2014年4月4日金曜日

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑧ / 筑紫磐井

⑧佐藤鬼房

パソコンの不調で、入力していたデータが一瞬にして消滅してしまい、連載する予定だったこの「正木ゆう子と私」も中断を余儀なくされた。ぽつぽつデータを入力している。毎回掲載というわけにはいかないと思うが、忘れられないうちにそろそろ更新をしたいと思う。今回も青年作家たちの特集を紹介する。

    *    *

昭和52年5月号の「沖」の青年作家特集は30代以下の24名の会員の10句を掲載しているが、この時の参加者にとって驚きは、この掲載作品を佐藤鬼房が評していることだ。47年以来続いているこの特集にあって、能村登四郎と同じ戦後世代が取り上げてくれた唯一の機会であった。あらかじめ知る由もなかったから雑誌が届いて実に興奮したものだ。

先ず、正木ゆう子、そして私の作品から見てゆく。

花満ちし夜 
          熊本 正木ゆう子 
はくれんの光りつくしてしまひたり 
花のやうな土ふりはらふ蕗の薹 
花満ちし夜は竜巻の来る暗さ 
わらふ間もひそかに枇杷の太りをり 
屈折の地下街の壁蝿生まれ 
忘れえぬことを殖やしつ花蘇芳 
行き処なし雪柳咲き満ちて 
花の夜に座りてゐても罪生まる 
赤き紐春の神社に失くしけり 
春の雪へ俯向くたびの緑かな 
            昭和二十七年六月二二日生

夏の労働 
          東京 筑紫磐井 
八月の青田に飽きし飛騨・信濃 
山窪の一畝を婆の田草取り 
冥より来て青田のあたり祖父の声 
炎天に滝のガラス器砕けちる 
一山をなだれて蝉の地獄責め 
白地着て青紫蘇がふと身に匂ふ 
九輪草心がゆるる霧が湧く 
青竹の生えぎはまぢか月けぶり 
蘆刈のたちまち穂絮うしなへり 
過ぎてよりまた穂絮飛ぶ血の騒(さや)ぎ 
          昭和二十五年一月一四日生

この作品を、佐藤鬼房が「荒野を目差せ―青年作家競詠・小感―」という文章を書いて鑑賞している。掲載作家の数が多いから必ずしもたっぷりとした内容ではないが、いちいち腑に落ちるものばかりだ。

「花満ちし夜」 正木ゆう子さん 
柔らかい感性のひとだが、<はくれんの光りつくしてしまひたり><わらふ間もひそかに枇杷の太りをり><忘れえぬことを殖やしつ花蘇芳>等、もう少し言葉をひきしめるとよい。 
赤き紐春の神社に失くしけり 
の簡潔で端的な叙法を忘れないで欲しい。尚この句は、「社(やしろ)」の和音の方がよいと思う。 
「夏の労働」 筑紫磐井氏 
八月の青田に飽きし飛騨・信濃 
一山をなだれて蝉の地獄責め 
等、しっかりした技法を身につけているが、若干自らのうまさに溺れる感じもある。 
冥より来て青田のあたり祖父の声 
過ぎてよりまた穂絮飛ぶ血の騒(さや)ぎ 
先にあげた句よりも技法的に多少劣るが、これらのもう少し時間的叙述を抑制する力が加われば、飛躍的な心境が見られるだろう。

ただ正木ゆう子はこの句を句集にまとめるに当たって鬼房の指摘したような修正は行っていない。それはそれとして、作者のプライドがあるのだろう。

しかしこれらの個別の作品評、作家評にもまして印象的だったのは、青年作家全体に呼びかける鬼房の言葉だ。「荒野を目差せ」の激しいエールもこの内容にふさわしいものとなっている。

俳句に限ったことではないが、これで卒業という俳句の修業期間はない。一生修練の連続である。死際になお、わが未完の口惜しさが痛いほど胸をしめつけるような、そんな思いの執しかたで、俳句の「修練」に賭けた者のみが、ほんの僅か何がしか自分の方向が見えて来るのだ。私はいま二四氏の「競詠」小感を述べるに当り、この大事を第一にあげ、更に次のことを一言しておきたい。それは、「沖作品」のひとたちに、模倣というものを徹底的にやってもらいたいということだ。最も身近に在る主宰者の作品を、生むことなく真似続けるのだ。エピゴーネンを恥じることはない。やがて道はおのずからひらけ、創造の突破口を自分で見出せるだけの力がついてくる筈だ。これに対して同人は、日頃の厳しい修練のほかに、自分の力以上の、未知の冒険にも挑んでもらいたい。とくに青年期にあっては、たとえ創造上の失敗があっても、その失敗の深傷が何倍もの力になって自分の芯を強靭にし、スケールの大きい豊かな将来を約束してくれる筈だ。また、私はなにごとによらず、フォーム作りというものを重く視るが、とくに俳句の最短韻文形式では、詠み手のフォームが非常の大切だと思う。はじめは徹底的模倣によって受動的に、そして一応自立のめどがついたところで、内側から能動的に、自分に一番適したフォームを充実させてゆく。この場合はじめの基本的なものが不徹底で中途半端だと、自力の積極的なフォーム作りのときに、ただ恣意にばたつくだけで、何のためのフォームか分からなくなってしまう。少なくともはじめ数年は、悪名高きエピゴーネンに徹し、ねばり強く貪婪に、目指す先達の求めたものを盗み、文体そのものをそっくり盗みとってゆくぐらいの根性が欲しい。

エピゴーネンを肯定する言葉は当時にあっては珍しいし(現在でも珍しいだろう)、それもその言葉を鬼房から聞くというのはますます予想外だった。

さて、今回、佐藤鬼房の言葉は「沖」の青年作家に影響を与えただけではなかった。これを契機に何と言わず、鬼房と「沖」の青年作家の関係ができて来る。正木ゆう子、小沢克己(「遠嶺」を主宰しその後物故)そして私も、しばしば鬼房に会う機会ができるようになった。「小熊座」においても執筆の機会が生まれたりしたし、更に、「小熊座」のイベントにも3人はしばしば招かれることになった。今も、正木ゆう子や私にとって、「小熊座」は懐かしく常に思いだされる場となっていると思う。

そして、それは青年作家にとってだけではなく、鬼房にとっても好ましいものであったのではないか。青年のように永遠に完成しない鬼房の俳句スタイルは、そうした姿勢を貫いた鬼房だからこそ生まれたものであった。

翻って、現在の20代の作家に対し、鬼房のような態度で臨んでいる60代~70代作家は極めて少ないように思われる。青年作家を甘やかさず、しかし未来に期待するということは、老齢に入った作家たちにとってまことに難事であったはずだ。正木ゆう子にとっても、私にとっても、そして佐藤鬼房にとっても得難い機会であったのだ。



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