2014年12月12日金曜日

【俳句時評】 田中裕明メモ  堀下翔

2014年が終わろうとしている。その数字が何か気がかりで少し考えていたのだがしばらくしてそういえば田中裕明が世を去って十年になるのではないかと思った。調べてみたらその通りで彼の命日は2004年12月30日。その時期のことは多くの関係者がほぼ同じ感慨で書いている。「その訃報の直後に句集『夜の客人』は妻・森賀まりと連名の年賀状を添えて届けられた。まるで天上から田中の手が差し伸べられたように」(小川軽舟「澄んだ詩情」『俳句』2013年12月号)。なんと逸話めいた話であることか。夭逝のことに限らず田中裕明を思うときそこにはいつも得体のしれなさが伴っている。


句集を編むうえで気づいたこと二つ。/一つはいわゆるアンソロジーピースが多いということ。これはわたしの俳句がそうだというよりも俳句という詩形がアンソロジーに向いているようです。 
(『花間一壺』あとがき/1985年/牧羊社)

角川俳句賞の受賞作を収めているほかすでに若手作家として認知されていた時期であるとはいえアンソロジーピース性は少なくともまだ出版もされていない自分の句集の作品に対して感じるものではないではないか。「これはわたしの俳句がそうだというよりも俳句という詩形がアンソロジーに向いているようです」の弁がその批判を避けるためのものとは思わないが「ようです」という人ごとの言いぶりはいったいこの人には何がみえているのか不可解で気味が悪い。それは角川俳句賞を最年少で得たさいの「受賞の言葉」の時点でまとわりついていて、一読ではほとんど意味を察せられない〈夜の形式〉という言葉に終始する「受賞の言葉」はまさに田中裕明の世間離れを表明しているようだった。

昭和五十二年「青」入会、五十四年、私家版第一句集『山信』刊行、五十七年、角川俳句賞受賞、五十九年「晨」参加、六十年、第二句集『花間一壺』刊行、平成三年、爽波死去、四年、第三句集『櫻姫譚』刊行、十二年、主宰誌「ゆう」創刊、十四年、第四句集『先生から手紙』刊行、十六年、骨髄性白血病による肺炎で死去、十七年、第五句集『夜の客人』刊行。四十五年の人生がどれだけ駆け足であったかことか。昨年の裕明忌に更新されたふらんす堂のブログがのちに田中裕明賞を受ける榮猿丸『点滅』の完成に際して書いたこんな言葉は、いかにも裕明が夭逝にしてすでにかなりの仕事をなしていたことを伝えているだろう。「今日は、俳人田中裕明さんの忌日である。/2004年の今日、田中さんは亡くなった。/その日東京は夜になって大雪となった。/享年45歳。/45歳という歳がどのくらい若いものであったか、今日これから紹介する新刊の榮猿丸句集『点滅』を読んであらためて思った」(『ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko』2013.12.30 20:38更新分)。

裕明のことをよく聞く。「ゆう」の会員を中心とする同人誌「静かな場所」が創刊されたのは2006年で以後裕明研究と同人作品を掲載し続けている。毎年7月に大特集を組む「澤」は2008年のテーマに田中裕明を選んだ。裕明アルバム、『山信』復刻、小澤と森賀まりとの対談をはじめ「澤」内外の作家による裕明検討がおよそ240ページにわたってなされている。ふらんす堂は2007年に『田中裕明全句集』を刊行、また2010年には彼の享年である満45歳以下の作家を対象とした田中裕明賞を創設する。

先月11月8日の第24回現代俳句協会青年部シンポジウム「読まれたかった俳句」を思い出す。「新世紀に生まれた俳句を一句ずつ取り上げて、私たちがこの十五年間でどんな新しい一句を得たのか、時代への考察とともに検証し、語り合いたいと思います」(資料冒頭)というコンセプトで井上弘美、高山れおな、外山一機、神野紗希(兼司会)の四パネリストが2000年以降の俳句を各20句選出、数句を取り上げての討議が行われた。一句一句はどこかしらにおいて十五年間の事件である。それは井上選「戦争がはじまる野菊たちの前」(矢島渚男)にはじまり外山選「俳諧の留守の間に咲く桜かな」(長谷川櫂)、神野選「双子なら同じ死に顔桃の花」(照井翠)に至る社会との直接的な接触でもありあるいは神野紗希が2005年当時に読んで自分は一生これを体験しないであろうと感じた「わが額に師の掌おかるる小春かな」(福田甲子雄)といった時代のおとしごでもある。高山選「ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ」(なかはられいこ)をはじめとする表現史もむろん忘れられてはいない。筆者が思い出しているのはその中において四人のうち三人が選んだ作者がたった一人だけいたことでそれがすなわち田中裕明であった。

くらき瀧茅の輪の奥に落ちにけり 田中裕明(井上選)爽やかに俳句の神に愛されて(外山選)みづうみのみなとのなつのみじかけれ(神野選)

重複はまさしく田中裕明その人の事件性を体現してはいないか。4人というごく少ない母数に断ずるのは早合点も過ぎるとは思いつつしかしここには田中裕明の「語られやすさ」が連想されてきて仕方がない。筆者が田中裕明に感ずる得体のしれなさはつまり本人の言行である一方でまた没後多くの場所で名前を聞く状況でもある。こと裕明以後に俳句を書く営為に加わった人間たちにとってわずか十年前にかくのごとき作家がいたことはほとんど恐怖である。その恐怖はおそらくひたすらに得体がしれない点ではなくむしろ現段階で彼が多くの人間に充分に語られている点にある。誰か田中裕明のことをもっと教えてくれ! と叫んでも没後十年としてはすでに不足の感がなく、にもかかわらず自分だけは彼をまったく知らないがために途方に暮れる。

エヴァンゲリオンが好きだったというエピソードを持ち(小澤・森賀対談「思い出の田中裕明」/「澤」2008年7月号)、あるいは主宰誌の創刊が2000年代に入ってからであった田中裕明はあきらかに2014年へと続く空気を吸っていた。近くて遠い――正確に言えば近かったらしいが遠い隣人。この隣人の不在を知りながらわれわれは俳句をまた書かねばならない。



1 件のコメント:

  1. 自己顕示欲をほとんど感じさせない平明で透明な詩体。
    自分の俳句を矯正させたい時無くてはならない作家。

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