2013年3月8日金曜日

句集・俳誌渉猟(4)/筑紫磐井

村上護『其中つれづれ』

村上は昭和16年生まれで、72歳であるが、もともと作家・評論家として活躍し、その間書きためた俳句を今回初めて句集としてまとめたということだ。種田山頭火の評伝でデビューし、以後多くの作家論や俳句鑑賞を行ってきた。現在も全国の新聞に毎日連載している鑑賞は愛読者も多い。その村上が句集をまとめる契機は大病をしたことによるという。

句集は

1の章「待つものかは」(比較的最近の総合俳誌に掲載した作品)
2の章「かつ消え、かつ結びて」(10年間の句作)
3の章「つもりて遠き」(雑多で、しかし捨てきれなかった句)

からなる。

その意味では、大病をしたあとの村上の諦念がにじみ出ている句が1の章である。術後・術前の区別はつきにくいが、
うらやまし見舞の客に汗の玉
赤とんぼやがて地虫の気息かな
など、過剰な思い入れは不要だろうが、やはり70歳以降の作者の心境がにじみ出ているようである。

2の章は、2002年から2011年までの、おそらくは俳句の評論鑑賞を書いている内に出来た俳句の友人たちとの吟行を中心とした作品のようである。
ふてぶてし臍に汗ため昼寝せり
木枯や動かぬ船を氷川丸
俳人諸氏といっしょに見よう見まねで句作を始めたが、「自作が時には誌面に掲載されることもあり、みっともない作品は出せません。」という気構えで作った句もあるという。

そうした意味では、評論家村上護でありながら、舞台に上がったような観客・評論家を意識した句作とならざるを得ず、好き放題の俳句であるわけではなかったようにも見えるのである。評論家を名告る人々の句作の難しさはこんなところにある。自分が論評したり鑑賞したり、時には論難した俳人たちから鵜の目鷹の目で眺められていることを覚悟しなければいけないからである。

   *      *

そんな意味で、3の章が「捨てきれなかった」といわれているところが面白い。作品を鑑賞する立場から見れば、月並みであっても、主観的であっても、表現が不熟であっても、類想句があったとしても、たった一言「捨てきれなかった」で許せるし、案外それが俳句の本質ではなかろうかという気がするのである。

ある座談会で今回の村上氏の句集を取り上げたが、多くの人は村上氏のあとがきに書かれた言葉通り、「雑多で、本来は捨てればよいのでしょう」をそのまま受け取って、この章に注目していなかった。しかし、考えてみれば、「捨てればよい」のであれば載せるはずがない。やはり「捨てきれなかった」何ものかがあるとすれば、それを村上氏と語り合う必要があるのではないか。

喘ぎつつ稿脱しけり寒の明け
振り売りのひなびことばや冴え返る
亀鳴くや遅れて届く招待状
海賊の裔てふ逸話くるひ凧
ひこばえや花いちりんに静心
桜前線我の気がかりは不整脈
乗込鮒むかし覚えしブンガワン・ソロ
時駆ける日矢は春田を輝かす
吾の見遣る佳人は花に執したり
吉野川紀伊も讃岐も遠霞
国分ける長き橋なり春尽きぬ
若夏や恋ごころいま古傷に
かにかくに失ひし恋さくらんぼ
蝮捕り名人の袋気になりぬ
緑蔭や灰から拾ふ喉仏
祇園町どこ折れようと夏の月
鄙びたる不器男旧居の夏つばめ
つば帽子入道雲と並びけり
海蛇を怖れながらも泳ぐかな
移ろひのやがて長雨処暑すぎて
撫子や家付きといふ母かなし
鉦叩闇にたましひ響かせり
芋の露さよならといふ切なさよ
金木犀ゆつたり登る五十坂
里山や愁ひを秘めし緋のかぶら
年の瀬や用のなくても出歩きし
わたなかにあれあれ人魚野水仙

私自身、この章から意外に多くの句を拾ってしまった。いつ、どのように詠まれたのか分からないところが魅力だし、必ずしも個性がないところも却って面白いと思うのである。切なさ、かなしさを言葉にしているところもルール違反であるし、文学以前のところもあるようである。しかし、俳句とは何なのかを考える際には十分許容出来る作品だと思うのである。

こうした選句をした時、作家村上護ではない批評家村上護はどう考えながらこれらの作品を見ているのであろうか。私が村上氏と対談をするならこれらの作品についてこそ論じてみたい。「本来は捨てればよい」、しかし「捨てきれなかった」、―――これこそが俳句の本質ではないのか。

虚子は駄句の山と少しの傑作を作ったというが、われわれは傑作を肯っても、駄句を肯うことはしない。しかし虚子は傑作の作者でもあると同時に、駄句の作者でもある。傑作の論理はどこか駄句の論理に通じているのではないか。傑作と駄句で評価を分けることが近代文学理論の欠点ではないかと思うのである。捨てきれる俳句と捨てきれない俳句という基準は、近代俳句を超えた新しい世界を提示しているように思われる。

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