2013年3月29日金曜日

第13号 2013年3月29日 発行


【俳句作品】

平成25年春興帖 第四

……矢野玲奈,佐川盟子,下坂速穂,依光正樹,音羽紅子

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  • 春興帖の反響

……筑紫磐井   ≫読む


  • 春興帖論

……筑紫磐井   ≫読む
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【戦後俳句を読む】


  • 中村苑子の句【テーマ:愛という名の餌食】

……吉村毬子   ≫読む



  • 文体の変化【テーマ:「揺れる日本」より④~社会~】

……筑紫磐井   ≫読む



  • 戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】

……堀本 吟   ≫読む



【現代俳句を読む】


  • 二十四節気論争(8)――日本気象協会と俳人の論争――

……筑紫磐井編   ≫読む


  • 特別メッセージ「芝不器男俳句新人賞は終わらない!」

……西村我尼吾   ≫読む


  • 再録・黒い十人の女(六)

……柴田千晶    ≫読む



【編集後記】

あとがき    ≫読む





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中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】7.8.9.10./吉村毬子

7 遠き日へ稲妻走る蝸牛

誰しも「遠き日」を持つ。一般的な俳句でそれを詠めば、懐かしき回想や郷愁の句になることが多いが、此の句にはその種の抒情は感じない。遠き日は、辛苦の日々であったのだろうか。消したい過去の出来事なのか。身を劈くような恋であったのか。
稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ    中村汀女
いなびかりひとと逢ひしき四肢てらす  桂信子
汀女の「ゆたかなる」は、秋の実りを願う明るい稲妻であり、信子の「いなびかり」は、艶やかに閃光を放つ。この二句の具象性に比較すると、苑子の句は、具体性がない。「遠き日」の説明がない為、読み手は、戸惑いつつ稲妻が走ってゆく衝撃を感受するだけである。
「稲妻が走る」というその表記に寄り、稲妻が鳴ると、遠き日へ一瞬のうちに呼び戻されるという仕掛けがある。

苑子には、曖昧に何かを匂わせる句が多いが、此の句もその一つであろう。終わってしまった出来事よりも、稲妻が鳴ると、躰が戦慄するその異様な感覚だけを書き留めておきたかっただけかも知れない。

そして、その「遠き日」の忘れ物のように、蝸牛は背に堅い殻を負い、稲妻を聞きながら静かに濡れている。

苑子は、蝸牛に自身を投影しているのではないだろうか。



8  母音漂ひ有刺線を蔓巻く唄


「母音」本来の意味よりも、末尾の「唄」に「母」の「音」が響いてくるように仕立てられている。
「母音」は漂って、「唄」は蔓を巻く。七、六、六の破調構成が、唄の余韻と有刺線の絶対的威嚇に絡まりながらも、苑子の半生では、日常に見掛けたであろう錆びた有刺線に昭和の郷愁なども窺える。

けれども、母音、即ち母の音、母の存在とは、有刺線の如きものを破ろうと葛藤するのではなく、ゆっくりと知らぬ間に蔓を巻くのである。無論、母は有刺線から逃げない。錆びきった有刺線が活き活きとした植物の蔓に巻かれて、いつしか朽ちていくこともあるかも知れない。苑子の母の時代、また、苑子自身の母という名の女の強さ確かさと、「有刺線」という語彙を選択した時代背景の女の情念が此の一句に込められているのではないか。

強い語彙を挟みながら、上下で郷愁を誘う手法は、前述の7「遠き日へ稲妻走る蝸牛」とも似ている。

「有刺線」でなければつまらない母恋句になってしまう。

尤も、苑子にとってはこれが、母恋句なのかも知れないが・・・。

9 木の国の女の部屋の霜格子

「木の国」、それは、紀伊の国の旧名。また、紀州の神降ろしの祭文から説き起こした、吉原周辺の端唄の一つでもある。

紀伊の国の女を詠んでいるとしても、近代までの繊細な日本女性の抒情を思わせる。

「サンダカン娼館」という映画がある。以前、韓国の従軍慰安婦が世間を賑わせたが、その日本人版である。それは、戦争背景があるにはあるが、戦前(大東亜戦争前)は、口減らし、そして、家族の生活の為、貧しい生まれではあるが、普通の少女が売られていった。

平塚雷鳥や市川房江らによって、婦人参政権を獲得してから、70年にも満たない。

私は、少女時代に父の実家へ行くと、食事の際は、優しい祖父の膝の上に乗れるどころか、父が末っ子だった為、末席近くの卓に母や姉妹と座っていたのが不思議でならなかった。つい、40年前の話である。

「霜格子」、それは、木の窓格子に沁みついた女達の汗や泪が霜と混じり合い、黒々と冷たく光る。雪のように白く柔らかく溶けてゆくのではない。

国から部屋、そして、窓へとズームインしていきながら、霜格子に焦点を当てた書き方は、読み手が抵抗なく自然の流れの中に、薄倖な女を想像する効果を与えている。

苑子を形作ったその時代は、7・8の句と続くように、現代とは較べようもない日本の女の在り方であり、忍耐の果ての強靭な生命力は、創造性を脈々と育成させて現代に繋げていったのだと思う。
句集『水妖詞館』には、そういった時代に生きた女を見詰めつつ、自らも垣間見て、日本女性の現代に至るまでの過渡期を過ごした精神性の詩としても貴重であると思う。

同時代を生きた女流俳人は、多々いるが、個々の女の生理感情を描いたり、嫋やかな大和撫子の抒情を書かれたりしているものも多く見受けられる。苑子は、時には自虐的に、客観的に、自己を通して日本女性を語っているのではないだろうか。

10 火の色の石あれば来て男坐す

富澤赤黄男の昭和27年刊行の句集『蛇の笛』には、「石」の句が多く掲載されているが、その一部を抜粋する。
石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり     富澤赤黄男
冬の石 搏てば わが掌の石も鳴る
夏ふかく むんずと坐る 石のくろさ
の上に わが影 黒く生きよ
石を嚙む 氷 氷を嚙むか 石
ひきずるは 石の棺の音と知れ

苑子は、その5年後『俳句評論』を高柳重信と共に立ち上げているので、同人である赤黄男の句集は、熟読していたであろう。

「石」の句は、有名、無名、多々あるが、赤黄男の句は硬質で凄絶である。無意識のうちに赤黄男の句を踏まえているように窺えるし、憧憬をも否めない。

「火の色の石」に坐す男は、朱々と燃える石と同等な強烈な個性と肉体を兼ね備えた男、であると思い込んでいたが、どうやらそうでもないらしい。

高橋睦郎氏の見解を引く。(『鑑賞女性俳句の世界第3巻』角川学芸出版)
私たちはともすると、火は男、水は女と考えがちだが、ほんとうにそうだろうか。たとえば男を水の性と考えてみる。男が水の性ならば、女は火の性。水の性の男は火の性の女に惹かれる。惹かれるままに来て、女の上に坐る。男が女よりどっしりした存在だというのも、言い古された俗説にすぎないのではないか。女のほうが石のようにどっしりしているというべきではないか。洋の東西を問わず、伝説の中で石になるのは女だ。はんたいに男はたえずふらふら動きまわり、火の色の、つまり女という名の石があると、ふらふらと来て、その上に座る。火の石の上に座るのだから、水の男はたちまち蒸発を始め、だんだん稀薄になり、ついには消えてしまう。それが男の性で女の性だ。そういうことではなかろうか。
「火の色の石」が女であるという観点は、古代より培われてきた女の性を、民話的且つ御伽噺のようなエロティシズムを含み、苑子の句に内包されるものを言い得ているようである。

いずれにしても「火の色の石」は誠に魅力的であり、それを感受し、坐す男もまた繊細で逞しい魂を持ち得ているのであろう。

苑子のもう一人の憧れの俳人、三橋鷹女の「石」の句も記しておく。(『羊歯地獄』所収)

石に花 禁猟地帯石括れ        三橋鷹女


【執筆者紹介】

  • 吉村毬子(よしむら・まりこ)

1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
現代俳句協会会員

戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟

【八】《遠星集》の津田清子と山口誓子の《選後獨斷》

1)


津田清子。昭和二十四年の第二卷第六號から十二號までの《遠星集》の掲載句は、以下の十三句である。

母の忌や田を深く鋤き帰り來し    昭和24、VOL・2 NO.6  
難破船しばらく春の潮湛ふ
野の緑巻尺を卷き了りけり(遠星集1) 昭和24、VOL・2 NO.7、8
百姓の生涯青し麥青し(遠星集2)
身長はまだまだのびる藤畢る
巻頭
虹二重神も恋愛したまへり      昭和24、VOL・2 NO.9
交響曲の最後は梅雨が降りつつむ
紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る 昭和24、VOL・2 NO.10
西日の車窓それから幾頁を読みし 
青田青し父帰るかと瞠るとき     昭和24、VOL・2 NO.11
吾下りて夕焼くる山誰もゐず
木の実木にぎつしり汽車がぬけとほる 昭和24、VOL・2 NO.12
うろこ雲ひろがりぬ産声を待つ 

   
誓子はほとんど毎回、清子の句に触れている。これらの句で誓子が《《選後獨斷》》に触れたものは、後述の予定。(なお1〜5号までは原典を資料としてまだ見ることができないので、宿題として残しておく。)

2)


「虹二重」の句が巻頭を飾った翌月号(昭和24、VOL・2 NO.10)、巻頭三人は、

焦土にて馬も西日をまぬかれず    奈良 小山都址
流木を飛び立つ燕島影なし
蒼海につばめ群れ飛び水葬す
積乱雲生れて間なし犬吠ゆる     岐阜 薄 鵜城
夏座敷佳けれど廃墟かくれずに
紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る 奈良 津田清子
西日の車窓それから幾頁を読みし 


である。天狼誌の中でこの雑詠欄がいかに重要であったか、を誓子の文章を追いながら見ておきたい。

今回は、昭和二十四年十月号、この号の《遠星集》の《選後獨斷》の前半書き出しには、誓子の俳句観や新人育成の方法がのべられている。

3)


「天狼」で山口誓子選の雑詠欄《遠星集》が発足して以来。に様々の反応があったようである。その一つに、北海道の俳誌「緋衣」の批判がでて、それに答える誓子の長い反論がある。誓子の文章の概要を記しておく。(《選後獨斷》昭和24、VOL・2 NO.10)

(なお、俳誌「緋衣」は昭和20年11月北海道で創刊(古田冬草)、該当の文章の原典にはあたっていない。)

以下は、二十四年十月号の《選後獨斷》前半部分。「緋衣」の論客の批判点と、誓子の反論である。

☆ 「遠星集の選は、余りにも網の目が細かすぎると思ふ」

「(誓子は)自己の好みといふ最も目の細かい網を用ひて作家をすくひ捕る独断者」である。の二点について、反批判している。

誓子は、自分は「根源に触れたゐる句を選ぶ」のであり「私の好みで選ぶのではない」。

「天狼」は、根源を探求せむとする作家に廣く門戸を開放して勉強の場を提供してゐる。
「天狼」は、ここで育成されむことを願ふ作家の為めの育成機関である。
他の雑誌に於いて為し得る勉強は他の雑誌に於いてされむことを私は望む。 
(同文33ページ)
などと反論して、

☆ つぎに、誓子の句の真似が多過ぎることなどについて「緋衣」の遠星集への批判。

(前略)。誓子が空気銃を詠へば、遠星集に空気銃が、稲架を詠へば稲架が、焚火を詠へば焚火が夫々氾濫してくる。そこに大衆の愚鈍さがあり、俳句の根本的悲劇があり、しかも極度の厳選といふ事実に依って益々かういう傾向に拍車をかけてゐるのである。遠星集は誓子のさういう表面上の操作を見せつけられるのは毎月数句にとどまらない。(「緋衣」掲載、の誓子の引用文から。)
この手厳しい難詰に対する誓子は、

自分は「素材によつて入落を決めるといふやうな形式的な選句はやらない。」「もし、空気銃で目を開けたとすれば、開けた自らの眼によつて空気銃の句を作つて見るのもいゝ。」「斯くて次第に自己を確立し、自己のみを頼りとするところの句を作り出すにちがひない。それが自性発揮である。」「育性には過程を要する。さういふ過程に於いて右に掲げた勉強方法を禁ずることは潔癖すぎる。」(34ページ)
「大衆の愚鈍さ」「俳句の根本的悲劇」(「緋衣」の文中の云々のことについては、天狼の作家に対して失礼である、と一蹴。「俳句の根本的悲劇性」は、「自力なくして自力ありと過信する作家が俳句をくみし易しと見ることにある。俳句を怖れなくてはならぬ。念ゝ自力を育て蓄えねばならぬ。」(34ページ)

このように、論難に対する、反論はきちんとしており相手の言葉を使って、相手の論理をひっくり返す、そのような展開のなかで、天狼という俳誌の新人育成の体制を明らかにして、俳誌の絶対的な存在価値を宣揚してゆく。

この「緋衣」の文章を書いた人物については筆者のほうでは分からぬが、北海道で昭和二十年、十一月に創刊された。当地の戦後俳句史では重要な存在である。筆者は、十河宣洋の記述をネットで検索してその記述でおおかたの知識を得たのみである。

遠地であることと、この「緋衣」(古田冬草主宰)の雰囲気自体がかなり、自由主義的なものであったのだろうか?誓子の、緻密さ、独断性が脅威にも奇異にも見られていた、という状況もうかがわせる。

しかし、「根源に触れる」俳句を作れる作家を「育成する」のが、当初の《遠星集》の目標であり、天狼はその「育成機関」である、という、この、いわば私塾、学校、ゼミナール風の場所は、今で言えば、商業的に作られているカルチャーセンターのようなものであるが、もっと厳しい。近年、俳句の楽しさ、座の文学ということが言われているが、少なくとも、この天狼の俳句の修行の仕方には、楽しさ、という要素よりも、かなり実存的な探究をめざす修験場に似た厳しさがある。

それだけに、特に選抜されてゆく清子にとっては、学ぶ楽しさ充実感もあったであろう。
しかし、選が厳しいということは、もれ落ちる句も多いということであり、そのことに触れて、誓子はさらに「緋衣」以外の外部の批判にもこたえている。

☆ 「誓子は青年作家に対する愛情が欠けてゐると云ふ」批判について。

「青年の粗雑なる感情を排したことに関する批評であるが」(誓子文36ページ)、というのは、「天狼」誌のどこかに書かれたものか、他誌掲載なのかも知れない。誓子の選のきびしさ、落選率が高いことについていったのだろうか。

その批判というのは、誓子の引用をさらに引いてくると、『炎晝』『七曜』『激浪』という過去の句集に 「未だ枯れざるプロセス」があった筈なのに、「所謂粗雑なる感情を取扱ってゐるかに見える青年作家に対しても、もう少し深い愛情の眼を向け得るのではないだらうか」、という内容だった。

これに対して、誓子いわく。

私は昔から粗雑な感情の句を嫌ふ。
「天狼」の作家は、殆どみな根源探求を求めて苦悶する青年作家である。私はそれ等の青年作家を温かく包容し、溺愛している。これは周知の事実である。
「遠星集」は、他の結社の如く高等・中等・初等の作家を同時に育成する機関ではない。
事実進度の異なる作家を劃一的に育成することは無理である。
「天狼」では、根源探求といふ網の目細か過ぎる為めに、そのことに修練を積んだ中等以上の作家の句が残って初等の作家の句に落選の率の多いのは已むを得ない。
(以上35ページ)
私は屡々添削を施して、句を採用してゐるが、誌上添削などはやらない。(36ページ)

という反論だが、逐次読みすすんでゆくうちに、筆者は、「根源探求」、「根源俳句」という目標を掲げて戦後新しい俳誌を作った俳人たちの構想に同化する気持ちと、さらに「絶対的な教義であった「根源俳句》とはなんだったのか、という疑問に突き当たってしまうのである。山口誓子というリーダーの厳格さは、性格もあっただろうが、「天狼俳句」の型をつくることに普請した結果だろう。このことについての原理的な考察はしばらく置いておきたい。

4)


ともかく、このころの「天狼」で。津田清子がいわゆるズブの素人から頭角を現すことが可能になったのは、この「根源探求」の網目に幸運にもひっかかったからである。

また、その精神を女流で体現しているとされる橋本多佳子の愛弟子である、ということが
「津田清子」という根源俳句の女流を「育成」する道筋ともなってきている。

昭和二十四年十月号、この遠星集の〈西日の車窓それから幾頁を讀みし 清子〉について、
津田清子さん―電車とする。作者は窓際の座席に腰を卸してずつと本を読みつゞけてゐたのである。途中で作者はふつと頭を擡げて外を見た。夏の日が急に西から車窓を照らし始めたからである。作者は光にしばたゝいた眼を、膝の上の本に落し、叉本の虜になつた。

大部経つて作者が外を見たとき、日はもう衰へてゐた。作者は西日が車窓を照らしたときのことを思ひ出し、あれから何頁読んだだらうかと自問した。

「それから幾頁を読みし」は、頁のことでもあるとともに時間のことである。作者のことでもあるし、作者のこゝろのことである。それにしても「西日の車窓」とは美事な省略である。これで時処はぴたつと決定された。

これが果たして片言の文学であらうか。

清子さんの
は、なまじ解きあかしたりするよりも、この儘分析もせず、またそれを総合もせず、讀みかへし、読みかへしてゐる方がたのしいので、敢て指を触れなかつた。
美しい貪婪である。
(山口誓子《選後獨斷》。天狼同年十月号)

(註。引用句「美(は)しき」は原句ではルビがついているが誓子の引用の時にはルビはない。

紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 


と終わっている。こういうほめ方から推察すれば、これらの句には誓子の添削はなかったのだろう。この文章の趣旨からして、津田清子に集中して引用しているが、毎号山口誓子の《選後獨斷》では、毎号上位の投稿者の句を俎上に載せて、誓子が考えるところの根源俳句の展開がなされている。

彼女は、次年度昭和二十五年度の天狼賞を受け(二十六年一月号に紹介)、昭和三十年一月号で同人に推挙される。(津田清子。小川双々子、鈴木六林男、佐藤鬼房の四人)。三十四年第一句集『礼拝』上梓、という経過である。(この項了)



第13号(2013.03.29.) あとがき

北川美美:


春興帖第四を掲載いたしました。

柴田千昌さんの「黒い十人の女」がいよいよ4月から再開します。乞う御期待ください。

****

東京での桜の開花が早かったことに加え年度末で気忙しい時です。

●3月19日は八田木枯さんの一周忌でした。東日本大震災の前月まで行われた八田さんの晩紅塾に約半年参加させていただきました。句会は5句出し、二次会は鰻の出前を皆で平らげつつ席題7句出しでした。短い期間にも関わらず吟行にも数度参加させていただき密度の濃い時間を過ごしました。今も四ッ谷にいらっしゃる気がしています。

下記は2011年2月19日(土)晩紅塾最終回の八田木枯さんの投句です。

金砂子腋よりこぼし手毬つく
うすらひの全てに濡れがゆき亘る
紅梅と白梅対ひ火照るらむ
蔓延元年手毬は弾みつつ毀れ
思い寝のなかとゆききの浮水

ふらんす堂より『八田木枯全句集』が4月中旬発刊予定のようです。
http://fragie.exblog.jp/18901983/


●前号のトップページ写真の椅子は北海道阿寒在住の勝水喜一さんの作品です。



http://katsumizu.exblog.jp/

奈良と京都で展覧会があります。お近くの方は是非是非お立ち寄りください。
谷川俊太郎さんが勝水さんの椅子をご愛用です。


2013/3/29(金)-4/7(日) 奈良・ギャラリー夢雲
http://www.39moon.com/blog/cat22336985/index.html
〒633-0316
奈良県宇陀郡室生村向渕415 TEL0745-92-3960


筑紫磐井:


○春興帖の第四(つまり最終回)をお送りする。人数は多くないが最後までご協力していただいた方々には感謝申し上げる。おそらく、次の季節の俳諧帖が早晩開始されることとなると思う。ご協力を引続きお願いしたい。

○「BLOG俳句空間」の母胎となった「詩客」が4月から大きく変化しそうである。どのようになるか予断は許さない。しかし、「BLOG俳句空間」はそのまま継続する予定なので引続きご覧頂ければ有難い。安定した記事を提供し続けたい。

○「二十四節気論争――日本気象協会と俳人の論争――」は次回で最終回の予定である。4月に日本気象協会が「季節のことば」(気象協会の著作権付き)を発表する予定が着々と進んでいると言う情報が入ってきている。その一方で、気象予報士の森田正光氏からは俳人たちの活動に対する激励の電話を頂いたし、気象予報の大先達である倉嶋厚氏にはお宅に伺いいろいろとご教示を頂いた。季語の著作権を設けるなどとんでもない、という点は全く同感であった。

旧暦のついた暦をみると極めて分かりやすくなる規則がある。例えば、キリスト教のイースター(復活祭)は春分の後の満月の最初の日曜日とされているがこうした複雑な規則も、ヨーロッパの暦では、春分(今年であれば3月20日)から春が始まり、春の最初の月は1日ではなく満月(今年であれば3月26日が陰暦の15日)から始まり、春の最初の月の日曜日(3月31日)を祝日と定めたことを知れば自然に理解出来る。これを文化というのである。年によってイースターの太陽暦の日付が変わるからと言って、決して気象協会が左右出来るものではない。


平成二十五年 春興帖 第四

※画像をクリックすると大きくなります。



   矢野玲奈 (「玉藻」同人・「天為」同人)
我が家にも燕来る頃かもしれぬ
きつぱりと風の中ゆくつばくらめ
初燕すべての道が青信号


   佐川盟子
旧道の廃道となる春の雨
永き日を君錆びるなよ銀に塗れ
散らばつて花は銀河となりにけり

         

   下坂速穂(「屋根」「クンツァイト」)
出掛けたる心の澄みて余寒かな
月光に蕾さしむけ春寒し
くちびるに甘き雨来し入学子


   依光正樹(「クンツァイト」主宰、「屋根」会員)
土に手を当てて感謝や豆の花
足許の水仙を見て空を見ず
竹秋のふたりのことはそのままに
草餅を買へば遣りたき人多し
その鳥を鳥馬と呼べば花の冷え


   音羽紅子(「童子」会員)
やかんより湯気のぼおおと春愁
だんだんと人あらはれて春夕
春障子なにやら語気の荒々し







  

二十四節気論争(9)――日本気象協会と俳人の論争――/筑紫磐井編

(3)気象庁が天気予報等で用いる予報用語


一般(文芸も含む)で用いられている気象・気候に関する言葉であっても、科学的ではないために予報や解説には用いられないものもある。参考までに、気象庁が天気予報等で用いる予報用語(2011年3月現在)のうち季節現象に関するものを掲げてみる。

これらは、日本人が体験してきた気象現象を踏まえつつも、科学独特の価値判断から選ばれたり再定義されている用語であり、文芸に使われている気象用語とは異なるところがある。そこでは、①「明確さ」(情報の受け手に正確に伝わるように意味の明確な用語を用いる)、②「平易さ」(広く一般の人を対象として発表しているので、専門的な用語は最小限とし、誰にでも理解できるような用語を選択する)、③「聞き取りやすさ」(気象に関する情報は活字ばかりではなく、ラジオ・テレビなど音声でも提供され、文字では1目瞭然な用語でも、音声にすると意味を取り違えたり、わかりにくくなったりするものがあるため、音声で伝えることも意識した用語を用いるようにする)、④「時代への適応」(用語は時代とともに変化し、新しい用語が生まれるので、用語の選択にあたっては、固定的にとらえずに、社会一般の言語感覚と遊離しないようにしている)という4つの条件で精査されている。気象学では最も権威ある判断と言うべきであり、これらから見ても、季節のことばはその当否は別として、気象協会ではなく、気象庁が検討するのが適当であろう。

以下、天気予報等で用いる予報用語の中から、季節に関係する用語を眺めておこう。大きくは、季節現象(ある季節にだけ現れ、その季節を特徴づける生物活動や大気・地面の現象。梅雨、春1番、桜の開花、秋雨、初霜、初雪、初氷、初冠雪など。)とその他があるが1括して紹介する。

紹介に当たっては、気象庁の告示に従い、予報用語、解説用語と使用を控える用語を対比して示した。解説以外に適宜注が加えられている

【注】。予報用語(○)・解説用語(△)を最初に、おおむね季節ごとにまとめて掲げ、最後に使用を控える用語(×)を掲げて、気象用語になじまない季節用語が明白に分かるようにした。

分類(用語の冒頭に付されている記号で示す)
○:予報用語:気象庁が発表する各種の予報、注意報、警報、気象情報などに用いる用語
△:解説用語:気象庁が発表する報道発表資料、予報解説資料などに用いる用語
×:使用を控える用語

【春】

△春めく 解説なし【備考】意味が曖眛なので発表文には使用しない。

△菜種梅雨 菜の花の咲く頃の長雨。

○春1番 冬から春への移行期に、初めて吹く暖かい南よりの強い風。【備考】気象庁では立春から春分までの間に、広い範囲(地方予報区くらい)で初めて吹く、暖かく(やや)強い南よりの風としている。

○霧 微小な浮遊水滴により視程が1km未満の状態。【用例】霧が発生する。霧が薄く(濃く)なる。

△もや 微小な浮遊水滴や湿った微粒子により視程が1km以上、10km未満となっている状態。

△煙霧 乾いた微粒子により視程が10km未満となっている状態。

○黄砂 アジア内陸部の砂漠や黄土高原などで強風によって上空に舞い上がった多量の砂じんが、上空の風で運ばれ、徐々に降下する現象。春に観測されることが多い。【用例】黄砂現象があった。黄砂を観測した。

【夏】

○梅雨 晩春から夏にかけて雨や曇りの日が多く現れる現象、またはその期間。【備考】梅雨前線のように「ばいう」と読む場合もあるが、単独では「つゆ」と読む。

△さつき晴れ 5月の晴天。【備考】本来は旧暦の五月(さつき)からきたことばで、梅雨の合間の晴れのことを指していた。

△梅雨入り(明け)の発表 解説なし【備考】数日から1週間程度の天候予想に基づき、地方予報中枢官署が気象情報として発表する。情報文には予報的な要素を含んでいる。「梅雨入り(明け)の宣言」は使用しない。

△空梅雨 梅雨期間に雨の日が非常に少なく、降水量も少ない場合をいう。

○梅雨明け 梅雨の期間が終わること。

○暑(寒)さ 解説なし【用例】(a)暑(寒)さが加わる(和らぐ、戻る)。(b) 厳しい暑(寒)さ。【備考】「暑(寒)さ」は気温に湿度や風の効果が加わった主観的なものであるから「気温の高(低)さ」と混同して用いないこと。例えば、フェーンによる高温は「8月頃の暑さ」ではなく「8月頃の気温」というべきである。

○残暑 立秋(8月8日頃)から秋分(9月23日頃)までの間の暑さ。

△涼しい 暑くなく、体温が快い程度に奪われる感じのこと。

○朝(夕)なぎ 海陸風の弱まる朝夕に沿岸でほとんど風が吹かなくなること。

△やませ 春から夏に吹く冷たく湿った東よりの風。東北地方では凶作風といわれる。【備考】 主として、東北地方の太平洋側を中心に用いられる。

△夕立 解説なし【備考】夏期のみに用いる。

【秋】

△秋めく 解説なし【備考】意味が曖眛なので発表文には使用しない。

○秋雨 秋に降る雨、長雨になりやすい。【備考】(a) おおむね、8月後半から10月にかけての現象だが、地域差がある。(b) 季節予報では主に解説などで用いる。予報文では「曇りや雨の日が多い」などとする。

△秋晴れ 秋のよく晴れわたった天気。

○吹き返しの風 台風が通過した後にそれまでと大きく異なる風向から吹く強い風。

△小春日和 晩秋から初冬にかけての暖かく穏やかな晴天。

○弱い霜 植物の葉などの限られた部分にしか認められない程度の霜。【備考】晩霜の時期には「弱い霜」でも霜害を引き起こすことがある。

○強い霜 畑の植物や地面が一面に白く見えるような霜。

○初霜 秋から冬にかけて初めておりる霜。

○早霜(はや霜) 秋の季節外れに早い霜。農作物に被害が出ることがある。【備考】音声伝達では「はや霜」を用いる。

○晩霜(おそ霜) 晩春から初夏にかけての霜。農作物に被害が出ることが多い。【備考】音声伝達では「おそ霜」を用いる。

【冬】

○初雪 寒候期が来て初めて降る雪。みぞれでもよい。【備考】富士山などの高い山ではその年の日平均気温の高極が出た日以後の雪を初雪とする。

○季節風 季節によって特有な風向を持つ風で、一般には大循環規模など空間スケールの大きなものをいう。【用例】北西の季節風。【備考】(a)日本付近では、冬期には大陸から海洋に向かって一般には北西の風が吹き、夏期には海洋から大陸に向かって一般には南東または南西の風が吹く。(b)普通は、寒候期の北西の季節風に用いることが多い。

△おろし 山から吹きおろす局地的な強風。【用例】六甲おろし。赤城おろし。

△だし 陸から海に向かって吹き、船出に便利な風であることからきた風の名。【用例】清川だし。

○木枯らし 晩秋から初冬にかけて吹く、北よりの(やや)強い風。

△空っ風 山越えの乾燥した、寒くて、(やや)強い風。【備考】主として、寒候期に関東地方で用いられる。

○寒波 主として冬期に、広い地域に2~3日、またはそれ以上にわたって顕著な気温の低下をもたらすような寒気が到来すること。

△3寒4温 冬期に3日間くらい寒い日が続き、次の4日間くらい暖かく、これが繰り返されること。中国北部、朝鮮半島などに顕著な現象。

○みぞれ 雨まじりに降る雪。または、解けかかって降る雪。【備考】「みぞれ」を予報することは難しいので、予報文では「雨または雪」、「雪または雨」と表現することが多い。

○あられ 雲から落下する白色不透明・半透明または透明な氷の粒で、直径が5mm未満のもの。【備考】(a) 直径5mm以上は「ひょう」とする。(b)「雪あられ」と「氷あられ」とがある。予報文では、「雪あられ」は雪、「氷あられ」は雨に含める。

○ひょう 積乱雲から降る直径5mm以上の氷塊。

△凍雨 雨滴が凍って落下する透明の氷の粒。【備考】透明な氷粒であるが、予報文では「雪」として扱う。

△ 細氷(ダイヤモンドダスト) 大気中の水蒸気が昇華し、ゆっくりと降下する微細な氷の結晶。

△氷霧 微細な氷の結晶が大気中に浮遊して視程が1km未満となっている状態。予報では「霧」とする。【備考】「こおりぎり」と読む。

○ふぶき 「やや強い風」程度以上の風が雪を伴って吹く状態。降雪がある場合と、降雪はないが積もった雪が風に舞上げられる場合(地ふぶき)とがある。【用例】ふぶく、ふぶきになる、ふぶきがおさまる。

○しぐれ 大陸からの寒気が日本海や東シナ海の海面で暖められて発生した対流雲が次々に通るために晴れや曇りが繰り返し、断続的に雨や雪の降る状態。「通り雨」として用いられる場合もある。【用例】北陸地方ではしぐれる。【備考】主に晩秋から初冬にかけて、北陸から山陰地方や九州の西岸などで使われる。関東地方では後者の意味で用いられる。

△里雪 山地に加えて平野部でも多く降る雪。【備考】「山雪」、「里雪」は北陸を中心に使われており、季節風による雪の降り方を表す。

○着氷(船体着氷)  水滴が地物に付いて凍結する現象。海上で低温と風により波しぶき、雨や霧が船体に付着し、凍結する現象を特に「船体着氷」という。【備考】航空機にも発現する場合がある。

○着雪 湿った雪が電線や樹木などに付着する現象。

○落雪 屋根等に積もった雪が落下すること。【備考】大雪や、気温が上昇し雪解けが進むようなとき、天気概況や気象情報の本文で、「屋根からの落雪にも注意してください」等の表現で使用する。

△湿り雪 含水率の大きい雪。大きな雪片となりやすく、着雪の被害を起こしやすい。【備考】予報用語としては、「湿った(重い)雪」などの平易な用語を用いる。ただし、北日本など「湿り雪」という用語が一般に浸透している所では用いてもよい。

○なだれ 山などの斜面に積もった雪が、重力により崩れ落ちる現象。表層なだれと全層なだれとがある。

△結氷 解説なし【備考】(a) 予報用語としては「氷がはる」を用いる。(b) 湖、川、海岸などの固有名詞を付す場合は用いてもよい。【用例】諏訪湖の結氷。

○流氷初日 視界外の海域から漂流してきた流氷が、視界内の海面で初めて見られた日。

○海明け 全氷量が5以下になり、かつ沿岸水路ができて船舶の航行が可能になった最初の日。

【その他】

○長雨 数日以上続く雨の天気。【備考】気象情報の見出しなどに用いる。

△風雨 雨をともなった風。【備考】「風雨」は用いない。天気予報文では「風雨が強い」とはせずに、風と雨について個別に強さを示す。例えば、「~の風が強く、雨」。

【使用を控える用語】

×桜前線 →桜の開花日の等期日線。

×花曇り 桜の咲く頃の曇り。【備考】通俗的な用語のため予報、解説には用いない。

×さみだれ 梅雨期の雨(旧暦5月の雨、「五月雨」と書く)。【備考】通俗的な用語のため予報、解説には用いない。

×梅雨寒 梅雨期間に現れる顕著な低温。【備考】通俗的な用語のため予報、解説には用いない。

×紅葉前線 →カエデの紅葉日の等期日線。

×かすみ 解説なし【備考】気象観測において定義がされていないので用いない。

×激しい雷雨 →強い雷。【備考】激しいのは雷なのか雨なのかわかりにくいので用いない。

【注】(説明文中に付されている記号・用語)

【用例】:用語の使い方の例。使用する際の注意事項。用語の運用の取り決め。音声伝達の用語。

【備考】:その他のただし書き

→:使用を控える用語(使用しない用語)に対して言い換える用語があることを示す。
この他「解説なし」は自明のことであり特に解説が施されていないことを示す。

(4)天文台と24節気


現在国の定める暦とは、国立天文台が毎年2月に官報公告する翌年の公式暦である「暦要項」であり、これには国民の祝日、日曜表、朔弦望、東京の日出入、日食および月食等のほか、24節気及び雑節が定められている。24節気は暦上の必須項目なのである。

国立天文台(暦計算室)では、旧暦と新暦の関係について次のように述べており、穏当な見解ということができる。

 
「例えば、「旧暦」では1月から3月が「春」とされていましたが、現在でも「新春」などと言うときには、「旧暦」と現在の暦が1ヶ月ずれていることを考慮せず、現在の1月から3月を「春」と考えてしまいます。「1月は寒くてとても春とは言えない」など季節感のずれを感じることには、こんなことが影響しているのではないでしょうか。これは、現在の暦より「旧暦」のほうが季節をうまく表しているということではなく、「旧暦」から現在の暦への日付の読み替えがうまくいっていないということです。

 
昔ながらの季節感や伝統行事について考えるときには、こんなふうに「旧暦」と現在の暦の成り立ちにも思いをはせると、より深い楽しみ方ができるのではないでしょうか。」

「現在でも、太陰太陽暦にしたがっておこなっていた習慣は、私たちの生活の中で生きています。例えば、「中秋の名月」は太陰太陽暦の8月15日の夜の月のことをいい、たいへん美しいものとして古くから鑑賞されてきました。また、「七夕」も本来は太陰太陽暦の7月7日におこなっていたものです。

太陰太陽暦は使われなくなりましたが、このような昔からの習慣の意味やそこに込められた心は、これからも受け継いでいきたいものです。」

文体の変化【テーマ:「揺れる日本」より④~社会~】/筑紫磐井

【赤線区域】
宅診のストーブ燻る赤線地区 俳句 28・2 山口誓子
※売春施設として、戦前は娼妓渡世規則などによる公認遊郭があった。戦後GHQは公娼廃止指令(昭和21年)によりこれを廃止したが、売春防止法の施行(昭和33年)までの間は非合法で売春が行われており、その地域を赤線といった(GHQも政府も容認していたという)。吉原、新宿、玉の井、洲崎など。

【アルバイト】

帰省せず働きをると便りのみ ホトトギス 22・1 松尾黄鳥子
学生に書なき嘆きを石蕗咲けり 石楠 23・4 安部布秋
【移民】

移民われ蝦夷に老いつつ墓掃除 ホトトギス 21・10 三浦三郎
暮春果てなしうたひ嘆くや移民らも 氷原帯 26・7 須藤寒彩
開拓のために移り住む人々。移住先には、海外(ブラジルやドミニカ)や北海道などの国内もあるが、挙げられた例句は後者のようである。後述の開拓参照。

【会議】

会議荒れ頬殺ぐ汗の光りけり 万緑 21・12 井口素雨
【開墾[開拓]】

開拓者老い葉桜となりゐたり 氷原帯 27・8/9 中西草石
山を拓くここに住みつき鷹を見たり 氷原帯 細谷源二
※昭和20年に政府は緊急開拓事業実施要領を閣議決定し、戦後の大量の復員軍人・海外引揚者・離職者を帰農させて食糧自給を図るため、農地開拓を緊急に実施することとしている。


【寡婦】

水道凍ついまに戦争未亡人 鶴 28・4 黒木野雨
【孤児】

冬日宙見る見る孤児が煙草吸ふ 現代俳句 22・5 石橋辰之助
孤児の髪膚目だけが動き冬ガード 寒雷 24・3 山内文三
孤児は異人の靴磨きつつ春が来る 曲水 24・5 池上放天
言葉かくして孤児に雪球投げらるる 俳句 27・9 今川寅太郎
孤児園の鯉が大きな五月晴 風 29・8 三度清
※終戦直後の昭和20年9月に政府は戦災孤児等保護対策要綱をまとめ、個人家庭への保護委託、養子縁組の斡旋、集団保護の対策などを決めたが、実効はなく多くの子供らは浮浪児となることとなった(後述浮浪児参照)。

【混血児】

混血児(あいのこ)と話してをれば流れ星 万緑  22・1 岡田海市 
桐咲いて混血の子のいつ移りし 浜 28・5大野林火
アマリリス混血児いまも殖ゆるといふ 曲水 28・10 酒井鱒吉
金魚玉ぶるさげて来る二グロの娘 雲母 29・8 片桐翠舎
※特に、戦後、連合国軍兵士との間に生まれた子供。

【産児制限】

産児制限ふるわず日本蝌蚪の水溢る 氷原帯 29・4 佐野みつる 
※人為的に受胎、妊娠、出産を制限することで、戦前からマーガレット・サンガーの主張(出産を女性自身が決定する権利)が紹介されていたが、戦後日本では、昭和23年の優生保護法の制定、昭和26年の受胎調節の普及に関する閣議了解によって家族計画(家族にとって適切な数の子どもを,適切な時期に出産するように,妊娠に計画性をもたせること)が国策としてとりあげられた(世界最初ともいう)。

【傷兵】

行き過ぎしとき傷兵の義足鳴る 太陽系 22・3 後藤■子
灼けし屋根戦が生みし病者等に 浜 25・7 谷沢せいじ
失明兵士跼む渋谷の銀河うすし 寒雷 28・2 早川融史
蜜柑剥く指を戦に失ひたる 石楠 28・2 越太楼
西日の電車いつまでも傷兵に叫ばすや 石楠 28・10/11 田中三艸
※戦争で傷を負った軍人(傷痍軍人)のこと。重度のものは、陸海軍病院、傷痍軍人療養所(現在は国立病院機構に統合)などで療養し、繁華街でアコーデオンなどを引き寄付を求めていた。平成25年11月に傷痍軍人会は解散の予定、現在の平均年齢は91歳だという。後述「廃兵」参照。

【女性解放】

をんならに夏官能の詩多し 曲水 26・7 田中了司
【失業保険】

春吹雪妻の失業保険尽きる 氷原帯 29・5 茶森文三
※失業保険法(昭和22年)により失業者に失業保険金を支給する制度。
【職業安定所】

職安出て昼月ささる冬木の街 道標 27・2/3 藤塚三郎
※職業安定法 (昭和22年)により職業紹介事業を行なう施設。
【植民地】

伸ばし組む春泥の足・足植民地化すすむ 俳句研究 25・6 金子兜太
※例句は植民地ではなく、「植民地化」である。

【生活苦】

屋根に落葉目に見えてくらしつまりきて 浜 21・1 大野林火
【戦争花嫁】


夏の雲ゆく戦争花嫁といふことば 俳句苑 28・1 鈴木しづ子
※戦後、進駐軍の軍人(主に米国)と結婚し海外に移住した日本人女性。米国においては配偶者の入国を認めるいわゆる日本人花嫁法(1947年)の制定により初めて米国へ入国することができた。

【託児所】

託児所へ子を早乙女となりきりぬ 石楠 24・10 軽込表仙
※明治以来あった慈善事業施設の託児所が児童福祉法(昭和22年)の制定により保育所と改められた。

【堕胎医】

蚊帳青う眠る堕ろせし子と吾子と 俳句 28・9 黒田晩穂
堕胎する妻に金魚は逆立てり 曼珠沙華 24 野見山朱鳥
※昭和23年の優生保護法(当初は母体保護のため、その後、昭和24年に経済的理由を目的に含める改正が行われた)の制定により、人工妊娠中絶が合法的に行われることとなった。


【尋ね人】

海霧充ち来(く)ラヂオの尋ね人はじまり 氷原帯 27・11 田中北斗 
※NHK第1ラジオで、「尋ね人」という、戦中・戦後の混乱で連絡を取れなくなった人々と尋ね人の名前を読み上げる番組があった。昭和21年から37年まで土日を除く毎日朝・昼・晩の3回放送された。

【男女共学】

学苑は共学木槿咲き満ちぬ 曲水 28・11 金沢鉄竿
※戦前も男女共学の大学があった(東北帝国大学など)が、昭和22年の教育基本法の制定によって男女の共学が原則となった。その後女子大生は飛躍的に増え、昭和46年に暉峻康隆早稲田大学教授が女子大学亡国論を唱え物議を醸した。

【血を売る】

カンナ咲く血を売る人のまうしろに 現代俳句 22・12 八木三日女
血を売る腕梅雨の名曲切々と 寒雷 24・9 原子順
いくたびか血を売りて我卒業す ホトトギス 26・5 深山幽谷
「血を買ひます」その下に梅雨の傘畳む 麦 29・8 野口種郎
※日本では、アメリカに倣い、昭和26年以降、京都大学の教授たちにより血液を買い取る民間の組織(血液銀行)ができた(日本ブラッドバンク、のちにミドリ十字に改称、現在は田辺三菱製薬)が、昭和39年の献血制度の導入によりなくなったと言われている。掲出句によればそれ以前から売血の実体はあったらしく、どんな組織により行われていたか不明であるが文書で残る歴史以前の実態が浮かび上がる。

【停電】

燭の焰は立ち蕭々と冬の雨 花宰相 22 山口青邨
夜毎読むチエホフや燭の夜もありて 太陽系 22・3 伊丹三樹彦
冬市の道を街に入る時停電す 石楠 22・4 芳賀杜牛
【ニコヨン】

ニコヨンの寒オリオンを背にかへる 麦 26・10 石井三信
ニコヨンに明日への職場雪を掻く 寒雷 29・3 清水清山
※昭和24年、東京都の失業対策事業として職業安定所が支払う日雇い労働者への定額日給を240円(百円玉2個と十円玉四個)と定めたことによるという。

【入植】

入植地霧に一木さへ見えぬ 浜 28・6 村松達爾
※開拓のために移り住むこと。


【廃兵】
廃兵の史観は雲を暑くする 慶大俳句 藤田宏
※在隊中に病気や負傷のため重度の障害を負った兵士のこと。フランスではいちはやく癈兵を収容する施設が出来、日本でも戦前から癈兵院(後傷兵院という)が各地に設けられた。

【母子寮】

梅雨の墓地母子寮の子が来て遊ぶ 曲水 26・10 酒井満壽古
※戦前の救護法・母子保護法、特に戦後の生活保護法・児童福祉法(昭和22年制定)によって整備された配偶者(夫及び父)のない母子の生活する施設。平成10年に母子寮の名前は廃され、母子生活支援施設と改められた。

【ボス】

かのボスも寝つらん霜に立尿る 浜 22・12 赤城さかえ
【日雇】

こんな世の中いやだよ雪の日雇夫 氷原帯 27・5 小室一行
日雇律儀雪を四角に四角に切り 氷原帯 29・2 山崎涼人
日雇の昼の休みもうつむき勝ち 青玄 29・8 林田紀音夫
【浮浪児】


浮浪児の俄にはしやぐ花吹雪 ホトトギス 22・8 古屋信子
大きな冬月浮浪児がに股手は胸に 鼎 金子兜太
浮浪児の目があかあかと焚火育つ 鼎 田川飛旅子
浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」 銀河依然 中村草田男
※膨大な数で発生した戦災孤児が浮浪児化し、政府は昭和21年 4月に「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」、同年9月に主要地方浮浪児等保護要綱を定め、(福祉対策ではなく)治安対策としての浮浪児狩りを行い、児童鑑別所等に収容した。当時の浮浪児の様子は、昭和22年7月~開始したNHKドラマ「鐘の鳴る丘」(菊田一夫原作)で描かれた。

【浮浪】

浮浪者のこほるがごとき睡りかな 石楠 29・2/3 福塚一葉
※戦前の警察犯処罰令、戦後の軽犯罪法で、一定の住居または生業なくして諸方に徘徊する者とされる。現在はホームレスと言い換えられる。

【闇屋】

児に泣かれをんな闇屋は悴める 太陽系 22・4 江口帆影郎
闇米をひき出すひとの膝下より 青玄 29・7 松谷登城夫
※闇取引(正式な販路によらず、ひそかに売買したり公定価格でない値段で行う取引)をする人。例えば米は、食糧管理法により戦前から配給制度が取られ、米穀通帳を必要としていた。

【かつぎ屋】

かつぎ屋が追はれて逃げて案山子となる 俳句 27・12 上野可空
※食料(闇物資)などを地方の生産地から担いで来て売る人。

【汚濁の世】

早く世が美しかれ冬の鶴歩む 浜 22・2 堀喬人
地上がみにくいためにこの凧上がりたる 氷原帯 28・3 細谷源二
うつり変る世の様激し木の葉髪 ホトトギス 21・2 西尾絹女

戦争や経済の章と違い一般国民に直接的な影響を持つ事項が多く当時は共感を呼ぶ作品が多買ったと思われる。その一方で、今では意味を失った言葉や、言葉の背景をなす社会状況(少しづつずれているのが一番困る。戦争花嫁とか入植・開拓とか)がわからなくなっている事項も多い。また、売血のように、公式の歴史に現れない事実が俳句でのみ記録されていることも驚きである。詠んだ作者でさえ自覚していない俳句の効用である。


最も代表的な例が、頻出する戦災孤児に関する事項で、終戦受諾の直後から戦災孤児問題は取り上げられていたが、当初は戦災孤児が浮浪児化して様々な犯罪や売春、犯罪組織への組み込みに関与することに対する深刻な治安対策として措置がとられた。このため7大都市では浮浪児刈りが行われ、彼らは様々な施設に収容される一方、そこから脱走するなどのいたちごっこが繰り返されたらしい。福祉問題として意識されたのはその後(GHQの民間情報教育局の指導で「鐘の鳴る丘」が始まる頃)のことである。

その一方で、戦後の歴史は続いており、例えば傷痍軍人会が現在未だ存続している(本年中に解散の予定)のは衝撃である。小さくはなりつつも現代に痕跡は残っているのである。



2013年3月22日金曜日

第12号 2013年3月22日 発行



【俳句作品】

平成25年春興帖 員外


……吉村毬子,早瀬恵子,西村麒麟,栗山 心,大井恒行,深谷義紀,
      宮崎二健,池田瑠那,中西夕紀,筑紫磐井,飯田冬眞,酒巻英一郞,
                  山田真砂年,福田葉子,北川美美,池田澄子

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  • 春興帖の反響

……筑紫磐井   ≫読む

  • 春興帖論

……筑紫磐井   ≫読む


 【戦後俳句を読む】

  • 文体の変化【テーマ:「揺れる日本」より③~戦争・平和~】

……筑紫磐井   ≫読む


  •  三橋敏雄『眞神』を誤読する 77.78.

……北川美美   ≫読む


  • 赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】
……仲寒蝉    ≫読む


  • 戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ:書き留める、ということ】

……堀本 吟   ≫読む



【現代俳句を読む】

  • 二十四節気論争(8)――日本気象協会と俳人の論争――

……筑紫磐井編   ≫読む

  •  特別メッセージ「芝不器男俳句新人賞は終わらない!」

……西村我尼吾   ≫読む


  • 再録・黒い十人の女(六)

……柴田千晶    ≫読む



【編集後記】

あとがき    ≫読む




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二十四節気論争(8)――日本気象協会と俳人の論争――/筑紫磐井編

(2)24節気と日本の気象に関する論文


 24節気については歴史学者の藪内清により、節気の季節は洛陽など黄河中流域の季節で日本とは違う、という説が唱えられこれが一般的な通説となっているようである。しかし、気象に関する専門家(気象研究所や大学の気象学者)は24節気についてあまり研究を発表していないようである。これに関する論文としては、いささか古いが倉嶋厚氏のもの、それを批判する3角幸夫氏、さらにそれを批判する石原幸司氏に代表的な論文があり、24節気問題を考えるに当たって必須な論文と考える(気象協会のずれているから24節気を見直すという主張や俳人の季節のずれこそ文化であるとする説の前提が正しいかどうかを検証する意味で)。因みに、倉嶋氏、石原氏は24節気を肯定し、三角氏は否定している。

○倉嶋厚氏(元気象庁主任予報官、鹿児島地方気象台長)の『日本の気候』(1966年刊古今書院)

後述の三角幸夫によれば、24節気と日本の季節についての議論は、倉嶋氏のこの論文しかないと紹介している。倉嶋氏は、東洋の四季は光の季節、西洋の四季は気温の季節と考え、古い中国の太陰太陽暦は、その緻密な校正、鋭い自然観測などの点で、東洋文明の高さを示すものであり、季節学の上でも、ただたんに古いといって捨て去ってはならぬ文化遺産であるとのべている。
 因みに戦後の代表的な百科事典の24節気に関する記載は倉嶋氏が記述しているものが多い。

○三角幸夫氏(元気象研究所予報部予報課、現松江地方気象台長)の「「今日は暦の上では立秋です」とは?24節気と日本の季節」(「天気」【注1】2004年4月)

倉嶋論文を引用批判し、2002~2003年の各国の月平均気温データを比較しつつ、24節気は黄河中流域の季節進行に準拠して作られたが、黄河中流域を含む中国北西部は、北半球中高緯度で太陽高度の季節変化と気温の季節変化との差が最も少ない地域に当り、一方日本はこの差が最も大きい地域に含まれる、結果として日本の気温季節変化は黄河中流域に比べ1ヶ月近く遅れているとする。

特に倉嶋氏の意見の科学性は認めつつも、倉嶋氏の指摘はあくまで中国での話で、季節進行が違う日本で守り続けるべきものではなく、特に中国北西部の体感季節からから名付けられた大寒・大暑・大雪等が周知されることは、いたずらに日本の季節進行に対する誤解を生じさせている。中国の季節区分に固執することなく、日本に合致した新しい季節区分を導入すべきであるとする。
 以上を踏まえて24節気しか季節の指標がなかった昔は別として、太陽暦を導入した現在、気象学的にも体感的にも日本の季節進行と大きくずれている24節気が気象関係者によって使われ続けている現状を1度見直すべきではないかと提言する【注2】。立秋を夏の最も暑い時期と理解して使い続ければよいというような意見は、言葉の意味を無視した用法と考えると厳しく批判する。

【注1】「天気」は日本気象学会の機関誌。
【注2】倉嶋氏が指摘するヨーロッパの季節区分が、春分ー夏至ー秋分ー冬至で行われていることを月平均気温データーで確認し、日本の場合もほぼ正確にこの区分で気温季節に分割されると指摘している。つまり3月21日から春、9月23日から秋とすべきと見るのである。

○石原幸司氏(現気象庁気象研究所気候研究部)の「24節気は本当に日本の季節変化とずれている?」(「天気」2008年11月)

従来の24節気を論じた論文の問題として、節気を①節気入りの日(「立春」であれば2月4日)、②節気から次の節気入りの前日までの期間(「立春」であれば2月4日~18日)、のいずれと解するかで答が違うという。専門家の間でも、和達清夫監修『気象の事典』(1993年)は本来は②であるが通常は①、日本気象学会編『気象科学事典』(1998年)は②、と微妙に解説が分かれているという。石原氏によれば、黄道の等分点を通過する日付として決まっている冬至・春分・夏至・秋分は時間(何時何分何秒)まで決まっているから①以外あり得ないが、大寒や大暑は②と解する方が合理的であるとする。

実際この期間の考え方によって、再解析データJRA―25の1979~2004年の日別平均気温データを使った各節気の期間平均気温の平均値を計算し、中国黄河流域4地点と日本の代表的3地点の最も寒い日と最も暑い日の期間平均気温を比較してみると、最も暑い日は黄河流域では小暑~大暑、日本では大暑となり、最も寒い日は黄河流域では小寒~大寒、日本では大寒となる。黄河流域に比べ日本は季節変化の遅れが見られるが、しかし24節気と日本の季節変化はほぼ合致していることが確かめられたという。

石原氏は、体感させてくれる気象要素が日平均気温ではなく、日最低気温や日最高気温などの諸要素の検証も必要であると慎重な態度を取っているが、「24節気は日本の季節変化とずれている」というNHK放送文化研究所編『NHK気象・災害ハンドブック』や3角論文(2004年)に対する疑問を提示している。石原氏の提案は、「今日は暦の上では・・・です」ではなく「今日から暦の上では・・・です」という使い方が適していると結論づけている。

以上のように論文は、大暑と大寒(最も寒い日と最も暑い日)についての議論が中心だが、石原氏は「今回の調査が、24節気を「日本の季節進行とはずれがある中国の古い暦」としてではなく、「すでに日本で広く親しまれている暦」という現状を活かした用い方へと見直すきっかけになれば幸である。」と結んでいる。

(アカデミックな論文なので編者の引用間違いもあるかも知れないが、要旨は押さえたつもりである。)

【総評】

倉嶋氏が東洋の四季は光の季節、西洋の四季は気温の季節と指摘していることに対して、三角氏はこの説明は東洋にあって中国の四季の説明とはなるが、日本の四季の説明とはなっていないと批判し、月平均気温では中国と日本では1ヶ月の季節の差があると指摘する。これに対し石原氏は、24節気を①節気入りの日と②節気から次の節気入りの前日までの期間に分けて考えるべきことを指摘し、三角氏が「月平均気温」で比較している中国と日本の比較を「各節気の期間平均気温」で比較することにより、確かに(三角氏のいうように)黄河流域に比べ日本は季節変化の遅れが見られるが、しかし、24節気自身(特に大寒と大暑)との比較では日本の気候と合致していることを示した。

文体の変化【テーマ:「揺れる日本」より③~戦争・平和~】/筑紫磐井

「揺れる日本」の第2章は「戦争・平和」である。第1章に比べて理解しやすいテーマが多かった。第1章の「政治・経済」に比べ、日本人の戦後の原風景をなす言葉だからであろう。

【終戦】


戦争終わりただ雷鳴の日なりけり 来し方行方 20 中村草田男
寸前や法師蝉ふゆるばかりなり 雨覆 20 石田波郷
忍べとのらす御声のくらし蝉しぐれ 亜浪句集 20 臼田亜浪
二日月神州せまくなりにけり 俳句研究 21・9 渡辺水巴
カーキ色の世は過ぎにけり夏の蝶 俳句研究 21・9 中村草田男
ながい戦争がすんだ簾をかけた 現代俳句 21・10 栗林一石路
玉音のまぎれがちなり汗冷ゆる 太陽系 創刊号 日野草城
一本の鶏頭燃えて戦終わる 野哭 加藤楸邨

※掲載しているすべての句を選んでしまった。多くの句が今日でも十分鑑賞に堪えうる内容となっているからである。「終戦」(「敗戦」ではない)という言葉が戦後の日本人の心の中に重い意味を持ち、文芸上のキーワードともなっていることを示す例である。

【敗戦】


寒燈の一つ一つよ国敗れ 現代俳句 22・3 西東三鬼
足袋褪せぬ敗戦国の一病者  俳句研究 25・4 石田波郷
敗戦を信ぜぬ嫗味噌搗ける ホトトギス 26・11 (ブラジル)増田恒河
山茶花やいくさに敗れたる国の 旦暮 日野草城

【抑留[捕虜]】


残留や迎春花など活けもして ホトトギス 22・8 三井典子

【復員船[帰還船]】

梅花手に復員船のどん底へ 現代俳句 22・5 平畑静塔

【復員】

蚊帳の果ふたたび母と子となりし 俳句研究 21・4 長谷川かな女
復員の一歩忽ち春泥に  現代俳句 22/5 平畑静塔
プラタナス芽おそし復員服は憂し 石楠 23・6 石原沙人
※戦争に人材を投入する「動員」に対立する、元の状態に戻すことを意味するのが「復員」。陸軍省、海軍省は終戦直後、第一復員省、第二復員省に名前を変えた。

【引揚げ】


露寒や引揚げてより何殖えし 俳句 28・10 千代田葛彦

【帰還】

船上ぬくしペンキ塗られつつ故国(くに)へ 万緑 21・10 川内清明 
炎天の爆音孤なり還りたり 寒雷 22・4 桑田善一郎
黒南風にのりてぞひとの還りける 野哭 加藤楸邨

【帰還者】

落花激し戦後北京に在りし女(ひと)に 浜 28・6 野沢節子

【未帰還】

蝉を聞く戦傷にても子が還らば 曲水 28・6 鈴木頑石

【遺骨―遺影―遺品】

帰り来し遺骨に白き蝶のとぶ 俳句研究 21・2 矢野蓬矢
遺骨もどる炎天高く高く鳶 浜 22・10 齋藤春楓

【戦没碑】

戦没碑未だ古びず青芒 歩行者 23 松崎鉄之介

【独立】

向日葵立つ吾等独立全からず 浜 27・11 松崎鉄之介
国独立金魚ペカペカ游ぎ居り 曲水 27・11 大塚麓

【講和】

講和遠く冬にんじんの色あたたかし 氷原帯 25・7 佐々木母星
五月片面講和発効して皆敵と味方の如し 俳句 27・10 佐々木夢道
※昭和26年9月に署名、翌年4月に発行した、日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan)であり、サンフランシスコ講和条約ともいう。この条約によって連合国は日本国の主権を承認し、戦争が終結した。「朝鮮動乱」参照。

【朝鮮動乱―戦火】

蝉鳴くやすでに好戦めく新聞 浜 25・9 細見三郎
戦雲よそに妄執夏雲の句を作る 俳句研究 26・1 中村草田男
※朝鮮戦争(昭和25年6月~28年7月の韓国(李承晩大統領)と北朝鮮(金日成主席)の間で行われた戦争)のこと。米国、中国、ソ連の兵員や資材が大量に投入された代理戦争であった。

【休戦―停戦[朝鮮動乱]】

庶民には氷旗はためき休戦成る 俳句 28・9 加藤かけい
株式課暑し小暗しいくさ憩む 青玄 28・10 榊利明
※朝鮮戦争の「休戦」(戦闘の一時休止)であり、60年後の現在も戦争は「継続中」である。

【平和】

戦あるな古鉄を梅雨の貨車運ぶ 氷原帯 26・8 笹村佳都夫
いくさあるな地底の楽のつづく限り 氷原帯 28・6別 大久保坑人
いくさやめよ胸の弾痕汗を噴く 俳句 28・8 長谷川岳
戦あるかと幼な言葉の息白し 俳句 29・4 佐藤鬼房
いくさよあるな麦生に金貨天降るとも 銀河依然 中村草田男

※「いくさあるな」はほとんど慣用句のように使われていた。

【戦の不安―戦おそる】

閑古鳥わびし戦争玩具殖ゆ 氷原帯 28・9 高橋敦

【反戦―反米】

冬の噴水徴兵反対の嗄声飛ぶ 俳句 29・1 鈴木六林男

【予備隊】

木のない街かすみ予備隊行進す 俳句 27・8 宮田亭三

※昭和25年8月(朝鮮動乱の直後)にポツダム命令(占領軍が必要と認めた場合に制定する法律に匹敵する命令)である「警察予備隊令」により設置された陸上自衛隊の前身の組織。

【保安隊―保安庁】

蟻つぶすや保安隊員汚れ通る 石楠 28・10 石坂春水
※警察予備隊等を改編して発足した陸上自衛隊、海上自衛隊、防衛庁の前身の組織。

【再軍備】

蝿生まれ戦車軍艦復た還る 鶴 28・5 石塚友二
誰欲す軍備ぞ蟹の穴無数 浜 29・7 金丸鉄蕉

【武器―武装】

茴香の花がくれゆく警備艦 ホトトギス 24・9 小島静居
        寒燈に呆け自問す兵器とは 浜 25・3 大野林火


【冷戦―二つの世界】

蝶々の横行コールド・ウォーアの中 銀河依然 24 中村草田男

【原爆忌】

※すでに第1回目の連載で詳説したのでここでは省略する。

【ヒロシマ[広島]】

主婦たたら踏むメーデーやヒロシマに 俳句 29・7 沢木欣一

【原爆地】

原子弾の原頭に立てば秋日遠き 石楠 23・2 松田刻積
原爆中心地コスモスの白只一輪 曲水 24・11 菊池麻風
原爆屍かつと口開け妬けつく地 麦 27・8 中島斌雄
被爆ドームを耀らす花火をさへ憎む 青玄 28・11 筒井黙彦

【原爆症――ケロイド】

原爆症の名に麦梅雨を忌みにけり 石楠 22・11/12 阿部布秋
原爆の疵顔にあり卒業す ホトトギス 24・8 土岐対風楼
原爆症診て疲れ濃き秋の暮 俳句28・4 下村ひろし
ケロイド無く聖母美し冬薔薇に 俳句 28・10 阿波野青畝
※前項の初めの2句、この項の初めの2句はまだGHQの検閲を受けている時代の、数少ない原爆の俳句である。偶然生き残った作品であったのではなかろうか。その意味では「原子弾」「原爆中心地」「原爆の疵」など言葉として不熟であるのが却って生々しい。

【原爆展――原爆図】

毛糸編む気力なし「原爆展見た」とのみ 銀河依然 27 中村草田男
原爆図絵吾子には見せず蝉遠し 俳句苑 28・2 能村登四郎
原爆図唖々と口あく寒雷 寒雷 加藤楸邨
※昭和25年から制作された丸木位里により制作された『原爆の図』。

【原爆記念館】

夏雲の下の原爆記念館にあれ 浜 27・7 目迫秩父
※建築家丹下健三の設計により作られた「広島平和会館原爆記念陳列館(現・広島平和記念資料館)」は昭和30年に開館。ここに掲げられているのは、市の中央公民館に設置された「原爆参考資料陳列室」か。

【原子爆弾――原子雲】

原子爆弾蟻も南瓜も焼くるなり 俳句 27・8 徳川無声
兵たりし記憶西瓜と原子雲 曲水 26・10 田口宗吉

【死の灰――原子禍】

死の灰雲春も農婦は小走りに 俳句 29・6 西東三鬼
「死の灰より救え」ビラへ日本の梅雨茫々 寒雷 29・8 古沢太穂

【水爆】

水爆禍ヤロビの麦の緑濃く 風 29・6 山口顕夫
腋に梅雨傘水爆反対署名なす 青玄 29・7 伊丹三樹彦

【放射能――ガイガーカウンター――福竜丸】

禍つ雨季来ぬ間に蟇よ食ひ太れ 俳句 29・8 竹中九十九樹
紫蘇の実青し「福竜丸」に漁夫癒えよ 俳句 29・8 飯島草炎
※昭和29年3月1日に、ビキニ環礁での米軍による水爆実験で放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び、14日に焼津港に帰還したマグロ漁船第5福竜丸。無線長だった久保山愛吉氏がこの半年後に死亡した。

「揺れる日本」の第2章にあたる「戦争・平和」は、<「揺れる日本」より①>で取り上げた句をふくめて問題が多い。特に、25~26年を境にそれ以前と、それ以後ではこと「戦争・平和」に関しては、我々の見るべき点が全く異なるべきなのである。それは社会の問題と言うより、作者の問題、作者のおかれた環境の問題と言うべきである。われわれは自由に活動しているように思えても、実は大きな枠組みの中でしか活動や思索は出来ないものなのである。後世になって初めてそれが分かるのであるが、その当時は精一杯に考えた結果であると思っている。実はわれわれには敵が見えていないのであるから、敵の思った通りのことをやっていた可能性が高い。何が敵で、何がわれわれの限界であったかは、いささか長い文章になりそうなので以下に譲ることにする。

    *     *

戦後の言論と自由の関係については、現在一つの支配的な見方がある。一例を挙げてみる。

「戦後、日本の新聞人は焦土の中から戦前・戦中への深い反省と、民主日本の建設に向かって再スタートを切りました。「戦争のためにペンを執らない」との固い決意と同時に、言論の自由を高く掲げ、権力のチェック機能を果たす歩みでした。このことは、国民自身が国家の主人公であり、民主主義の根幹をなすものであります。1948年の第1回新聞大会での新聞週間代表標語「あなたは自由を守れ、新聞はあなたを守る」、翌年の第2回「自由な新聞と独裁者は共存しない」―は、国民が期待する新聞の役割と使命をズバリと表現しています。」(第52回新聞大会/新聞大会を迎えて・「地方、世界、未来へ意見」下野新聞社社長 早川仁朗、平成11年10月)

ここに出てくる「自由」については疑義がある。これら戦後における新聞週間の実施と自由は密接な関係を持つものであり、新聞週間標語をつくったのは誰か、と、標語に「自由」の語を用いさせたのは誰か、を調べれば、こうした標語が自然に発生したものではなく、意図的に生まれたものであることが分かってくる。

さてその前に、占領下の日本において新聞の置かれていた環境についてながめておきたい。個別の新聞の状況はここではおいておき、占領軍最高司令部の様々な指令により動かされた具体的な事実について以下に記してみる。

昭和20年8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾、28日連合国は日GHQを横浜に設置した。30日にはマッカーサー元帥が厚木飛行場に到着し、9月2日軍艦ミズリー号上で降伏文書にサインし、9日マッカーサー元帥の対日管理方針の声明、という慌ただしい状態の中であった。この直後には、11日には東条英機以下戦犯の逮捕、15日GHQの日比谷第一生命ビルへの移転などがあった。

さてその間、昭和20年9月10日最高司令官指令第16号「言論及び新聞の自由」が出される。GHQによって出された最初の新聞報道に関する指令で、ここでは、日本帝国政府は、真実に符合せず又は公安を害するニュースを頒布しないよう必要な命令を発しなければならない(第1項)、公式に発表されない聯合国軍隊の動静、聯合国に対する虚偽又は破壊的批評風説は論議してはならない(第3項)、最高司令官は真実に符合せず又は公安を害するような報道をする出版物・放送局に対しては発行禁止又は業務停止を命ずる(第5項)、等の内容の5項目の指示を行っている。さらにGHQは、つぎつぎと速やかな具体的な事件の取締や、指令の追加を行った。

まず、GHQは、9月14日同盟通信社(当時の日本の代表的な通信社。直後、共同通信社、時事通信社に改組される)に降伏以来のニュースの取扱において誠意を欠くものがあると認定し、業務停止を命じた。翌15日、米軍宣傳対策局民間検閲主任ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社長、日本放送協会会長、情報局総裁、日本タイムス理事等を招致(強制連行)し、今後の宣傳に対する厳重なる警告をした上、同盟通信社の活動再開に許可を與える旨通告した(昭和20年9月17日朝日新聞)。

これ以降、同盟通信社の記事は検閲を受けるに至った。また、他の新聞社でも、朝日新聞が9月18日に48時間の発行停止を受けた(指令第34号)。

この通告に際し、マッカーサーは声明を出した。要旨は、日本は敗北した敵であり、最高司令官と日本政府の間においては対等な交渉の余地はなく、命令を受けるだけである、この点について誤った印象を与える報道は許されず、厳しい検閲を受けるべきである、という露骨なものだった。

「聯合國が如何なる点においても日本國連合國を平等であるとは見なさないことを明解に理解するやう希望している。日本は文明諸国家間に位置を占める権利を容認されてゐない、敗北せる敵である。諸君が国民に提供して來た着色されたニュースの調子は恰も最高司令官が日本政府と交渉してゐるやうな印象を與へている。交渉と言うものは存在しない。さうして国民が連合国との関係における日本政府の地位について誤つた観念を持つことは許されるべきでない。最高司令官は日本政府に対して命令する。しかし交渉するのではない。交渉は対等のものの間だけに行はれるのである。しかして、日本人は彼等が既に世界の尊敬や或は最高司令官の命令に関して折衝することが出來る地位を獲得したとは信じさせてはならない。ニュースのこの傾向は即時停止されなければならぬ。

諸君は国民にこの旨を告げないことに依って公衆の不安を招いてゐる。諸君は日本の眞の地位について正しくない描為をしてゐる。諸君が発表した多くの報道は眞実に反している。日本国民に配布される総べてのものは今後一層厳重な検閲を受けるやうになるであらう。」(昭和20年9月17日「朝日新聞」)

誰でも読める新聞にこんなやりとりが載っているというのが驚きである。余りにもあからさまであり唖然とする。連合国は、連合国の都合によって(つまり正義とは関係なく)、天皇にしろ、総理や閣僚にしろ、国民すべての生殺与奪の権(実際処刑したり、失職させたり、逮捕する権限)を超法規的に持っていたことがよくわかる。戦争に負けるということはこういうことを言うのである。負けない戦争をしない限り(そんな戦争は存在しないだろうが)常に、自分自身のみならず、妻や子や親兄弟にこうしたとばっちりが及ぶことを覚悟しておくべきであった。

引き続き、マッカーサーの趣旨を体した報道規制命令が発せられた。これが有名な「プレスコード」(昭和20年9月19日最高司令官指令指令第33号)である(英語名はPRESS CODE FOR JAPAN)。詳細にわたるが翻訳文を引用することとする(江藤淳『閉された言語空間』より)。

第1条 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。
第2条 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。
第3条 聯合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。
第4条 聯合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。
第5条 聯合軍軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。
第6条 報道記事実に則して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。
第7条 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。
第8条 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を強調すべからず。
第9条 報道記事は関係事項又は細目の省略に依つて之を歪曲すべからず。
第10条 新聞の編輯に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。

これらの指令に基づき検閲が開始されたが、公式には検閲制度が取れなかったため非公式の覚え書きによっていたといわれている。検閲の実施は民間検閲支隊(略称CCD)が行っていた。この組織は将校88名以下、日本人5000名を含む総員6000名以上という大所帯であったという。

検閲内容は、占領軍の検閲指針としてあげられ(昭和21年11月25日付)、具体的には、SCAP(連合国最高司令官)に対する批判、極東軍事裁判(東京裁判)批判、SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判、検閲制度への言及、合衆国・ロシア・英国・朝鮮人・中国・他の連合国に対する批判、満州における日本人取り扱いについての批判、第三次世界大戦への言及、ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及、戦争犯罪人の正当化および擁護、占領軍兵士と日本女性との交渉、闇市の状況、占領軍軍隊に対する批判、SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及、解禁されていない報道の公表など30項目に及んでいる。

GHQにおいては、このような厳しい検閲や規制にもかかわらず、前述の指令第16号に「日本の将来に関する事項の討論の自由は日本が敗戦より世界の平和愛好国家の仲間入りする資格を有する新なる国家として出発せんとする日本の努力に有害ならざる限り聯合国により励奨せらる」(第2項)とあるように、解放後の日本における新聞の重要性が認識され、後の新聞週間行事の主役となるGHQ民間情報教育局新聞課長インポデン少佐がしばしば地方講演を行ったりして新聞普及行事の関心を徐々に高めつつあった。

このようなGHQの意向に呼応して実施に踏み切ったのは地方紙である愛媛新聞だった。昭和22年12月1日からの1週間を新聞週間と名づけて諸行事を実施した。当時「新聞協会理事会に一緒にやろうと申し出たが、アメリカのいなかの新聞のまねか、と一蹴された」という(「新しい世紀へ」愛媛新聞社社長・今井琉璃男)。しかし、愛媛新聞の週間の反響は大きく、この地方の一新聞の行事に、片山総理大臣の祝電、民間情報教育局長ニュージェント中佐のメッセージの声明などが寄せられ当時の紙面を飾っている。

さらに全国的な新聞週間の動きは、インポデン少佐と全米新聞週間委員会全国委員長カール・A・ジールケ氏により積極的に日米共同の新聞週間を開くことで提案された。前年の愛媛新聞の申し入れと異なり、全米新聞週間委員会とインポデン少佐の申し入れに新聞協会は異議なく賛成し、こうして第1回新聞週間の開催が決定された。この行事は、米国の新聞週間と合わせて10月1日から1週間とされた(現在では10月15日から1週間に改められている)。

このようにして第1回新聞週間は始まり、この年のアメリカの新聞週間に寄せたトルーマン大統領の祝辞が日本の新聞週間の紙面にも掲載される。一方、日本での第1回新聞週間の大会は東京で開かれ、芦田総理大臣祝辞、新聞課長インポデン少佐のメッセージ、民間情報教育局長ニュージェント中佐の祝辞、シーボルト対日理事会議長の祝辞などが寄せられたという。新聞週間が、いかにGHQの深い関心と関与の下に行われていたかがうかがわれる。

このような事情で、昭和23年の第1回の新聞週間は日米共同事業として行われ、米国の新聞週間標語を日本でも採用することとし、それを「日米共同標語」と呼ぶこととし、米国新聞週間標語「YOUR RIGHT TO KNOW IS THE KEY TO ALL YOUR LIBERTIES」(「すべての自由は知る権利から」)が日本の新聞紙上を飾ることとなる。一方これに対応して、日本でも標語「あなたは自由を守れ新聞はあなたを守る」が作成され、「代表標語」と呼ばれている。

この年、アメリカの新聞週間では、マーシャル国務長官が新聞週間へのメッセージを送っており、それを昭和23年10月2日付の朝日新聞がGHQ民間情報局発として「検閲は独裁への道」と見出しを付して次のように掲載している。

「今年の新聞週間のスローガン「あらゆる自由は知る権利から」こそは、まさにアメリカ政府が全世界に力強く唱道しようとしている基本的なもの、すなわち「すべての人が真実を知る自由」を高らかに宣明するものである。現在世界の総人口の半ばまでが、何らかの形で、″検閲″というものゝ下に生活している、検閲と新聞統制は独裁者が人民を屈服させるための最も重要な第一歩なのである。」

日本で検閲が行われていたにもかかわらず、である。

第2回新聞週間の大会は翌24年大阪で開かれ、マッカーサー元帥の声明、吉田総理大臣祝辞、インポデン少佐の祝辞、オモロハンド近畿民事部長の祝辞が行われた。この時の、日米共同標語は、「新聞のゆくところ自由あり」であり、一方代表標語は「自由な新聞と独裁者は共存しない」であった。

ただこれらの「自由」の意味は、全米新聞協会は兎も角、GHQの解釈は特別な意味を持っていたことが推測される。第2回の新聞週間に寄せたインポデン少佐の声明は、この「自由」が何であるかをよく示している。

「読者はまた次のことを知っている。すなわち共産主義者は日本における一切の進歩的計画を阻害し日本の精神的、経済的進歩の崩壊を図り政治的秩序と責任を破壊しようとしていること、また全体主義的独裁のもとに日本国民を奴隷化しようとしていることをよく知っている。」
「勇敢で正直、誠実で有能な教養ある日本の民主的新聞の編集者たちは今後とも日本が自己に目覚めた状態から再び冷笑的で残酷な警察国家の水準に逆行することをたえず防止するものと私は考える、自由な新聞は圧政の大敵である、共産主義へののろいであり、独裁者に対するノミ取粉である。」(昭和23年10月2日「日本経済新聞」)

正しく「自由」とは「反共」であった。もちろん、新聞週間当事者の各種の声明にあらわにそれが語られていることはないが、当時の新聞紙面にはいわゆる赤狩り記事が溢れており、建前のメッセージに対し、それに対するコンテクストは新聞を読めばすぐ分かったと思われる。

昭和25年の米国の新聞週間標語は「自由の国民に真実を告げる米国の新聞」だった。さすがにこれは日米共同標語には採用されなかった。日本の新聞週間推進者はびっくりしたことであろう、まるで米国の枠組みの下で日本の新聞週間ができたことが歴然としているからである。こうして、日米共同標語は再び登場することがなくなり、日本側の新聞週間代表標語だけが掲げられることとなる。因みに、新聞週間そのものも米国では衰退していった。

日米共同標語の終了とともに「自由」の宣伝から新聞は解放されたようだ。そして昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27年4月28日、多くの問題を抱えたポツダム勅令は失効した。

第12号(2013.03.22.) あとがき


北川美美

今号は「春宵」題詠句会を掲載しました。

***

花粉症の症状がピークを迎えている気配です。不思議とこの症状、重い時となんでもない時の差が激しく、重症時は呼吸も苦しくなるほど。睡眠バランス、ストレス、生活習慣とも関連しているとか。民間療法の甜茶だの黒豆にポッカレモンだの…あらゆる情報をかき集めて併用していますが、これが何をやっても効かない!アーユルヴェーダ療法に因ると身体を温めるのがよいようですので適度の運動が必要。昼寝はいけないらしい。

春は眠いのですが我慢しなければならないということですね。症状の辛さと眠さには勝てませんのでどちらをとるか困ったものです。瞑想でもするしかないようです。身体も芽吹きの季節なので仕方ないのでしょうか、やはり。


筑紫磐井

春興帖は、今回は員外として、「春宵」題詠句会を紹介する。昨年前半に行われた題詠句会のメンバーを中心に春宵の一時を楽しんだ句会である。時々こうしたイレギュラーな企画も交えることとしたい。

春興帖メンバー、題詠句会のメンバーの羽村美和子氏の句集『堕天使の羽』が文学の森より刊行された。同じくメンバーの大井恒行氏が懇切なる解説を寄せられている。ちなみに氏は「豈」「WA」「連衆」同人。

前回掲載した特別メッセージ「芝不器男俳句新人賞は終わらない!」(西村我尼吾)は反響があった。西村氏の手腕に期待することとしたい。ちなみに西村氏はERIA事務総長としてERIAと奈良県が共催するアジアコスモポリタン賞を設置し、昨年12月17日(月)~18日(火)にアジアコスモポリタン賞受賞記念奈良フォーラムを開催している。昨年度の同賞の文化賞には「スラムダンク」「バガボンド」で人気の漫画家の井上雄彦氏が受賞した。


河津桜





戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ:書き留める、ということ】/堀本 吟

【七】 「虹二重神も恋愛したまへり」の句について

1)
「七曜」に入り、「天狼」の雑詠欄「遠星集」に投句を始めた津田清子は、「天狼」の昭和二十四年四月号に今までで述べてきた「毛糸編む吾が眼差しはやさしからむ」が誓子選に通った。実質的にはこの句がデビュー作となるが、これは巻頭ではなく後半に取り上げられている。それ以前に、橋本多佳子がこれを最初の出会いの句会の席で特に言及したものである。新人ではあったが、橋本多佳子の強力なバックアップもあり、指導もあったゆえか、遠星集の投句者津田清子の存在を知らしめた次の句は、その年の九月号に巻頭句に置かれている。

虹二重神も恋愛したまへり 奈良 津田清子 {昭24年九月号 天狼)
句会では、この句について、山口誓子は一ページを割いて批評を施している。拙文では、この連載の2月1日掲載に、その批評を転載している。
http://sengohaiku.blogspot.jp/2013/01/horimoto1.html


誓子は。この句の解説をする前に、天狼における、橋本多佳子の位置について述べている。この一文の文意は、なかなか興味深い。まず、俳句の理想が、「芭蕉」であるとしても、その「中間標格として手近な現代作家を標格とし、その作品をめざして進むといふことにならざるを得ない」。

と現在の伝統詩の作家の位置を明記する。そして、「この事情は/女流作家に就いても異なるものではない」。その手頃な作家とは誰あろう橋本多佳子である。「女流として「天狼」精神を最も正しく、最も深く具現してゐる」。「津田清子さんはさういふ(橋本多佳子を標石としている)側の女流としてその進出目覺ましい」。それで「今回はこの女流を巻頭に据ゑた。/女流はこれを機会に奮起して津田さんにつヾいて貰ひたい。」(山口誓子《選後獨斷》)

とある。「中間標格として手頃な現代作家」とは、「天狼」の女流では橋本多佳子であることが示され、津田清子は橋本多佳子の直系の弟子その後続者なのである。「天狼」が戦後の優れた才能を集めていることは言うまでもないし、津田清子が、鈴木六林男や島津亮、岡本風彦等と並ぶ突出した新人であることは言うまでもないことだったのだが、上位に出てくる女性がまだほかにいなかったこともあり、山口誓子選の《遠星集》から、多佳子→清子と云うこのラインをつくることが、「天狼」という俳句組織のこの時期の仕事だったのだろう、とこの《選後獨斷》を読みながらの筆者の感想である。

そのような前説のあとで、誓子はいよいよ句そのものの批評に入るのであるが、これがまた、ほとんど絶賛に近い。

誓子によれば、二重の虹については、日本の古い絵図に描かれ、また中国の古典にも詳しく説明されていることを挙げるがそのような科学的説明を飛び越えて、


(略)作者には、神々も地上の人間の如く恋をしたまふのかと思へてならなかつた。
正虹が男神か副虹が女神か、そんなことの穿鑿を許さぬほどにこの句は直接である。
二重の虹の美しさが即ち神々の恋の美しさなのである。
(傍線 堀本)


と褒め、さらにこの句の「恋愛」という表現が、「虹の美しさを生々と傳えてゐる。」

とつづける。確かに「恋」という言い方ならば、それは古代からの連想を引き、比較的容易に思いつくものであろう。それを「恋愛」といういわばモダンな流行言葉をとりいれたために、その楚辞で表現として活きてきている。戦後の自由恋愛というような風潮に結びつけたところは大胆なのである。

津田さん、周辺の人たちに語るところによれば、当時、「恋愛」という言葉がはやっていたので使ってみた、ということである。(澤村秀子談)

誓子が評価したのは、この瞬時に自分の直感を対象に食い込ませる「直接」性なのであるが、中村草田男の句と比較してこう言う。

草田男氏の「寒星や神の算盤ただひそか」註。昭和23年作『銀河依然』所収昭和28年みすず書房)
を想わはしめるが、「寒星」と「神の算盤」が「直ちに結びつかぬところに一種のもどかしさが感ぜられる。」また。石田波郷の「雨覆」(註・昭和23年七洋社刊。引用句は昭和22年までの作)
にみつけた


  N家もっとも飢ふ

夕虹の二重なすはや寢て了ふか

を並べて、

虹二重の句の「先行者」であるが、津田さんの句は別に新しい境地を拓いてゐる。それは認めねばならぬ。

と言っている。虹二重は容易に恋と結びつくのであるが、「神の恋愛」と言い切った津田清子と云う女性の新人に、山口誓子は、新しい境地を認めている。時代にふさわしい言語、素材としての新しさに注目している。しかも、同じ直感型の草田男が観念的抽象的にとびがちであるそれよりむしろわかりやすいと言わんばかりである。

もとtも、私の取り方では、中村草田男の「神の算盤(そろばん)」は、清子の「神の恋愛」とは少し違う切込だと私には思われる。誓子の解釈に添うとしても、かなり難解な飛躍があり、やはりその表現の独自性は、この津田清子と比較しても始まらぬものがある。

しかし、この場合、「天狼」女性俳句の新人として台頭した津田清子は、卑近な感受性によって、天然現象を一個の劇として捉えたことと、もってまわった言い方ではなく直接に断言したこと、その言葉の歯切れの良さなど、私にとってもこれは清子の俳句の中でもっとも好きなものである。浪漫的でかつ、神を人間の地平に引き下ろした知性があり。茶目っ気もあり、伝統も踏まえていて、それから、なんといっても男たちの句は暗い。抒情のおいて共感は呼ぶだろうし、あっけらかんとしたあかるさは、戦後の民主主義的な開放感をも体現している。

2)

ここで、まとめと次回への導入として、昭和二十四年の第二卷第六號から十二號までの《遠星集》の句を抜き出しておく。


母の忌や田を深く鋤き帰り來し    昭和24、VOL・2 NO.6  

難破船しばらく春の潮湛ふ

野の緑巻尺を卷き了りけり(遠星集1) 昭和24、VOL・2 NO.7、8

百姓の生涯青し麥青し(遠星集2)

身長はまだまだのびる藤畢る

巻頭 虹二重神も恋愛したまへり      昭和24、VOL・2 NO.9

交響曲の最後は梅雨が降りつつむ

紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る 昭和24、VOL・2 NO.10

西日の車窓それから幾頁を讀みし 

青田青し父帰るかと瞠るとき     昭和24、VOL・2 NO.11

吾下りて夕焼くる山誰もゐず

木の実木にぎつしり汽車がぬけとほる 昭和24、VOL・2 NO.12

うろこ雲ひろがりぬ産声を待つ    
1〜5月までは原典を資料としてまだ見ることができないので、宿題として残しておく。
これらの句で誓子が《読後鑑賞》に触れたものについて次回に少し触れる。

引用はまちがえぬようにしなければならないが、こうして書きうつしながら、誓子が考えたこと、清子が感動し、言葉にしようとしたことが、もう一度反芻されるような気がする。すべてを報告することは必要ないはずなのだが、こう書きうつし書き留めるめることで、私の中の戦後のイメージが随分ひろがったような気がする。
(この稿了)