2014年4月25日金曜日

【朝日俳壇鑑賞】 時壇 ~登頂回望 その十一、十二~  / 網野月を

~登頂回望その十一~
(朝日俳壇平成26年4月13日から)
                           
◆ほのぼのと月にも花のあるごとく (宮崎市)飯島忠夫

長谷川櫂の選である。「一席。麗しい春の月をほめる。月にも桜が咲いているようだと。月も花のようだと。」と選評に記されている。将に評の通りであろう。「春の月」を愛でているのである。「花」にでも「月」にでも喩えられれば嬉しい佳物だが、その「月」を「花」で形容しているのであるから、喩えようもなく美しい以上の形容によって愛ででいるのである。形容するものと形容したものの関係性による形容の飛躍である。

逆説的な皮肉めいたものは何処にも感じられないのは、上五の「ほのぼのと」の効果であろう。

同じく長谷川櫂の選で、

◆抽斗の中にあの頃桜貝 (筑西市) 大森薫

がある。やはり選者の評に「三席。抽斗の中に桜貝という句は山ほどある。「あの頃」で世界が開けた。」とある。果たして「開けた」であろうか?「桜貝」は海浜にある場合、現在的な存在であるが、他所に見いだされる場合は、記憶の何かを引き出す切っ掛けにされることの多いものであろう。評にも記されているように「山ほどある」のだ。しかも記憶で示される時制は「あの頃」なのである。「桜貝」と「あの頃」が微妙に重複しているように筆者には感じられる。「桜貝」を記憶の襞の栞にするするのは禁じ手にした方が良いのではなかろうか。

◆なぜ尾骶骨なのかなぜ冬なのか (塩釜市)佐藤龍二

金子兜太の選である。選者の評に「十句め佐藤氏。尾骶骨に寒さがしみるのだ。」とある。十音、七音の破調である。反語の繰り返しもあり、厳格なリズムと響きを持っている。内容的にも「冬」であり、「骨」であるところから厳しさは倍増する。が俳句的諧謔を感じるのは筆者だけではないはずである。「骨」といっても「尾骶骨」であるし、「冬」といっても「寒さがしみ」ているのだ。本人は痛みの極みであろうが、外科的な痛みは他人には可笑しみと捉えられてしまうことがある。作者には失礼の極みである。申し訳ございません。


~登頂回望その十二~
(朝日俳壇平成26年4月21日から)
                         
◆桜蘂降る新鮮な老人ら (静岡市)西川裕通

大串章と金子兜太の共選である。昨今は「桜蘂」のみで季題・季語として使用する例が多出しているが、掲句は厳格な使用を体現している。その季題・季語の厳格さが「老人ら」に匹敵しているのであろう。桜にとって花咲くことが毎年の盛時ならば、「桜蘂降る」は花の後にくるこれも毎年の出来事なのだ。始末に困るように思われるが、散った花びらだって本来は取り片づける対象である筈で、花びらと蘂の取り扱われ方は不平等極まりない。

後半の「新鮮な老人ら」は季題・季語に着き過ぎのきらいがあるが、「老人ら」になったばかりの初々しい「老人ら」であり、「新鮮な」の逆説的修飾語の使用に表現の巧みさを感じないわけには行かない。「桜蘂」と「新鮮な老人ら」と表現したのかもしれず、また「桜蘂降る」景の内に「新鮮な老人ら」を共に捉えたのかも知れない。

◆春愁が今日も一杯やれと言ふ (茅ヶ崎市)吉田哲弥
◆桜湯を含めば妻の来る日かな (八王子市)野島義郎

二句ともに長谷川櫂の選である。今回の選では、日常の句が目立った。日常句は、俳句の本来の在り方の一つであろう。それだけに大きな感動が起因しているわけではないが、落ち着いた作者の小さな感動が読者には心地よい。二句目の「妻の来る日かな」も大仰な句意ではないだろう、と推察する。「桜湯を」喫しているのであるから。


【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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