2013年9月13日金曜日

赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

廃駅にうずまる乳壜白眼秘め    『虚像』

これは如何にも不気味な光景である。
廃駅、乳壜、白眼と並べただけで何かドラマが生まれそうな気配。まず「廃駅」、つまり廃止されて使われていない駅のことだ。戦時中には国家総動員法に基き他の分野同様に鉄道も統制管理されて国家に奉仕する形となったが、敗戦の後はまた分割されたりした。また路線が廃止されたり別の会社に組み入れられたりもした。従って昭和20‐30年代には廃駅となった駅も多かったようだ。

例えば大阪の市電は明治36年の開業以来路線を伸ばし昭和19年には最長となるが、大阪大空襲による被災・復旧を経て昭和30年代からは地下鉄やトロリーバスに食われて行く。廃駅自体が成長し、死滅し、再生してゆく都市の象徴であり、その周辺に取り残されて行く場末そのものであると言える。次は乳壜。文字通り乳を入れる壜のことだが所謂牛乳壜なのか、哺乳壜なのか。恐らく圧倒的な数で存在したのは前者の方であろう。牛乳は明治維新の後に大量消費されるようになり、明治22年(1889年)に制定された「牛乳搾取規則」以降は透明な瓶に入れて売られるようになった。

昭和30年代に正三角錐の紙パックが現われてからは次第に紙パックが主流になってゆく。大きさは昭和初期から昭和45年頃までは180ml(一合瓶)、それ以降は200mlということらしいからこの句が作られた昭和36年には一合瓶だったろう。廃駅の前の地面に埋められている牛乳瓶。なぜ埋められたのか、いや「うずまる」だから人為的にではなく自然にそうなったのだ。とは言えよほどの事情がないと牛乳瓶が地面に埋まることはない。

駅が廃業した時のごみの一部としてそこに残されたまま土を被ってしまったのかもしれない。さて最後の難関が「白眼」である。この「白眼」は牛乳瓶に秘められているらしい。イメージとしては眼球が牛乳瓶の中に浮かぶおぞましい光景が浮かぶが、ひょっとしたら瓶に残った牛乳をこのように表現したのかもしれない。それに白眼=眼球ではない。白眼視という言葉があるように物を冷淡に見ることを白眼という。

だがそんな抽象的なものが牛乳瓶に秘められているということでは意味が通じない。ここはやはり白眼→しろめ→眼球の白い部分→眼球ということにした方が分かりやすい。つまりは廃駅の地面に埋もれた牛乳瓶の中に眼球があってそれが廃駅を含む世の中の様子をじっと見守っているということになろうか。


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