2013年7月12日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 82. 目かくしの木にまつさをな春の鳥 / 北川美美


82.目かくしの木にまつさをな春の鳥

やはり読みの混乱はここでも巧みすぎる「の」「に」そして「な」にある。俳句の巧みさは、助詞にあると確信できるほど敏雄のアクロバティックな用法は、何通りにも読め、またその技は時を経て楽しく恨めしく難解である。

まず「目かくしの木」である。

見たことのない「バオバブの木」を想像している。自分がメルヘン志向なところに気づく。恐らくそれは、子供の頃に見た絵本に出て来る木が影響していると思える。アフリカの大草原に枯れてなお立つ木、『かたあしダチョウのエルフ』(小野木学作・画1970初版)である。作者の小野木学氏は「バオバブの木」の写真をみて物語のインスピレーションを得たようだ。子供の頃の絵本からの衝撃は強く人の想像力に影響することを実感する。もしもこの句の木が例えば「バオバブの木」であるならば、目隠しをしているのは自分である。目を閉じて想像したからこそ、「バオバブの木」が見えたといえる。読者が自由に思ってよい木という解釈があると思う。「目かくしの木」とは、マジックボックス、伏字としての「想像してよい木」という解釈である。敏雄の後の句集でその告白があるようだ。

十七文字みな伏字なれ暮の春  『疊の上』

「目かくしの木」を文字通りの〝目隠しのフェンスの役割のある木"、隣りとの境界線にある植え込みとなる木(『眞神』風の家ならば、「カクレミノ(隠れ蓑)」あたり)とし、ルリビタキのような青い春の鳥がくると読む事もできるのだが、あえて「まつさをな春の鳥」と表現していることを理由に、その読みは破棄としよう。


「に」を【場所】あるいは、【動作や作用の原因・理由】として解釈することにより、「な」を切れ字、すなわち詠嘆の終助詞として読むことも可能といえば可能ではないかと思いはじめる。「花のいろはうつりにけりな」の「な」である。

目かくしの木に/まつさをな春の鳥
目かくしの木にまつさをな/春の鳥

【場所】「木にまっさおな鳥(が来た)」、あるいは【動作や作用の原因・理由】「目かくしの木により、まっさおになった春の鳥」「目かくしの木が原因でまっさおな鳥が来た」が考えられるわけである。


また色について『眞神』の中では、赤が断然に多いが、ここで「まつさを」の「青」が登場する。

【「眞神」の中の青】
白き麺を啜りて遠くゆく
父母や杉の幹かくれあふ
白き麺を啜りて遠くゆく
共色の山草に放(ひ)る子種

【別句集に収められた青】
少年ありピカソののなかに病む  『まぼろしの鱶』
啓蟄や歯に付く噛み菜まつさをに  『疊の上』

「赤」の政治的イメージ、血のイメージとは異なり、「青」は自由、青年期、などのイメージ、それと同時に対照的に悲哀、苦悩、不安、絶望、貧困などの負のイメージがある。初学時の作「少年ありピカソの青のなかに病む」などは、後者としてわかりやすい表現だ。だがこの青はどうだろうか。なにかに慄いているようにも思えるのである。それは上五の「目かくし」が効いているからだろう。青い鳥が来たのではなく、鳥がおののいて青くなっている方が『眞神』にはふさわしい気になってくる。加えて、翠(みどり)を青としている可能性も孕んでいる。

「木にまつさをな春の鳥」は、冒頭で私が感じたようなメルヘンの世界としても成立するのだが、『眞神』にかかると、鳥がおののいて青くなる。そう読むとはじめの印象からかなり飛躍してくるのが不思議だ。

目隠しをしたから見える「まつさおな春の鳥」。ノアの箱舟から放された鳥が『眞神』の世界に迷い込んでいるという気がしている。迷い込んだのは鳥ではなく、読者である自分そのものである。


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