2014年8月8日金曜日

中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】25.26.27.28./吉村毬子

25. のろ詩人うたびと青梅あをきまま醸す


詩人は鈍い方が良い。器用に言葉を操る詩人は魂の真髄から詠っていない気がするのは私だけであろうか。愚かな「鈍き詩人」と「青梅」の取り合わせによる在るがまま、成すがままの大らかな解放感。青々とした丸い実梅が、初夏の日射しを浴びる大地に音を立てて転がり落ちる。「あをきまま醸す」とは梅酒にする様を思う。ホワイト・リカーの円みのある透明な液体に、泳ぎながら沈む「青梅」の涼やかさは「鈍き詩人」の持つ純粋な美しさと少しの薄情さをも表現している。

 しかし、鈍いとは〈遅い・はかどらない・愚か〉の他に〈女にあまい・色におぼれやすい〉という意味もある。これは恋句なのかも知れない。人は恋すると誰もが詩人になると云う。「青梅」は、丸やかで張りがあり、桃の実ほど艶やかではないが、少なくとも形状は似ている。詩人(の、ような)の男が汚れなき少女をその無垢な状態のまま養育する――という、光源氏的なものも垣間見えないこともないが、此の句は、愛しい「鈍き詩人」を詠った句であると思える故、彼の作る詩、即ち彼の言動は爽やかで新鮮に見える。その少年のような愚かさに母性愛の如きものが心音を波立たせる。二人の愛も青梅の初々しさのまま醸されていくようである。

 過日に掲げたこの章の初まりの二句

羽が降る嘆きつつ樹に登るとき 
落鳥やのちの思ひに手が見えて

とは趣きが違うし、苑子俳句にしてはいささか甘い。しかし、〈回帰〉という名の章であり、一周りして元に帰るには様々な物語が展開し、転回されるのであろう。次句もまた詠いあげられていく「恋」の行方を追っていこうではないか。


26.乾草は愚かに揺るる恋か狐か

 前句の明色さに比べると昏い苑子調がうかがえる。「乾草」は、家畜の飼料として夏の間に刈り干して置くものだが、「狐」がしのびこみ揺らしていったのではない。「乾草」を揺らしているのは男女の営みであろう。直接の行為でも語らいでも良いのだが、前者の方が句の激情感が増すと同時に、その揺れが激しいほど哀切を帯びる。それは、苑子が「乾草」を選択したことにある。

 青々とした(前句の青梅のような)草の中の愛の営みではなく「乾草」という、刈られてしまった、植物としての生命は絶え、家畜に食われる運命を残しただけの草。「狐」は人を巧みに騙すといわれている。「恋か狐か」――「か」のリフレインが切ない。しかし、「狐」は稲荷神社の使いではないか。稲荷は食物を主宰する神、御食津神であり、その使いであるということは、やはり「乾草」の如く食べられてしまうだけの結末であるのか……。



27. 流木の夜は舟となる熱発し

 見開き2頁4句に並べられた3句目である。狐(かも知れない)との恋は「熱発し」と至る。舞台は、乾草からの田園(もしくは、田園の中の納屋)から、大海原へと移る。「流木」「舟」は、共に大海原に浮き泳ぐこそ生命存在を確認するものである。「流木」は、樹木としての生命は絶えているが、波に浮いて群れにはぐれた渡り鳥が最後に羽を休める処であり、遭難者、例えば「船焼き捨てし 船長」が一息つけるものかも知れない。しかし、「流木の夜は舟となる」のである。流木が浮く夜の海という状況設定ではなく、流木としての我がその夜は舟となり、一刻、或いは一晩、岸に繋がり人を乗せる。それが、「熱発し」舟となったということである。 

 苑子の敬愛する三橋鷹女の句

墜ちてゆく 燃ゆる夕日を股挾み        鷹女『羊歯地獄』所収


 この凄絶さにはない諦念感の沈澱から漂うエロティシズムが浮遊している句である。

28. 放蕩や水の上ゆく風の音

 熱は癒えたのか、冷めたのか――。

 「放蕩」という憎み切れない語は、その字の持つ意味、(「放」=かまわずにおく・解きはなつ・赦すこと、「蕩」=広くゆきわたる・揺れ動くこと)と、音に寄る語感であるかも知れないとも思う。「放蕩や」の切字は、一拍置くことを促し、また感嘆詞としての役も担っているのだろう。「水の上ゆく風の音」は、河川や海を詠うのなら格別に際立った中七下五の表記ではないのだが、「放蕩」という物質や現象ではなく(感情的、道徳節をも呼び起こす)、抽象的とも具体的ともいえるその語について詠っているのだから、なんとも掴みどころのない飄々とした様が的確に表現されているのである。(池袋西武カルチャー教室の頃、男性に此の句が好まれていたのも頷ける。)

 「水の上ゆく風」は勿論見えない。「風」とは流れていくものである。流れることでその音が聴こえるのである。「風」は水底を知っているのか、知ることができないのか、見る時がないのか、唯、「水の上」を流れていくだけである。まさしく「放蕩」の真髄を語っているのである。けれども、きっと、「放蕩」は、水底まで覗いて知らない振りをして流れていくのであろう。

 前回までの流れから行けばそういった起承転結に至るのだが、〈回帰〉は、未だ未だ終わらないのである。始まったばかりである。



【執筆者紹介】

  • 吉村毬子(よしむら・まりこ)

1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
2014年、第一句集『手毬唄』上梓
現代俳句協会会員
(発行元:文學の森

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