきがらの四方刈田となつてゐし〉の句が生まれるに至った電車の中で岸本が思い出した夏目雅子――「あの夏目雅子が亡くなったのか」――が『黄金の日日』の夏目雅子だったことは非常に重要なことのように思われる。なぜならば夏目雅子が亡くなったのは1985年であり、決して1978年ではなかったからである。僕がはじめに思い浮べた『西遊記』が『黄金の日日』と同じ年の作品であったことは単なる偶然で、そこにはいくばくかの言い難い驚きもあるのであるが、とかく、自解以後の〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉の句を支えているのは、作り手と読み手ともに「あの夏目雅子」でしかありえない。きっと岸本にとっても、〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉はとてもリアルな句であっただろうと僕は思う。あの『西遊記』の夏目雅子の死と接続する「刈田」が僕にとってこの上なくリアルであったのと同様に、岸本にとってもその「刈田」は『黄金の日日』をとりまくあらゆる状況と無関係ではなく、それゆえにたしかな存在であったのだ。

                                        正直に言って岸本の自解を読んだときには言葉というものの普遍性を思って少し絶望的な気分になったものだが、いまやその感はいよいよ増している。岸本がことさらに「なきがら」の正体を明かさねばならなかったほどには密接にその句の誕生にかかわっていたはずの夏目雅子をめぐる気分を〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉は断じて伝えていない。一句はそれを切り捨てたうえで立ち上がっていた。そして僕がはじめ持った共感はよく考えてみればおそろしく無防備であったわけだ。岸本にとっての夏目雅子は僕にとっての夏目雅子ではない。あるいはそのどちらかが1982年の『鬼龍院花子の生涯』における夏目雅子だったかもしれないし、そうであれば余計にその齟齬は開いていただろう。ここにおいて言葉の普遍性を嘆かわしいもののように思うのである。



                                        『俳句』(2015.5)の特集は「どの年代でも俳句は輝く!」。その中に年代別名句180選として各年代の20句アンソロジーが掲載されている。50代を担当したのは岸本尚毅であるが、彼がその20句選に付した解説が興味深い。〈時代と年代〉というタイトルである。

                                        五十代の作品として拾った二十句二十人の作者における時代と年代(堀下註――太字部、原文では傍点)の関係をざっと眺める。/真珠湾奇襲の昭和十六年十二月八日の年齢は、高浜虚子六十七、荻原泉井水五十七、水原秋桜子四十九、高浜年尾四十、加藤楸邨三十六、石田波郷二十八、森田峠十七、川崎展宏十四歳だった。

                                        岸本はその後東京五輪開催の昭和三十九年十月十日に関して別の作家たちを同様に挙げ、また今度は作家が五十歳の年に起こった出来事を、阿波野青畝-ソ連の核実験成功――といったふうに並べた上で、こう書く。

                                        ある人のある年代がどんな色調を帯びるかは、当然に時代の影響を受ける。俳人たるもの世に対し超然としていられればよいが、生身の人間として、また生活者として、戦争や天災、不況やインフレなどから無縁ではいられない。自分や家族の病気や老いといった事態も生じる。ただし、実社会・実生活がどのような形で作品に影を落とすか、直接的か間接的か、意識的か無意識的かは、作家・作風によって違う。

                                        社会と個人はきっとどこかで繋がっているのだ。戦争は貧乏を生んだ。東京五輪だってそれぞれの実生活とどこかで繋がっていたはずなのだ。そういったものを思えばこそ見えてくるものはある。先述の通り、最終的にはほとんどの部分が普遍的な言葉で切り捨てられているから、想像するのは骨が折れるが。今となってはどれほど正確に想像しうるものか。いくばくか類型化されているのは当然のことであろう。その一句の誕生に際していったい何が関わっていたのか、それを見つめることは切実な行為に間違いはないが、一方でまた、読者は読者でその空気感を手さぐりで求めてよい筈だ。



                                        同じく、さいきんの岸本の文章から。

                                        はこべらや焦土のいろの雀ども 石田波郷

                                        昭和二十一年(二十二年)作。空襲の焼け跡です。当時、波郷は東京の江東区砂町に住んでいました。「はこべら」は春の七草。食糧難の頃ですから、おかずの足しになったことでしょう。 
                                        (岸本尚毅『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 十七音の可能性~俳句にかける』2015/NHK出版)

                                        この焦土が「昭和二十一年」の焦土であることはひどく重要なことに思われる。それが第二次世界大戦によって齎されたものでなくとも、焦土であればきっとそこでは食糧難が起こっているのだ。だけれどもこの句が昭和二十一年の句であること、この焦土が昭和二十一年の焦土であることによって岸本には何らかの景色が見えている。多くの読者もそうだろう。その景色は決して波郷に見えていた昭和二十一年の焦土ではないのであるが、しかし、僕たちの焦土もまたたしかに「焦土」なのである。言葉の普遍性を恨み、一方で積極的に享受することによって、新しい読みは生まれてくるだろう。



                                        【第83回海程秩父俳句道場潜入ルポ】特別イベント編 (講演:筑紫磐井、関悦史) ~断崖を窓辺に社会性俳句・兜太造型論を考える秩父の春~ /北川美美


                                        特別イベントとして、筑紫磐井、関悦史の両氏の講演が道場二日目の午前に行われた。前日の夕食の席で金子兜太主宰より「当代きっての論客の御二方」と紹介があった。海程の皆様はもとより、一番この講演を楽しみにしていたのは兜太主宰自身と思え、両氏へのエールが伝わってきた。



                                        筑紫氏はの秩父道場ゲスト講演は2回目である。筑紫氏の昨年12月刊行の『戦後俳句の探求<辞の詩学と詞の詩学>-兜太・龍太・狩行の彼方へ―』の内容の大半が金子兜太論、そして社会性俳句、前衛俳句について割かれていることから今回の招聘の依頼があったようだ。帯文(下記)を金子兜太主宰が記している。


                                        戦後俳句の全貌を
                                        表現論を梃に
                                        見事に整理してくれた
                                        のが、この本。
                                        著者は初めて本格持論
                                        『定型詩学の原理』で
                                        注目を集めた、俳壇を代表する評論家。
                                        料理の腕前は冴えている。
                                        ―金子兜太




                                        【関悦史講演】

                                        講演は関悦史氏からスタート。関氏の論評は兜太主宰も目にされている様子が伝わり「油の乗り切った書き手」と称賛。確かに関悦史はここ数年で執筆の場を広げ、現在は角川『俳句』において俳句時評を担当、その他俳句関連の誌上での活躍を目にする機会が増えた。2014年12月8日朝日新聞掲載の朝日俳壇<うたをよむ>の欄、昭和13年作の白泉句<銃後といふ不思議な町を丘で見た>が現代にも通じる恐怖として鑑賞され、非常に記憶に残る一文であった。

                                        さて実際の講演内容、関氏は社会性俳句について語るようだ。まず「社会性俳句」の用語説明に関氏は「時事詠・社会詠」という言葉を使用していた。(筑紫著書『戦後俳句の探求』の中では、<社会性のある句><社会性俳句>と用語の範囲を広げ細分化して定義している。ここでは、関氏がそういう言葉を使用したということに留めたい。)また告発やスローガンに陥りやすい傾向をどう乗り越えてきたのか、時代の事象、事件とともに古沢太穂句をテキストとして説明。そこには実作者である関自身の興味「何故古沢太穂が生涯において社会性俳句を詠みつづけることができたのか」と、時を経て太穂句に対する関の見方が変化してきたことが反映されている内容だったように思う。


                                        社会性俳句の特徴のひとつとして関氏は以下を語る。

                                        関:社会性俳句の性質として単なる時事詠にとどまらない「美しくないものが魅力的である」という芸術としての側面があった。

                                        資料として、「古沢太穂の第一から第六句集・拾遺」と句集別に例句が並ぶ。

                                        ロシア映画みてきて冬のにんじん太し 古沢太穂 
                                        ローザ今日殺されき雪泥の中の欅 
                                        ビラ百枚貼り終わりたり五月の朝 
                                        ででむしがへ角かあし子らの日だ 
                                        熱砂に漁婦泣き「日本の巡査かお前らは」

                                        実際の一句に触れておこう。

                                        白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ  古沢太穂  
                                        第二句集『古沢太穂句集』1955

                                        この句の制作年あたりの社会的な事象として松川事件、三鷹事件などにつづき、内灘闘争の説明があった。内灘闘争(うちなだとうそう)とは、昭和24-32年、石川県河北郡内灘村(現在の内灘町)で起きたアメリカ軍の試射場に対する反対運動で、太穂は実際に内灘の反対運動に参加している。


                                        関:「内灘」闘争自体は歴史の彼方の事件となったが、この句自体は事件と一緒に古びることもなく、記録映画の名作のように、かえってこの句によって内灘が記憶されるというようなことになっているのではないか。

                                        さらに、講演後のこの句に対する関氏の見解が掲載されていた。

                                        古典とは唯一の意味を永遠に発し続ける作品をいうのではなく、歴史の推移に応じて無限に多様な意味を産出し続けることができる作品をいう。そうしたことをロラン・バルトが書いていた。言い換えれば、見え方が変わり続けることができるのが古典たりうる作品の条件であり、太穂のこの句もそうしたものになりつつあるということなのかもしれない。
                                        (WEP俳句通信vol.85 筑紫磐井『戦後俳句の探求』散策/関悦史)

                                        古沢太穂の掲句は、実は、筑紫氏の『戦後俳句の探求』の中で語られる句であり、兜太氏の<原爆許すまじ蟹つかつかと瓦礫あゆむ>と並列し、この二句の評価を認めない川名大氏と筑紫氏の論争が続いている問題句でもある。ちなみに筑紫氏は『戦後俳句の探求』の中で、社会性俳句作家の沢木欣一が定義した<社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から生まれる俳句を指す>に太穂の句がもっともぴったりとする」と記している。そして、「白蓮の句が太穂句の中でいちばん輝いてみえる」とも記している。

                                        関氏の講義資料は、更に、富沢赤黄男、三橋敏雄、渡邊白泉、攝津幸彦、最新の例句として竹岡一郎、水岩瞳、渡辺誠一郎、森島裕雄、谷川すみれの句が並ぶ。

                                        戦火想望俳句の当時の実作について関氏は以下を語る。

                                        関:戦火想望俳句ついては、何故実際戦地に行かず想望して制作することができたのかということが疑問が生まれるが、当時は戦地での日本の情勢を知らせる、映像が一般公開されていた。なので映像を観て作ったのではないかと言われている。

                                        射ち来たる弾道見えずとも低し 三橋敏雄 
                                        赤く青く黄色く黒く戦死せり 渡邊白泉 
                                        繃帯を巻かれ巨大な兵となる 〃

                                        南国に死して御恩のみなみかせ 攝津幸彦


                                        戦火想望俳句の特徴として無人称の淡々とした句が特徴であることに触れていた。攝津幸彦句では戦争世代ではない攝津幸彦がかの大戦をノスタルジーとして捉えている世代感を説いた。

                                        そして最新の社会性俳句として関氏選句によるものを上げ現代の社会性俳句と思われる句、刊行間もない竹岡一郎氏の『ふるさとのはつこひ』が檀上に上がるなどタイムリーな内容だ。

                                        折々の兵器と契る鬼火かな  竹岡一郎 『ふるさとのはつこひ』 
                                        署名する「さよなら原発」秋暑し 水岩瞳 『薔薇模様』 
                                        被曝して玉虫走る殺さねば 渡辺誠一郎 『地祇』 
                                        レジ台をぶち壊す刻冬の雁 森島裕雄 『みどり書房』 
                                        少女寝る同じ地平にホームレス 谷川すみれ 『草原の雲』

                                        足早ではあったが(しかし予定時間をオーバーしたようだが)、古沢太穂に焦点を絞り社会性俳句について知る良い講義だった。関氏のトークを聴くのは2009年に行われた『新撰21競宴』でのシンポジウム以来だと思う。聴講側の理解が追いつく聴きやすさになったと感じたのは、関氏の経験値そして自分の知識量も多少増えたから?などと思ってみたり。新撰イベントから時が経ったのだ。

                                        会場の70代とお見受けする男性同人から具体的実作について「世界中で起きる時事を自分の実生活の情景で描きたい」と発言があった。

                                        人類に空爆のある雑煮かな   関悦史

                                        思うに関氏の空爆の句を成功していると思う、羨望する側からの発言だろう。現在の社会情勢を詠みたい、意欲的ある実作者のナマ声であった気がする(質問とも希望とも受け取れたため、関氏のコメントは「可能と思います。」としていた)。大宮区の三橋公民館で、「9条守れ」と訴えるデモを詠んだ句が思い出された。この句の掲載可否をめぐる論議は続いていて兜太主宰のコメントもマスメディアから発信されている。社会性俳句に挑戦したいと思う方が海程に限らず大勢いらっしゃるのだ。参考:(埼玉新聞




                                        【筑紫磐井講演】

                                        つづいて筑紫磐井氏。

                                        「「豈は重信系と世の中では思われている」と筑紫氏が発行人を務める「豈」についての世間からみた師系分類について紹介をする。攝津は高柳重信の「俳句評論」が主催する<50句競作>で見出された新人であり、誰もが重信系と思っている。え!?違うんでしょうか? と思ってしまうのも無理はない。そして「【海程】を語るというのは現代俳句を語ることになる」とつづける。何ごと!?と思う読者もいるかもしれないが、これは海程道場のプライベートな講義であることを忘れてはならない。

                                        関氏の「社会性俳句」に焦点を絞った講義から、筑紫氏の話の内容は、造型という主題に絞って話が進んだ。といっても自分が反応できた内容(話に反応できたという意味)は、発言のところどころであり、兜太造型論には改めて理解努力が必要である。

                                        潜入ルポといいつつ、筑紫氏の講義部分については「海程」誌上での筑紫氏執筆のサマリーをご参照いただきたい。部分的な切貼りになるが「造型俳句」について以下引用に努めさせていただく。

                                        ・「造型俳句」について
                                        筑紫氏の著書『戦後俳句の探求』(122頁)では、前衛俳句論争の兜太以外の周辺的発言は兜太自身の制作に反映されている保障が必ずしもないので省いたことが記されている。造型に関わるものについては、以下が抜粋されている。

                                        ・造型に関するもの=「俳句の造型について」(角川「俳句」S32/2-3)「造型俳句六章」
                                        造型俳句の七か条
                                        俳句を作るとき感覚が先行する。
                                        感覚の内容を意識で吟味する。(それは「創る自分」が表現のために行うもの)
                                        「創作する自分」の作業過程を「造型」と呼ぶ
                                        作業の後「創る自分」がイメージを獲得する。
                                        イメージは隠喩(兜太は「暗喩」という)を求める。
                                        超現実は作業の一部に過ぎない。
                                        従って「造型」とは現実の表現のための方法である。また「造型俳句六章」では、主体的傾向の技法分析を行い、①感受性、②意識、③イメージを列挙して詳細に論じる。

                                        また筑紫氏は、兜太前衛俳句を新俳句史として組み込むことを発信している。

                                        兜太の俳句史の何が画期的かというと、実は従来の歴史観は後述する「伝統」の名の下に虚子の花鳥諷詠と草田男の人間探求を括り、「反伝統」の下に新興俳句と前衛俳句を括って対立させていたのであるが、(現代俳句協会から俳人協会が分裂した理由はこの理念対立に基づくものと考えられている)、実はそうではない歴史観があるということを提示した点である。反伝統の下に人間探求派も新興俳句も前衛も括って、虚子の花鳥諷詠の伝統に対峙させてしまったということなのである、季語の有無のような枝葉末節の問題ではなく、表現態度(諷詠対表現)で俳句史を描いてみようというまっとうな態度であった。 
                                        (『戦後俳句の探求<辞の詩学と詞の詩学>』187頁)

                                        老人は青年の敵強き敵  筑紫磐井

                                        当時の論争を元に、「老人=草田男、青年=兜太 として読むこともできる」と会場での筑紫氏。さらに時を経て、筑紫氏は新たに歴史の括りを引き直す。


                                        金子兜太 老人は青年の敵 強き敵 (筑紫磐井)

                                        下記は資料として配布されたもので、兜太造形史観を元に筑紫氏があらたに提案する新俳句史である。(傍線入りが筑紫氏考える新しい俳句史)

                                        [兜太の造型史観の俳句史と筑紫による新俳句史] 
                                        1. 諷詠的傾向=伝統俳句
                                        花鳥諷詠=近代の伝統(虚子) 
                                        人生諷詠=現代の伝統(波郷)
                                        2. 表現的傾向=反伝統俳句
                                        写生的傾向(子規)=新俳句 
                                        写生的傾向(碧梧桐)=新傾向俳句 
                                        象徴的傾向(楸邨・草田男)=人間探求派 
                                        主体的傾向(誓子、赤黄男、三鬼)=新興俳句 
                                        最新の傾向(兜太)=前衛俳句


                                        また海程所属の主要作家である阿部完市が(1928-2009年)を俳句史に入れることを忘れてはならないと筑紫は説く。『戦後俳句の探求』の中でも阿部完市の詩学についての項(第7章、第8章)があり、阿部詩学を解くことが辞(助詞・助動詞)の詩学と解く鍵になるとも考えていることがわかる。

                                        難解といわれている阿部完市の句を筑紫氏は整理していく。阿部完市句は「定型・辞・意識」に分類されるという。辞とは「助詞・助動詞」のことである。山本健吉の「挨拶・滑稽・即興」を模倣したキャッチコピーである。筑紫著書には「阿部の詞の詩学と辞の詩学がどのように統合されるかは阿部完市の詩学には宿題として残されている。」とある。「その上で新しい詩学が見えて来るであろう」、と筑紫氏は記す。

                                        当然ながら兜太の前衛を考える上で阿部完市が何故、「海程」に入ったかという疑問が生じる。阿部完市は、「俳句評論」だったのだから。そして作品上でも阿部完市と金子兜太を結びつけることが困難だからだ。それに触れることは、何かを解き明かすことにつながる。

                                        なぜ、「海程」という場で兜太と阿部が協力したのか。これは憶測に過ぎないのだが、第一に難解俳句の問題があろう。(中略)その難解俳句(少なくとも阿部の詩学の前提となる難解俳句)を作りあげたのは金子兜太であった。第二は、兜太が「詞の詩学」の成果の具体的提供者だったからである。(中略)第三は、阿部も一種の天才であった。天才が自由に才能を発揮するためには自由な環境が必要であり統制は敵であった。兜太は少なくともこうした理論的考察にあっては党政派を示すことはなかった。 
                                        (『戦後俳句の探求』247頁)

                                        講演での踏み込んだ言及としては「考え方も俳句も高柳重信に近いだけつぶされかねない、それが阿部完市が金子兜太を選んだ理由だったとみている」というフレーズがあった。


                                        「現代の俳句は古典を志向しているが、海程は未来を志向している」と筑紫氏。これは冒頭の「【海程】を語るというのは現代俳句を語ることになる」に通じるもので筑紫氏の考える新俳句史に兜太の前衛俳句が組み込まれるのである。


                                        最後に金子兜太主宰からの話があった。
                                        「人生、死ぬまで開放的でなければならないと思っている。虚子が晩年にやったようなことを考えるわけだが、おもしろいことになりそうな予感がある。俳句というのはリアルタイムの活動なのだから。」

                                        講義後、休憩に入った。兜太主宰は入場時に握っていた両断されたバナナでエネルギー補給をされていた。愛らしい姿だった。午後の句会では兜太主宰の豪快なコメントが飛び交う。選句眼に金子兜太らしさが出ている。背筋の伸びた大物という印象だった。


                                        講演を終了後、兜太主宰とともに関悦史氏・筑紫磐井氏

                                        左より安西篤氏、筑紫磐井氏、金子兜太主宰、関悦史氏
                                        ―――


                                        【付録】1
                                        ・筑紫講義から軌道を外すが、筑紫氏が冒頭で「「豈」は俳句評論系と思われている」という挨拶を紐解き、当時の「俳句評論」系と「海程」の袂分け再確認してみた。当時を知るよしもない自分にとっては、その紐解きも興味がわく。面白いことに群馬県の土屋文明文学館では「金子兜太・高柳重信展」が1998年に開催されている。その図録に多少の経緯概略がある。実際の兜太と重信の論争については、兜太が山本健吉に批判されたことからはじまる。

                                        縄とびの純潔の額(ぬか)を組織すべし  金子兜太 
                                        奴隷の自由という御寒卵皿に澄み

                                        健吉は上記の兜太句を啓示して詩があるか、舌足らずのイデオロギーがあっても思想があるのかと批判する。この論争の渦中に兜太の<造型論>が育ってゆく。従来の俳句の作り方は対象と自己を直接結合させる素朴な方法であるが、造形はこれに対して、そのような態度結合を切り離し、その中間に結合者としての「創る自分」をおこうとするもものである。この考えによって想像の主体の確立がはっきりと自覚されたわけで、草田男がそんなことは誰でも実行していること、あたりまえの事実を述べているだけのことと一撃される。
                                        (中略)
                                        兜太の「海程」重信の「俳句評論」に若い人々をあつめたが、しだいに相互の相違点がきわだつようになった。「海程」ではものとことばの二重構造が俳句なのだと言った。「俳句評論」では、ことばが俳句の唯一の根拠であり、ことばと作家のかかわりのうちに作品が次第に定着出現してくるのだと主張した。こうした対立と論議のなかから、俳句がことばの自立体であること、読みということの重大さなどが現代俳句の新しい問題として浮かび上がってきたことは、忘れることのできない劇的な収穫であった。
                                         
                                        (「金子兜太と高柳重信~俳句史的に~/平井照敏 1998(平成10)年群馬県立土屋文明記念文学館第五回企画展~戦後俳句の光彩~「金子兜太・高柳重信」図録」 

                                        この対立は、兜太が『詩形一本』(吉田書房S49)の<<花>は遠のき>中で、重信が『バベルの塔』(吉田書房S49)の<書きつつ見る行為>の中でその論理の対立がみられる。

                                        以下引用を参考にしていただきたい。

                                        ・金子兜太の<<花>は遠のき>の結論部分
                                        「つまり、<花>が象徴性よりも現実性(現実性に富む喩という言いかた)において受け取られ、そのために、相対的に流動的にあつかわれている、ということである」
                                        ・高柳重信の<書きつつ見る行為>の結末部分


                                        「したがって、この作品に加わっているのは、俳句形式と、その形式に反応しながら自由に流れてゆく言葉と、それを書き留めてゆく僕の手である」




                                        【付録】2

                                        海程秩父道場に参加した感想
                                        <海程>というのは、金子兜太主宰の大きな結社であるということは存じていた。しかしながら、先にあげたように阿部完市と金子兜太がどう結びつくのかも疑問であったし、加えて、現代俳句協会でつぎつぎに新人賞を獲得する若手、例えば、田中亜美、宇井十間、宮崎斗士、月野ぽぽな、中内亮玄、そして、早い時期に名声を手にした五島高資…などなど、その作風がそれぞれ異なり、自由で力強い雰囲気とともに近寄り難い謎の結社という印象があった。実のところ、過去現俳協新人賞には応募しながらたびたび海程所属の方々が獲得されるという多少の個人的恨みがあったのだ。今回、『造型論』を少し紐解いてみると、その魅力は、金子兜太造型論そのものが多くの俳人産出に繋がっているという印象を持った。


                                        幹事の宮崎斗士氏をはじめ海程の皆様にあたたかく迎えていただいた。お礼申し上げます。





                                        「豈」16号の頃のこと ―中烏編集長時代― / 筑紫磐井



                                        愛知から出ている俳句雑誌「韻」が、かつて「豈」の編集長をしていた中烏健二の追悼記事を載せていた。昭和23年生まれ、攝津より1つ若い。大井編集長に連絡したがまだ連絡は来ない。昨年6月に亡くなったらしい。

                                        名古屋にいた中烏が「豈」の編集を引き受けた期間は12号(1989年12月15日)から16号(1991年10月31日)までの短期間であるが、「豈」はこの期間やっと定期刊行に復帰している。だからその最大の功労者が中烏だった。何しろそれまでは3年に1回しか出ない遅刊の雑誌で有名だったのだから。なお12号発刊に当ってA5版に縮小変更しているのは中烏の趣味だろう。小さい活字がびっしりつまっている。老眼世代の現在の「豈」では考えられないことだ。表題も「豈nouveau」とされているのは意気込みがよくあらわれている。

                                        16号を見ると実に懐かしい。同人二七人、四八頁は、現在の三分の一の規模だが、熱気はどちらがあったかは一概に言えない。

                                        仁平勝が「加藤郁乎論(6)」を執筆しているが、これはその後単行本となった。この回は『えくとぷらすま』(その2)を書いている。

                                        筑紫磐井は「新・鑑賞法入門(4)」を書いているが、これはその後『飯田龍太の彼方へ』となり俳人協会評論新人賞を受賞する。

                                        攝津幸彦は、「陸々集」の名で100句を掲載。1992年5月に弘栄堂書店から『陸々集』として刊行されている。仁平勝の「別冊『陸々集』を読むための現代俳句入門」という解説書を付して刊行されたものだ。

                                        長岡裕一郎は「寒兎跳梁杯」の50句、富岡和秀「天子論」、朝倉福「残尿記」、大屋達治「芥楼句帳(弐)」40句を発表している。その他は20句だ。現在豈に全く作品を発表していない大屋がこの頃は元気であったのだ。


                                        祈りとは膝美しく折る晩夏 攝津幸彦 
                                        君代知るやおはぐろどぶに薄氷 長岡裕一郎 
                                        眼の中の蛇昇りゆく生命の樹 富岡和秀 
                                        淡雪や堤駆けゆく「ち」の司 朝倉福 
                                        畦焼くやあれは利休の捨てし舟 大屋達治

                                        その他の作品発表者も、攝津、長岡の他にも、須藤徹、中村裸鳥はすでに鬼籍に入っている。現在残っている同人は7人。

                                        大本義幸は「冬至物語(第八夜)」と題して不思議な文体を発表。

                                        妹尾健が「季語・季題論の形成―有季定型の中心問題(2)―」を書いているがどこまで続いたのだろうか。

                                        中烏はこの号で作品を発表していない。編集後記だけを書いている。

                                        「随分16号の発行が遅れてしまい、申し訳ありません。深くお詫びいたします。(近ごろあちこちで謝ってばかりだ)
                                        直接の編集は本号で中烏が終り、次号から筑紫磐井さんに交替の予定。
                                        筑紫さんなら間違いなく、きちんとやっていただけるだろう。」

                                        これが後任の編集長である私に対する業務引き継ぎである。「きちんとやれ」ということだ。また、同人全般に対しては、もう少し精神論を述べている。

                                        「もともと一匹狼的な連中の集まりの同人誌だと思うが、ずらり作品を並べると、やはりそんな光景が見えてくる。
                                        橋本七尾子さんが言ったが、パチンコ屋の眺めに似ているかもしれない。
                                        ところで、必死にあるいは余裕でパチンコ台に向かっている豈の連中にも、俳句に対しては共通の意識があり、どうかすればあるまとまりを持ってくるような気がかねてからしていた。(ないものねだりかもしれないが)
                                        そんなことになれば、面白いことになるかも。豈誌がどう展開し、以下に結末を迎えるか、もう少し様子を見よう。
                                        逆に、益々てんでんばらばらになってゆき、お互いとりつくしまのないままだったらどうするか。その時はその時と、いったら遺憾だろうか。
                                        同人誌が本来、運動体としての役割を担うものとしても、様相は変化しつつあり、別の意味を持つようになってきてはいないか。むしろ運動体というものは、同人誌を越えて、偶然に、社会的に・・・・・」

                                        これが「豈」を通して中烏が残した遺言だと思うと切ないものがある。

                                        それにしても、中烏のパチンコの比喩は分かりにくい。橋本七尾子の前号作品評を見てみよう。殆ど全員の作品をなで切りにした挙げ句、次のような感想を述べている。

                                        「「唐突な質問だが、「あなたは麻雀が好きですか。パチンコが好きですか。気晴らしにやるとしたら、どちらをやりたいですか。」
                                        どちらもいささかの時間とマネーを擁する庶民的なギャンブルだが、麻雀とパチンコには大きな違いがある。
                                        何はともあれ麻雀にはメンバーという相手が必要で、いくら自分がペナルティを払うのだからといっても勝手気儘は許されない。おのずからゲームの流れというがあるから、それを無視すると白い眼で見られることになる。
                                        そこへゆくとパチンコに派仲間も居ないし、セオリーもない。負けを覚悟しさえすれば、どんなくず台に有金全部はたこうと、やみくもに打って溜飲を下げようと誰に文句を言われる心配もない。
                                        ここで私が言いたいのは、「豈」十五号の光景はパチンコ屋の眺めに似ているということである。
                                        隣の人には、目もくれず、台に向って一心不乱、セオリーも戦略も有らばこそ、眼を血走らせて孤独な作業に励む一匹狼の群である。」

                                        そうか、「豈」とはこんな雑誌であったのだ。


                                        【おじぎの冒険】おじぎをすれば何も見えなくなる(のかな)、おじぎをすればなにもわからなくなる(のかな)-長嶋有『句集 春のお辞儀』をめぐる-/ 柳本々々


                                        彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行なうのである。 
                                          (カール・マルクス、岡崎次郎訳「商品と貨幣」『資本論1』大月書店、1972年、p.138)

                                        エストラゴンは、頭を両足のあいだにつっこんで、胎児のような格好になる。 
                                        (サミュエル・ベケット、安堂信也/高橋康也訳『ゴドーを待ちながら』白水社、2013年、p.136)

                                        たぶん、今目覺めた。
                                        此處(ここ)は、何處(どこ)だらう。
                                        私は何をしてゐるのだらう。
                                        私は生暖かい液體に浸つてゐる。
                                        私は目を閉ぢてゐるのだらうか。
                                        目を開けてゐるのだらうか。
                                        私は軆(からだ)を丸くして、液體に浸つてゐる。
                                         
                                          (京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社、2003年、p.10)

                                        控えめな春のお辞儀を拝見す  長嶋有 

                                          (『句集 春のお辞儀』ふらんす堂、2014年)


                                        〈おじぎ〉とは、いったい、なんなのでしょうか。

                                        たとえば夏目漱石の『門』において、妻が夫の〈おじぎ〉のようなまるまった身体を〈そっと〉目撃しています。

                                        細君は障子の硝子の処へ顔を寄せて、縁側に寝て居る夫の姿を覗いて見た。夫はどう云う了見か両膝を曲げて海老の様に窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肘に挟まれて顔がちっとも見えない。
                                          (夏目漱石『門』)

                                        妻に目撃された宗助はみずからの身体のありようには、気が付いていないかもしれません。たぶん、みずからのまるまってゆく存在様式に気がついていない。考えてみれば彼は〈門〉をくぐれないひとです。門を通り抜けることも、門をあきらめることもできず、カフカの「掟の門」のように門のしたに途方にくれてたたずむひとだった。なぜ、か。

                                        それはこうもいえたのではないでしょうか。かれは、まるまるひとだったから、と。直進のベクトルをもっていない。だから、〈門〉とは身体的に相性がわるい。通り抜けるひとではなく、円環(まるま)るひとだったから。でも、それでも、ひとは、丸まる。なぜ、か。

                                        ひとは、おじぎしたしゅんかん、まるまっていくしゅんかん、じぶんの身体をみうしなっていきます。だからそれはまるまろうとする身体的過程でありながら、みずからの身体を掻き消してゆく挙措もふくんでいる。でもその一方でふだんのおもてだったからだのありかたをかきけすことで、新たなフェーズを知覚できるかもしれない。丸まる、ということは、みずからの身体をかきけしつつも、あたらしいもうひとつの〈世界〉の様式に気づいていくことになるかもしれない。

                                        近藤耕人さんがやはりまるまる身体の多いベケットの論考のなかで、ヴァレリーの「身体に関する素朴な考察」における「第四の身体」について次のように説明しています。

                                        われわれには〈わたしの-身体〉と、〈他者がわれわれに見る身体〉と、〈解剖して認識する身体〉という三つの身体のほかに、〈現実の身体〉とも〈想像の身体〉とも名づけられるような、〈第四の身体〉というようなものがあるという。それはちょうど渦巻がそれを形成する水と区別できないように、未知の、認識できない、不可解な環境と不解分のものであり、その認識不能の対象を〈第四の身体〉と名づける。それはなにやら不条理なもので、精神の言語では意味づけ不可能で、なにか〈非存在〉を想定しなければならない。〈第四の身体〉とはその〈非存在〉の受肉であるという。「《あるものはみな》、どうしようもなく、《なにかそこにあるはずのもの》をわれわれから覆い隠している」。 

                                          (近藤耕人「身体と言葉のコギト」『ユリイカ』1982年11月号、p.125)

                                        〈おじぎ〉、〈まるまること〉とは、じつはこの「〈非存在〉の受肉」に近いのではないでしょうか。

                                        わたしの身体が消えつつも、それまであった非存在への知覚を、消える身体を過程しながら獲得してゆく、あらたな知覚のありかた。そしてその知覚様式が長嶋有さんの句集『春のお辞儀』にはあふれているのではないか。まるまることで。

                                        実際、〈おじぎ〉をやってみるとわかるのですが、〈おじぎ〉というのは、視覚を遮断することにもつながっています。もちろん、〈おじぎ〉というのは身体的なコミュニケーションの手段として、礼節的身体としてあるのですが、すこしその角度を変えてみると、〈世界〉への非コミュニケーション、〈世界〉からのシャットダウンとしても〈おじぎ〉はある。

                                        とくに〈俳句〉という〈視覚経験〉が特権化される場所にあって、あえて〈おじぎ〉が句集にもちこまれるということが興味深いことなのではないかと思うのです(もしかするとこの〈おじぎ的シャットダウン〉の対極にあるのが佐藤文香さんの句集タイトル『君に目があり見開かれ』かもしれません。〈君に目があり見開かれ〉の反対のことをしろ! といわれたら、すかさず〈おじぎ〉をすればいいわけです。私の〈眼〉を閉じるために)。

                                        具体的に長嶋さんの句集から、〈おじぎ的シャットダウン〉される句をみてみます。

                                        はるのやみ「むかしこのへんは海でした」  長嶋有 
                                        春昼の知らないうちに切った指  〃 
                                        右頬に飴寄せたまま夏に入る  〃 
                                        アイスキャンデー当たりが出ればもう晩夏  〃

                                        れら句には〈知らない/見えない〉という位相が見出されるようにおもうんです。「「むかしこのへんは海でした」」と語られたときに、聴き手は〈知らない〉わけです。そこには〈知らない、しかし、ここにたしかにあったはずの海〉がある。「知らないうちに」指を切ったとしても、知覚や視覚の記憶はないけれども、〈傷〉はいまここにある。飴も口に含めば視覚経験はないけれど、しかし味覚としていまここにある。アイスキャンデーの当たりもそれはつねに潜勢態として眼にはあらわれないかたちで潜っているわけですが、でも〈当たり〉としてマテリアルなものとしていま舐めている/握っているかもしれないという可能態としての〈いまここ〉の感覚があります。

                                        見ることを否定することによって(つまり、〈おじぎ〉することによって、まるまることによって)、もうひとつ潜勢態としてもぐっている様相にちかづいていく。大澤真幸が社会学とは何かに関する説明でこんなことをいっていました。

                                        すぐに言語化され意識される層、つまりさしあたって見えている層が、表層である。しかし、その下に、もう一つの層、身体的な層がある。…… 
                                        社会的な経験を〈見る〉ためには、ある意味では、見ることを否定しなくてはならない…。経験の深層に到達するためには、表層における視点を離れ、もう一つ別の視点に移らなくてはならない。
                                         
                                         
                                          (大澤真幸「〈社会学すること〉の構造」『社会学のすすめ』筑摩書房、1996年、p.8-10)

                                        表層と深層。見ることを否定することによって〈見る〉ことを獲得すること。そういえばこんな句がありました。

                                        エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン  長嶋有

                                        なぜ「エアコン」が「大好き」なのか。それは〈見ること〉を否定するものだからではないかとおもうのです。

                                        エアコンの仕組みやシステムはわたしたちにはわからない。それは〈冷気〉として感受されるだけです。だからわたしたちは飾られたリボンと同じようにエアコンを〈表層〉として愛している(実際、〈表層〉的冷気こそが、肝心なわけです)。エアコンはもちろんメカニズムを内包しているので〈深層〉的なのですが、エアコンの前に立ったわたしたちはそれを〈表層〉として、あいする。深層を、知りたいわけではない。冷気を、体感したい。

                                        でもこの〈表層〉に満ちた句には、やはり〈深層〉を考えざるをえないような「大好き」という〈内面〉がある。〈見えない・世界〉において、〈大好き〉という〈深み〉の表出がある。

                                        「飾るリボン」も〈表層〉です。「リボン」を「飾る」〈内面〉はあるかもしれないけれど、その〈内面〉は「リボン」からはみえてこない。ましてや、髪を縛るのではなく、「部屋に飾る」のであっては〈内面〉はなおさらみえない。「飾る」という〈見える〉かたちではあるのだけれど「二人で」「部屋に」「飾る」という本来の「リボン」の使用価値からのズラしによって〈見えない〉〈深層〉が出てくる。

                                        〈見ない〉ことのなかで〈見る〉ことを発見してゆくこと。〈表層〉を通して〈深層〉をうけと(ってしまえ)ること。おもいがけないおじぎやうつぶせを通して。見ない状態にすれば、なんだって見えてくるから(その位相に身を置くこと)。たとえば、

                                        うつぶせで開くノートの先に海  長嶋有

                                        だから逆に〈おじぎ的主体〉が〈見ること〉にあえて臨むならば、それは〈倒錯〉されたかたちで〈見る〉ことになるとおもうのです。まったく逆のかたちで。〈ない〉ものを〈見る〉かたちで。つまり、

                                        毒のない蛇をわざわざ観にゆけり  長嶋有

                                        しかしここでもおそらく〈おじぎ〉が現れているのです。蛇を観るときはちょっと腰をかがめます。ちゅうごしです。つまり、しぜんと、それは、いわゆる、〈それ〉になっていくわけです。おじぎ、に。

                                        やはり、〈おじぎ〉とは、なんなのでしょう。丸まることとは。

                                        見えないことから、見えることへとつながっていくあるひとつの〈世界〉の〈見え方〉、シャットダウンするちから、外にいても内を感じる感性。

                                        わたしは、長嶋有さんの小説をあらためて読み返しながら、こんなふうにも思ったりしました。
                                        〈おじぎ〉とは、どんな外部にいても、どれだけ外にいても、「エアコン大好き」的な〈わたし〉として出歩くことができる持ち運び可能なポータブル・インドアなのではないのか、と。おじぎとは、持ち運び可能な身体的部屋なんじゃないかと。

                                        自宅の真ん中で体育座りをしていると、足ばかりどんどん成長しているように思えてくる。……
                                        「体育座り」とやっと思いついたのでそういうと、弟は
                                        「暗いなあ」といって笑った。
                                        「暗いよ、私は」私も笑った。
                                        そういう意味では弟と同じで私もまったく変わっていない。とにかく外出しないのだ。
                                         
                                          (長嶋有「サイドカーに犬」『猛スピードで母は』文春文庫、2005年、p.47)



                                        2015年5月8日金曜日

                                        【第83回海程秩父俳句道場潜入ルポ】  濫竽充数(らんうじゅうすう) ~海程秩父俳句道場闖入記~   / 堺谷真人



                                         2015年4月4日(土)、5日(日)の両日、埼玉県秩父郡長瀞町の養浩亭で開催された「第83回海程秩父俳句道場」に参加した。


                                         筆者は「豈」同人。「海程」の句会は初めてである。ただ、昭和末年から平成の始めにかけて大阪で「海程」創刊同人の堀葦男(1916~1993)の指導を受けて以来、なぜかこの俳句集団とは御縁がある。今回は幹事の宮崎斗士氏からの慫慂。しかもゲストは「豈」きっての論客、筑紫磐井、関悦史の両氏という。これは行かないわけにはいかない。

                                         道場のプログラムは1日目が吟行、句会、懇親会、2日目がゲスト講演、句会であった。1日目は総投句数104。2投4選で金子兜太主宰選が20句。2日目は総投句数118。2投3選で主宰選が19句。別途、毎回問題句を各自1句選ぶという趣向である。

                                         養浩亭に集合後、マイクロバスで吟行へ。赤平川右岸に聳える石灰岩地層の大露頭、陽崖(ようばけ)を振り出しに、その昔、兜太主宰が出征時に参拝したという皆野椋神社を経て大黒天円福寺周辺を散策した。秩父の桜は恰も満開。川原では軽トラックほどもある落石に攀じ登って子どもたちが化石を探していた。足もとには菫の花。初めて訪れた兜太俳句の原郷は百花繚乱の山国であった。途中、「おおかみに蛍が一つ付いていた」「僧といて柿の実と白鳥の話」「よく眠る夢の枯野が青むまで」等の句碑を巡覧したが、いずれも大ぶりの滑らかな緑の自然石。とりわけ椋神社境内の「おおかみに」の碑は殆ど磐座と呼びたくなるほどの巨岩であり、兜太主宰その人の存在感を具象化したオブジェにも見えた。



                                         兜太主宰が参加者の前に現れたのは1日目の夕食の席。このとき初参加者の自己紹介の時間があった。初対面の「海程」各位に何をどう紹介したらいいのか。窮余の一策、筆者は兜太主宰の第一句集『少年』初版本を披露して自己紹介に代えることにした。

                                         1955年10月1日発行の『少年』初版本は亡き師・堀葦男の形見として冨美子夫人から寄贈されたもの。見返しには著者自筆で「堀葦男様 金子兜太」とあり、「婆の胸より電柱傾ぐ水禍の原」という句が黒インクで書かれている。大ぶりのゴツゴツした書体。文字を構成する線が所々で二重線になっているのは筆圧が強すぎてペン先が開いたためである。

                                         本文の頁をめくると、多くの句の頭に点が打ってある。葦男が注目句をチェックした跡だ。ただ面白いのは、後年、兜太主宰の代表句として不動の評価を得るに至った次のような句が全くのノーマークとなっており、いわば「既読スルー」されている事実。最も近くにいた慧眼の同時代人にも往々にして見逃しということは起きるのである。

                                           曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 
                                           水脈の果炎天の墓碑を置きて去る

                                        指名を受けて立ち上がった筆者が『少年』を掲げながら以上のようなことを喋り始めると、大広間に居並ぶ人々の間から「おおっ」という嘆声が漏れた。嘗て宇多喜代子氏が子規の妹・正岡律愛用の前掛けを手に取って実見した経験を語るのを聞いたことがある。幾度も接ぎを当て、丁寧に破れを綴って使い込んだ前掛けは律という女性の人柄・人生を何よりも雄弁に物語っていたという。そのとき宇多氏は「現物の力」「実物の迫力」を力説したのだが、『少年』初版本のインパクトも同工異曲といってよい。俳句道場で同座した「海程」諸兄諸姉は、「兜太先生の第一句集を持ってきたあの人」として筆者を記憶することになるのであろう。

                                        さて、以下、俳句道場の句会風景スケッチである。

                                        会場は養浩亭の2階。コの字型に並べた長机の囲む空間に更にスクール形式で隙間なく席を配し、50名以上が一堂に会する。遠く会津若松や四日市などからの参加者もいる。筆者はこの人数にまず圧倒された。普段10名未満のこじんまりした句会しか知らないからである。以下余談だが、今までで唯一の例外は10数年前に潜入した「ホトトギス」芦屋句会。稲畑汀子主宰が取り仕切る句座には150名が集い、600句から10句を選ぶという桁外れのマス句会であった。

                                        さて、投句、選句が終わり、入選句の合評が始まる。合評の最中、兜太主宰は腕組みをしてやや上を向き、目をつぶって人々の発言を聴いている。一見眠っているかのようにも見える。しかし、面白い感想や剴切な批評が出ると、目をつぶったまま微かな笑みを浮かべるのである。莞爾というには淡きに過ぎる。苦笑でもない。失笑でもない。勿論、憫笑でもない。微苦笑とも違う。敢えて言えば、クラシック音楽好きの五百羅漢がお気に入りの旋律に出会って思わずほほ笑むような、いかにも心地よさそうな表情なのである。そのとき、兜太脳の中では一体どんなシナプス結合が生じ、どんな形象やクオリアが現前しているのであろうか。いたく興味をそそられた。

                                        そして、いよいよ入選句や問題句に対する兜太主宰の講評である。ここでは紙数の都合もあるため、一々の作品を例示することは避けるが、主宰コメントを以下ランダムに書き連ねてみる。以ていわゆる兜太節とその場の空気の一端を感じて頂ければ幸いである。

                                        「中七以降は回りくどいが、上五の花だいこんの景で救われている」 
                                        「上五の春や上流は気取っていて駄目。それ以外も作りものだ。うまく作ったなというだけ」 
                                        「若干異常な感じがいい。ペーソスがいい」 
                                        「この句には後ろめたさがある。何か運命を背負っている感じがする」 
                                        「こういう句は月並俳句。王朝風と思うのは馬鹿げた話だ。江戸末期の小理屈の現代版だ」 
                                        「山茱萸の群がりを母港ととらえたのがいい」 
                                        「採ってから、しまった、と思った句。下五は食わせものの感じ」 
                                        「何かのために家族団欒の外にいる母。寂しげな母とそれを見やる家族」 
                                        「古代獣の名前とは知らずに採ってしまった。咬んだ痕が貝の化石に残っているとの着目が面白い句」 
                                        「今日の中では一番好きな句。金子好みの句だな」 
                                        「霜くすべが背景。立っているのが父であろうかというのがいい」 
                                        「梟の逢瀬。羽音が聞こえることもあるだろう。フィクションも認める。自分も梟も湯冷めするなというのが上手だ」 
                                        「天にのぞんでゆく鷹のホバリングと受け取った。哀愁が漂う」 
                                        「しぶしぶ頂いた。とらえ方が甘い」 
                                        「甘ったれるな」 
                                        「中七はよく作った句という感じ。下五は説得力がある。上五の百千鳥という季語が救いだ」 
                                        「妙に弾んでいる作者を見る感じ。これから花を見る心の軽やかな弾み」 
                                        「致死量のエゴは面白い。ここにいる人は大体エゴの塊。なかなか洒脱で、案外うまい」 
                                        「歓喜という表現。こう思い切ったので我慢できる。まあまあだな」 
                                        「何だか知らないけれど頂いた句。魔力を持つ句。前衛=始原の眼を持つという前衛賛歌だ」 
                                        「上五のやみくもには一寸くでえ。寄居ははぐれ駅。自分が秩父の入口に来て迷ってしまったんだな」 
                                        「津波のようには必然性を感じた。震災忌という言葉は評価がいろいろあるが、この句は今までにない使い方だ」 
                                        「しゃべる男聞いてるをとこ。このとらえ方には興味がある。好感は持つが、情景はマンネリ。自分も何遍も何遍も作ってきた。陳腐だが何となくいいね」 
                                        「下五の笑みゆがめはちょっとまずい。わざとらしい」 
                                        「旅芸人の流浪。流浪は好きだ」 
                                        「全く普通の句。これを問題句にした人が多いのが問題。私がオギャーといったときから作っている、珍しくも何ともない句だ」 
                                        「下五の桜咲くは全く駄目。俗に落ちた」 
                                        「デリカシーに惚れた。繊細さがいい」 
                                        「うまい」 
                                        「目薬もまたとあるが、またを探す人は駄目」 
                                        「擬音の使い方がデリケートでうまい。感心した」 
                                        「上五が作り過ぎ。中七以降も劇を仕組み過ぎる」 
                                        「説明を聞いて驚いた。こりゃ只事の俳句。作品でも何でもない。全く興味がない」 
                                        「中七の、力を抜いて、は余分」 
                                        「上五の幽愁のは食わせもの」 
                                        「口語調自由律の書き方だ」 
                                        「耳つむるとは事柄を書いたにとどまっている。季語が要る」 
                                        「淡々と書いて小味。吟行だからいい」 
                                        「句の中の批評が当たりまえ過ぎる。走りの句」 
                                        「ニューギニアで苦労した伯父さんの句に飛びついた。下五の空が流れるは甘い」 
                                        「日本の便座は成功した句。季語一発、選び方がうまい」 
                                        「言わなければわからぬは今の実感。時勢を反映している」 
                                        「一寸分かりにくいが分かる。手の込んだ句」 
                                        「現代人の実感だが、下五の初つばめが弱い」 
                                        「始祖鳥と花種蒔くは似たモチーフ。洒落た人だ」 
                                        「これはいい句ですな。詩篇のようには思い切った喩え」 
                                        「中七以降の磐井俳論確と聞く。全くこういう気分だ」 
                                        「武器を平気で売るやつがいる。これは私がすぐ飛びつく句」

                                        ちなみに筆者の「無意識の底うらがへる夜の蝌蚪」という句は正選4点、問題句4点を頂いたのだが、主宰選には入らず、こんな風に評された。
                                        「敢えていうと全く興味がないな。句としてはよく出来ているが」
                                        なるほど。剣術に譬えるなら、竹刀を構えて蹲踞した途端に尻餅をついてそのまま退場といったところであろうか。

                                         最後に2日目のゲスト講演について触れておこう。

                                        講演では関悦史氏が古沢太穂の作品に即して社会性俳句を論じたのに続き、筑紫磐井氏が「『海程』の未来」と題し、1)「海程」の自己評価、2)詩学・史観の構造、3)兜太への関心、4)私の見る「海程」の未来、について語った。後者は結果的にかなり思い切った提案を含むものであったことを付け加えたおく。その内容はいずれ世に明らかになると思うが、講演終了後、兜太主宰がその提案について述べた言葉を取り急ぎ引用してこの稿の結びとする。長文にお付き合い頂き、感謝申し上げる。


                                        「「海程」を総合誌的企画を吸収できる雑誌にして、一段高い所に置きたい。」(兜太)