2013年3月1日金曜日

二十四節気論争(5)――日本気象協会と俳人の論争――/筑紫磐井編


第2群 修正追加の肯定論

(1)1部は変更すべきである

全く新しい24節気を作るべきという意見は皆無であった。
しかし、在来の24節気の1部が合理的でないのであればその1部を変更すべきであるという意見が若干あった。
  • 立春、立秋はいつも頭にきます。共に季節から外れすぎ。あと小満も意味不明。残りはそのままでいいと思います

  • 個人的には好きだが俳句に必須の概念として(歳時記など)初心者に教え込むのはどうかと思う。

○残念ながら地球の温暖化で季節にズレが生じている以上、何か新たな方向を目指すのは現代の責任ではないかと思います。

     ○俳句のグローバル化に伴って、各国別に考える必要があると思います。

    ○昔のようにはっきりした節気を決めるには、地球温暖化の外、生活様式の進歩などで、大きな誤差があると考えます。多少なりとも現在に合った節気を考え。直すこともあると思います。
○言葉と同じ、淘汰されるものもあって良いと思う。

(2)2つあってよい

前項(1)と並行して、在来の24節気と新しい言葉が有ってもよいという意見が比較的多くあった。
 ただしこの中には、①旧24節気と新24節気を対比する考えと、②旧24節気と(24にこだわらない)季節のことばを対比する意見とがあり、後者が多かった。
前者については、何故「24」節気を作り直すべきか、気象協会が主張しているからという以上の理由は意見からは見いだせなかった(22頁前田予報官の説明によれば36節気の方が適切のようだ)。

〈①旧24節気と新24節気と2つあってよい〉


  • もともと日本人に四季の概念はないのでは。24節気と同じで中国大陸からの輸入物で、概念に過ぎず、違っていて当たり前。難しいから優しくというのは余計なお世話。その起源、受容、変容を押さえて、自由自在に遊べばよい。旧字旧かなが読めない若者は新字新かなでも本は読まないのと同じ。漫画やアニメやyoutubeや映像が彼らの理解し易いもので、易しさとは違う。昔は昔のままの感性で、今は今の感性で、別に並行してあってもいい。24節気も、中国のあり、江戸時代のあり、平成のありでいいのでは。

  • もともと中国の気候に合わせて作られたものをそのまま使うということ自体無理があるのだから、日本独自のものを作っても何の問題もないのでは。それに気象庁がやることについて俳人がとやかく言うことではないでしょう。24節気は俳人や歌人の為にあるのではないわけですし。歳時記に季語としてあるから使う機会があるけれど、もともと季節的な実感がないまま季語として使用してきた言葉は、単に俳句的風雅な言葉として俳句歳時記には今までの24節気と、日本の風土に合った新しい24節気と両方載せればよいではないか。今までの24節気を外してしまうと、古くに詠まれた俳句の意味すら読み解けなくなってしまう可能性もあるわけだし。「竜淵に…」「雀蛤と…」等も季語として使用しているが、まったくの俳句的風雅な言葉として実感を伴わず使っている訳だから、別に何の問題もないんじゃないですか。旧24節気、新24節気で。

  • 新しいものと、古いものが両方あったらいいと思います。
○24節気を完璧に残した上で、実生活に即した新たな節気を作ってゆきたい。
○今の24節気はそのまま残し、「新24節気」を提案し、それを俳人が実際に使えるかどうか、試行期間を経て、作って見てはどうか。それよりも季節と季題のブレが最近非常に多いので、その調整を。

〈②在来の24節季と新しい季節のことば(24節気とは言わない)を対比する考え方〉


  • 24節気は、旧暦とは言いながら、太陽の運行=季節のうつろいに合わせて作られた言葉なので、現在と季節的に大きく変わるわけではない。むしろ太陰暦と季節のずれを調整するために太陽暦に従って作られたもの。季節のずれは地球の気候そのものの変化と人の都会的生活への変化なので、新しい季語ができることはいいが、24節気を無くしてはいけない。それは伝統や民俗、歴史、文化の否定につながるので反対。

  • 気象現象が変化しつつあるからこそ2四季[衍字か?]節気のような季節の節目(古くても)が必要であり、古典俳句などの解説に必要です。新しい季語と古い季語があっての伝統だと思う。使う使わないはという基準は必要がない。

  • 現行の暦でははかりきれないものがあると思います。新しいものを「悪」とはしません(どちらかというと受け入れ態勢)が、古いものを切り捨てることはないと思います。

  • 現在の季語に満足しているし、特に不便も感じていないので、個人的には問題はないが、新しい季語が出来れば、それはそれで良いし、使ってみると思う。

  • 今の太陽暦とは、やはりずれがありますから、ずれを調整しならがら詠んでいる時があります。新季語が自然に生まれているように、節目や移り変わりに敏感でありながら、注釈なしで読み取れるようなそんな呼び方が生まれても良いと思います。

  • 気象協会が新しい季節の言葉を作っても、俳句では24節気を使えばいいのではないだろうか。歳時記に24節気のそれぞれに、何月何日頃と記載してあれば、新しい暦に載らなくても使えると思うが。もともと歳時記は京都を元にしてあるので、地方によってずれがある。24節気で詠んだ過去の多くの作品を今の状態で残すことも考えたい。俳句は読者イコール作者であると言えそうなので、歳時記がしっかりしていれば、違和感がなく24節気は残せるのではないだろうか。

  • 24節気はそのまま残して、日本気象協会が基準とする季節の気象用語を使用すればよいと思います。
○四季をこまかく感じることのできる24節気は生活の中に根付いていると思います。新しい季語の増えていくことも大事なことと思います。
○24節気はそれなりの歴史、伝統もある言葉なので、廃止するのは淋しい気がします。実際に実生活、環境実態とのズレあり、違和感を覚える個々の言葉について考えていけたらと思う。
○「座の文芸」であるから「座」で考えればよい。
○地球温暖化の点から、固執するのはどうかと考えています。素人で恥ずかしいのですが、多少、自由にしても良いのではと思います。
第3群 虚無的態度(どうでもよい、淘汰されるから)

第1群でも第2群でもなく、どうでもよい、不適当な言葉は淘汰されるからという虚無的な意見が2件あった。

  • 高校ぐらいまでは歳時記は知識の宝庫であった。今も季節感は好きであるが、自分の詩にはあまり用いなくなった。復古の好きな人は解説・力説すればよいし、うるさい人は使わなければ良い。季節に関する語に限らず、新しい・欲しい言葉は、浮かべばどんどん書けばよい。そしてすべて自然に淘汰されれば良い。言葉は作家よりも優れた言語感覚を持った人(人々)が作る。

  • 問5、6は気象協会の提案を前提にして答えたが、もとより新しい季節の言葉は実作を通して産まれるべし。当面、24節気が消滅するはずもなく、メディアと、俳句実作者の所謂市場原理に任せればよい。なお気象=季語(24節気)に感動するのではなく、気象を言語化した、その歴史の厚みに感応し、現実との齟齬にも感応するところに、現代俳句の妙味もあるのではないか。24節気は別として季語はどんどん増やすべし、きっと虚子ならそうしたな。

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