2013年2月22日金曜日

第8号 2013年2月22日 発行

平成25年こもろ日盛俳句祭予告

~俳句の林間学校「こもろ・日盛俳句祭」へのお誘い~

 

……本井 英   ≫読む

 

 【戦後俳句を読む】

 

  • 中村苑子の句【テーマ:紹介など】

……吉村毬子   ≫読む

 
  •  近木圭之介の句【テーマ:二】

……藤田踏青   ≫読む

 

  • 文体の変化【テーマ:短歌と俳句で読む③】~私の場合~

……筑紫磐井   ≫読む

 

  • 三橋敏雄『眞神』を誤読する 73.74

……北川美美   ≫読む

 

  • 赤尾兜子の句【テーマ:多数】

……仲寒蝉   ≫読む

 

【現代俳句を読む】
 

  • 句集・俳誌渉猟(3)~「~俳句空間~豈」~

……筑紫磐井   ≫読む

 
  • 二十四節気論争(4)――日本気象協会と俳人の論争――

……筑紫磐井編   ≫読む

 
  • 再録・黒い十人の女(四)

……柴田千晶   ≫読む

 
 

 
【編集後記】

あとがき   ≫読む

 

 

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第8号(2013.02.22) あとがき

北川美美

関東地方では今週末もマイナスの最低気温が続くそうですが、それでも日中の陽射しは、あたたかく感じられるようになりました。木々の芽もふくらみ始めています。以前、二月が一年で最悪の巡りとなることが多く、要注意マークの月でしたが、歳時記を友とするうちに二月がさほど悪い月ではないような気になってきました。気分、意識とは不思議なものです。そう思いながら、いまいちど、「二十四節気論争」のアンケート意見に興味をもってみることができます。

今号より吉村毬子さんの「中村苑子を読む」がはじまりました。直門ならではの苑子とのエピソードなども楽しみにしております。【戦後俳句を読む】の御意見・ご感想など執筆の上でも多いに励みなるかと思います。どうぞ皆様からのご感想などをお待ちしております。コメント欄をご活用くださいませ。

来号は3月1日。「春興帖」がスタートします。乞う御期待ください!




筑紫磐井

「平成24年夏の思い出――こもろ日盛俳句祭記録」の連載の最後に、「平成25年こもろ日盛俳句祭」の予告を本井英氏に書いていただいた。今年参加しようとされる方々の参考になれば幸である。こもろ日盛俳句祭については折に触れて、細目の紹介などをしていきたいと思う。また、媒体としての「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む」としていろいろ協力出来る、結社を超えたイベントをご連絡いただければ紹介していきたい。

句集・俳誌渉猟(3)で「~俳句空間~豈」を取り上げたのは、依怙贔屓のようだが、評者がこの1ヶ月間で一番よく読んだのがこの雑誌であったということである、やむを得ないこととご了解いただきたい。大体、私は「豈」の発行人を務めているが、編集後記を書く機会がなく(記事の最終決定権は大井編集人が持っており、「豈」54号ではやっと「BLOG俳句空間――戦後俳句を読む」の広告を盛りこませて貰った)、編集後記をこの場で書いているというのが正直偽らざる心境である。こんな評者に変わって執筆してみたい人がいたら是非名のりを上げていただきたい。


赤尾兜子の句【テーマ:多数】/仲寒蝉

髪の毛ほどの掏摸すり消え赤い蛭かたまる
『虚像』

これはまた面白い句である。人ごみで掏摸が何かを盗って消える(その場から居なくなる)。その掏摸に対する形容として「髪の毛ほどの」という。つまりは髪の毛が触れたかどうかという程度の感触しか残さないプロの手口ということ。だがここまでは意表を突くという程でもない、これで終ったらつまらない。

問題は掏摸が消えた後の「赤い蛭かたまる」である。蛭がかたまるのは血を吸って膨らんだ時。もちろん本物の蛭がいきなり人ごみに現れる筈もないのでこれは何かの比喩に違いない。掏られた人が騒ぎだして人だかりができたことをそのように表現したのだろうか。ただその場合「赤い」が分からなくなる。集まった人達の服の色は様々であろうし、むしろ赤い服など珍しかろう。赤い銭入れを膨らんだ蛭に譬えたのか。しかしそれでは掏られた後に「かたまる」というのが分からなくなる。むしろこれは掏られた側の心理と取ればどうだろう。「あれっ財布がない、どうしたんだ?そう言えばあの時男とぶつかったけど、ひょっとして掏られた??」などと焦って記憶の糸をたどる。頭の中が真っ白になるとよく言われるが疑惑が凝り固まって行くのを「赤い蛭かたまる」と表現したのかもしれない。


三橋敏雄『真神』を誤読する 73.<みなかみに夜増しの氷そばだてる>74. <山を出る鼠おそろし冬百夜>/ 北川美美

73.みなかみに夜増しの氷そばだてる

前句の<北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり>のあたりから、しばらく『眞神』を読む感情の振動が激しくなっていく。読者を興奮させるような言葉を駆使しているのだ。

「そばだてる」がそれである。「高くそびえたたせる」という意味だろう。ところで「そばだつ(峙つ)」と「そばだてる(敧てる)」とでは漢字が違う。しかし、どちらも激しい言葉であるが「そばだてる」が他動詞使いであることが何とも意味深だ。

水上(おそらく川の上流)に夜の間に大きくなった氷をそびえたたせるということだと思うが、ではいったい、そばだてているのは誰なのか。なんとなく、大口眞神の見えない力がそうしているのではないかという読みになる。

山の中の川の氷である。「夜増しの氷」ということでこれが厳冬の風景であることが読み取れる。

敏雄句はこのような『眞神』という見えない山の神の存在の中に配置されることにより読者に不思議な興奮を与える。主語のない他動詞の使い方が幻想を思わせる。五七五に収められ、山の激しい風景、そして冬の厳しさが伝わってくる。

厳しい自然の中で暮らすとそれがまるで神の仕業なのではないかと思えてくることがある。神がそこに棲んでいると思えるのである。自然と対峙することは神と対峙することに等しい。

一句としても立ち上がるような勢いを感じることができる。激しいとも、厳しいとも言っていないが句は詠っている。一句として成り立つことができることが俳句なのである。


74.山を出る鼠おそろし冬百夜

句がますます勢いを増す。眞神山の頂上付近に近いことを示すようだ。総計130句の半分以上を過ぎた。敏雄はどの場所でどのように『眞神』を選句しそして配列していたのだろうか。130句の絵巻物である。

上掲句が物語りのように思えるのは、「冬百夜」という言葉によるところが大きいだろう。そして「おそろし」という表現により山の神が何か騒ぎ出しているような印象を受ける。恐ろしいのは鼠のことだろう。この鼠も神話の鼠のように思えてくる。『眞神』の中ではそのように動物がひとつひとつ何か意味を持っているかのように思えてくる登場をする。

「大山鳴動して鼠一匹」ということわざは西洋が出典であるようだが、「それは取るに足らない」という意味であり、上掲句はそれを逆手にとっているような句である。

さて鼠。日本の神話の中で確かに鼠は神の使者として登場してくる。『古事記』の根の国の段の鼠は、大国主命(おおくにぬし)の命を助ける。そして鎌倉時代中期の仏教説話集の『沙石集(しゃせきしゅう)』の中でもネズミの親が娘に天下一の婿を得ようと太陽を訪ねるが、より優れた者を薦められるうちに、結局ネズミこそが最も優れた者であると結論する。

鼠は西洋のペストの流行を媒体した害のある扱いと異なり、日本では優れた動物として描かれている。

『まぼろしの鱶』の中での鼠もどこか物語の使者のようである。
紐育鼠短距離疾走す

十二支の中でも鼠は頭のよいものとされている。丑の背中に乗りゴール間際で飛び降りて一位を獲得する話はよく耳にする。「疾走」というのはただ早いだけだろうか。別の意味を考えてしまうのは漢字のせいなのかもしれない。

掲句、山の中で集団の暮らしをした鼠が山を出ていく。私にはこの句の鼠は一匹の扱いのように読める。集団の中の一匹がおそろしいことをしそうなのだ。しかし、読者は、その「おそろしさ」に期待を持つ。ヒーローになるかもしれない鼠である。

何かが起こりそうな前兆のような句である。そう、次句は「かの狼」である。


二十四節気論争(4)――日本気象協会と俳人の論争――/筑紫磐井編

(5)文化として残すべきである

前項(4)の意見をさらにつきつめ、1見不合理に思われる在来の24節気のよって立つ季節感は日本伝来の文化であるという意見を主張する。

  • 古来、中国より伝わり日本の風土に適合されてきたもの。季語の世界だけでなく、農業(水稲作)をする上でも、重要な季節区分であり、これからも文化として残すべき

  • 古人の営みに触れることができる貴重な財産だと思います。全て漢字2文字できりっと揃っているところも大好きです。

  • かつて24節気はアジア全体のグローバルスタンダードでした。日本の歳時記、中国の歳時記、朝鮮の歳時記、台湾の歳時記をみると少しづつずれながらもアジアに共有された文化が、これらの世界をつなげていたことが分かります。なぜグローバルスタンダードというと、英米圏や、英語圏を連想するようになったのか不思議です。アジアがひとつとは言いませんが、アジアの思想を共有する言葉が残っていることは必要だと思います。

  • 24節気は中国伝来の古くから使われてきた季節の呼び名。現状と合わないと言って置き換えられるものではない。節気はそのままにして新しい解釈や新しい切り口を発見することが現代の詩人の役割。

  • 短歌をつくっています。短歌に使うことがあります。言葉は流動的なもので仮に現状の気象に即した言葉をあてられてもまた『現状』の気象は早いサイクルで変化するものと感じます。むしろ古い文化としてあえて古いサイクルの言葉を用いて作歌することも古い形式の詩をつくるたのしみのようにも感じています。勝手を申しました。場をつくっていただいてありがとうございました。

  • 24節季は昔から今へと綿々とつながる日本文化を象徴するものの1つだと思います。これを廃止し、新しいものに置き換えることは文化の断絶をもたらすことになり、避けるべきことと思います。

  • 長い間使われてきた現在の24節気は、それぞれにとても好きな言葉で、日本語の美しさを感じます。大切にしていきたいと思います。

  • 永く親しんできたものなので今後も大事にしていきたい。

  • 新しい「季語」を提唱しても、本意の歴史が確立していないので季語として役に立たない(季節性を表せても言葉としての力がない)。24節季はそのままで良い。伝統のある季語はほぼ全て中国発なので、それらも変えてしまうのか(ばからしい)。日本でも北と南では季節感が違い、季節感のずれは当たり前。しかも、24節気は太陽暦に基づくものであって旧暦でも新暦でも同じ日(日付の数字は違うが)である。そのままにしておいてほしい。立春や冬至が別の名前になるなんて考えたくもない。現代人の国語力のなさ(啓蟄の意味がわからない)を「季節感のずれ」として問題をすり替えているにすぎない。
    ○歴史的にあったものは大切に。

    ○文化(歴史・伝統など)を大切にしたい。24節気は「あさがお」「あまざけ」とは違う。

(6)もっと24節気を普及したい

前項(4)(5)の立場を踏まえ、在来の24節気に基づく季節感を肯定するためにも、24節気に対する知識を普及することが重要だと指摘する。

  • 私たちは、自然に大きく影響を受けており、四季によって豊かな情操を培われています。四季の中でも、初め、中、終わりのころの自然は違い、さらに初めでも前の季節を残している橋渡しの移ろいを宿していたりして微妙です。昔の人々はほんとうに季節を細やかに感じていてからこそ、こうして細かく分類してきました。もっと自然を身近に感じていたいから、24節気をもっと普及したいと思っています。実際の季節感と24節気がずれているということについて。それは、24節気は天文学的に考えられているからです。ずれは、地球が温まるのに1か月かかるところからきています。太陽が南中するのは12時、けれども最高気温になるのは2時。このずれはしっかり日常生活で吸収しています。季節によるずれを吸収できていないのは、まだ日本人が季節感に対して天体の運行をもとにした理解をすることができていないからでしょう。これを、周知させることが先決。

  • 伝統的な24節気の由来などを、啓蒙しないツケが今になって来てる。新しいものを作る前に、そういう啓蒙活動が大切では、ないか。伝統のものと、新しいものとが2重に使われることの混乱が心配。

  • 言葉を変えることも必要かもしれませんが、今使っている言葉を少しは残しつつ、それを大衆に広く伝える努力も必要だと思います。例えば、僕は「啓蟄」の言葉の響きを強く愛しています。なくなってしまっても、そのままこの季語を使って作り続ける俳人は多いのではないでしょうか。また、この議論とは別に思うのですが、24節気は俳人や詩人だけの問題ではなく、そうでない人にこれらの言葉を知っていただく機会を作るほうがより重要かとも思います。

  • とても面白く、美しい言葉ですが中国伝来のものが多く、一般的にはなじみがなくわかりにくいと思う。中国への反感もあると思う。しかし、俳句を楽しんでいる我々にはなくなって欲しくないものです。一般の人には存在すらご存じないと思う。面白さをアピールしていかなければ、現代と合ってませんと言われれば、では、いらないとなるでしょう。また、気象庁は勝手に決めるのではなく、問題提起をして話し合いの場を持つべきです。日本の役所は、なんでも、国民抜きで決めてしまい、腹がたちます。

  • 24節気は、最近、頑張って覚えてみました。天気予報の当たり外れだけに、1喜1憂する日々が、虚しくなったからです。空を見て、外気に触れること。その上で、天気図に目を通したり、24節気や季語に思いを致し、自分で判断するようになったら、精神的にも物理的にも、すっきりしました。私は俳句に、季題や季語が無くても全く構わない立場ですが、「24節気」の考え方は、かなり合理的に出来ているのではないかと思います。最近、ゼミ形式で学生と話し合う機会があったのですが、「24節気」、わりあいウケました。手帳を見ながら、1年の行動を振り返ると、(「立夏」=GW、「大暑」=夏休み、「冬至」=柚子湯=クリスマスツリーはもともと、太陽信仰に基づく冬至の習わしをキリスト教が採用したもの等々)、なるほどと思うようです。若い世代の方が、素直に受け入れられるかもしれません。
    ○難しい言葉だから止めるのではなく、若い人に「こういうものだ」と教えると、なる程と喜ばれま す。言葉の成り立ちも判るし、日本語の素晴らしさが分かるのではないでしょうか。

    ○もっと知らしめる工夫が必要。

(7)新しく24節気を作ることは余計である

24節気を廃止改変することは不要と言うだけでなく、在来の24節気から伝統的な(あるいは東洋・中国由来の)季節感が生まれるのであるから、現代的な(あるいは欧米由来の)季節感に立つからといって、ことさら「新しい24節気」を作る必要などないという主張である。むしろ転じて24節気と無関係に季節のことばを考えればよいと言う。

〈①新しく作ることは余計である〉

  • 24節気に加え、さらに1節気につき3候に細分化した72項まであるので、新たに節を加えるというのは抵抗がある、というより不用に思います。俳句なら、魅力的な季語を加え良い句が生まれることで事足りると考えます。

  • 現代の気候と24節気が合わなくなっているということも確かにありますが、実際には人の生活が季節と合わなくなっているのではと思います。高気密住宅での冷暖房、外来植物・外来生物の存在、生活習慣の変化などの影響を注意深く除いていけば、まだまだ24節気はゆるがないと思います。

  • 季節の言葉は、俳句の専売特許ではない。言葉を選ぶのは俳人としても、新たに作るとは馬鹿げた考えだ。

  • 新しい季節の言葉をつくる、という必要を全く感じませんし、定着するとも思えません。いまある言葉が、時代と共に自然と変化していくならともかく、どこかの誰かに突然提案されても、す[ん]なり受け入れらないのでは。

  • 確かにあまり使われていないもの、難しいものもあるが、無理に新しい言葉を作っても浸透しないと思う。

  • 新しい24節気がそう簡単に定着するとも思えませんが、季節感のズレのような問題もそう簡単に割り切れるものでもないと思います。

〈②節気と無関係に作ればよい〉
  • 古来の24節気はそのまま残す。どうせ新暦になっても、旧暦を知らねば古句を作者の状況に沿って鑑賞出来ないように、新旧両方を知らねばならないから。新しい季節の言葉はそれなりに必要だが、節気に拘らず作っていけば良いと思う。ただ最近の「猛暑日」や「ゲリラ豪雨」は言葉が刺々しい。もう少し優しい言葉が欲しい。

  • 24節気についてはほとんど知識がなく、いつからいつまでかも知りませんでしたが、言葉としては味があるので好きです。現在の季節とのズレがあることについては、元々地域差もあるので仕方ないものとして、新しい言葉をたくさん取り入れてその中で人気のあるものが残ればいいと思います。

  • 気象協会の言い分もわかりますが、それならそもそも、別な概念の言葉を冠すべきであって、あえて節気を持ち出す必要はないと思います。むしろ、従来の季感と大幅にずれている地域など、縁辺部の充実を図るような活動をなさったらいいのではないでしょうか。そもそもが公的機関なんだから余計な似非美しい日本プロジェクトなど行う必要はないと思います。これを提案したからと言って自然災害に備えがいくわけでなし。

句集・俳誌渉猟(3)~「~俳句空間~豈」~/筑紫磐井

「―俳句空間―豈」54号(2013年1月)

このブログで「豈」を取り上げるのも奇異なものだが、豈そのものを読んでいる人が多くないので、ここでその内容に触れてみたい。言っておくが、私は発行人として企画までは関与しているものの、執筆者がどのような原稿をまとめているかは発行段階まで知らない。編集人である大井氏がすべて進めてくれているので、一般読者と同じような感じでこれらの評論を読んでいるといってもよい。

「豈」54号の特集企画は戦後生まれ作家論である。現在「豈」の編集をしている大井氏が今から20年前に編集長をしていた「俳句空間」(弘栄堂書店刊)の休刊号で戦後生まれ十八人を取り上げた<現代俳句の可能性>の特集を行った。その時のメンバーは、谷口慎也・攝津幸彦・西川徹郎・宮入聖・金田咲子・久保純夫・筑紫磐井・江里昭彦・大屋達治・正木ゆう子・片山由美子・対馬康子・林桂・長谷川櫂・夏石番矢・四ッ谷龍・田中裕明・岸本尚毅の18名である。今回は、それらのメンバーを精査して次の14人が登場した(★印は<現代俳句の可能性>と重複)。次号55号でも続く予定であるから2号にわたる戦後生まれ作家と見てもよい。両号を眺めることにより、伝統と前衛のバランスの取れた世代論がうかがえるであろう。

まずは、総論を筑紫が大井恒行にインタビューして始まる。世代論の切り口がまだ確定していない時期(他のジャンルであればこの世代の評価が決まっていないというのは信じられないことであるが!)だけにガイダンスは必要であろう。

【『新撰21』世代による戦後生まれ作家10人論】

この種の特集では普通珍しくないのだが、豈としては珍しいのはそれぞれの作家(いずれも結社主宰者だ)のお弟子さんが一部論じていることである。ただこれらの主宰者は自分の雑誌で自分を論じることに熱心ではないのであまり目立った作家論がないことである。そこで豈の場で強制的に弟子たちに書いてもらうことにした。特に戦後生まれ作家10人という横串の中で論じることは、結社の中の閉鎖的な論と違って若々しさを発揮してくれるだろう。<現代俳句の可能性>で取り上げなかった作家である(その理由は大井恒行がインタビューの中で説明している)が、他意はない。

  • 高野ムツオ論(関根かな)
  • 星野高士論(矢野玲奈)
  • 小澤實論(相子知恵)

読者はじっさい読んでみて感じられたらいいと思うが、読んでみて分かるが決して客観的な論になっていないところがいいのである。作家論は客観的であるべきだなどというのはとんだ錯覚・幻想である。一人の作家からどこまで、何を引きずり出したかが作家論の価値なのである。今回十分その期待に応えてくれたであろう。

   *   *

  • 攝津幸彦論★(北大路翼)

この破天荒な怪物が攝津をどう論じるかは興味津々である。同じ怪物ながら、長谷川櫂論を論じた関悦史と北大路とでは、ケンタウロスの上半身と下半身の闘いのような趣がある。攝津論にはこの他に、「攝津幸彦論、再構築のために」(堀本吟×筑紫磐井)、「千年の時の彼方に」(わたなべ柊)が書いている。これは「豈」の場であることとてお許し頂こう。


  • 正木ゆう子論★(神野紗希)

神野紗希が将来の道筋で見ているのは正木ゆう子あたりにあるのではないかと予測して担当を求めた。


  • 片山由美子論★(松本てふこ)

最も正統的である作家を反正統派と目されている同性作家がどこまで切り込めるかである。てふこが書いた北大路翼論や柴田千晶論(そういえばいずれも「街」作家であった)とは全然違う切れ味を期待した。


  • 長谷川櫂論★(関悦史)

この特集の一つの見物は、新人の中でも知識の怪物じみている関が虚子の如く俳壇に君臨しようとし、一見非常に遠いところにいる長谷川をどのように捌くかにある。


  • 夏石番矢論★(堀田季何)

夏石を論じられる若手作家は滅多にいない。「澤」と「吟遊」に所属するという、古いわれわれでは理解出来ない脳構造をもつ堀田は新しい夏石論を導入してくれる。


  • 田中裕明論★(高柳克弘)

第1回田中裕明賞を受賞した高柳が田中を論ずる。すでに高柳の田中論は幾つか見られるようだが、こうしたラインアップの中で他を意識しながら高柳が論ずることは滅多にないだろうから、人選としては面白いはずだ。


  • 岸本尚毅論★(冨田拓也)

長谷川論と同じ視点で、純粋前衛派とも言える冨田が虚子の権化とも言える岸本を論ずるのも興味深いであろう。


【(豈同人による)戦後生まれ作家論】

豈同人に、何の条件も付けず戦後生まれ作家論を求めたところ書かれたのが次の4人と攝津幸彦論であった。全体が前衛系戦後生まれ作家(上では夏石番矢のみが入っている)論となったのは「豈」という雑誌の特徴であろう。上の10人と比べて読むと面白いものがある。

  • 宮入聖★(青山茂根)

すでに伝説となっているこの作家は、時折論じられることがある。昨年も宇多喜代子が「俳句」の連載評論の中で熱っぽく語っていたが、青山茂根が論じるとは正直びっくりした。長谷川櫂や岸本尚毅を関悦史・冨田拓也が論ずるのと全く逆の意味で常識を裏切る、それだけ期待させる論となっている。


  • 林桂★(杉本青三郎)

未だ豈に参加したばかりの杉本が焦点を絞ったのが、「未定」ー「鬣」の中心にいる林桂である。俳句のニューウェイブといった表現をした時必ず登場した林もすでにすでに還暦だ。是非その全貌を語って貰いたいものである。


  • 江里昭彦★(高橋修宏)

忘れてはならない作家江里を期待通り取り上げてくれた。その過激さは評論でも、作品でも、それ以外の活動でも、極めて分かりやすい旗幟鮮明な陣地を構えていた。


  • 筑紫磐井★(小湊こぎく)

これは私のことなので論じない。ただ、第1句集の若い時代を丹念に論じてくれた。





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文体の変化【テーマ:短歌と俳句で読む③】~私の場合~/筑紫磐井

俳句を始めたのは「馬酔木」で昭和46年秋、やがて「沖」に47年9月から入会した。泣かず飛ばずであったが、同期の最後尾で同人とはなった(この時一緒に同人となったのは正木ゆう子である)。そんなある日目覚めたのは、俳句で雅を読めるということであった。俳句の王朝風の雅といえば、蕪村や東洋城がいたがこれらは趣味的な感じがした。これを徹底してみようと書いたのが「王朝故実」20句であった。

これは沖の俳句コンクールに応募したものだが、選者の能村登四郎、林翔の1位となった。
女狐に賜はる位・扇かな
みちのくに戀ゆへ細る瀧もがな
ちょうど句集をまとめる時期に来ていたので、この調子で書き下ろしのように何篇か書き、1冊の句集とした。

面白いエピソードとして、このような作品群を富士見書房の「俳句研究」の賞に応募して見たのだが、本選では通らなかった。ところが本選が終わり受賞者が決まった後、突然角川春樹が今年こんな作品があったと私の句を取り上げ実に嘆かわしいと延々と批判し始めた。選者たちも、少し面白いと思ったが最終的にはこれはだめであるということを口々に言い始めた。これは角川氏への迎合であったろうか。最終的には、入選作よりよほど頁数を割いて筑紫磐井批判が行われたわけである。こんな経緯で生まれたのが、『野干』である。異色の名が立った。

七月の諒闇(りょうあん)といふ静けさよ
風薫る伊勢へまゐれとみことのり

こうした句集をまとめてしまうと以後、尋常な句は詠めない。時代を広げて、古代~終戦の日までを詠んで『婆伽梵』とした。

蛍放生容貌(かほ)よかりしは不幸(ふしあはせ)
八月は日干しの兵のよくならぶ

また戦後のT家の雅な生活を、滅びゆく家族の生活を描いた小津安二郎の映画の筆致に倣い『花鳥諷詠』として出版した。これは小さな賞を受賞した。

もりソバのおつゆが足りぬ髙濱家
俳諧はほとんどことばすこし虚子
和をもつて文學といふ座談會
来たことも見たこともなき宇都宮

 
こんな風に見てくると、俳句の中から不思議な世界を紡ぎだしたように思われるかもしれないが、実は昭和48年10月から前田夕暮の系譜をひく前田透主催の「詩歌」で短歌、それも自由律っぽい短歌を詠んでいた。現実離れしたところは、当時の歌壇の流行、塚本邦雄等の世界の模倣であったかもしれない。

創造の天地あかつきかへる雁 暮六つ時のぼろんじの夢
アンドロメダの渦巻いてゐる 遠い 遠い きさらぎの火の速さ
草うらの影絵の世界 匂ふべき夜叉のおごりもあさつきの色
安曇野のまひるの罪よ 生きとし生けるものは草焼きの匂ひ
この七月を生きた者のかなしみはただに青きよ 水の調律
東方に花一片の知恵もなし 青くたぎれる薔薇の原人
地獄門 血の一滴に火を放てり 幻想と恋の白羊宮かな

当時一つの手帖に俳句と短歌を書いていたが、57577にまとまれば「詩歌」に、77ができず575で止まってしまえば「沖」に投稿していた。手帳には次第に57577まで届かない断片が溜まり、俳句として通用するようになった。

俳句形式に現代詩を投げ込むと前衛俳句となるといわれていたが、俳句形式に短歌を投げ込んだものが私の俳句であった。その意味では私の頭の中には詩と俳句ではなく、短歌と俳句が常に渦巻いている。

やがてこうした手帳の中で短歌から俳句が分離独立し、自然な短歌との別れが生じ、一つの方向に独立した俳句が残ったのである。

 
先年NHK俳壇が思い出の地を探るという企画でどこへ行きますかといってきたので、前田夕暮・透の住んだ荻窪川南の邸宅を訪れた。未亡人(前田透は歌会始選者であったが、歌会始の前日、環状八号線でオートバイにはねられて10メートルもすっ飛んで数日後になくなった)には、昔そのままの洋館の中を案内して頂いた。私の短歌の別れから、30年後のことであった。




近木圭之介の句【テーマ:二】/藤田踏青

コップ二つの等しい液体   昭和28年作(注)
今回のテーマ「二」の概念に関しては次の様に分類されるのではないか。

A:二・物の数
B:両:同じようなものが二つ向き合って一対となる
C:双:二つそろって一対となる
D:再:二度すること

掲句はこの場合Bの範疇に入るのではないか。つまり「コップ二つ」が示唆するものは向き合った二人の存在であろうと。そしてその場面設定が男と女、男と男等によってその展開は異なって行くであろうが、今その沈黙からドラマがまさに始まろうとしているかの如くに。更に「等しい液体」の傾き加減によっては二人の立場に軽重が生じ、その関係性のベクトルの多様化にも連なってゆくと。単なる物体の客観写生だが語られざるドラマが秘められているようである。この範疇に入ると思われるのが下記の句にもある。
半端な時間の椅子二つあつての話    昭和42年作   (注)
「椅子二つ」が前句の「コップ二つ」に照応しており、この句もその場面に二人の存在を暗示している。ただこの句の場合「半端な時間」という措辞により、話の結論は出ないままに終わりそうであるが。

Aの範疇の句では下記のようなものがある。
二羽の黒い鳥が的確に空間    昭和28年作   (注)
貝 だから黙って 二ついる    昭和42年作   (注)
前句は「的確に」とあるように空に鮮明な二つの黒鳥を印し、後句は時間の中での二つの貝の沈黙を強く印象付けている。それが一つでは無く二つである事によって客観的に納得させる強さをもたらしているのであるが、それ等は相対峙するものでは無く、並列的に置かれているだけである。
Cの範疇に入ると思われる句は下記のようなものである。
菰から足が二本 死という    昭和28年作   (注)
死 二枚のはね残して去る    昭和53年作   (注)
たまたま「死」という共通の主題であるが、「足が二本」も「二枚のはね」も共にそろった一対であることによってその主体の存在感を強く打ち出す効果があり、その事によって一つの「死」の意味が更に深められるものと考える。

Dの範疇の句としては下記のものがある。
楽書の顔の前一日二度とおる    昭和24年作   (注)
たまたま行きがけに見た楽書の顔だが、印象に残っていたのであろう。帰りがけには何かを探る様にしみじみと眺めつつ通る様子がみてとれる。楽書の顔の人物とそれを描いた人物との関係を色々と想像しつつ。

「二」とは「一」に「一」を積み重ねた以上のものを含んでいるようでもある。
(注)「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

中村苑子の句【テーマ:紹介など】1./吉村毬子

中村苑子は、今年生誕百年である。そして、一月五日には、十三回忌を迎えた。
あの世と此の世を行き来する、妖艶な女流俳人として名を馳せた、苑子の五十年余りの俳句人生と作品を、今一度、検証してみたいと思う。古典、軽み、癒しの俳句とは対極にある凄絶な俳句が彼女の代名詞となってはいるが、初期時代は、「春燈」で有季定型の基礎を学び、晩年は、静かな達観、無常を詠いあげながら、{生前葬}という形をとり、俳句人生に幕を閉じた。その数奇な女流俳人の世界を、一人でも多くの方に堪能して頂きたいと思う。十年ではあるが、苑子に教えを受けた貴い時間を反芻しながら、書き進めたいと思っている。

苑子略歴

大正二年  (一九一三)静岡県伊豆に生まれる。
昭和十九年 (一九四四)戦死した夫の遺品に句帳を見つける。
昭和二十二年(一九四七)幾つかの俳誌へ投句。「鶴」石橋秀野選に入選など。
昭和二十四年(一九四九)久保田万太郎の「春燈」に入会。
昭和三十三年(一九五八)高柳重信の要請に応じ、「春燈」を辞して「俳句評論」を創刊。自宅が発行所。
昭和四十七年(一九七二)尊敬する三橋鷹女没す。
昭和五十年 (一九七五)第一句集『水妖詞館』刊行。現代俳句協会賞受賞。
昭和五十一年(一九七六)第二句集『花狩』刊行。
昭和五十四年(一九七九)第三句集『中村苑子句集』刊行。集中の「四季物語」で現代俳句女流賞受賞。
昭和五十八年(一九八三)高柳重信急逝。「俳句評論」終刊を決意。
昭和六十一年(一九八六)富士霊園に苑子の墓「わが墓を止り木とせよ春の鳥」の隣に高柳重信の墓を建立。墓碑銘は「わが尽忠は俳句かな」
平成元年  (一九八九)福山市郊外に高柳重信の句碑建立。 
平成五年  (一九九三)第四句集『吟遊』刊行。
平成六年  (一九九四)』吟遊』で詩歌文学館賞、蛇笏賞受賞。
平成八年  (一九九六)第五句集『花隠れ』刊行。
平成九年  (一九九七)「花隠れの会」を開催、俳壇からの引退を表明。
平成十三年 (二〇〇一)肝臓障害のため死去。


1. 喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子

第一句集『水妖詞館』の第一句目である。竜とは、神話や民話に登場する実在しない生物である。日本では、十二支にも選ばれ、{竜の落とし子}という名の魚類までいる。しかし、掲句には水族館で見るあの愛らしさは感じられない。この句の「竜のおとし子」は、前者の、実在しないが、神話の対象として昔から日本人に馴染みの深い方であろう。

生み落とされた「竜のおとし子」は、「喪」を負っていると云う。生を与えられた瞬間から死へ向かうのは必然であるが、喪をかかげながら、竜は生み落とされたのだ・・・。即ち、此の世とあの世を行き来する女流俳人と、決定づけられた『水妖詞館』の句群を充分に意識して第一句目に置かれたのであろう。苑子自身の身体感覚に伴う詩への方向性、詩は生死であること、そして、生は死への始まりであること。まさしく、それを物語る一句であり、句集を開いた瞬間から苑子俳句に引き込まれる、妖しき予兆の一句でもあるのだ。 そして、「竜のおとし子」は、『水妖詞館』そのものであり、喪をかかげて、私は今、この句集を生み落とすのだと告げているのである。

  • 吉村毬子略歴
1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
現代俳句協会会員


平成25年こもろ日盛俳句祭予告~俳句の林間学校「こもろ・日盛俳句祭」へのお誘い~/本井 英

「こもろ・日盛俳句祭」も早いもので、今年五年目の節目を迎えます。「日盛会」は今から百年以上前の明治四十一年八月、高濱虚子が周囲の数名を誘って、まるまる一ヶ月、毎日催した「俳句会」にその淵源があります。「日盛」の名が示すように、暑い盛りの毎日ですが、そんな暑さをも「楽しもう」という、いかにも俳人らしい企画です。

私はいつも仲間達に言うのですが、俳句に「生憎の日和」は有りません。「花」が爛漫と咲き広ごるのも、「月」が隈無く照らすのも結構ですが、轟きわたる「虎落笛」の夜も、田畑と道の区別のつかなくなる「出水」の朝も、我々にとっては絶好の「俳句日和」です。ましてや高原の町小諸の「日盛り」が楽しくない筈はありません。

八月二日から四日まで開催される「日盛俳句祭」には盛りだくさんの企画があります。
まず大切なのは「俳句会」。これはあちこちで開かれる俳句イベントが、どれも事前に俳句を募集して、しかるべき選者が選句をし、それを発表・表彰するだけという形であるのと、大いに趣を異にしています。

小諸の「俳句会」は、当日集まった参加者が経験の長短や俳壇的な知名度とは関係なく、平等に楽しむもので、一会場二十名ほどの全員が未発表句を五句づつ出句し、それぞれ五句だけ選句するものです。また披講に先立って、各自が特選に選んだ一句を句評するもの楽しいものです。そんな会場が市内に五六カ所同時に開かれます。また、それぞれの会場には、二、三名の「スタッフ俳人(現俳壇で活躍中の若手中堅俳人がボランティア参加)」も混じって進行のお世話をします。
最近、「俳句会」には出たことが無いという俳句愛好家もおられるようですが、近代俳句が「俳句会」によって育まれて来たことは周知の事実です。「俳句会」こそ俳句の醍醐味そのものであると私は確信しています。

私は未発表の作品が「俳句会」に投ぜられる瞬間を、「生きた魚」が生け簀に放流された時のように感じています。作者自身にも、まだ作品の善し悪しの定めきれていない「生きた魚」。それが、他の作者によって放たれた「魚たち」と、入り交じって泳ぎ回る姿は壮観です。それぞれの「魚たち」の泳ぎぶりを見ながら、皆が、より元気な「生きた魚」を選び取るのが「選句」という作業です。仲間が放流した「魚」に価値を与える喜び、或いはそんな現場に立ち会える喜びは掛け替えのないもの。「俳句会」で初めて泳ぎ回っている「生きた魚」の新鮮さに比べたら、雑誌に載った作品や、句集に収められた作品は、どこか勢いの弱まった、干物か甘露煮のようなものかも知れません。

「俳句会」は懐古園の中の老舗旅館を会場にしたり、標高二千メートルの高峰高原のホテル、特別ダイヤを組んだ高原列車(小海線)の中でも開かれます。どうぞ、お好きな会場にいらして下さい。また、実行委員会がチャーターしたマイクロバスやタクシーが市内の名所に、皆さんを無料で運んでくれます。布引観音や信楽寺の泉、ワイナリーなどは絶好の吟行スポットと言えましょう。
各会場での「俳句会」が終わると、参加者全員が一同に会して「講演会(一日目)」、「シンポジウム(二日目)」が開かれます。今年の一日目の講演は茨木和生氏です。茨木先生独特の不思議な「季語」の話がうかがえるでしょう。二日目のシンポジウムでは「スタッフ俳人」を中心に「季題・季語」についての議論が戦わされます。

さらに 講演会・シンポジウムが終わった夕刻、一時間程ですが簡単なビヤパーティーが開かれます。「俳句会」や「講演会」での疑問や感想をジョッキ片手に語り合うのも有意義なことでしょう。
パーティー終了後、気のあった同士で、再び乾杯したり、食事をしたり、中にはまたまた「俳句会」をするグループも見かけます。ともかく「俳句三昧」の一日をお楽しみ下さい。高原の町小諸で味わう「夏の日」は、どこか昔の「林間学校」にも似た心の高鳴りを思い出させてくれることでしょう。
一人でも多くの皆様のご参加をお待ちしています。

なお詳細に関しては、小諸高濱虚子記念館内「第五回こもろ・日盛会実行委員会事務局」、電話0267-26-3010 までお問い合わせ下さい。

再録・黒い十人の女(四) 柴田千晶

未婚一生洗ひし足袋が合掌す   寺田京子

前回の三好潤子と同様、寺田京子も宿痾と闘う俳人であった。生涯独身という境遇も似ている。

京子は少女期から胸を患い、二十代に入ったころには胸部疾患の重篤患者として療養生活を送っている。

少女期より病みし顔映え冬の匙   『冬の匙』

京子の詳しい年譜はなく、現在のところ「寺田京子句碑建立記念誌」(寺田京子句碑建立発起人会)と栗林浩著の『続々俳人探訪』(文学の森)の「寺田京子探訪——白いベレーの俳人」がもっとも詳しい資料と言えそうだ。残念ながら前者は未読。

第一句集『冬の匙』(札幌ペンクラブ)は、34歳の刊行。郷土出身の作家、青木たまが序文を、師である加藤楸邨が跋文を書いている。「あとがき」によると句集の構成は、年代と季節にこだわらず、心の流れに従ったとある。シナリオライターでもあった京子は、意識的な構成で自身の年譜を作ったとも言える。その流れに沿って京子の半生を読んでゆくと、厳しい日常が見えてくる。

死なさじと肩つかまるゝ氷の下

この句の自注に、病気に倦きて多量の睡眠薬を呑み自殺を図ったとある。死なさじと肩を摑んだのは母だ。氷のような死の床から浮上すれば娘を死なせてなるものかという必死の形相の母の顔がある。原句は「氷かな」であったのを楸邨が「寒雷」に掲載する際に「氷の下」に訂正したとある。「氷の下」の方が確かに荒涼とした精神を鋭く表現している。

黙し食みをれば鰯は涙の色

この句には、<父他人に欺かれ棲家を失ふ。暫くを縁者の家に寄れば日々耐え難きこと多し>という前書きがある。親戚の家に一家で身を寄せ、肩身の狭い思いをしていたのだろう。

霧の夜へ一顔あげて血喀くなり
かくれ喀きし血のいきいきと秋の水

病を詠んだ句。<一顔あげて><かくれ喀きし>がなんとも痛ましい。
病床の京子を長きに渡って看取っていた母もまた病に倒れ、今度は病人である京子が母を看取るという状況に陥る。

荒野に銃鳴るや病母の糞とれば(母 脳内出血にて倒る 熱の身に看取れば)
母看取る何処に坐すも雪嶺見ゆ(母 ふたたび病ひに倒る)
冬畳とりすがる死の無造作なり(癒え近き日、母心臓麻痺にて逝く)
五体夕焼亡母の他は頼られず

心から頼りにしていた母も亡くなり、京子は深い喪失感に襲われる。しかし京子は主情的にはならず母の死を<無造作なり>と突き放すように詠んでいる。そこに却って京子の深い悲しみを感じる。
後に遺されたのは、京子と兄と二人の妹、そして父。

父が寝し闇より生れて髭ふる虫
父に縁談四方あまさず雪がふる

京子には恋の句や不倫を匂わせるような句もあるのだが、前回の三好潤子の句に漂う生身の男の存在が感じられない。男の存在が希薄なのだ。男よりも生々しく詠まれているのは父の存在。

一句目、父の閨から生まれてくる<髭ふる虫>は官能的だ。髭をふるわせながら京子に近付いてくる。

二句目、妻を亡くしたばかりの父に持ち上がった縁談話に、京子は父への嫌悪と自分だけが取り残される不安を感じている。

嫁がんと冬髪洗ふうしろ通る(母代りとなりて、妹栄子を嫁がす)
嫁ぐ微笑嫁きて枯空底がなし

年頃になった妹を病身の京子が母親に代わって嫁がせる。

一句目、婚礼の身支度をする妹の後ろを京子は複雑な思いで通り過ぎたはずだ。

二句目、幸福の絶頂にある妹を見送る京子の頭上には枯れた空がある。嘘がつけない京子は<底がなし>とまで言ってしまう。

顔入れて押入さみし朝の蝉
末枯やねむりの中に生理くる

一句目、押入れに顔を入れてみたらふいにさみしさが込み上げてきた。押入れは京子の空っぽの子宮だ。

二句目、おそらく一生妊ることのない軀に、ひっそりとまた生理はやってくる。<ねむりの中に>がもの悲しい。

以上が第一句集『冬の匙』から見た京子34歳までの年譜である。

前置きが長くなったが、このような背景の中で冒頭の句は生まれた。

未婚一生洗ひし足袋が合掌す

洗った足袋を仕舞う時に、何気なく合掌するように足裏を合わせて畳に置いてみた。京子に向かって足袋が合掌している。

<未婚一生>と<合掌>、実にシニカルな句である。

この句について、二人の男性俳人が鑑賞している。その内容がとても興味深かった。

上野一孝の鑑賞。

作者にとって第一句集『冬の匙』は「私の花嫁姿」だと、その「あとがき」で述べているが、それは病身であるがゆえ、「花嫁姿」にはなれないという覚悟から発せられた比喩であろう。(後略)
 
足袋を洗濯して干そうとして吊したら、それぞれの裏側が「合掌」しているように合わさってしまったと言うのだ。「合掌」している「足袋」は、作者と未知の夫を象徴するようである。(中略)「足袋」であるところに、いささかのおかしみがあり、「未婚一生」の重たさを救っているのである。(『鑑賞 女性俳句の世界』第4巻「意思のちから」より)

栗林浩の鑑賞。

一生未婚で過ごすのだと決めつつ、洗った足袋を仕舞っている。足袋の底と底を合わせて畳んでいるとき、ふと生まれた句であろうか。この合掌には「もしかして」という幸せを希う気持が見えて、しかも京子には珍しく徘徊味のある句である。(『続々俳人探訪』「寺田京子探訪——白いベレーの俳人」より)

どちらも<洗ひし足袋が合掌す>に救いを見ている。
しかし私はこの<合掌>におかしみをまったく感じない。これは厳しい句であると思う。<合掌>は祈りの形。未来の幸福を願う形とお二人はとったのだろうが、私にはこの<合掌>が弔いの形に見える。<未婚一生>ときっぱりと言い切り、自分を突き放す。
それではあまりに自虐的ではないかと思うかもしれないが、私はそこにこの作家の潔癖さと、凄みのある美しさを感じる。

わが身に合掌し、京子は自らを葬ったのだ。

神泉駅……ローソン……フェンシング練習場……ホテルペリカン……道玄坂地蔵……道玄坂地蔵……。

円山町のホテル街の中心の四つ辻に道玄坂地蔵は立っていた。唇に紅を指したお地蔵さまはどこか艶めかしい。

15年前、毎日この地蔵の前に立ち続けた39歳の女性が神泉駅近くの古びたアパートの空室で何ものかに絞殺された。

1997年3月に起きた俗に「東電OL殺人事件」と呼ばれた事件である。

被害者は、昼間は東京電力に勤務する会社員、夜は円山町のホテル街で客を取る売春婦という二つの顔を持っていた。慶応大学卒業後、東電初の女性総合職となった未婚のキャリアウーマンと「売春」というダークな行為との落差に世間は衝撃を受けた。

彼女はほぼ十年間毎日、仕事帰りに円山町へ通い売春行為をしていた。東電のある新橋から銀座線で渋谷に出て、109のトイレで腰まであるロングのカツラを付け、青いアイシャドーを太く塗って売春婦の顔になり、道玄坂を上がる、そして円山町に消えてゆく。

ホテル街の四つ辻にある道玄坂地蔵の前で彼女は客を引いていた。一日に4人の客をとるというノルマまで課して。

事件後、マスコミによって暴かれていく彼女の数々の奇行。コンビニでおでんを買う際には必ず一つのカップに一つの具を入れ、汁をたっぷり入れたカップを五つくらい提げて帰ったとか、どこかで拾ってきたビール瓶を酒屋に持ち込んで換金を要求し、十円を百円玉に、百円を千円札に逆両替していたとか……佐野眞一著の『東電OL殺人事件』にはもっと凄絶な姿が描かれている。
その存在の生々しさに圧倒された。

当時、多くの女性たちがこの事件に共感し、巡礼のように円山町を訪れ、道玄坂地蔵に詣でるという現象が起こった。

私も当時、彼女の足跡を辿るように円山町のまるで書き割りのような路地を歩いてみた。
道玄坂地蔵はホテル街の中心にあるはずなのだが、同じ場所をぐるぐる回るだけで、どうしても目的の場所には辿り着けなかった。

諦めかけたその時、ふっと振り向くとそこに道玄坂地蔵はあった。

私はその後も何度か現場に足を運び、この事件をモチーフに『空室』(ミッドナイト・プレス)という詩集を書き上げた。

3年ほど前にも再びあの路地を歩いてみたのだが、なぜかまたぐるぐると迷い、人に尋ねてようやく辿り着くことができた。

あの書き割りのような路地の風情は変わってしまっていたが、道玄坂地蔵は変わらずにそこに在った。

「東電OL」と呼ばれた女性がこの路地をさ迷う姿を思い浮かべると、凄まじく荒涼とした風景が見えてきて慄然とする。

彼女もまたわが身を合掌し、この路地に自らを葬ったのだ。

ばら剪つてわれの死場所ベッド見ゆる   『冬の匙』
東電OLはラブホテルのベッドに、京子は病室のベッドに、自分の死場所を見た。

生きているうちに自分の死場所をじっと見つめる。ここできっと自分は死ぬのだと。諦念などというきれいな言葉では片付けられない。京子はもっと強い意志を持ってベッドを見つめている。ここが私の死場所なのだと。薔薇は自分への手向けだ。

加藤楸邨は『冬の匙』の跋文で、自分自身をも突き放した京子の視線について、

絶対にありきたりの女らしさなどといふ甘えたものに負けてはゐられないという目だ。かういう目を持つ人は、場合によつては俳句的な俳句を拒否する。あくまで自分の生きていることを証拠だてないと安心しない。弱気の句、受身の句ではなく、掘鑿の句だ。

と述べている。
楸邨のこの言葉は、東電OLにもそのまま当てはまるのではないか。
彼女は自分の生きていることを証拠だてるために、毎日、円山町に通い続け、あの道玄坂地蔵の前に立ったのだ。

足袋履くやつひに男に幸を見ず   『冬の匙』

どちらの女も普通の結婚に幸福を見ることができなかった。

日の鷹がとぶ骨片となるまで飛ぶ   『日の鷹』

しかし骨片となるまで、どちらの女も激しく生き抜いたと言えるのではないか。
1976年(昭和51年)6月、京子は生前三冊の句集を世に遺し、54歳の短い生涯を閉じた。

樹氷林男追うには呼吸足りぬ
待つのみの生涯冬菜はげしきいろ   以上『日の鷹』

彼女たちは何を追いかけ、何を待っていたのだろうか……。

ひかりたんぽぽ生まれかわりも女なれ   『日の鷹』

京子はふたたび女に生まれてくることを願った。
東電OLもまた女に生まれることを願っただろうか……。

のぼりつめて師走満月葱もて指す   『日の鷹』

道玄坂をのぼりつめた東電OLも師走の満月を見上げただろうか。
古びたバーバリーのコートを着て、たった独りで挑むように。
「絶対にありきたりの女らしさなどといふ甘えたものに負けてはゐられない」と——。

10月29日、この事件の元受刑者であるネパール国籍の男性の再審第1回公判が開かれる。真犯人は未だに不明のままである。

  • 参考文献

  • 寺田京子『冬の匙』 札幌ペンクラブ
  • 寺田京子『日の鷹』 雪櫟書房
  • 寺田京子『雛の晴』 寺田京子句碑建立委員会
  • 『女流俳句集成』 宇多喜代子・黒田桃子編 立風書房
  • 『女性俳句の世界』第4巻 角川学芸出版
  • 栗林浩『続々俳人探訪』 文学の森)
  • 佐野眞一『東電OL殺人事件』 新潮社
  • 佐野眞一『東電OL症候群』 新潮社
など。

2013年2月15日金曜日

第7号 2013年2月15日 発行


平成24年夏の思い出―こもろ日盛俳句祭記録(3)


7月29日(金)句会

平成24年こもろ日盛俳句祭縁由
 
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 【戦後俳句を読む】

 

  • 上田五千石の句【テーマ:二】

……しなだしん   ≫読む

  • 永田耕衣の句【テーマ:二】
……池田瑠那   ≫読む

 
  • 文体の変化【テーマ:短歌と俳句で読む②】~長岡裕一郎の場合~

……筑紫磐井   ≫読む

 
  • 三橋敏雄『眞神』を誤読する 71.72

……北川美美   ≫読む

 

 【現代俳句を読む】


  • 二十四節気論争(3)――日本気象協会と俳人の論争――

……筑紫磐井編   ≫読む

 
  • 句集・俳誌渉猟(2)~『鳥飛ぶ仕組み』「晶」「第3回田中裕明賞」~

……筑紫磐井   ≫読む

 
  • 再録・黒い十人の女(三)

……柴田千晶   ≫読む

 

【編集後記】



 
 

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上田五千石の句【テーマ:二】/しなだしん

ほのぼのと殺生石の二日かな

第二句集『森林』所収。昭和五十二年作。
『森林』の「源泉」と題された昭和五十二年の項には、この句を含む「那須 六句」と前書のある句群がある。掲出句の他の五句は以下。

恵方嶺噴煙もまた雪白に
初笑ゆぜん神社の高みより
蒼さびて殺生磧雪置かず
一塊の地吹雪飛べる硫気谷
幹々の背伸びに雪の花ちるよ

掲出句は「蒼さびて」と「一塊の」の間、六句中四句めに置かれている。

「二日」と詠っていることから、正月に那須を訪れた際の作だろう。この句の「殺生石」、二句めの「ゆぜん神社」から那須湯本付近を散策したとみられる。同行者がいたのかどうか、全句集を探ってみたみたが記載はなかった。


「ゆぜん神社」は那須町湯本にあり、正式には那須温泉(なすゆぜん)神社。七世紀頃、狩で傷を負わせた鹿を追って山へ入ると翁が現れ、鹿が傷を癒している温泉を告げた。温泉発見を感謝し、祠を建てたのがこの「温泉神社」の始まりと伝えられる。

「殺生石」は、栃木県指定文化財・史跡。那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の湯川沿いに「賽の河原」があり、その奥に「殺生石」はある。

「殺生石」は「九尾の狐」にまつわる史跡とされる。「九尾の狐」伝説は、平安のむかし帝の愛する妃に「玉藻の前」という美人がいたが、これは天竺、唐から飛来してきた九尾の狐の化身だった。

帝は日に日に衰弱して床に伏せるようになって、やがて陰陽師の阿倍泰成がこれを見破り、上総介広常と三浦介義純が狐を退治する。すると狐は巨大な石に化身し毒気をふりまき、ここを通る人や家畜、鳥や獣に被害を及ぼした。その後源翁和尚が一喝すると石は三つに割れて飛び散ったといわれ、そのうちの一つが殺生石であると伝えられる。狐の化身した大きな岩が今もなお、退治された恨みを抱いて毒気を吐いているとされる。

つまりは、有毒ガスが噴出するこの周辺で人や動物が死ぬのを、石の霊の仕業と考えて「殺生石」と名付けた。そして「九尾の狐」の伝説を付け、注意を促してきたのだろう。


ところで、芭蕉は「おくのほそ道」でこの地を訪れ、「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す。」と書き、
石の香や夏草赤く露あつし   芭蕉
を詠んでいる。


さて掲出句。この句について自註に〈「二日」というところに「那須の雪」を籠めている。そうでないと「ほのぼの」とはいかない〉と記している。

他の五句から、このとき雪がちらつき、時に吹雪いていたことがうかがえる。辺りに雪が積もっていたのかは不明だが、硫黄を発する殺生石のあたりは、その地熱によって雪が解けている状態であることは三句めの「雪置かず」からも推察できる。

殺伐とした殺生石を見て、さすがの殺生石も雪降る正月二日にはその邪気も衰えている、というような読みは安直すぎるだろう。その意味では、自註の「ほのぼの」「雪」「二日」の関係性、意味合いを、私にはまだ読み解けていない。

私はこの地を未だ訪れる機会に恵まれていない。ここを訪れ、殺生石に相対した時、何か見えてくるのかもしれない。


第7号(2013.02.15) あとがき

北川美美

酒巻英一郎さん(豈・Lotus)のご配慮で加藤郁乎氏の『晩節』を手にすることができた。発刊時にプレミアムの値段がついており入手困難だったのである。私が俳句に目覚めたのは最近のことであるが、前衛的活動をする人ということで加藤郁乎の御名前だけは十代より知っていた。加藤郁乎氏の廻りにはとにかくカッコイイ人々でいつも賑っていて女学生の私には憧れの集団だった。前衛とはそういう危険な香りとともに洒脱で華やかでなければならないというイメージが先行したのである。

麹町十三丁目初昔        加藤郁乎『晩節』
晩節やあゝべらばうの蝿叩

豈54号では「加藤郁乎は是か非か」という特集が組まれている。当ブログの中の【戦後俳句を読む】は鬼籍に入られた作家が対象である。是非、加藤郁乎の句について書き続けてくださる執筆者が出て来てくださることを期待している。






筑紫磐井

北川編集長が前回編集後記で触れた豈の句会で私が選をした句は

大雪を鳥の昏さの少年来(く) 福田葉子

ちょっと類想がありそうな気もするが、しっかりとした読みぶりであり、好感が持てた。犬・猫の獣と違う不気味さを鳥はもっている、恐竜の遺伝子を引き継いでいるせいだろうか。ヒッチコックの「鳥」も鳥だからこそあの不気味さが生まれたのであって、「犬」ではB級ホラー映画、「猫」では鍋島猫騒動のようになってしまう。少年のもつちょっとした危険な要素を鳥の昏さというのは的確だろう。

福田さんは高柳重信の薫陶を受けたベテランであり、若々しい句を詠まれる。薫陶を受けたからこそ何時も若々しさが見えるのかも知れない。最近重信のゆかりの作家が活躍し、「ーBLOG俳句空間ー」でも吉村さんが中村苑子論を執筆するために参加していただけるなど、面白い動きが見え始めているような気がする。

本阿弥書店の新春懇談会に行ったら、前回の句集・俳誌渉猟1で取り上げた「絵空」の山崎祐子、茅根知子、土肥あき子、中田尚子の4人娘に会った。これだけ揃って会えるのは珍しいことだ。記事の中で先輩格の「星の木」(大木あまり・石田郷子・藺草慶子・山西雅子)」と書いたのだが、たしかに号数から言うと先輩だが、年齢的には大木あまりさんを除くと「星の木」の平均年齢の方が若いのだという。評論を書いて私がする一番多い間違いは、女性の年齢の未確認。気をつけなければならない。その後、市ヶ谷ルノアールで大井さんと豈55号の編集会議をしていると、隣にこの4人娘がやってきて「絵空」の編集会議を始めた。

平成24年夏の思い出――こもろ日盛俳句祭記録(3) 筑紫磐井

7月29日(日)  (兼題「百合」・嘱目吟行句も可)

※縦書き画像をクリックすると鮮明な画像に変わります。






  • A会場(24人)

岸本尚毅選
笹百合や雲ひきつれて旅鞄          小島明子

永方裕子選
虚子の径南瓜の蔓の横たはる         窪田英治

井越芳子選
サイダーの泡も古城をかけのぼる       櫂未知子

中田尚子選
サイダーの泡も古城をかけのぼる       櫂未知子

櫂未知子選
百合の香やたちまち晴るる千曲川       伊達浩之

  • B会場(22人)

筑紫磐井選
新じゃがの一つ人面それも干す        島田牙城

伊藤伊那男選
自らの蕊に汚れて百合ひらく        藺草慶子

島田牙城選
百合一花世話女房の誕生日          佐藤満男

小島 健選
向日葵や人老いてゆく家の中         藺草慶子

藺草慶子選
川風に一寸浮けり糸とんぼ          海野良子

  • C会場(23人)

土肥あき子選
行き少し洩るるほど百合開きける       梅岡礼子

神野紗希選
おぶわれて話す子どもやわすれぐさ      山西雅子

本井 英選
熔岩原に夕立のあとの水の径         武田禪次


  • 高峰吟行会場(27人)


小林貴子選
浅黄斑訪へばその花俯ける     大塚次郎

星野高士選
郭公の二度目に聞きしは本物    辻 梓渕

 

平成24年こもろ日盛俳句祭縁由/筑紫磐井


明治39年、高浜虚子は松根東洋城らを交えて句会「俳諧散心」を開いた。「散心」とは仏教用語であるが、気を散らすという意味で、河東碧梧桐が一足先に立ちあげた「俳三昧」に対するアイロニーであった。当初は毎月曜日に集まって句会を開いたという。この会は、間をおいて明治41年8月、第二回目の俳諧散心がホトトギス発行所で開かれた。今回は8月1日から31日まで連日猛暑の中で開催され、このため「日盛会」と名づけられた、参加者は松根東洋城、岡村癖三酔、岡本松浜、飯田蛇笏らであった。

本井英の提唱で現代の「日盛会」を目指し、数年前から「日盛俳句祭」が開催されている。特に3年前からは、虚子が戦争中に疎開して縁の深い小諸市に場所を移し開催し、200人近い参加者を得ている。105年後にあたる平成24年は7月27日(金)から29日(日)までの3日間、小諸市民会館等で開催された。

開催日 平成24年7月
27日(金)28日(土)29日(日)の3日間
俳句会(5句出句・5句選)
 (この他、28日高原列車吟行句会・28日29日高峰高原吟行会あり)

◇会 場
小諸市民会館及びコミュニティセンター

◇付帯事業
次の記念講演会、シンポジウム、懇親会とさよならパーティー
①記念講演 7月27日(金)星野 椿氏(「玉藻」主宰)
②シンポジウム 7月28日(土)
テーマ「私にとって季語とはパート2」
司会者:本井英
パネリスト:櫂未知子・片山由美子・筑紫磐井のほか気象協会から金丸課長

 シンポジウムについては、既にいろいろと発表されているが、句会の結果についてはよく知られていない。全国から集まった、同じ釜の飯を食った老若男女の雰囲気を味わってもらおうと思い、紹介する。句数が多いので、今回は、スタッフ俳人(お世話役をする中堅俳人たち)特選の作品のみを紹介する。

(参考)
  •   第5回「こもろ・日盛俳句祭」
 平成25年8月2日(金)~4日(日)。
「俳句の林間学校」、「こもろ・日盛俳句祭」が今年も長野県小諸市で開催されます。
現俳壇を担う中堅・若手俳人と共に「俳句会」を楽しんでみませんか。
小海線貸し切り「高原列車句会」、高峰高原「バスツアー句会」ほか楽しい企画満載です。
お一人でも、グループでもお楽しみ頂けます。
 
「俳句会」のあとは講演会(今年は、「運河」主宰、茨木和生氏)、シンポジウム、懇親会などなど。
 
 問い合わせ 小諸市立虚子記念館  
       
        電話 0267-26-3010






永田耕衣の句【テーマ:二】/池田瑠那

薄氷啖う一翁二翁に分解す

薄氷――、液体としての水と、固体としての氷、その丁度あわいにあるもの。季語として見てみても、連俳時代には冬季、近代以降は春季のものとされている。いかにも冬と春のあわいの、何とも名付け難い季節に属するものである。

古来そうした何かと何かのあわいには詩神や魔神が潜みやすいのだが、掲句の薄氷も、それを食べた翁が二人に分解されてしまったというのだから只ものではない。「翁」と言えば、能の世界では単なる老人ではなく神の使いと言われる存在。また、演目としての「翁」は殊更神聖なものとされ、新年に天下泰平、五穀豊穣を祈って演じられる。この能の「翁」の文脈で読むならばそうした翁が二人になったと言うのはいよいよめでたい状態であり、冬から春への自然界の巡りを寿ぐような句と読める。

しかし一方で「啖う」の語の持つ形振り構わぬ印象、下五「分解す」の語感の硬さは読者に微かな不安を喚起する。この翁は神の使いではなく、矢張り俗世を生きる生身の人間なのではないか。二翁は一人の人間の善悪二面、或いは自我と無意識が具体的な形を取ったもの――そのようにも読めて来るのである。水は水、氷は氷、冬は冬、春は春。そう決め付けて私たちは安心しているが、現実には、簡単に分節しがたい、何とも模糊たるモノたちが溢れている。水と氷、冬と春のあわいに属する薄氷には、そうした模糊たるモノたちの念が宿り、妖しくも儚げな光を放っているのではないか。

善は善、悪は悪、我は我……、本当にそう言い切れるのか。私も薄氷を、貪り食ってみようか、という心がきざす。二人に分解されて戻れなくなってしまっては、さすがに困るのだが。(昭和56年『殺祖』)

三橋敏雄『眞神』を誤読する 71.<虎杖の酢も涸るる秋五十年>72.<北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり> /北川美美

71.虎杖の酢も涸るる秋五十年

虎杖(いたどり)はタデ科の多年生植物で2メートルほどになる。句会で「すかんぽ」に接し、これが「いたどり」であることを知った。春におやつとしてポキポキ折ってその汁を吸うらしいが食したことがない。四国で多く食べられるらしく、虎杖の酢物は、塩漬けにしたものを甘酢で合える食べ方などがある。
古わが宿の 穂蓼古幹(ほたでふるから) 摘み生(おほ)し 実になるまでに 君をし待たむ 万葉集(巻11・2759)作者不詳
古代から食べられている野草として虎杖がある。掲句の「虎杖の酢」が酢漬けの酢ということも考えられるが、イタドリの酸味のことを「虎杖の酢」と表記していると解する。植物としての虎杖の特性のことだろう。秋にちいさな実をつける頃、茎の酢が涸れてしまう。干上がってしまう。秋の風景である。

下五の「五十年」という作者の年齢と近いことから「も」は、「虎杖の酢」と同様に「作者」も繰り返し涸れていくことという並列を意味するだろう。

秋になると物思いにふけり、自分の人生を考える。涸れても虎杖である。酸っぱいことが青年期であれば酸っぱさが涸れていくことが人生の秋ということだろうか。

「枯渇」という言葉がある。違いのわかる男シリーズ、ネスカフェCMに登場するキャラクターは戦中派世代がよく似合う。戦後の復興を時下にみつつ時代に翻弄されて生きて帰ってきたことに対する枯渇だろうか。


72.北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり

『眞神』には赤、血などの神への生贄、地域に残るサクリファイス的な儀式が匂う。生きていることと死ぬことが紙一重であるように。死ぬことも生きることと思える。彼の世とこの世の境界線を勢いよく飛ぶ鳥を想う。

掲句は10句目<渡り鳥目二つ飛んでおびただし>と被っている。そしてまたも「血」(前述<しらじらと消ゆ大いなる花火の血>)である。
生涯を通して鳥の句の多い敏雄であるが、『眞神』での鳥は、<渡り鳥目二つ飛んでおびただし>の句同様に勢いよく突進していくものとして描かれる。鳥として生まれた辛さに同情しているように。
船上生活の長い敏雄にとっての鳥は唯一の訪問者でありよくよく観察した生物(いきもの)なのだろう。鳥は不思議である。鳥類のほとんどが飛行することができ、それを移動手段として陸・海・空を自由に行き来できる。
敏雄の鳥の句を拾ってみよう。

『まぼろしの鱶』
色色の小鳥の中の帰鴈かな
弱国の颱風眼に海の鳥
新しき小鳥のむくろ私す
踏青や鳥のごとくに顔提げて
帰る鳥来る鳥昼夜同じ沖
飢餓の子よ海へ群がりおりる鳥
破片確め難破確め渡り鳥
鳥つるむ半ば落ちつつ羽根出して


『眞神』
渡り鳥目二つ飛んでおびただし
蒼然と晩夏のひばりあがりけり
正午過ぎなほ鶯をきく男 
北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり 
目かくしの木にまつさをな春の鳥 
飛ぶ鳥よあとくらがりのみづすまし 


『鷓鴣』
天ありて脳天弱し百千鳥
とぶ音やむかしの鳥に攫はれて
わたつみのなみのつかれよ渡り鳥
脇甘き鳥の音あり春の闇
鳥が飛ぶ疾風(はやち)に春の人出かな
おほぞらお我鳥(わどり)は汝鳥(などり)もろびとよ
鳴いてくる小鳥はすずめ紅の花


『疊の上』
國空や来つつ暮れたる渡り鳥
山高く水低く在り渡り鳥
大正九年以来われ在り雲に鳥
鳥風や鳥も體熱放しつつ
なつかしの色鳥どれが番なる
日月や走鳥類の淋しさに
一木の沈黙永し百千鳥
仔育ての鳥の瞼よ夜の風
雪の夜を當つる枕は白鳥か
山里の橋は短し鳥の戀
飛交ひていづれか強き春の鳥


『しだらでん』
日と月と鳥ゆくうれひ海跳ねて
大木に枝家に屋根あり鳥歸る
搖籠は止まりやすけれ百舌鳥
わが空路白鳥いまだ飛来せず
野の果の灘も相模や渡り鳥
鳥雲ニツポニアニツポン生きゐて絶ゆ
早死の鳥もあるべし百舌鳥
飛ぶ鳥のつひになかりし良夜かな
ありがたき空気や水や小鳥くる


鳥好きな敏雄にとって、鳥の進化、歴史をも考える句が含まれるのが時系列順にみているとわかる。

配列についても特徴がある。『眞神』の中10句目の<渡り鳥目二つ飛んでおびただし>と72句目の<北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり>の並びはそれぞれその前句に二句「秋」という語を入れた句を配置している。

8火の気なくあそぶ花あり急ぐ
9こぼれ飯乾きて米や痛き
10渡り鳥目二つ飛んでおびただし


70石塀を三たび曲ればの暮
71虎杖の酢も涸るる五十年
72北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり

ただただ鳥をみて過ごし、敏雄の淋しさが伝わってくるようだ。生きていることの意味を鳥に託しているような気がしてくる。

しかし、これだけ鳥好きと思える敏雄が『眞神』に配した鳥はたった四句である。特別な鳥を配したと思えてならない。『眞神』の中で意味する鳥は神への使い、あるいは神と思える八咫烏(やたがらす)の存在とも似ている。

『眞神』の中の激しく飛び立つ鳥は敏雄の俳句に対する挑戦を映しているように思える。『まぼろしの鱶』が昭和四十一年四月(46歳)そして、『眞神』が昭和四十八年(53歳)である。『眞神』上梓の前年(昭和41年)には航海訓練所を退き、平河会館支配人の職に就いている。いよいよ俳句に没頭できる時が来たのだ。『まぼろしの鱶』からの7年間は敏雄にとって白泉を失い、三鬼全句集を編纂するなどの俳句に於いての大きな過度期を過ごした。

上掲句は、50歳を超えた敏雄自身の俳句に対する強い思いを託す八咫烏に思えるのである。


二十四節気論争(3)――日本気象協会と俳人の論争――/筑紫磐井編

3.「24節気アンケート」の〈意見〉の分析


気象協会の24節気見直しの提案に関して行った「24節気アンケート」の自由記述による「意見」の最終集計結果を、意見の内容に応じて分類して原文のまま掲げてみた。俳人たちの24節気及び季節に関する多様な意見をうかがうことが出来、今後の季語論の参考になると考えるものである。

各意見の前についている●は資料②インターネット上の「24節気アンケート(最終集計)」、〇は資料①こもろ・日盛俳句祭会場での「24節気アンケート」である。②の意見の方が詳細であったので先に掲げる。提出された99件の意見は漏れなく拾ってある。文は、原則投稿されたままとしたが、1部誤字や修正が必要なものは[]で編集者が加えておいた。

内容分類

第1群 在来24節気の見直し反対論

第2群 修正追加の肯定論

第3群 虚無的態度(どうでもよい、淘汰されるから)

第4群 節気・季語の根本論

第5群 いずれにも属しない意見

 まとめ(考察)

 

 

第1群 在来24節気の見直し反対論


(1)廃止すべきではない


最も多い意見は、在来の24節気を廃止すべきではないという意見である。後述するようにいくつかの根拠をあげるものがあるが、そうした明確な根拠を掲げていない意見についてまず総論的に掲げておくこととしたい。

  • 24節気も好きだけど、72候も好き。どちらも歳時記から外さないで欲しい(せめて表として残しておいて欲しい)。

  • 24節気のうち半分位は一般に知られていると思えるし、名称が難しいと言うが、「啓蟄」だってかなり難しい。当然ながら、要は慣れにあるのでは。立春、立夏、立秋、立冬などは、なるほどという感があり、違和感はありません。詳しくは知りませんが、24節気はそっとして置いてもいいと思う。

  • 季節の区切りとして、肌身に感じる言葉として、俳句をいたすものならば24節気は最低限知るべきである。


(2)24節気は伝統である


廃止すべきでない理由として、伝統として24節季の維持を主張する意見がある。後述(5)の文化論に近い。

  • 専門は自由詩ですので俳句はめったに作りません。あまり的確な回答はできません。ただ、強制によって過去の歴史を消していく方向は避けたいものです。

  • 日本の大切な、伝えていかなければいけないものだと思う。

  • 古の人達が、当時の気候や風習・ならわしなどを通じて自分達が肌で感じたものを言葉に変えたものでしょうから、これからも大切にしていきたいと思います。

  • 私は24節気の廃止には絶対に反対です。私は俳句に関わる以前から24節気について心に留めて生活をしていました。日本料理やお茶席、芝居・寄席演芸、着付け・・・等々、筋目筋目に季節を早取りして感じる日本の文化では、中国から借り受けた24節気は大切な役割を担っているのです。そもそも24節気というものは、俳壇における狭義の「季語」である以前に、私たち東洋の生活の背景となっている様式美であることを忘れてはいけません。1年のライフサイクルの中での、いわば「韻律」となっているものなのです。俳壇の枠に捉われず、24節気を大切にしている人々と手を携え、24節気の安易な改廃には強く反対を表明することを希望します。(「都市」本多燐)

  • 漢字の熟語としても大切。当然知っておくべき言葉。

  • 大切な宝です。

  • 素晴らしい伝統であり軽々しく改変すべきではない。

〇古来の言葉を大切にしてゆきたい。1時の思いつきなどで暦をいじるようなことは、決してすべきではないと考えます。

(3)2つの季節感のずれを甘受すべきである


在来の24節気について、気象協会が指摘するように、現代的な(あるいは欧米由来の)季節感と異なる伝統的な(あるいは東洋・中国由来の)季節感のずれは存在すると見る(本当に合致しないかどうかについては4.(2)を参照)が、後者を肯定する立場から、24節気の廃止ないし1部変更に反対する意見が出されている。その中でも具体的な根拠が必ずしも明示されていない意見を先に掲げる。

  • 北海道に、暮らしておりますとズレを感じますがたかだか数ヶ月のこと、そういうものだと割り切ってあります。逆に、北国ならではの季語がありますから!

  • 自分を含め農業に疎い人が多くなって、俳句でも作ってないと出会わない言葉だとおもう。でも西瓜や桃をそのままにして節気だけ新しければいいと言うものでもないような気がします。知らなくても節季があるのは悪くないと思う。

  • 実情とはずれたところがあるにしても、文化としておいておきたい。

  • 「暦の上では」という常套句があるくらい実際の季節とちがうことを前提にとっくに私たちは暮らしているのでこれは残して欲しい。気象庁が口出しすることではないと思います。

  • 農業や一般生活に昔から使われてきた季語。現代のカレンダーと合わないからといって、ほかの言葉に変えることもないし、その必要もない。まだ寒いが立春というと春の訪れが近い感覚があるし、立夏といえばいよいよ夏が来るという期待がある。

  • いまさら変える必要性は感じない。

  • 24節季と実際の季節感とのずれ、これは新暦導入時からの宿命と受け取るしかないと思います。なので下手に合わせようとするのは疑問です。

  • ずれも含めて季節の言葉として生き残れば十分ではないでしょうか。

  • 「新しい季節の言葉」というけれど、どんどん変わる気象条件のなか、「現代」にあわせて言葉を創り出す意味があるのか。今さら農村生活に密着した季語が定着するとは思えず、かといって移ろいやすい都会生活の語彙を「季節の言葉」と制定する意味があるとも思えない。そもそも「24節気」の枠組みが日本にあわないのであって、あわないものをあわないなりに言葉の上で楽しむのが「季語」文化であるのに、あわせようと今さら制定する行為に、多大な無理を感じる。

  • 現行の24節気は確かに実際の季節と1致していないことが多いかと思います。しかしその少しのずれも季節を先取り或い[は]後で思いを致す1つの指標となるのではないでしょうか。新たな24節気ができるとすれば、どのような言葉が生まれるのか楽しみなところです。

    〇1年を24の「季節区分」をされると、凡そ、現在の気象現象とのズレはあるにせよ、生活してゆく折の、季節感の指針となっていると感じます。(農耕民族の日本人の暦となって、歴史は古いのでは)

〇この頃は子供の頃と違って、季節的に「アレ?」と思われることも多いですが、日本人として四季のある生活を大切にしたいと思います。その意味でも24節気は大切と思います。

(4)ずれは日本人独特の季節感である


季節感のずれを認めた上で、単に甘受すべきであるというばかりでなく、日本人独特の季節感であると積極的に肯定する意見も多かった。
  • 24節気はその季節が極大の時に次の季節の匂いを嗅ぎ取る事に大きな意味があるのです。今年の例で言えば8月7日が立秋ですが、まだまだ夏の盛りのこの時に、少しずつ日が短くなってきたりなど、よく観察すれば季節が動いていることを知ることができる。それが分からない今の日本人は季節感が鈍いのです。そんなものに合わせて新しい24節気を作るくらいなら、このまま忘れてしまった方が良いのです。

  • その時期に、「もう立秋だ、芒種だ」と季節を感じさせてくれる。私には欠かせないものとなっています。

  • 昔からある言葉はそれなりの意味があって存在していると思います。単なる記号ならともかく、日本ならではの情緒ある言葉、歴史ある言葉を新しい言葉に置き換えるのは反対です。24節季は大切にしていきたい日本の財産のひとつと思います。かたちあるものだけではなくかたちのない言葉も大切に使い続けていかなければならないと思います。(そういう意味では歴史ある地名が消えていきつつあるのも残念です)。

  • 暑い寒い盛りに立秋、立春になるとか異論もあるかと思いますが、少し気をつければ立秋立春のころには秋や春の気配が感じられます。名称も1つ1つ解説があれば、覚えることも難しくないと思います。新しい言葉を定着させるよりも沢山の背景を持った今の24節季を広めていく方が、豊かな日本語の世界が広がると思います。

  • 24節気は言葉に風情があり、これからも今のまま使っていくのが良いと思う。

  • 24節気は、連綿と繰り返す年々の季節を経て、人ひとりの人生の数十倍もの時間をかけて見いだされた気候のパターンというのも大切なことです。ですがさらに、これまで千年以上、人々はずっとこの24節を意識して、「そろそろ春分だ」「芒種だ」と思いながら時を過ごしてきたということが、1つの価値になっているように思います。過去との断絶が深い現代の文化から、わずかでも過去の人々と現在を繋ぐよすがとして、24節気はもっと意識されてもいいものではないでしょうか。

  • なぜ長く続いてきた文化を現代の浅薄な知識で書き変えようとするのか理解できません。

  • いまのままでいいのは当然のことだと思います。

  • BE俳句に興味を持ち始めた頃は、季語は窮屈に思えましたが、毎日季題を貰える中で、お陰で俳句への興味が広がっていった経過がありました。24節気は、確かに実際の気候より少し早めに思いますが、オーケストラの指揮と同じで、早めの方が来る気候に備えたり、心待ちにしたり、思い起こしたりと、味わい深く思いますので、良いです。併せて、現代らしい季語や地域特性のある季語が増えることは、益々楽しみですが、24節気の地位は揺るぎないかと思います。

  • 「24節気」は、実際の季節とのずれを含めて大切にしていきたい言葉と思っております。確かにその時々の実感とのずれはありますが、そこからまた季節に対する鋭敏な感覚が養われるのではないでしょうか。24節気を詠み込んだ古人の作品を味わう上でも必要な知識でありましょう。廃止したり、新たに「いまどきの24節気」を設定する必要は全くないと考えます。

文体の変化【テーマ:短歌と俳句で読む②】/筑紫磐井

~長岡裕一郎の場合~


長岡裕一郎は東京芸術大学にはいる前の浪人時代に三一書房の『現代短歌大系』(昭和47年)の最終巻で大岡・塚本・中井の選考で発表した新人賞次席に選ばれ(この時18歳)、後「俳句研究」の五十句競作で俳句に転じ、攝津幸彦、大井恒行、歌人の藤原龍一郎らとともに「豈」の創刊同人の一人であった。しかし長年にわたる過度の飲酒が肝臓をむしばみ平成20年4月になくなった、享年は53歳だったが多くの友人には白皙の美少年の面影がまなうらを去らない。

そのデビュー作で、中井・大岡・塚本の満票を得、選者中井英夫に「あんまり達者で、舌巻くほかはない」「呆気にとられた」と言わしめた作品が「思春期絵画展」である。
トリチェリの水銀柱にて生じたる真空地帯にひそむ憂鬱
エルンストの都市鳥瞰図に地震ありて静かに揺らる燐光時計
青空にマグリットの月冴え冴えと『諧謔』は歩く恋愛海岸
ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち
赤ばかり並んでしまつた、アリスよバラを塗りかえる白をくれよ
大岡は「非常にうまいですね。うまいというより、瞬間に浮んできた言葉を並べていくと、つぎつぎにこういう歌が出来てしまうような機構が、この人の若い頭の中にあるんだという感じですね」「この人の感覚は、危うい綱渡りをみごとにこなしていけるようで、いわばいい運動神経を持っている歌だという感じがするんですね。しかしまた、はたしてこんなに軽々と歌が出来てしまっていいものかしらということが気になることもたしかです」といっているが、中井・塚本のこれに対する「ただ、将来、たいへんないろんな仕事をする人じゃないかとはとは思います」「怖ろしいような才能ですね」言葉と合わせて、前回私が句集・雑誌渉猟(2)で述べた天才論を地で行く作家であったことを今更ながらに思わせるのである。

「実験室の遊戯」「思春期絵画展」「秘密の革命」「「不思議の国のアリス」演技」といった題名から戦火想望ならぬ幻想想望の世界を描いたのだが、最早その題名は(過去の)制作の動機以外何ものでもなく、敢えて主題というにはあたらない。あふれ出る才能に、なんらかのきっかけが必要だったというだけのことなのだ。長岡の受賞の言葉、「あぶない崖のふちに立ち、不意に疾走してくる言葉たちを掴まえようとしたつもりですが、手を摺り抜けていった言葉は僕の心配を裏切り、崖から墜落するどころか、蝶のように飛翔して、やがて見えなくなりました」は大岡たちの予想通りの資質を持っていたことを自ら語っている。

このあと、長岡は「俳句研究」の五十句競作(高柳重信が、『現代短歌大系』新人賞に倣って企画したものだという)に応募し、入賞に次ぐ佳作第1席に選ばれた。以後、澤好摩、攝津幸彦を兄貴のように慕い、俳句を紡ぎ続けた。彼の俳句作品を句集としてみることの出来ないじれったさ、特に慕っていた攝津幸彦の若すぎた死(平成8年)で彼の句集をまとめるモチベーションの低下を怖れた大井恒行、酒巻英一郎、そして私が強引に「長岡裕一郎誌上句集三〇〇句」を豈39号(平成16年7月)に掲載させてしてしまった。裕一郎の没後遺族はこの300句を遺句集『花文字館』(平成20年12月ふらんす堂刊)として上梓した。

森の奥眠りあると進む濡れた靴
目薬のへたな童貞花言葉
階段のひとつが故郷ハーモニカ
さむき夢プラネタリウムに植えられて
押し花の濁り静かに閉ざす辞書
極彩の切手蝶道に緘す
やわらかくきつぷちぎられ水族館
雨雨雨紫陽花舞踏譜蒐集家
少女から処女へと雪の降りつづく
令嬢(マドンナ)の睫毛・優曇華・花鋏
黒天鵞絨(くろびろうど) ふと水滴の番(つが)ひしか
蝶の絵に不覚の飛沫落としたり
手花火を水に落として蜜となる
風花を/卍くづしと/言ふ切子
門松の切れ味すごき夜を歩く
はたた神 仕舞ひ忘れし花鋏

これらの句をどう見るであろうか。必死に俳句の牙城に攻め込もうとする長岡の主観を感じ取ることは出来るが、読者としてやはり「思春期絵画展」をフラッシュバックしてしまう瞬間がどうしてもある。長岡の悲劇はそれと抗ったところにあったのではないか。「思春期絵画展」が実は俳人の長岡そのものでもあると思わなかったところに、彼の俳句の世界での不幸があったように思う。しかしじっさい、彼はそうした世界で成功していたのである。
黒天鵞絨(くろびろうど) ふと水滴の番(つが)ひしか
この美しさ!永遠に残る長岡の絶唱である。「ギリシャ悲劇の野外劇場雨となり美男美女美女美女美男たち」に匹敵する極上の世界を彼は意識せずに紡いでいたのである。

 
短歌と俳句を併行して続けた安土、短歌から俳句に転換した長岡と眺めた。その上で言えば、短歌の呪詛に彼らは終始絡め続けられたように思う。

再録・黒い十人の女(三) 柴田千晶

雷鳴に醒めたる顔を誰も知らぬ   三好潤子  


食器棚のガラス、浴槽に張った水、夜の電車の窓、不動産屋の自動ドア……思いがけないところに映った自分の顔にはっとすることがある。鏡には映らない真顔、無防備で疲れた顔。
なんて絶望的な、なんて寂しげな、なんて冷徹そうな(まるで犯罪者のような)顔に見えたり、空っぽのがらんどうに見えたり。

畳にうつ伏せのまま眠ってしまい、雷鳴にはっと目覚めた時、硝子戸に見知らぬ他人の顔が映っていた。

あっ、と思ったがすぐに自分の顔とわかり、自分の中にまだ誰にも見せたことのない顔が一枚あることを知った。

三好潤子は醒めた眼で自分を見つめている。自分を突き放している。そこにどうしようもない孤独が寄り添う。

山口誓子は「天狼の若い女性同人の津田清子、橋本美代子、藤本節子は、いずれも橋本多佳子系統に属する作者である。ひとり三好潤子のみ別の系統から現れた変り種である」(日本経済新聞「私の履歴書」より)と、書いている。この一文から、誓子が潤子の才能を認め、大いに期待をしていたことがわかる。事実、潤子は「天狼」の同人に与えられるスバル賞(年間自選作品最優秀賞)を4度も受賞している。

第一句集『夕凪橋』は異例の句集である。山口誓子の序文と小説家の小島政二郎の跋文が載り、誓子選と政二郎選の二章立てとなっている。誓子の厳しい選からもれた句を小説家の眼で政二郎が拾い上げている。

政二郎の跋文は「この人は会つてゐても、特殊な物言ひをする。多くない語彙で、ムードのある物言ひをする。皮肉も言へば、鋭い批評もするし、複雑な女の感情や心のうちを、じれッたがりながらも完全にこつちへ伝へずには置かない。」と、潤子の女性としての魅力を前面に描きつつ、「これまで誰からも打ち明けられたことのない女の本能のなまなましさ、さういふ女性の新鮮な官能が、感情が、神経が、肉体が、彼女の俳句の中に脈打つてゐる。さうして大胆な単純な表現の中に、彼女の原始的な色と光と形となつて実に新鮮である。」と、潤子の俳句の魅力を手放しで讃えている。

政二郎が指摘する「女の本能のなまなましさ」が、確かに潤子の俳句の根っこにはあるのだが、それがそのまま詠まれた作品からは古い情趣が感じられる。

春の蝉帯のゆるみに鳴きこもる
夕焼を睫に溜めて汽車にゐる
いづこより来る寂しさや蕗を煮て
鰯雲割烹着着て主婦めく日
身の内を衝き来る雪や逢ひにゆく
飛ぶ雪の奥に男の眼を感ず
妻の座の束縛もなし麻の帯   以上『夕凪橋』
魔の霧も掌と掌の温み奪へざる   『澪標』
雛段に女盛りの雛ばかり   『是色』


潤子は生涯家庭を持たなかった。独身であるのに上記の句は良妻賢母の思考の枠に留まってしまっている。

しかし、誓子に構成力を鍛え上げられた潤子は、古い情趣を捨てて新しい感覚を自分のものとした。

晝の情事枯れ梳く公園日が當る
君を消し得るか聖菓の燭を吹く 
地下深く籠らす冬灯未完のビル
洋上に月あり何の仕掛けもなく    
行きずりに聖樹の星を裏返す   『夕凪橋』

何もかも枯れ果てた公園に冬の日が当たっている。その奥の枯れ梳いた雑木林にも日が当たり、抱き合う男女の姿がちらちらと見えている。他人の情事を遠くから見ている潤子。ここに描かれているのは作者の孤独だ。

或いは、自分と男との情事を、公園で遊ぶ子供や主婦たちから見られているかもしれないと妄想したのか―。

自分をモノのように見る眼を潤子は持っていた。

情事という俗っぽい言葉を主情的に描けば陳腐になるが、構成的に描けば生の瞬間を捉えた新鮮なカットとなる。

三好潤子について、自由奔放、天衣無縫、手練手管、華やか、活発、わがまま、直向き……などさまざまに言われているが、ほんとうはどんな女性だったのだろう。
潤子は曼珠沙華を多く句に詠んでいるが、この花について「わたしは、この花を見ると、疎外者の哀しさを感じるのである。」(「私の歳時記」S49.3)と書いている。「疎外者の哀しさ」は、潤子自身のことを述べた言葉だったのかもしれない。

潤子は、ほんとうの顔をまだ誰にも見せたことがなかったのかもしれない——愛した男たちにも。

1944年6月、トラック諸島に向かって航海中のカツオ漁船群は米軍機の攻撃を受け、分乗していた31人の軍人軍属は太平洋マリアナ諸島に位置するアナタハン島に命からがら泳ぎ着いた。

アナタハン島では日本企業によるヤシ林の経営が行われ、その出張所に2人の日本人、農園技師の男とその部下の妻が暮らしていた。部下は消息不明となっており、取り残された妻、K子は夫の上司である農園技師と親密な関係になっていた。

そこへ流れ着いた31人の男たち——。

彼らは原住民たちが1人残らず消えたこの孤島で共同生活を始めた。

1945年8月15日の終戦を知らず、彼らは米兵に見つかることを怖れ、乗っていた船ごとに集落を作り隠れ住んでいた。

島でたった1人の女、K子と農園技師が正式な夫婦ではないことがわかった時から、男たちの間に奇妙な空気が流れ始めた。

やがて男たちはK子を巡って殺し合いを始める。

1人、また1人と男たちは殺されてゆき、或いは行方不明となり姿が見えなくなっていった。
K子と同棲していた農園技師も食中毒で亡くなっているが、本当に病死であったのかはわからない。

生き残った男たちは次々とK子の夫となり、順番に殺され、いつの間にか13名の男たちが島から姿を消していた。

1951年、アメリカ軍に救出された19人の男たちと、たった1人の女であるK子が無事日本に帰国した。

アナタハン島で一体何が起こっていたのか、誰がいつ何処でどんなふうに死んでいったのか、男たちの不可解な死にK子は関わっていたのか、全ては藪の中に葬られたまま。

奇蹟の生還を果たした「アナタハンの女王事件」の主役、K子は、ここから更に過酷な日々を送ることになる。

「アナタハンの女王」「アナタハンの毒婦」「32人の男を手玉に取った悪女」とカストり雑誌に書き立てられ、K子は好奇の眼に晒され続けた。国内では「アナタハンブーム」が起こり、K子主演のB級映画『アナタハン島の真相はこれだ』が公開されるなど、K子は一躍時の人となった。

K子はわけもわからぬままマスコミに踊らされ続けたのかもしれない。騙されてストリップの踊り子になったという話まである。

毒婦、悪女、女王蜂、などと呼ばれ、K子は自分のほんとうの顔を思い浮かべることができなくなってしまったのではないか。

「アナタハンの女王一座」の女優として全国を興行して回った後、K子はようやく郷里の沖縄に戻り、結婚して平安な日々を送る。

1972年、K子は脳腫瘍で52歳の若さで亡くなった。

数奇な運命に翻弄されつづけた女の顔が雷鳴に浮かび上がる。

(誰もほんとうの私の顔は知らない)

次の雷鳴に浮かび上がるのは、K子の顔か、潤子の顔か——。

三好潤子は体が弱く、生涯難病と付き合い続けた。
中耳結核、肝炎、両下肢血管栓塞症、脳腫瘍とさまざまな病気に襲われ、入退院を繰り返している。病床にあっても、潤子は醒めた眼で自分の病を詠んでいる。

麻酔秒読み落下傘開かず寒し
百日病み金魚の愛を底から見る   『夕凪橋』

潤子の年譜には病歴と旅の記録しかない。入院しているか旅に出ているか。
病気と旅と恋愛。

潤子は生涯これだけしかしてこなかったのかもしれない。病気も旅も恋愛もすべて非日常である。
潤子にとって唯一の日常は俳句だったのかもしれない。俳句が潤子を日常に繋ぎ止めていたのだ。

還れざる白鳥の白死装束   『是色』

この句を作った2年後の1985年、三好潤子は脳腫瘍で59歳の生涯を閉じた。
潤子はひとり彼の世に旅立っていった。その死に顔は美しかったと誰もが言う。

病に翻弄され続けた潤子は、死に顔となってようやくほんとうの自分の顔を見せることができたのだ。


参考文献
  • 『曼珠沙華』三好潤子(ふらんす堂)
  • 『女性俳句の世界』第4巻(角川学芸出版)
  • 『戦後未解決事件史』(宝島社)
  • 『殺人百科データファイル』(新人物往来社)
  • 『絶海密室』(新潮社)大野芳
  • 『東京島』(新潮社)桐野夏生(本事件を元に創作)