2014年2月14日金曜日

【朝日俳壇鑑賞】 時壇 ~登頂回望 その二~ / 網野月を

朝日俳壇(2014年2月10日朝日新聞)から
◆一瀑は鼓動の如し山眠る (苫小牧市)齊藤まさし

金子兜太は一席で選している。「飛瀑といわず「一瀑」。幽邃の極み。」と評している。他の兜太の選は、「自分」を意識したものが多いがこの句は叙景に徹している。(作者の視座の明確なものや「私」が入っているものが多い。)兜太の言う通り「一瀑」と叙述したところが作者の意図を反映しているようだ。兜太はこの「一瀑」にその規模の大きさと共に静穏を感じ取っている。芭蕉の山寺での句「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」に似通った表現だと評したいのだろう。轟々と落ちる「一瀑」に静穏を感じ取るのは俳人ならではの感覚である。冬になっても水量の衰えない、全山眠る中での「一瀑」は、就寝中の心臓の動きそのものである。「山」と「如」に筆者は孫子を思い浮かべるが、直喩表現の簡潔さは、句全体の清冽さのイメージにぴったりと合っている。座五に「山眠る」を配することで、山への慈しみの心情が伝わってくるようだ。


◆鶴自由ひとは心を放ちけり (堺市)辻田あづき

選者は稲畑汀子である。若さの漲る句である。作者の年齢は明らかにされていないが、たぶん若い人の作であろうか?と考えたりする。「鶴自由」と大胆に上五を置く辺りは手慣れているとも言えるのであるが。作者の年齢の詮索は休むに似たりかもしれない。上五で僅かに切れを作って、中七下五の本題に入っている。鶴は自由である。人は心を放つ(人は心を自由にする)ことができる。という句意であろうと想像する。「ひとは」には当然自分自身も含まれる訳であり、ポジティヴな意思を表出している。鶴の自由は、反面大自然の厳しさに抗う力を備えていることを条件とする。そしてその力を備えたものだけが大自然の懐に抱かれる資格を有する。「ひとは」果たして如何?!大自然の代わりに社会の中に在る「ひとは」社会との心の桎梏を振り解くことで自由を得るのかもしれない。





【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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