2014年3月14日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む11】  脱力する幸せ   鈴木牛後

作者には「力作」などという表現は似合わない。実際には、力づくでものにした句や呻吟の果てに得た句もあるに違いないのだが、平穏無事に毎日を過ごしながら、まるで手品師が空中から鳩を取り出すように、虚空に手を伸ばして一句を得ているという印象を持ってしまう。

冷麦や少しの力少し出す

掲句は、そんな作者のイメージを象徴する一句。もともと少ししか出すつもりのない力を、さらに「少し出す」のだ。どれだけ力を抜いているのだろうか。普通なら、「もっと力をだそうよ」とでも言われそうなところだが、そこは作者のキャラクターで許されてしまう。

「少し」という、サ行の多い、ちょっと空気の抜けたような音をリフレインで使い、さらに、いかにも力の出なさそうな食べ物である冷麦を配するという、心ゆくまで脱力する俳句だ。

猪を追つ払ふ棒ありにけり

棒がある、ただそれだけの句。作者には、猪を追っ払うような気概も膂力もないのだろう。へえ~、これが猪を追っ払う棒かあ、などと感心しているばかり。その脱力ぶりに感心してしまう。

冬帽や君昔から同じかほ

冬帽子を被って髪の毛を隠したら、ほら昔とおんなじ顔だ。生きてきた経歴なんてどうでもいい。若さは変わらないねえ。というような会話が聞こえてくる。

もちろん、ちょっとしんみりするような句もたくさんあるのだが、それさえ、ひょうひょうと上から眺めているような気がする。

鈴虫を上から覗く十二匹

鈴虫が十二匹いるということなのだろうが、まるで作者が十二匹の虫に覗かれているようにも思える。作者は主観と客観の間をいつも彷徨っていて、力など籠める暇がないのかもしれない。

作者の周到な脱力ぶりに、私も脱力しつつ大いに愉しませてもらった。



【筆者略歴】

  • 鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)

1961年北海道生まれ、北海道在住。
「藍生」会員、「いつき組」組員、「俳句集団【itak】」幹事。
句集「根雪と記す」(マルコボ・コム)。

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