2015年1月23日金曜日

第9号

※「BLOG俳句空間」は基本隔週更新です
毎週・毎日更新の記事に関しては右の[俳句新空間関連更新リスト〕ご参照ください。)



  • 2月の更新第10号2月6日・第11号2月20日




  • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定)  》読む

    (1/30更新)
    歳旦帖 第四
    神谷 波・池田瑠那・林雅樹・ふけとしこ・福田葉子・関悦史・瀬越悠矢・堀田季何・前北かおる

    (1/23更新)歳旦帖 第三
    …杉山久子・小沢麻結・堀本 吟・中山奈々・北川美美・山本敏倖・寺田人・仮屋賢一

    (1/16更新)歳旦帖 第二
    …陽 美保子・木村オサム・月野ぽぽな・山田耕司・佐藤りえ・竹岡一郎・坂間恒子
    (1/9更新)歳旦帖 第一 
    …青山茂根・網野月を・曾根 毅・しなだしん・五島高資・仲寒蟬・小林苑を・夏木久



    【評論新春特大号!】

    「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・
    その2
      筑紫磐井・堀下翔 》読む


      【俳句を読む】


      • 上田五千石を読む ~テーマ【雪】~  
      「いちまいの鋸置けば雪が降る  上田五千石」しなだしん  》読む


      【句集を読む】


      • 小津夜景 作品集『THEATRUM MUNDI』
      -ことば、記憶、生(死)- …瀬越悠矢  》読む

      • 宮崎斗士 『そんな青』 
      -オンリーワン俳句の息吹- … 豊里友行  》読む





      当ブログ媒体誌俳句新空間』を読む(毎金00:00更新)
      堀下翔、仮屋賢一、網野月を、浅津大雅、中山奈々… 執筆者多数  》読む
        およそ日刊「俳句空間」 (12月も月~土00:00更新) 
          日替わり詩歌鑑賞 》読む
          …(1月の執筆者)竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・北川美美 
            大井恒行の日々彼是(好評継続中!どんどん更新)  》読む 



              【時評コーナー】
              • 時壇(基本・毎金更新)新聞俳句欄を読み解く
                ~登頂回望~ その四十九・五十網野月を  》読む
                • 俳句時評 (隔週更新  担当執筆者: 外山一機 / 堀下翔)
                わいせつという矜持 ―「表現の不自由展」から考える― 
                外山一機     》読む 
                • 詩客 短歌時評 (右更新リスト参照)  》読む
                • 詩客 俳句時評 (右更新リスト参照)  》読む
                • 詩客 自由詩時評 (右更新リスト参照)  》読む 




                  【アーカイブコーナー】

                  ―俳句空間―豈weeklyを再読する
                  2008年8月15日発行(第0号(創刊準備号))■創刊のことば            
                  俳句など誰も読んではいない     ・・・高山れおな   読む

                  アジリティとエラボレーション     ・・・中村安伸  読む

                  2009年3月22日発行(第31号)
                  遷子を読む(はじめに)・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   》読む






                      あとがき  》読む






                          筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                          <辞の詩学と詞の詩学>
                          川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史!





                          筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆






                          第9号 あとがき



                          筑紫磐井

                          (今週はお休み)



                          北川美美

                          (2015.01.30更新)

                          東日本大震災が起きた直後、被災した方々に少しでも役に立ちたいと願うのみだった。そのような感情が人の価値基準である雰囲気があったのも確かだ。「俳句なんかやっている場合じゃない。」と思いつつも以前と同様に俳句をつくろうとしている自分に罪悪感めいたものがあった。

                          あれから四年が過ぎようとしている。あのような未曾有の災害、そして福島第一原子力発電所事故を通して、俳句そして詩歌で何かできるかという問い私自身が答えられたものは何一つなかったし、何ができるかわからないまま現在に至っている。

                          今度は、深夜に速報されたイスラム国日本人拘束事件をテレビで観てまた同じように「俳句なんかやっている場合じゃない。」ことを思った。

                          テレビ局の報道スタジオの混乱が伝わり現場の緊迫感が不安感を煽った。しかしその日の午後に予定通りの句会に参加した。会場は満席状態だった。「俳句なんかやっている場合じゃない。」…と思うことが、これからもきっと繰り返されるのかもしれない…と世の中の不安を感じつつ一月尽…。


                          俳誌『俳句新空間』No.3刊行に向け作業中です。




                          宣伝ざます‼





                          筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                          <辞の詩学と詞の詩学>
                          川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史!

                          上田五千石の句【雪】/しなだしん


                          いちまいの鋸置けば雪が降る  上田五千石


                          第二句集『森林』所収。昭和四十四年作。

                          この句の自註には「雪の上に置かれた鋸、その新しい平面にふりかかる雪」とだけ記されている。

                                  ◆

                          掲出句は『森林』の第二句目に置かれた句。第一句目は〈雪催松の生傷匂ふなり〉で、共に「雪」の句である。一句目の〈雪催松の生傷匂ふなり〉は、第19回「男」で取り上げた。こちらの句は松の木の写生句であり、作者の感慨も分かりやすい。

                          掲出の「いちまいの」は、「鋸を置いた」と「雪が降る」の二つの事象が提示されただけで、作者の感慨が見えにくい。以前から気になっていた句だが、自分の中でどう消化すべきか迷っていた句である。

                                  ◆

                          五千石の句には掲出句のような「けば」もしくは「れば」という、いわゆる“条件表現の接続形”の句が多い。代表句のひとつ〈遠浅の水清ければ桜貝〉(昭三十三『田園』)もそうだ。

                          掲出句では「鋸を置いた」という条件によって「雪が降る」という結果がもたらされているかのような表現となっている。その点「桜貝」の句では、「水が清い」という条件から「桜貝(がある)」という構図は、原因に対する結果が理解できる範囲にあると云っていい。

                          つまり、掲出句の「雪が降る」の事象に「鋸置けば」という条件設定が「遠い」のだ。いわば「風が吹けば桶屋が儲かる」のようなもの。

                                  ◆

                          一方で、これは「条件」ではない、という見方もあるかもしれない。「ば」という接続形には条件というほどの意味はなく、「雪が降る」は取合せ、付合せであるという読みだ。

                          「桜貝」の句はさて置き、掲出句について言えば、「いちまいの鋸」という、どこか狂気めいたものと「雪」の取合せは、とても危なっかしい綱渡りのような、繊細な感覚の取合せと云える。

                          この琴線に触れるような取合せは、第一句集『田園』ではみられなかったものだと思う。

                          掲出句は、五千石にとって、冒険的、実験的な取合せの句だったのかもしれない。


                          【俳句時評】 わいせつという矜持 ―「表現の不自由展」から考える―  / 外山一機



                          一月一八日から二月一日にかけて、東京都練馬区のギャラリー古藤で「表現の不自由展~消されたものたち」が開催されている。近年の日本社会にしばしば見られる「隠蔽と禁止」への危機感から開催されたものだ。同展のパンフレットでアライ=ヒロユキは次のようにいう。

                           いま言論と表現への「隠蔽と禁止」が日本社会のすみずみまで侵食している。(略)
                           この「隠蔽と禁止」は、以下の8つの問題領域において起こる。①歴史問題(戦争/植民地)、②政治問題(天皇制や安保などの政体)、③政局&政治事件(利権と利権集団)、④性とジェンダー、⑤人種と民族、⑥経済活動、⑦社会運動、⑧個人生活、となる。
                           
                          (「いま何が問われるべきか 「隠蔽と禁止」が脅かすもの」)

                          ギャラリーにはニコンサロンでの展示をいったん拒否された安世鴻による「慰安婦」の写真、千葉県立中央博物館と日本サウンドスケープ協会共催の「音の風景」展に出品したものの説明文が作者の同意なしに検閲・修正された「福島サウンドスケープ」(永幡幸司)などが並ぶ。その最初に展示されているのは「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の句を記した作者直筆の色紙だ。昨年話題になったこの句を覚えているだろうか。埼玉県さいたま市大宮区のある女性(当時七三歳)が詠んだこの句は同区の三橋公民館が発行する二〇一四年七月の月報に載るはずだったが、館側に掲載を拒否された。掲載拒否について館長からは、政治的で議論が分かれる問題に対し一方の意見だけを載せるわけにはいかないという説明がなされた。この句は当時話題になっていた集団的自衛権の行使容認に対するデモを詠んだものだったのである。

                          本来美術作品を主に展示しているギャラリー古藤において、この句がその入り口に据えられていたのは、開催者のこの句への関心の高さを象徴するものであろう。同展共同代表でありこの句のキャプションを担当した永田浩三氏はこの句の作者と実際に会ったらしい。氏によれば、この句をあれこれと言われ大きな騒ぎとなってしまったことに対して作者本人は当惑もしているということであったが、こうした作者の態度にはこの句の本来のありようがうかがえる。ならば、それにもかかわらず、それを「表現の不自由」を象徴する作品としてまなざす僕たちの傲慢さは何なのだろう。公開されなかったという暴力と、公開されなかった句として公開するという優しい暴力という二重の暴力によって、この句も作者も引き裂かれているように見える。

                          だが、この句をめぐる困難はそれだけではない。この句についての僕なりの考えはすでにウェブマガジン「スピカ」に書いた。掲載拒否に関する報道がなされた直後の文章であるが、それはおよそ次のようなものであった。

                          この句を俳句表現として評価するなら、率直に言ってつまらない句であると僕は思う。このことをなぜ誰も言わないのだろう。先の記事(『東京新聞』二〇一四・七・四朝刊)によれば、作者は六月上旬に銀座で見かけた女性たちのデモに心を動かされ「日本が『戦争ができる国』になりつつある。私も今、声を上げないと」という思いから女性もまた行進の列に加わったのだという。そしてこの句にはその思いを込められているらしい。とすれば、この句は実に安直にできあがっている。もちろん「梅雨空」とはデモの際の六月上旬の空をそのまま表しただけの言葉ではなく、これは「『戦争ができる国』になりつつある」という日本の状況をも示唆した言葉なのであろう。また、そうした状況にあって「女性」たちが「九条守れ」と声をあげているというのは、とくに「女性」の姿をデモに見出したという点において、あるいは何がしかの感動を読み手に呼び起こすのかもしれない。けれど、この句の「女性」へのまなざしが感動や共感を呼びうるとすれば、それはここに詠まれた「女性」が社会的弱者としての性質や無名性を前提として詠まれたものであるということに疑問を持たないがゆえの感動や共感であろう。換言すれば、デモに参加する「女性」は弱い存在であり無名であるという前提があってこそ、この句は輝きを増すのである。その意味ではこの句における「女性」へのまなざしは類型的なそれを踏襲しているにすぎない。いわば、「梅雨空」という状況についての安易な比喩と、厳しい状況下において声をあげる「女性」というステレオタイプな表現とが、「九条守れ」という、カギカッコで括ることによって額面通りに読み手に伝わるよう配慮されたメッセージとともに詠みこまれているだけなのである。この句が表現として優れているという評価など、僕にはとてもできない。この句を読むに堪えないものだと思っているのは僕だけではないと思う。この句をつまらないと言ってはいけないかのような雰囲気が生まれることを僕はもっとも恐れる。

                           約半年経ったいまもこの考えにほとんど変わりはない。僕はこの句は上に述べた意味において決して上出来のものではないと思う。実際、この句の掲載拒否問題に対してもっとも目立った発言をしていた金子兜太にしても、これまでの発言を読むかぎり、この句の表現自体を高く評価しているというよりもこの句の掲載が拒否されてしまうという状況に対する批判が主であった。戦後俳句史における金子の仕事を考えるならば、金子がこうした句の存在を肯定していこうと考えるのは自然なことであるが、しかしそれはこの句の表現としての優劣の評価とは別次元の問題のはずなのである。

                           だが一方で、この句の表現レベルの低さをもって、この句の公表を求める動きを揶揄するのもまた違うだろう。そもそもこの句は、その出自において僕やあなたが「佳句」の条件として求めている表現レベルなどとは無関係のところにあったのではなかったか。この句はあくまでこの句の作者の所属するサークル内の句会において互選によって選出された句であって、その意味において「佳句」であったのだし、何よりこの句の作者はそのような認知にとどまることを欲していたのではなかったか。実際、この「佳句」は公民館の月報に載ることをもってよしとする慎ましさをもっていたのである。いわばきわめて私的なレベルにおいて「佳句」として流通したがっていたのがこの句なのであって、そのようなこの句のありようを認めないとすれば、それはいささか傲慢ふるまいではあるまいか。僕もまた、この句を「つまらない」と思う者の一人であるが、この句をつまらないとか面白いとか評する行為自体が本当はお門違いなのであって、それこそ「つまらない」行為なのである。

                          だがこの句を評すること自体の「つまらなさ」の淵源はそれだけにあるのではない。

                          思えば、宮中で歌会の行われるこの国において俳句形式を自らの表現形式として選択するということは、もうそれだけでじゅうぶんにあやしげなふるまいなのではなかったか。


                          さきに<短歌の上句>ということを、五・七・五=十七音の"定型"の発生的な本質として考えようとした。それは言葉をかえれば、その"定型"自体のうちに、発生的に切り捨てられた「七七」の<下句>が、いわば幻肢として、構造的に抱え込まれているといってみてもよい。この<幻肢としての下句>は、ことさら俳諧の脇句のなごりと考える必要はない。五・七・五という音韻律そのものの本質的不安定さなのだ。 
                          (「虚構としての定型」『詩的ナショナリズム』冨岡書房、一九八六)


                          「幻股」としての七七を抱え込んだ俳句形式とは、短歌形式にあこがれつつそれを拒絶するという矛盾を抱え込んだ形式の謂であろう。いってみれば、それは親を真似つつ親を殺すことによって成立する形式である。そしてこうした俳句形式の出自は、短歌と宮中との深い結びつきを思うとき、看過できない問題であるように思われる。すなわち、俳句形式とは、生まれながらにしてじゅうぶんに不謹慎なものだったのではなかったか。

                          「表現の不自由展」と題して行われた今回の展覧会は、奇しくも昨年亡くなった赤瀬川原平が千円札事件の裁判で争っているさなかに行ったそれと同じ名であるが、赤瀬川の有罪確定に至ったこの事件について椹木野衣は次のようにいう。


                          私が思うに、千円札を極めて克明に描き、それを公的な場で「陳列」し、あるいは印刷というかたちで「頒布」することが、国家の隠された「恥部」―「しょせん」は紙切れが天下の国家を支えているという実も蓋もない事実―を歴然と晒すという、権力にとって決してあってはならない行為に当たっていたのではあるまいか。いわば「象徴的な意味でのわいせつ行為」が、重大な「思想犯」に当たっているのではないか、ということである。
                          「象徴としてのわいせつ ―ろくでなし子と赤瀬川原平」二〇一四・一二・二二。)

                           「象徴的な意味でのわいせつ行為」―これは今回の展覧会に出品された作品が「消された」理由としてほぼそのままあてはまるものであろう。だが俳句形式による表現行為もまた、実は「象徴としてのわいせつ行為」ではなかったか。(椹木の言いかたにならえば)「しょせん」は「ことば」が天下の国家を支えているという実も蓋もない事実―俳句形式とはこの「恥部」を晒す形式であり、そうであればこそ、「紙切れ」としての「ことば」に対して、どこまでも敬虔な態度で接するという逆説的な姿勢が俳人の矜持となるのではなかろうか。「梅雨空に」の句が決定的に欠いているのは俳句形式に対するこうした認識であろう。実は俳句形式を自らの表現形式として選択するというそのこと自体が不謹慎なことであったかもしれないのである。

                          時壇  ~登頂回望その四十九・五十 ~  / 網野月を

                          (朝日俳壇平成27年1月12日から)

                          ◆自分史に書けぬ自分も居て師走 (東京都)石川昇

                          金子兜太の選である。評には「有り態に言えばこうです。師走ともなれば更に」と記されている。作者が自身について叙していて、しかも「書けぬ自分」=悪事の多い自分を気取っているならば、自嘲・諧謔だけの句意になってしまうのではないだろうか。鼻持ちならない様だ。他人に関わることの為に「書かぬ自分」があるとしたら美談ともなるであろう。最近は、暴露本的内容の自伝が多いが、「自分史に書いてしまう他人」なのである。 本来は「書けぬ」ではなくて「書かぬ」が正統派ではないだろうか。

                          中七の「自分も」は気になるところだが、当然「自分が」と限定するわけには行かない内容であるから、「自分も」である。が「も」にすると「自分史に書けぬ自分」の対象が拡がり過ぎるきらいがある。
                          評には「師走ともなれば更に」とあり、季題の斡旋については肯定的に捉えている。がこの「師走」は動くかもしれない。

                          ◆鷹通る空に大根干しにけり (津市)中山いつき

                          大串章の選である。評には「第一句。鷹が大空を飛んで行く。干大根が地上にかがやく。大らかで気持ちの良い句。」と記されている。鷹の飛ぶ大空を「通る空」と叙したのであるが、「通る」の述語は鷹に相応しているのだろうか?季題「鷹」の作例には「舞う」が多いようだ。

                          加えて座五の「・・けり」は大仰過ぎると思われる。

                          同じく鷹を素材にしている句に

                          ◆旅人が鷹のごとくに風の谷(松戸市)大谷昌弘

                          がある。金子兜太の選である。評には「大谷氏。荒々しい孤独感。やや図式的だが。」と記されている。評では鷹の孤高(=孤独感)を言い当てている。が、「鷹のごとくに」の比喩が定まらない感がしてしまう。直喩であるのに何か曖昧さを含んでいるためだ。何かは、つまり掲句は鷹の性質を「ごとく」表現したのであって、鷹の様態を表したのではないということである。




                          (朝日俳壇平成27年1月19日から)

                          ◆日向ぼこ徳の少なき者ぬける (八幡市)小笠原信

                          金子兜太の選である。ウムウムと肯ける句である。作者には「ぬける」ことによって、その人物の徳の多少が判るのである。徳の多少は普通外見では見分けがつかないのであるから、掲句は叙景句ではない。しかしながら、ここまで判然と言い切られると、それが景となって目に浮かんで来る。

                          良い形をしてそれでいて付き合いの悪い奴がいるものだ。

                          とここまで読んでハタと気が付いた。もしかしたら作者自身の自嘲の句なのかも知れない。

                          ◆牡蠣啜る愛に飢ゑたる子のごとく (岡山市)三好泥子

                          長谷川櫂の選である。中七座五のフレーズは前掲句同様に読者をドキッとさせるものである。生牡蠣を食べる際には貝柱を切り離して貝殻に載せ、ポン酢などを加えて食べる。生牡蠣を貝殻ごと手に取り啜るのだ。箸の介助を要する場合があるが要は啜るのである。

                          啜っているのは誰であろうか?作者か作者が見ている誰かか。その詮索をする前に、「愛に飢ゑたる子」の直喩表現に景の定まらないところがあるようだ。「愛に飢ゑたる子」の「啜る」様子をどのようにしても描ききれないのである。そこから啜っているのは作者自身であろう、ということになる。とすれば直喩表現にはいささか無理が生じるのではないだろうか。

                          ◆小春日を渡りきつたる入日かな (大分市)有松洋子

                          稲畑汀子の選である。評には「一句目。冬の太陽が沈むまで暖かい一日であった。小春日を渡りきった入り日とは見事。」と記されている。評の通り「渡りきつたる入日」の措辞が秀れている。今日一日の陽射しへの感謝の念が滲み出ている。・・が、「入日」は見えているのだろうか?「渡りきつたる」は完了の意味であろうから、日没してしまったようにも読めるのだ。

                          ◆煤逃げの退屈な眼がさまよへり (川崎市)中原なおみ

                          稲畑汀子の選である。評には「二句目。年末の忙しさの邪魔をしないよう、手伝わない退屈を見事に表現。」と記されている。今週の秀抜であろう。手伝わない者の肩身の狭さを表現しながら、作者の手伝わない者への微かな愛情も感じられるのだ。「さまよへり」を各読者はどう解するのであろうか?



                          評論新春特大号! 「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その2


                          12.堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
                          from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 


                          ちょうどこの一月の始めに佐久へ行きました。駅の横の観光案内所のようなところに佐久の名士が列挙されたパネルがあったので見ていたら、その中に遷子の名前もあって、このメールのやりとりが思われました。佐久ではずっと忘れられていなかったのか、あるいは磐井さん、中西さん達の研究がこの地でもまた再評価につながったのか、そのあたりの事情は通りすがっただけでは分かりませんが、とにかく2015年に遷子の名前を見るうれしさを感じました。


                          さて、そういうわけで、せっかくなのでもう少し遷子のお話を伺っていくつもりでいます。


                          中西さんがお書きになっている「難儀だと思うのは、作品から受け取った自分の思いを評論に書く場合のやり方なのです」というところ、僕もまた感じていたところです。磐井さんの書く評論はとことん資料に基づいた書き方です。真実を描き出すために、真実を積み重ねるというのは、まさに正攻法のアプローチだと思います。それは「論文」と言うときにイメージされるものに近い方法です。
                          がしかし、事実を取り出だす方法はそれだけではないという気もします。


                          寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子

                          の周辺にさほどの事実関係がないのだとしたら、この句を論ずることは不可能である、といえばそれは嘘です。この句がたたえる充足感がどの点にかかっているのか、といったことは半ば直感的に見えます。それを言語化したものもまた評論としてあるのではないでしょうか。あるいはいきなり直感でなくとも、全句の中から他の「寒星」の句を持ってきて、そこに共通する何かしらを分析する、というのでもいい。その場合でも、最後には直感が論を左右することがあると思います。


                          『現代詩手帖』なんかを読んでいると、詩論というのはそれ自体が詩であることに気づかされます。どこに詩性があるか、という点は詩的直感でしか指摘できない、つまり、詩のことは詩でしか書き得ない、という印象を、詩論を読むときには思うのです。それは詩論の言葉が詩である、ということではありません。どれだけシンプルでスマートな文章であっても、論理展開が詩としか言いようがないのです。


                          中西さんが危惧した「エッセイ」は、そういったものと同じだと思いました。


                          13.筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
                          from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita


                          相馬遷子
                          の名前が出てくるのもうれしいものです。偶然、「俳壇」2月号で相馬遷子の作品百句を掲載してくれたので、ますます何年か前の熱気を思い出すことができました。


                          今回のご質問と取り上げた例はちょっと食い違いがあるかもしれません。「言語化したものもまた評論としてある」はおっしゃる通りですが、相馬遷子研究の時は参加者5人には圧倒的に、事実関係があふれていました。おそらく全員が相馬遷子はどんな人物であり、どのような俳句を詠みそうであるのかの予想を立てることができました。中西さんが言っているお話しも、事実の上での99%が分かった外側での1%ではなかったかと思います。例えばこれに引換え、攝津幸彦は、身近にいた人すらその作品の背景については知りません。作家によって背景は違うのではないかと思います。

                          だから、評論を書くためにいろいろ調べたのではなくて、相馬遷子がどのようにして生まれたか、どの様に成長したか、どのように絶望したかを知りたくて調べたということだと思います。それくらい相馬遷子は知られてなかったといっていいでしょう。また我々が調べた事柄によって、遷子の俳句の価値も上がったとも思えません。価値があったとすればそれはそんな調査をする前からその句が持っていた価値だと思うからです。ただ、背景が浮かび上がってくると、その作家の理解はまし、また作品の理解も高まることはあるかもしれません。それはしかし二次的なものだと思います。


                          例えば正岡子規の、境涯を前提とした作品と、それと全くかけ離れた写生の作品と、そのどちらとも言い切れぬ3種類の作品があります。作者自身使い分けて詠んでいる可能性が高いからです(子規の場合は大半が題詠作品ですから)。それぞれの作品にはそれぞれの作品の鑑賞の仕方があるわけでこれは間違っていません。しかし、それを前提としたうえで、やはり一人の作者が作った作品として全体を統合した世界観が見えてくるときがあります。おそらくそれが評論の本領ではないかと思えます。我々は日ごろ評論の本領を得ることができない文章を何百篇も書いて、たまたま1~2編の本領を得た文章の発見に満足するのが宿命なのだという気がします。


                          今回「俳壇」の相馬遷子の解説記事ですこし触れておいたのですが、遷子には実にたくさんの星の句があるのです。私は、遷子の句を100句選んだのですが、そのうちの1/4は星の句となりました。ことさら選んだということもありますが、一方で、星の25句は遷子を代表しているということもできるように思うのです。

                          星の句を探してみるとお分かりかと思いますが、日本人は圧倒的に星を詠まない民族のようです。古い詩歌に星が登場することはほとんどありません。中国文学にもアラビア文学にも実にたくさんの星の詩歌を見ることができます。しかし日本人は自然を愛する国民だと誰も言うのですが、ただし「(星を除く)」とつけないといけないほど貧弱です。花や雪や月や霞は飽くことなく詠むのに、星の句を詠んだことのない詩人、歌人は実にたくさんいます。近代になって、西洋の文明に触れるようになってからやっと少しづつ詠まれるようになりましたが、それでも歌人より俳人は星を詠む割合が少ないようです。山口誓子中村草田男あたりからやっとちらほら見え始めるといっていいでしょうか。誓子は「星恋」というテーマ句集がありますからこれで数を稼いでいるかもしれません。ところが、遷子は違うのです。

                          ご存じのように遷子は長野県佐久の恵まれない開業医でした。遷子が星に向かう時、多くは、往診で山間の村を訪れ、その帰りふっと見上げるという状況が多いのですが(それも多分手遅れであったりして患者を救いえなかったということが多いようです)、不思議なことにそれらがマンネリに陥るということはありません。劣悪な地方の医療環境と星が結び付くとき、遷子の俳句精神は最高に高調するようにも思えます。もちろん、往診の時ばかりの句ではないのですが、何かが遷子を高調させているという事実は尊重しておきたいと思います。


                          寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子


                          それさえわかれば、この句の周辺事情などというものは枝葉末節に思えますがいかがでしょう。調べることの重要さと不要さがあるように思います。







                          •  「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その1 》読む


                          【鑑賞】 小津夜景「THEATRUM MUNDI」を読む -ことば、記憶、生(死)- / 瀬越悠矢



                          *頁数は、連載最終回(2014年9月26日)付録「THEATRUM MUNDI」)による。

                          (2016/07/20 編集部追記:「THEATRUM MUNDI」は小津夜景さん御本人のご依頼によりPDFリンクを外しました。よって本稿の頁数は参照できません。)


                          ことばが迫ってくる。意味の脱臼をもくろむことばの数々はかろうじて、私たちのなかで、像を結ぶ、あるいは結ばない。ことばの側に立つならばそれは、みずからに共鳴するものが見いだせるか否かのせめぎ合い、ということになる。

                          万りよくを生かぢりしてしやつくりす(31頁) 
                          誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ(72頁) 
                          ナフタリンのやうだ二人は抱きあつて(107頁)

                          詩的言語の一つひとつは、辞書から引き出される単なる素材ではない。そうではなくて、それらは意味に回収されない確たる物質感を備えているために、翻って、機能を果たすが早いか消えてしまう、日常言語の脆弱さの方があらわになる。

                          あらわれることばは、しかし、必ずしも無署名ではない。そこには、透かし絵のように、なんらかの主観がほの見える。少なくとも、そのように振る舞うものがある。一見すると無愛想なことばのなかで、私たちは、なにものかの内的世界に触れる。

                          尨毛ただよきことのみを思ひ抱く(6頁) 
                          いかさま師さまざまの海思ひ出にき(29頁) 
                          思ひ出すまで邯鄲といふバター飴(103頁)

                          なにものかが、なにものかを、〈思う〉。だがなにものが、なにものを、〈思う〉のか。「尨毛」、「いかさま師」、「邯鄲」、「バター飴」が〈思う〉のか、詩人が、あるいは読者が〈思う〉のか。問いが虚しいとすれば、むしろ〈思う〉というはたらきそのものに目を向けてみてはどうだろう。

                          詩における一人称が三人称に近い価値をもつとすれば、この〈思う〉は、個人的というよりは、集合的な行為かも知れない。主語がしばしば不明瞭な日本の古典も、不思議と違和感なく受けいれられるように、〈わたし〉と〈わたしたち〉はさほど遠くはない。そして、〈わたしたち〉の内的世界は、〈わたしたち〉の記憶と切り離せないはずである。


                          残虹をまたぐ或る記憶のなかで(15頁) 
                          八月のくぢらを愛す老嬢よ(22頁) 
                          酸欠や煮こごりほどの記憶ある(89頁)


                          写真は消え、思い出は残ります。」映画『八月の鯨』(1987)のなかでの、ベティ・デイヴィスの台詞。目の不自由なこの姉にとって、記憶は自らが住まうことのできる唯一の場所である。だからこそ彼女は、「わたしの記憶は消えません」、と譲らない。


                          記憶はまた、死者の記憶でもある。生者はその存在において、死者に負い目がある。生者が死者と出会い得るとすれば、幽霊との対話でない限り、それは生者の記憶のなかでしかないだろう。こうして、私たちは死生の境まで導かれることになる。


                          昼寝からさめたら、死んだ人が生き返つてゐて、誰かの用意したテーブルがあつて、美味しくて良い香りのするその食事をわらわらとぞんざいに囲む、そんな願ひが叶つたらどんなに素敵だらう。(21頁)

                          「みんな、グレース・ケリーのこと、ずつと忘れてないんだよ。彼女がお嫁に来る前の晩も、とても静かで寂しい雨が降つてゐた。雨の広場にくると、わたし、今でもその夜の事を思ひ出すんだ」(38頁)

                          「この墓碑詩は、どうか『辞世の詩』でなく『闘争前夜の総括詩』と呼んで貰ひたい。〔…〕全ての詩人は、まづ墓より始めよ」(65頁)


                          二つの批判。一つ。ほんとうに記憶は消えないのか。〈わたし(たち)〉とはおそらく、〈わたし(たち)〉の記憶である。それはよい。しかし記憶とはつねに、クロノスの引き裂きに抗する歴史さながら、忘却の危機に曝されているのではないか。〈わたし(たち)〉の存在は、さほど自明でないのではないか。

                          夜の桃言はで思ふも忘れなむ(7頁) 
                          忘我ゆゑわれらは空き家ボローニャ風(72頁) 
                          遠の世を忘れた頃に小鳥来る(101頁)

                          二つ。そもそも、このような〈わたし(たち)〉を起点とした幽明の境自体、乗り越えられねばならないのではないか。なぜなら、一切の意味の消失のあとには「生も死もなくなる」のだから。「意味を取り去つてなほも構造できると嘯く人は、世界を眺める『私』を取り去るのを忘れてゐる」(41頁)のだから。

                          ふと意味にとどかざる紙魚匂ひけり(5頁) 
                          夢は井戸/汲みし昔は/遠けれど(20頁) 
                          死ぬまでに出アバラヤ記書いてみやう(105頁)

                          〈わたし(たち)〉なきところに立ちあらわれる、「あるともないとも言へない風体で一切が漂ふ」(41頁)様態こそ、世界劇場(THEATRUM MUNDI)ではないか。しかし、この世界は、あらわれるやいなやその困難を運命づけられている。〈わたし(たち)〉なき世界を白い紙の上に生起させるのは、やはり〈わたし(たち)〉にほかならないからである。たとえ「すべての記憶を真実とみなすことはでき」(104頁)ず、また書いているという状態が、「夢を見てゐるのとまるきり同じ」(105頁)であるとしても。

                          こうして再び、私たちは眼前のことばに差し戻される。ことばの連続がどこまで俳句的かは、本質的な問題ではない。それは現代芸術の意義を、受容者の喚声や感涙に求めるようなものである。季題や切れ字を含めてあらゆることばが一度相対化されてはじめて、ことばの価値を平等に問うことのできる地平が、十七音のなかに拓かれるのではないか。

                          掲載週降順という「タイムマシン方式」によって、曰く「野人の句あそび」が「どんな風に蛇行しつつ発展してきたか」(120頁)をたどる。「THEATRUM MUNDI」はそのように、詩人の(あるいは〈わたし(たち)〉の)記憶をたどることばの冒険であり、同時にその相対化である。別言すれば、それは「『ならねばならなかつた現実』から『あるがままの実現』までを馳せくだる眩暈」(50頁)の、ひとつのレッスンである。




                          【執筆者紹介】

                          • 瀬越悠矢(せごし・ゆうや)

                          1988年兵庫県生まれ。関西俳句会「ふらここ」所属。




                          【鑑賞】 宮崎斗士句集 『そんな青』 -オンリーワン俳句の息吹-  / 豊里友行



                          『そんな青』宮崎斗士句集の私の読後感は、丁寧に日常を生きているということ。

                          この句集は、生活の営みの息遣いや言葉のニュアンスなどを丁寧に噛みしめるように観察しているからこそ表現の細部のこまやかで鮮やかな表現に実感を持って活かされている。

                          宮崎の第一句集の『翌朝回路』に見られた感性の原石は、彼の日々の丁寧に生きていく俳人としての姿勢によって磨かれ、さらなる俳句の新境地へと歩み始めている。

                          第二句集にあたる『そんな青』宮崎斗士句集は、宮崎斗士のオンリーワンの生き様であり、現代をみずみずしく生き生きと表現したひとつの可能性をしめした新しい俳句の領域を提示している。

                          宮崎の俳人としての類まれな才能は、現代人の息遣いのリアリティーを獲得する。

                          それは、俳句らしさではなく、宮崎斗士らしさであり、表現者として幸福な表現世界の確立を成した俳人としての現代俳句の世界と言える。

                           宮崎斗士の感性は、日々、24時間、暮らしの中で俳句の中に息づかせている。

                          その言葉は、生き生きと彼の俳句の息遣いとして第2句集『そんな青』における等身大な宮崎斗士のオンリーワン俳句として確立を成した。

                          俳句という表現において彼の人生が、その句集の俳句の中に立ち上がる。

                          これらの俳句たちは、彼の日常性の息遣いとして丁寧に表現されている。

                          宮崎斗士俳句は、金子兜太を師として学び、「海程」俳句会の先輩後輩の切磋琢磨する俳句の場がある。

                          そして彼がリーダー役として「青山俳句工場05」の俳句の場においても俳句をみんなで議論し合い、俳句に精進している姿勢は、細やかな俳句活動の営みとして一貫している。

                          この句集において彼の喜びも悲しみも素敵な俳句の記念日として結実している。

                          宮崎斗士の俳句そのものを純粋に楽しんでほしいが、すこしばかり私の解釈を入れさせて頂く。
                          本当に優れた俳人として彼は、着実に成長を遂げられている。

                          さらなる宮崎斗士俳句の表現領域の開拓に精進されることを切に望む。


                           平穏って見つめ合わない雛人形
                          一緒の生きるスピードなんでしょうね。

                          なんでもない言葉で喩で生きている、感じているニュアンスを表現できる丁寧さだって新たなる俳句の地平ではないだろうか。


                           父と子の会話蟹味噌ひと匙ほど
                          言葉の味付けに宮崎さんのエッセンスが効いている。


                           秋葉原に僕の定位置冬の蜂
                          宮崎斗士ワールドの、オンリーワンの醍醐味。


                           氷湖ありもう限界のボクサーに
                          ぴったり言い切る比喩の的確さが魅力的。


                           海鼠拾えばわがほろ苦き現在地
                          海鼠(なまこ)に心を通わせつつも自己の心境の把握が俳句の味を出す。
                          いわゆる宮崎斗士ワールド。


                           みんな笑顔雪合戦の一球目
                          よく観察している宮崎の面白がるツボとユーモラスが心地よい。


                           青き踏むふとおっぱいという語感

                          俳人として言葉を語感を丁寧に噛みしめている爽やかなエロス。


                           「じゃ、上脱いで」とあっさり言うね蛇苺
                          すがすがしいエロス。


                           尺取虫街少しずつバリアフリー
                          バリア・フリーとは障害者や高齢者が生活していく際の障害を取り除き、誰もが暮らしやすい社会環境を整備するという考え方のことをいう。

                          体ごと尺取虫のわずかな前進を丁寧に観察しているからこそこの直喩が活きている。

                           ひとり言の意外な重さ秋の蛇
                          言葉が言霊になり生き方を決定づけていくことと自覚・覚醒。


                           わが良夜細い絵筆で仕上げてゆく
                          そんな良夜があり、宮崎斗士俳句の確立していく。

                          わが道を行く。

                          楽しんで行く。

                          等身大の自分をさらけ出せるからこそ多くの共感を得ていける。



                          このほか私の気に入った共鳴句を最後に掲げさせていただく。


                           花合歓や光源氏にインタビュー  
                           かたつむり術後同士という呼吸 
                           バックミラーに向日葵今だったら言える 
                           秋葉原キスが嫌いで鮫が好き 
                           祖父も笑顔鮟鱇鍋のそんなリズム 
                           消去法で僕消えました樹氷林 
                           婚期という長さ短さ牡蠣すする 
                           ギンヤンマいい質問がつぎつぎ来る 
                           会えないまま雪が溜まってゆく水槽 
                           鮫すーっと動いてたっぷりの夜かな 
                           鯨が一頭ゆっくりじっくりと術後 
                           炬燵で寝て目覚めて嫉妬だと気づく 
                           そそっかしいシンバル奏者春嵐 
                           天文学っておおむね静かふきのとう 
                           桐咲けり日常たまにロングシュート 
                           鮎かがやく運命的って具体的 
                           母と暮らす時報も鉄線花もふわり 
                           かまきりやこの村オムライスの明るさ 
                           寒満月石だんだんと椅子のかたち 
                           疲れたかな一羽の冬かもめに夢中 
                           メール送信狐とすれちがう呼吸 
                           ポインセチア家族ぴったり満席です






                          「 第一句集『翌朝回路』 宮崎斗士句集は、感性の原石だ!」
                          ( 「とよちゃんねる 2011年12月12日」より )

                          2015年1月9日金曜日

                          第8号

                          ※「BLOG俳句空間」は基本隔週更新です
                          毎週・毎日更新の記事もあります。右の[俳句新空間関連更新リスト〕ご参照ください。)




                        • 1月の更新第8号1月9日・第9号1月23日




                        • 平成二十七年 俳句帖毎金00:00更新予定)  》読む

                          (1/16更新)
                          歳旦帖 第二陽 美保子・木村オサム・月野ぽぽな・山田耕司・佐藤りえ・竹岡一郎・坂間恒子

                          (1/9更新)
                          歳旦帖 第一 青山茂根・網野月を・曾根 毅・しなだしん・五島高資・仲寒蟬・小林苑を・夏木久

                          冬興帖、追補  小林かんな・北川美美



                          【評論新春特大号!】

                          評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・
                          その1
                          筑紫磐井・堀下翔・中西夕紀 》読む


                          当ブログ媒体誌俳句新空間』を読む(毎金00:00更新)
                          堀下翔、仮屋賢一、網野月を、浅津大雅、中山奈々… 執筆者多数  》読む
                            およそ日刊「俳句空間」 (12月も月~土00:00更新) 
                              日替わり詩歌鑑賞 》読む
                              …(1月の執筆者)竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・北川美美 
                                大井恒行の日々彼是(好評継続中!どんどん更新)  》読む 



                                  【時評コーナー】
                                  • 時壇(基本・毎金更新)新聞俳句欄を読み解く
                                    ~登頂回望~ その四十七・四十八網野月を  》読む
                                    • 俳句時評 (隔週更新  担当執筆者: 外山一機 / 堀下翔)
                                    言葉の保証――村上鞆彦の一句 
                                    堀下翔     》読む 
                                    • 詩客 短歌時評 (右更新リスト参照)  》読む
                                    • 詩客 俳句時評 (右更新リスト参照)  》読む
                                    • 詩客 自由詩時評 (右更新リスト参照)  》読む 




                                      【アーカイブコーナー】

                                      ―俳句空間―豈weeklyを再読する
                                      2008年8月15日発行(第0号(創刊準備号))■創刊のことば            
                                      俳句など誰も読んではいない     ・・・高山れおな   読む

                                      アジリティとエラボレーション     ・・・中村安伸  読む

                                      2009年3月22日発行(第31号)
                                      遷子を読む(はじめに)・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   》読む






                                          あとがき  》読む





                                              筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                              <辞の詩学と詞の詩学>
                                              川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史!






                                              筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆







                                              第8号 あとがき

                                              2015年 新春のお慶びを申し上げます。 
                                              本年も俳句新空間を宜しくお願い致します

                                              筑紫磐井

                                              ○新年号では、歳旦帖だけでなく、少し新しい企画を始めてみたいと思った。「評論・批評・時評とは何か?」は、堀下、筑紫そして・・・の対談・座談により、評論の周辺を探ってみようという試み。俳句を読むこと自体を自己言及的に考えてみることを意図している。「―俳句空間―豈weekly」以来、俳句を読むとは何なのかを考えようとしているBLOGらしい企画としてみていただきたい。

                                              ○また、そうした趣旨を踏まえて、過去のアーカイブを時々読み返しても面白いのではないかと倉庫から引きずり出してみたのが「―俳句空間―豈weeklyを再読する」である。7年前にBLOGにかかわった若い人たちが何を考えていたのか、今読んでも刺激的だ。また、上の対談・座談に出てくる「相馬遷子の研究」がどのように始まったのかを眺めてみようというものでもある。書きっぱなし、流れっぱなしのBLOG記事を歴史にしてみたいというのが一つの意図である。毎回続くかどうかは分からないが、ご要望があれば続けてみたい。



                                              北川美美


                                              ・新春らしく、 歳旦帖 が開始。 8-9回連載。毎週更新予定です。

                                              ・<およそ日刊・俳句空間>は順調に月~土・週6日更新を保っています。グレードを上げて参ります。 

                                              ・時評では堀下翔さんが今号担当。  時壇の網野月をさんからは新春の朝日俳壇から。

                                              ・<俳誌「俳句新空間」を読む>はちょうど新春帖の句を鑑賞しています。


                                              ・2015年何が起きるのか??? 個人的には体力づくり、健康づくりが課題です。 


                                              ・筑紫磐井著の書籍が刊行されます。(されました。1/9 )





                                              筑紫磐井著!-戦後俳句の探求
                                              <辞の詩学と詞の詩学>
                                              川名大が子供騙しの詐術と激怒した真実・真正の戦後俳句史!






                                               登頂回望その四十七・四十八 / 網野月を


                                              その四十七(朝日俳壇平成26年12月22日から)
                                                                    
                                              ◆母の忌と父の忌のこす年の暮 (山梨県市川三郷町)笠井彰

                                              長谷川櫂と大串章の共選である。客観的事実を淡々と叙した句作りである。どうしても身内の忌になると愁いの在りどころに冗漫な感じが匂ってしまうものだが、掲句は感情表現の語句を省いて、つまり感情的質感のある語句を使用しなかったところに成功がある。作者のご両親は共に「年の暮」にお亡くなりになったのである。暮の諸事をこなして落ち着いた心境の中で、ご両親の忌日を修すのみとなった一種の清廉さが句の位取りを高くしている。句中には「母の忌」「父の忌」「年の暮」の三つの時を意味している語句が配置されて、その質感の共通性から理解し易い。背景には事件性があるのかも知れないし、災難に遭われたのかもしれないが、句に叙されたことだけを読み手は読む。それ以上の読みを排除する句である。

                                              ◆漱石忌灯の入る朝日新聞社 (日立市)國分貴博

                                              長谷川櫂と金子兜太の共選である。兜太の評には「十句目國分氏。漱石と朝日新聞社の縁は実に深い。」と記されている。「灯の入る」とあるから「朝日新聞社」は建物である。が掲句の場合、評にもあるように「漱石忌」の関連性から、単に建物だけではなくて会社としての実体・組織の意味合いが加味されるだろう。筆者は新聞社の内実を知らないが、一般的理解として常夜灯の下の仕事のように想像する。その一年三百六十五日の日常をこの一句は「漱石忌」で受け止めた。季題の斡旋の手本のような句作りだ。十二月九日の「漱石忌」を待ちわびて投句した匂いがする。
                                              因みに二〇一五年の「漱石忌」は百回忌になる。




                                              その四十八(朝日俳壇平成27年1月5日から)
                                                                         
                                              ◆旅人のやうに北風まとひ来し (富津市)三枝かずを

                                              大串章と稲畑汀子の共選である。「旅人のやう」だから「北風」を纏っているのであり、逆に「北風」を纏うから「旅人のやう」でもあるのだ。その二重の両義性が句の意味を相乗効果的に強固なものにしている。「北風」の中を来るのだから強さがなければならないのだ。そこで、この句の主体は一体誰なのか?が問題となる。作者自身なのか、それとも第三者の様を詠んでいるのか。筆者は作者自身だと断ずる。そうでなければ面白くない。そうでなければ只の景になってしまう。

                                              ◆着ぶくれて私は何も怖くない (八王子市)福岡悟

                                              稲畑汀子の選である。評には「三句目。着ぶくれた作者の安心感が面白い。」と記されている。一体評の通りの解釈でよいのだろうか。「着ぶくれ」たのが他人ならば、安心感を感じ取ってもよいだろう。が「私は何も怖くない」という以上は、作者本人が「着ぶくれて」いるのだ。上五の「て」は前後を強く結びつける助詞である。場合によっては因果関係を含むことも在り得る。「沢山着重ねたから」というようなニュアンスが見え隠れしているのだ。もしかしたら、「着ぶくれ」た不格好さへの他人からの視線を「怖くない」と云ってはいないだろうか。


                                              ◆自分に成る自分を呉れる枯野かな (秩父市)浅賀信太郎

                                              金子兜太の選である。評には「浅賀氏。枯野を歩いている。次第に自分を取り戻す。いや自分を貰える思い。」と記されている。評の通りである。掲句の特異性は、「自分に成る自分を呉れる」のが「枯野」であることである。これは作者一個人の感性なのである。一般的には、もし植物の季題を斡旋するならば句意から察して、「新緑」であったり「万緑」などであろう。旺盛に繁茂する緑のようなプラスアルファの質感が欲しいところだ。が作者は何もない「枯野」を設定した。何もないことが返って、自分を取り戻すチャンスを与えてくれるというのである。季題「枯野」の既成の意味合いに対して新しい意味付けをしようとする句になっている。


                                              【俳句時評】 言葉の保証――村上鞆彦の一句 堀下翔



                                              角川『俳句』2015年1月号に「俳人230名が選ぶ! 注目の若手俳人21」という企画が出ている。40歳以下の作家21人がそれぞれ7句を寄せている。その中で昨年津川絵理子とともに「南風」の主宰となった村上鞆彦の一句が気になった。「枯野の木」と題された七句中の表題句である。

                                              枯野の木寄れば桜でありにけり 村上鞆彦

                                              「枯野の木」が「枯木」「寒木」のようなものと同一であるか、といった疑問からこの句は始まる。あるいは「桜」はいわゆる「寒桜」と呼ばれるもののように花をつけているのか、という点でもよい。どちらにせよ疑問を持つことからしか始まらないこの句は、つまり、ひどく逡巡しているのだと思う。「寄れば桜でありにけり」という構造自体が作者に依存している。「桜であると分かった」という事実は「桜であった」へと置換される。寄る前の木は作者にとって桜ではない、という危うさがここにはある。已然形+「ば」の形で叙されるこの句は、もちろん単純接続として、シンプルに視点が接近するショットでありつつ、一方でまた、寄ったので桜であった、という順接の確定条件として受け取られうるのだ。寄る前から桜だったよ、それは。殺伐とした土地で殺伐とした桜に出会ったことに対する困惑は、一句を立ち上げる言葉そのものの逡巡によって体現されている。

                                              一番の問題は、でありにけり、だ。「である」という断定は古語でいう「なり」に相当するものである。あくまで文語脈に忠実であるのであれば、「なり」の連用形「に」に「あり」「に」「けり」を接続させて「にありにけり」とすればよかった。場所を指示する格助詞のようで違和感があるかもしれないけれど、佐木隆三の小説『復讐するは我にあり』の「にあり」だ。

                                              筆者が考えているのは、だから村上の句はおかしい、ということではない。〈枯野の木寄れば桜でありにけり〉は、「でありにけり」と書かれてしまったという事実抜きにしてはすでに読まれ得ない。村上の驚きはつまり、「でありにけり」という言葉によってこそ回収された、そう思うのだ。われわれが考えている「にありにけり」と「でありにけり」とは互いにまったく異質な構造をしているのかもしれない。「にありにけり」は「に」+「あり」+「に」+「けり」であったけれど、一方で「でありにけり」はひとまず「である」が塊としてあったのではないか。「である」に対応する「なり」はそもそも格助詞「に」とラ変動詞「あり」が接続して縮まったものだったけれど、「である」には明確に含まれている「ある」という言葉が「なり」にはない。「ある」ことが暗示する「である」ことの存在感。のっぺりとした、しかし確信じみた感じが「である」ことにはある。もちろん「にありにけり」にも「ある」は含まれているのだけれど、何にも先んずる「である」ことのたしかさをわれわれは知っている。

                                              「でありにけり」を、この句に限らず、時々見る。手近の句集から拾ってみたところでは、

                                              冬帽子まつすぐな眼でありにけり 石田郷子『秋の顔』 
                                              息かけて冬の木立でありにけり 大木あまり『火球』 
                                              夏痩の大きな顔でありにけり 津川絵理子『和音』 
                                              黄落のさしづめ妻でありにけり 島田牙城『誤植』 
                                              轢かれたる朴の落葉でありにけり 岸本尚毅『舜』 
                                              時雨僧高き位でありにけり 田中裕明『先生から手紙』 

                                              など。いったいこんな言い方をしてもいいのだろうかといつも思う。「にけり」がすでに古代語に見られるのに対して「である」はごく新しい言葉である。山本正秀『近代文体発生の史的研究』(1965年/岩波書店)によれば、

                                              にてあり→にてある→である→であ→ぢゃ(じゃ)→や
                                                              →だ

                                              といった変化の中で「である」は生まれている。この変化はすべてだいたい室町時代に行われた。この時代における断定の言葉は「ぢゃ」(上方)「だ」(江戸)が主流となることで落ち着き、「である」は用いられなくなってしまう。のち江戸時代には学者の言葉として「である」がわずかではあるがふたたび見られるようになる。このような状況にあった語が現代になって広く使われるようになった経緯に関して、山本(1965)は、

                                              明治一一年頃から演説用語として愛用され、二〇年代には言文一致体小説に採用され、更に三六・七年発行文部省編の国定『尋常小学読本』に口語文常体の代表的なものとして積極的に採用されてから一般に普及し現在に至っている。

                                              と記述している。また『講座国語史 第4巻 文法史』(築島裕編/1982年/大修館書店)において古田東朔は、

                                              明治前期の談話調の文章において、いまだにナリが使われていたということは、つまりそういう意味のものが他になかったからであろうと判断されるのである。

                                              と述べる。いずれにせよいまわれわれが使っている「である」の成立は近代に入ってからと見てよいだろう。「でありにけり」は捏造された文語である。

                                              だから〈枯野の木寄れば桜でありにけり〉は、村上の驚きがこの異様な文法でしか回収されなかったこと自体のうしろめたさをも抱えているのではないか。一句はこの形にしかなり得なかったと信頼するとき、このうしろめたさもまた読者が引き受けるべきことがらの一つに思えてならない。言葉はつねに一句のリアリティを保証しているはずだ。

                                              村上の逆の例としては

                                              鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫『風蝕』

                                              を思い浮べる。かつて初めてこの句を読んで、どうしてこの句は字余りなのだろう、「ば」を削ればいいのに、と思った。あとになって高校の授業で文語文法に触れ、文語においては接続助詞「ば」なくして仮定条件は成立しないのだと知ったとき、この句がいかに規範に忠実であったかに思い至った。この句の切実さはつまり、忠実なる「ば」が保証しているのだ。




                                              評論新春特大号! 「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・」その1

                                              プロローグ

                                              堀下、筑紫で評論や時評についての対談をやってみようという運びになった。メールのやり取りであるのでぎこちないところもあるが、結構臨場感もあるようである。おまけに途中から闖入者が登場し、少し脈絡の取りにくいところもあるが、関心のある話は何べんでも繰り返して進めばよいと思っている。 

                                              それでは、・・・・


                                              ①筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
                                              from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita



                                              石田波郷賞おめでとうございます。
                                              祝賀会に伺えず残念でしたがいろいろなところで胴上げの写真を拝見しました。
                                              島田牙城も元気そうで何よりです。
                                              ところで提案させていただいた掛け合い評論をそろそろ相談したいと思います。明白なビジョンがあるわけではないので、何かご希望があればいただきたいと思います。私としては、次のような内容でいかがかと思いますが。形式も、座談会方式、往復書簡方式、かってに論文方式、何でも結構です。


                                              なぜ私は評論を書きはじめたか
                                              理想の評論
                                              評論の書き方
                                              21世紀における評論の意義
                                              自分の評論の書き方  等々

                                              よろしくご検討ください。

                                              ②堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
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                                              メールありがとうございます。いつもお世話になっております。牙城さんも、ようやく退院になったようで、安心しています。

                                              掛け合い連載の件、こちらもまだビジョンはいまいち摑んでいないので、磐井さんにおまかせしたいのですがいかがでしょうか。

                                              ただ勝手に論文形式というのは少し難しそうだなとは考えております。内容の方はお示しいただいたものでかなり面白いお話が聞けそうだな、と思います。



                                              ③筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
                                              from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita




                                              堀下さんの名前を承知したのは、今年の「里」の特集ですから、この1年で目覚ましい活躍ということになります。

                                              早すぎるという人もいるかもしれませんが、新人の登場の仕方とはそんなものではないかと思います。

                                              だいぶ昔になりますが、戦後「馬酔木」が、能村登四郎藤田湘子の新人を輩出させた時は、水原秋桜子が陣頭に立って努力したせいもあるかもしれませんが、わずか2年ぐらいで出るべき人は出切ってしまったように思います。新人は出る気になれば、1~2年でデビューできるのだということは、俳句が古い体質と思っている人には驚きではないかと思います。じつは、俳句が古いのではなくて、いま俳句をやっている人が古いだけなのです。

                                              さて、祝賀会の時に逢って、お祝いを申し上げて、その上で提案しようと思ったのですが、何のことはない当日具合が悪くなって伺えませんでした。趣旨は、当日出席した北川さんから伝えてもらいましたが、せっかく、BLOGで時評や評論を掲載して頂いているので、何か共同企画をしてみませんかということでした。座談会か往復書簡のようなものとか、ということですが、段取りを打ち合わせているうちに、座談会か往復書簡そのものになっているようですので、自然に開始してしまってもいいのではないかと思っています。

                                              テーマは特に定めませんが、お互い評論が好きそうなのでその話題でどうかと思います。例えば、先日、「俳句界」が11月号評論の復活とかいう話題で特集を組んでいましたが、堀下さんから見れば復活すべき評論等あるかどうかからして議論の余地があるでしょう。石田波郷は、俳句の晩鐘はおれがつくと言ったとか言わなかったとか話がありますが、俳句評論は堀下翔から始まると大言壮語してもいいかもしれません。・・・といったところからはじめてみましょうか。


                                              ④堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
                                              from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 



                                              おお、すでにこれまでのメールも原稿に組み込まれるのですね。びっくり。承知しました。よほど往復書簡らしくていいと思います。

                                              さて、評論のお話をしようということで、かなり楽しみです。とりあえず自分の話から始めたいと思います。「俳句新空間」では今年の6月から(始まったころは前身の「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む――」でした)毎月俳句時評を書かせてもらっています。その前に一度、俳誌『俳句新空間』の鑑賞をご依頼いただきまして、時評連載はその時のやりとりから始まった話でした。もともと評論的な文章を書くことに興味があったので、背伸びであることは承知で引き受けました。

                                              磐井さんもお書きになっていますがこのところあちこちで「新人」と呼ばれます。いちおう最年少の部類なのでしょう。たとえば2014年における最若手といえば福田若之小野あらたといった名前を思い浮かべますが、彼らが『俳コレ』に入って流行り出したのが2012年の初めで、僕はまだ俳句を始めていません。言ってしまえば福田若之でさえ初めから俳句史に組み込まれたところから出発したわけです。これには参った。「史」というのは調べなければ分かりません。評論を書こうとするときにこれは明らかに分が悪い。まして時評というのは、新しい事実がこれまでの歴史にどのような形で加わっているのか、ということを考える仕事でしょうから、それを18歳がやろうとするのは難しいことではあると思います。事実、勉強不足の指摘は毎月いただきます。

                                              時評の第1回の準備をしていた5月に「文学フリマ」で松本てふこさんにばったりお会いしました。てふこさんもかつて時評を書いていらっしゃった。「先輩ー何かアドバイスくださーい」とお願いして、カレーを食べながらいろいろと経験談を教えてもらいました。そのなかでよく覚えているのが「同じ評論でも時評が性に合う人間と歴史を掘り起こすのが性に合う人間とがいるなあ」ということです。その通りでしょう。やっていることは全く違う(ように僕には見える)。そして違っていながら、多くの批評家はその両方をこなしています。磐井さんもそのおひとりですね。時評とそうでない評論に関して、そもそもそれらはいったい何なんだ、というあたりからお聞きしたいのですが。

                                              ⑤筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
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                                              時評とそうでない評論といってもねえ。そんな器用なことを使い分けていませんから。

                                              本格的な評論に比べて時評は常にどこか虚しさを感じさせるものがあるだろうと思います。大体時評を書いていて楽しくて楽しくてしょうがないという人がいるのか、疑問だと思います。堀下さんはどうですか。たぶんそれは書く方が言いきれていないという思いが強いからだろうと思います。テーマを決めた本格的な評論の方が、自分で試行錯誤する楽しさが間違いなくあります。

                                              しかし一方で、時評は「生もの」というメリットがあります。本格評論というのは、大体死体を解剖しているような気分がしなくもありません。対象となっている人も、龍太とか、澄雄とか生体反応してくれない人が多いものです。生きものに触れるということは時評をやっているからこその楽しみでしょう。

                                              松本さんの言葉に戻ると、「同じ評論でも時評が性に合う人間と歴史を掘り起こすのが性に合う人間とがいる」は、私の以上のような考え方からすると、時評が性に合う人間なんて誰がいるのかなあと思います。ただ、それに近い分類では、調べる人間と調べない人間という区分ぐらいはあるかもしれません。これは別に調べる方が偉くて、調べない方が不勉強だというものではありません。要は中身ですから、調べないと中身が浮かび上がらない人と、調べなくても中身が浮かんでくる人といっても良いかもしれません。

                                              本当は、時評を書いていて、それをためた後、切り刻んで並べ替えると、立派な本格評論になるという離れ業ができればこんなうれしいことはありません。日々の感性が、永遠の完成につながるなんて評論家冥利に尽きます。けれど大抵は刹那に思い付きを発語し、あとから自らの論理矛盾で苦しむという評論家が多いのではないでしょうか。

                                                   *      *

                                              ちょっと強引に話題を転じて、堀下さんの最近書いている時評に触れましょう。【俳句時評】「仁平勝の遊びに付き合う」が面白かったのですが、それはノスタルジーというものがどのように共有され、共有されないかというヒントがあるからです。

                                              心理学者から聞いた話ですが、被験者に催眠術をかけて子供のころに戻すという実験があります。被験者は、例えば5歳の幼稚園児に戻って、童謡の「かわいい魚屋さん」を歌う、という行為を取るそうです。これはありえないことだそうです。なぜならその被験者の5歳のころには、まだ「かわいい魚屋さん」という曲ができていなかったからです。被験者は、思い出したのではなく、現在の視点から、5歳の幼児の状況を想定して、最もふさわしい行動をしただけなのだそうです。

                                              私は、松本さんの話の例でいえば、どちらかと言えば調べ魔の方なので、納得できないことをよく調べますが、時々首をかしげることがあります。ノスタルジックな世界が、現実にはなかったということさえしばしばあると思います。「かわいい魚屋さん」である可能性もあるのです。

                                              堀下さんの書いているように、下の世代が大人たちのノスタルジーに付き合ってきたという見方もできますが、じつは『三丁目の夕日』(実は見ていないので想像で書きます)と同じで、そんなものは存在しないのかもしれません。だからこそ、下の世代と大人たちがノスタルジーを共有できているのではないかということです。

                                              これが分かると、仁平の書いた『露地裏の散歩者-俳人攝津幸彦』の秘密もわかると思います。私はこれを、書評で「センチメンタリズム」と言っておきました。仁平の俳句以上に、攝津幸彦仁平勝らの仲間たちは、ノスタルジックであり、さらにノスタルジックである以上に、センチメンタリズムに浸っていたように思うのです。もちろん、センチメンタリズム、悪くはありません。

                                              しかし、です、しかし、評論家の本領は、調べまくって、ノスタルジーならぬ残酷な真実を示すことにあるのではないか、と、調べ派の評論家としては思っている次第です。


                                              ⑥堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
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                                              ここしばらく「俳句史」という言葉をずっと考えています。外山一機さんの書くものの読みすぎかもしれませんが、やけに気になる。そんなものがあるのだろうか。あ、疑問ではなく、興味。俳句史に限らず歴史というものはどこで生まれているのか。

                                              たとえば人間探求派に興味があってこのあいだ『俳句研究」1939年8月号を読みました。人間探求というフレーズの初出である例の座談会「新しい俳句の課題」です。ここから飛び出した「人間探求」がのちのちまで批評用語のようなものになっていく。いまだに草田男楸邨につながる作家の句が「こういう作り方はまさに人間探求派のそれだねえ」と言われるのをときどき見るのでまだこの言葉は生きているのでしょう。ところが座談会を読む限り、これからおれたちは人間探求派になるぞ、といったことは書かれていません。雑多な話題のなかの一つでしかない。おそらくこのあと、総合誌やホトトギス、馬酔木あたりで話題になって、それでいつの間にか定着したものと思いますが、僕はこの「いつの間にか」に胸が騒ぎます。


                                              その「いつの間にか」を明らかにするのが歴史を掘り起こす評論ですが、じゃあ時評は歴史の中で何をしているのか、そう言おうと思ったらすでに磐井さんが書かれていました。「時評を書いていて、それをためた後、切り刻んで並べ替えると、立派な本格評論になるという離れ業ができればこんなうれしいことはありません」「けれど大抵は刹那に思い付きを発語し、あとから自らの論理矛盾で苦しむ」。せつない! 自分が時評を書くときにはいつもうしろめたさがつきまといます。まさしく思い付きの発語といった感じ。少なくともいまこれを取り上げることには意味があるだろうという直感がアリバイになっている気もします。


                                              さて、前回の最後に「評論家の本領」という言葉が出てきました。調べまくって事実をさしだす仕事が評論である、と。本領となるとどこから聞き始めるのがよいのか迷いますが、まずはその動機が気になります。評論家はなぜ事実を調べて書くことに憬れるのでしょうか。もちろんその契機はひとそれぞれです。『俳句界』(2014.11)の「俳句評論復活へ!」が現代の俳句評論家に問うた項目には「評論を書くきっかけは?」というのもありました。たとえば中村雅樹の、一緒に吟行に行った魚目の姿を見て唐突にいつの日かこの人のことを書いてみたいと思ったというエピソードはかなりドラマチックで、一方で共感する部分も多くあります。自分の心を動かすものが何なのか、書く。言挙げという行為は快感ですから。あるいは岸本尚毅の場合は虚子について考えていることを整理するために書き始めた。「考えながら書き、書きながら考える過程が楽しい」と記事にはあります。これもまた、言葉にすることの楽しさでしょう。磐井さんも特集に登場したおひとりですが、ここには単に「沖」が評論に熱心だったことしか書いてあ りません。磐井さん自身がどういったところから評論を書き始めたのか気になるところです。


                                              ⑦筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
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                                              あまり他の人のように得々として語るようなことはありません。ただ書いているうちに態度が少し変わってきたということはあるかもしれません。他人の作品を勝手に裁断したりしている文章を読むと、時々ムカッとします。何か、しかるべき背景や哲学を語っているならともかくも、そうでない文章を読むと、ついつい揚げ足を取りたくなるのです。何年来、そういう感覚で文章を書いてくると、どことなく、正義感のようなものが育ってきているのかもしれません。正義感などという立派なものではないのですが、おかしいことやおかしい人をたたいてみたいという気持ちです。これは文章を書くときの重要な要素であるように思います。

                                              たとえば、長らく埋もれてきた作家で、俳句史であまりまっとうに扱われない人。もちろん、作品がいいという条件が付きますが、必要以上に無視されている作家がたくさんいます。こんな人たちを再発見することは情熱を持てることです。【注】


                                              若手作家という人たちも、現在の俳壇では必要以上に叩かれているような気がします。『俳句界』(2014.11)を取り上げられたので、そこでインタビューを受けている国文学者の堀切実氏がこんなことを言っています。


                                              堀切実:最近では『新撰21』(邑書林)という若手俳人のアンソロジーが出ましたけれど、あれは極めてジャーナリスティックな感覚のもので、主体的な運動とは言えない。これといった発展もなかったように見えるし、大きな意義もなかったと私は見ています。


                                              『新撰21』に関係している私が言うので割り引いて聞いてほしいのですがそれでも、「ジャーナリスティックな感覚のもの」が悪くて「主体的な運動」でなければ文学運動でなければならないなんて誰が決めたものでしょう。いつの時代も、若い作家は大体ジャーナリズムに便乗しなければ波に乗れないものです。それくらい古い世代は、重苦しく、煩わしいものです。当時の宗匠に反発して、日本新聞というジャーナリズムに乗って新俳句を主唱した子規もそうでした。堀下さんが取り上げている、草田男波郷だって「俳句研究」というジャーナリズムに便乗しているものです。要は、便乗したうえで何を作り出せたかが問題であるわけです。

                                              もう一つ言っている、「意義がなかった」かどうかですが、堀切さんは芭蕉の研究家ですから芭蕉につながらなければ価値がないと見えるのかもしれませんが、芭蕉などの存在すら気にしない若い俳句作家が出たとしたらそれは立派な成果だと思います。芭蕉が絶対だという考え方は、現代俳句にあってはかなりアナクロニズムに近いのではないでしょうか。

                                              枝道にそれますが、堀切さんは芭蕉の3つの俳句原理が、近代俳句、現代俳句に大きな影響を与えているといいます――ことによると芭蕉の手の内から一歩も近代俳句も現代俳句も出ていないと思っているのではないかと思いますが――、そして芭蕉の3つの原理の影響を与えられた現代作家を、飯田龍太、森澄雄、金子兜太としてあげます。しかしこれは現俳壇の通俗的な評価を受け入れているだけで、堀切さんの見識で選ばれた作家たちではないようです。あっというような現代作家を提示してくれてはいないからです。

                                              じつは「大きな意義もなかった」という言葉を最初に見てつい笑ってしまいました。ながらく芭蕉研究をやり、象牙の塔にこもっていた学者が、<『新撰21』は大きな意義もなかった>ということ自身、ものすごく大きい意義を『新撰21』が持っていたことの証拠ではないかと思います。堀切さんが、『新撰21』を知っているということ自体、つくづく時代も変わったなあという感じがするのです。

                                              もちろん、『新撰21』は比喩です。『新撰21』を含めた若い世代ということです。『新撰21』はあの時の新人登場システム、あれから数年後の現在はまた別のシステムで新人が登場するということです。田中裕明賞とか、攝津幸彦賞とか、石田波郷新人賞とかです。それらをひっくるめて若手を、見る価値がないといっているのが堀切さんの発言のように思うのです。


                                              ちょっと、話が偏りました。最初のご質問の俳句史についてはまた回を改めてお話しすることにしましょう。そのうちいい材料が出るのではないかと思います。

                                              【注】数年前に、馬酔木の作家でありながら長らく忘れたようになっている相馬遷子に関して共同研究をして本にまとめています。中西・仲・原・深谷・筑紫編『相馬遷子 佐久の星』(邑書林)。数人の人たちとの共同作業ですが、やはりお互い、なにがしか義侠心のようなものが働いていたかもしれません。

                                              ⑧筑紫磐井から堀下翔へ(堀下翔←筑紫磐井)
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                                              あ、今ここまで話してきて、「都市」主宰の中西夕紀さんから、ファンレターが舞い込んできました。ちょっと読み上げましょう。

                                              「堀下様 筑紫様 
                                               こんにちは。磐井さんと相馬遷子研究をした中西夕紀です。俳人は亡くなると忘れ去られるようで、相馬遷子も大きな賞などとっておりませんから、忘れられていたわけです。 
                                              それを掘り起こそうと、磐井さんの提案で始まった研究でしたが、研究が1冊本になってわかったことは、磐井さんが総論を書き、我々が各論を受け持ったということでした。 
                                               実のところ、この研究を始めるまで仲間の殆どが相馬遷子を知らなかったのです。研究は4冊の句集から毎週1句づつ取り上げて鑑賞していくもので、1句の背景を調べて行くうちに、遷子が生きた時代と、庶民の生活環境、遷子の医師としての仕事や思想と人柄が浮き上がって行きました。 
                                               鑑賞ですから、最初はかなりノスタルジーなことも書いていたと思います。5人が同時に書きますので、同じ句でもかなり解釈の違うものも出てきました。しかし、いつも最後の締めを書いている磐井さんの鑑賞に啓発されるものを感じていたように思います。 
                                               つまり、よく調べてあるのです。例えば、相馬遷子の住んでいた長野県佐久市は昭和40年代まで、全国一の脳卒中の死亡率が高いところでした。それを佐久市国保浅間総合病院院長の吉沢国男等の減塩運動や、佐久総合病院院長の若月俊一の無医村への主張診療のお陰で改善されたのです。その功績で若月は「アジアのノーベル賞」と言われるマグサイサイ賞を受賞しました。そんなことが磐井さんの鑑賞に書かれているわけです。遷子の身の回りだけでなく、もう少し視野を広げて見ていたわけです。そういうことがわかりますと、遷子の患者が卒中死が多いこともわかりますし、遷子が描く患者の句に卒中が多いことも納得できるわけです。視野を広げて調べることの重要性を学ばせて頂いたように思います。 
                                               そうしますと、今度は医師の仲寒蝉が脳卒中死の減少のグラフを出してきました。グラフを見れば一目瞭然で、医師の努力が如何様なものだったか納得できたのでした。
                                              しかし、磐井さんも初めのころは小津安二郎の映画を出してきて、映画のアングルに近いという鑑賞もありましたから、ノスタルジーがなかったわけではないのです。5人の息があってきたころから、皆が色々と調べ始めたのです。
                                               
                                              そして研究が終わった今、調べたものをどのように使うか、資料の少ない中で書く方法はどうするのかなど悩んでおります。 
                                              中西夕紀 」

                                              中西さんは、「都市」に現在、「藤田湘子研究」を書いている合間を縫って、感想を下さいました。ノスタルジーと「調べ」の関係で、苦労が語られています。


                                              ⑨堀下翔から筑紫磐井へ(筑紫磐井←堀下翔)
                                              from Kakeru Horishita to Bansei Tsukushi 




                                              「正義感」「義侠心」なるほどこれが磐井さんを評論へと向かわせているものでしたか。

                                              それともう一つ、その動機が『新撰21』の話へと転がっていくことに、なるほどな、という感じがします。もともと磐井さんは『新撰21』あるいは西村麒麟、御中虫といった『新撰21』世代への言及が多い人だという印象があります。それが「正義感」であるという説明はごく納得のゆくものに思われたのです。今回いただいたお返事はそれ自体が若手世代に関する評論の冒頭部分か何かのようです。考えていることがそのまま評論の言葉になっているのですね。


                                              と、ここでゲスト登場。緊張します。中西さん、はじめまして。


                                              お手紙を読んで考えたことにまず鑑賞と研究の境目、ということがあります。中西さんが「鑑賞ですから、最初はかなりノスタルジーなことも書いていたと思います」と、すなわち「ですから」という順接の論理で書いていらっしゃった通り、俳句鑑賞とはえてして個人に引き付けられたものになってしまいがちであるように思われます。鑑賞がノスタルジーを離れること、真実を示すことに苦労が伴うのは容易に察しがつきます。磐井さんや寒蟬さんの例はだから、きわめてわかりやすく、理想的なのですが、「よく調べる」「視野を広げる」と一言で言っても、そんなに簡単な話ではないだろうと思うのです。研究・評論ということに根気がつきものであることがよくよく分かりました。

                                              そして研究が終わった今、調べたものをどのように使うか、資料の少ない中で書く方法はどうするのかなど悩んでおります」という新しい問題も出てきました。ここのところへの言及はひとまず磐井さんにお願いしたいと思います。えーと、2014年内にこちらからメールするのはこれで最後でしょうか。来年もよろしくお願いします。よいお年をお迎えください。

                                              ⑩筑紫磐井から堀下翔・中西夕紀へ(堀下翔・中西夕紀←筑紫磐井)
                                              from Bansei Tsukushi to Kakeru Horishita and Yuki Nakanishi





                                              いや、まだまだ年は終わりません。続けます。

                                              「正義感」「義侠心」で思い当たるのは、やはり中西さんや仲さんたちと始めた「相馬遷子」研究です。少し立ち入ってお話ししましょう。遷子の名前は、私が最初に俳句を始めたとき(昭和46~7年です)に「馬酔木」で名前を知りました。なんといっても、



                                              筒鳥に涙あふれて失語症  
                                                    
                                              隙間風殺さぬのみの老婆あり  
                                                 

                                              等の句に圧倒されました。当時馬酔木はきれいな句ばかりが多かったからです。しかしまたいっぽうで、きれいなだけの馬酔木に何でこうした社会性俳句的な句が生まれたのか不思議でした。

                                              その後久しくたって見てみると、相馬遷子は忘れられ、ほとんど存在していなかった扱いになっていました。遷子という作家がいたよねえ、と周囲に声をかけてみるとほとんどみなさんは知らないままでした。ただ2、3人のひとが反応してくれて、それぞれが遷子の資料を調達して研究を進める準備をしてくれました。特に、遷子と同じ佐久で、医師をしている仲寒蟬氏が参加してくれたのは大きな助けになりました。長野の医療環境というのは想像を絶していたからです。中西さんが書かれているようにそれについての色々なデータ、自らの病気を医師である遷子がどう考えていたのか、などは日進月歩している医学の知識がないと遷子の心理は理解できなかったでしょう。一方、中西さんは開業医の娘という立場から遷子を観察することができました。こんな協力の成果として、日本で初めての遷子の研究が本として出版されたのです。これはそれぞれがなにがしか正義感を動かされた結果できたものと思います。

                                              もちろん、正義感だけではこうした研究はできません。それぞれが何かの背景を持った異質な人が、協力研究して出来上がったものと思います。

                                              しかし一方で、資料があって評論ができるものではなくて、逆に情熱があれば勝手に資料が集まってくる気もします。


                                              【宣伝】「俳壇」2月号で、相馬遷子100句と解説を特集しています。よければご覧ください。


                                              ⑪中西夕紀から堀下翔・筑紫磐井へ(堀下、筑紫←中西)
                                              from Yuki Nakanishi to Kakeru Horishita and  Bansei Tsukushi


                                              今、研究の難しさを思っているところです。調べなければ書けない、勝手に自分の考えたことを書いてはいけないというところに難儀を感じています。

                                              自分の考えは、人の書いたものから導き出されるものばかりではないように思います。直接作品から導き出されるものもあり、それは作品の上ですから、作者とは離れているかもしれません。馬鹿正直に自分を描いている俳人は滅多にいないでしょうから。俳句は短いだけに作者の意図とは違って鑑賞されやすいものです。そして、鑑賞が面白いのは恐いことですが、読み手の力量が見えるからだと思います。

                                              わたしが難儀だと思うのは、作品から受け取った自分の思いを評論に書く場合のやり方なのです。作品としての面白さを書きたいのに、資料がなければ書けないのだろうかということなのです。それはエッセイになってしまうのでしょうか。

                                              また相馬遷子で恐縮ですが、こんな句があります。


                                              寒星の眞只中にいま息す    相馬遷子

                                              昭和43年59歳の作です。充足感のある句ですが、「いま」という、入れなくても良さそうな言葉があって、そのために「息す」というぎこちないように見える終わりかたの句です。しかし、多分「いま」が一番言いたいことなのだと思います。この句の調べとして出て来るのは、①健康であること。②娘が去年結婚したこと。③事件がないこと、などです。つまりは調べても然程の事が出てこない句です。しかし、作者にとっては自分がもっとも自分らしい、つまり自然体の姿なのだと思うのです。「眞只中」と「いま」には重複感がありますが、それほど今に満足しているのだと思います。

                                              こんな句に出会いますと、事実関係ではなく、句から作者にストレートにアタックしたくなるのですがいかがでしょうか。


                                              (以下続く)

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