2013年2月1日金曜日

三橋敏雄「眞神」を誤読する 67ふなびとの日焼もさむし北わたり./ 68.白き書の点字痛しや見えぬ空 / 69.夕景や降ろす気球のあたま一つ  / 北川美美

67. ふなびとの日焼もさむし北わたり


船上従事者としての視点の句が続く。

航海とは陸から陸へ海を渡ること。永く乗船していると南から北へと季節も変わっていく。

「北わたり」が当時の歌謡曲風かもしれない。日本で言えば、青函連絡船で北海道へ渡ることも北渡りであろうし、38度線を越えて北朝鮮へ行くことも北渡り。シベリアへ行くことも北渡りだろう。

北へ行くことが、何かを背負っているように思えるのは、「さむし」が効いているからなのだろう。

四季の移ろいも海をゆく船の上で感じていたことを思わせる。

68.白き書の点字痛しや見えぬ空


前句の「さむし」につづき「痛し」というネガティブな心情が伺える句。白き書の点字が指に痛い、点字の穴あきが白い書物にとって痛い、視覚障害を思い心が痛い、などが読み取れる。下五「見えぬ空」により視覚障害者にとっての心情と点字を掛け合わせていると読め、一見、差別的な句として見えてくる。俳句の短さゆえにやっかいである。

視覚障害のある人にとっての書物は、痛いことではなく、敏雄の句の「天金の書」のような存在だろう。

点字は横2×縦3の6つの点の組み合わせで表記する。
参考までに『眞神(まかみ)』を表記すると、







         ま        か         み

となる。

視覚障害者約35万人のうち、点字を読める全盲者は約4万人で、耳で読書するしかない全盲者は約9万人、拡大文字で読書する人(弱視者)は約23万人いるといわれている。

「心で見ることができる」という読み、あるいは、「見えぬ空」から時代への将来的な閉塞感をも吐露しているようにも思えるてくる。将来的閉塞感ということであれば、今の平成二十四年の時代のこの深刻さの方が上を行くような気もする。

歌人で盲目だといわれている蝉丸を題材にした能『蝉丸』は、ハンディを背負う蝉丸と姉の逆髪のいたわり合う場面が見どころである。定めの無い世の中だからこそ、耳を澄ませ、心で見ることができることを説いている。「蝉丸」が盲人であることが重要な役割を果たしていると同時に哲学的な見地でこの能が語られることも多い。

あえて蝉丸になぞるのは深読みしすぎだろうか。

今の日本の閉塞感に通じるものを感じることができる。「見えぬ空」だからこそ、敢て痛みに耐えて行くことをよしとする、極めて日本人的な美意識を私たちは忘れているのかもしれない。

点字は確かに指に痛いが、その感触から言葉を読み取れる。見えぬ空も言葉により見えてくる。言葉に対する強い思いが込められているのだと思う。



69.夕景や降ろす気球のあたま一つ




気球は、飛行するための乗り物で人が乗るための籠がついたもの。「降ろす」という自動詞から作者は気球の中で操縦しているのかもしれない。「あたま一つ」分の高度が下がったので視点が十メートルくらい降下し、視点も下がることになる。

『現代俳句全集四』(立風書房)に蒐集された若干削除や並びを変えている『眞神』にも上掲句は収められていて、周到な敏雄がこの句を『眞神』から除外せずにいたことを考え合わせると、やはり眞神の世界観を表す作者の視点を考えての読みである。

機上から眺望する視点、それは、いままでの句にもあった彼の世とこの世の中間地点のようにも思えてくるのである。気球の速度は、どこの世界ともつかない浮遊する速度としてはちょうどいいように思える。

あわただしく留守の準備を整え、大陸へ渡る長距離航路の機体が離陸する。ななめ上を向いていた身体が水平になり座席ベルトのサインが消える音で目を明けた瞬間、なんともいいようのない安らかな気分になる。社会のしがらみ、人間関係、過去、現在、全てから解き放される。どの世界の正確な時刻をも持ちえない「機上の人」になるということは、ああ死ねる、という瞬間と似ていて、黄泉の国への途中飛行のように思う。空にいる視点というのは、すこしだけ現世と離れられる感慨と似ているのである。

「夕景」というこれから暮れてゆく景色。世の中が終わりになるという大袈裟なことではないけれど、視点を変えて一日が終わっていく景色を見る。「あたま一つ」分だけ高度を下げて、現世が近くなったということだろうか。

敏雄の視点は常に浮遊しつつ読者をどこかで見た風景に連れて行くことができるのである。


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