2013年2月1日金曜日

文体の変化【テーマ:短歌と俳句で読む①】/筑紫磐井

~安土多架志の場合~

安土多架志についてはすでに難解もいろいろな場面で触れてきた。しかし、「短歌と俳句で読む」というなら身近で是非触れなければならない作者である。

本名は小田至臣。昭和21年、京都に生まれ、高槻高校を経て(このとき同学年に攝津幸彦がいる。国語の教師は茨木和生)、同志社大学神学部に入学、70年安保闘争に参加する。大学卒業後、香料会社に勤務するが、その会社で組合を組織し、組合不信を抱きつつ勝利のない闘争に邁進する。昭和58年、ガンが見つかり、不屈の精神力で闘病するも昭和59年8月23日帰天。享年38歳であった。彼の精神力がいかに強靱だったかは、組合活動の理論化のために中央大学法学部通信教育課程で学習を始めていたのだが、闘病中に、熱に浮かされながらも400字詰め150枚の「生産管理の合法性」という卒論をまとめていたことが示すだろう。

こうした硬派の歩みを取りながらも、不思議な脇道をたどる。昭和50年からサンケイ学園蒲田教室の加藤楸邨の俳句教室に通いはじめる。さらに、短歌、俳句作品を多くの雑誌・新聞投稿欄に投稿する、選を受けた俳人歌人は数知れず。島田牙城、今井聖らと一緒の超結社句会に参加していたとき、私は安土と知り合った。上のような激しい経歴を持っていることなど片鱗もうかがわせなかった。昭和59年8月には、歌集『壮年』(書肆季節社)、句集『未来』(皆美社)としてまとめている。学生闘争、組合運動、カルチャー教室、新聞投稿作家。何とも形容の難しい作家であった。

陽炎へばわれに未来のある如し
しづかなるゆふべのいのりいととんぼ
花野行きて道失せしとき赤電話
百科事典ほど静まれり夏の森
ひらかなでわが名呼ばるる浴衣かな
女学生集まりをれり毛虫ちぢむ

第1句は句集巻頭にあるよく知られた句だが、意味はよく考えなければならない。我々は誰もみな自分に未来があるはずだと思っている。したがってこの句のような「如し」の使用は虚字であり、オーバーであり、初心者の陥りやすい甘い句と見えてしまう。しかし、安土は昭和58年2月に不治の病の宣告を受けており、様々な治療を試みつつあった、その最後に近い時期に詠まれたのがこの句であった。4ヶ月後に安土はなくなる。だから安土に未来はないのであり、それゆえに陽炎という幻惑の素によって「未来のある如」く感じられたことに対して素朴に驚きを感じたのである。
なくなる1ヶ月前に、安土はその伴侶と句集上梓の相談をし、句集名を『未来』と決め、巻頭にこの句をおいた。あとがきで安土は、句集上梓に当たって仲間の好意の結集によってこの本が出来たことを喜びつつ「この好意に対して今の私は、何ひとつ報いることができないが、いつの日か報いることのできる日が来ることを念じてゐる」と書いた。二人の視線も、読者のそれも、未来を向いている。たぶん、あり得ない未来を。


安土の歌集『壮年』は、句集に比べてもっと直接的である。昭和54年から58年までの入選歌800首からえらばれた586首は安土の思想そのものであるといってよい。

止まりたる時計の如き思想とも言はば言へわれは「今」を肯はぬ
暴力を美しとも思ふ夕映の映ゆくわれはつねに負けゐて
悲しみの腹より湧く日マルクスをわが読みゐたり強くなりたい
キスしてもいいか氷雨の降り続く街は淋しい息絶えんほど
きらきらと雨の雫の落つる窓寒き光と思ひて見をり
厚き皮膚持ちて滅びざるもの疎ましシーラカンスもホモ・サピエンスも

しかし安土の最も有名な歌はこの歌集本編には載っていない。最後の後記にひっそりと書かれている。

グリューネヴァルト磔刑の基督を見をり末期癌(ステージ・フォー)われも磔刑
   ――――何、負けるものか。きつとよくなる。

この2つの詩型を比べた時、どちらが印象に残るかと言えば、やはり短歌の方ではなかろうか。誤解を与えるといけないから補足すれば、どちらが心を打つかと言えば短歌の方だと言うことである。短歌の傍線部分が、どうにもやりきれなくなるのだ、そしてそれが生(なま)だろうが何であろうが作者の思いを伝えてくれる。俳句にこの傍線部分はない。考えてみると、俳句というのは傍線部分を切り捨てることによって成り立っているのかも知れない。


歌集『壮年』はA5版の函突きハードカバー240頁で586首を収める3500円の大冊である。句集『未来』は文庫本サイズの64頁で226句を収める定価800円の瀟洒な本だ。別に体裁が中身を決めるわけではないが、安土多架志の短歌は堂々として欲しい、それに比べて俳句は、心温まるものがあると同時に誤解を受けやすい。

あたたかき冬芽にふれて旅心

この旅は尋常の旅ではない。腸閉塞でした手術からがんである事が発見され、おまけに手遅れであったことが分かる。現代医療の救いのない安土はフィリピンに赴き、HEALERの手当を受ける。手を当てるだけで痛みが消え、熱が下がる。麻酔も消毒もせず、道具を使わず、手だけで手術をして、患者は痛みも感じず、手術後は可能もせず傷跡も残らないのだという。HEALERの手当を受け、延命の兆しが見えたこの旅を、短歌で詠めばもっと切迫した響きとなったろうが、安土はこの詩型を選んでいるのだ。私にはまるで遊行のような旅に見える、安土の苦しい背景は何も見えない。しかしそれを是とした安土の精神をわれわれは受けとめなければならない。じっさい苦しい人間は、「苦しい」と言いたいのだろうか。引かれ者の鼻歌でもいいから、せせら笑ってみたいのか。
 なくなる少し前に「風船を放つ」と言う文章を書いている。風船は子供にとって大切なものであることを書いた上でこう述べている。

 「或る日或る時、子供は風のない野原で大切な風船を、そっと放したのです。すると、風船が静かにのぼって行く大きな空の澄み切った青さが、子供の体をすっぽり包み込んだのでした。
 大人であるぼくもたまには、自我への執着や過度の自愛を、風船のようにそっと放ちたいものだと思いました。」

 こんな心境にある安土が、何故最後の最後に俳句を選んだかが分かる気がする。

春雨を聴かず聴きつつ夢うつつ
白百合の夕べは祈る姿かな

この2句は『未来』にも載っていない。全句集を作るとすれば、「『未来』以後」と記されるべき1章の句だ(この1章は僅か20句程度で出来ている小さな章なのだが)。安土にとって風船を放つような思いがこめられている。それは地上から解き放たれる魂のようにも見えるのである。


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