2012年12月27日木曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 6.7.  / 北川美美

6. 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

骨太な男の匂いがする句である。

「ばんあまきちらすちちなるくいひとつ」

こうすると、「ちち」がかわいいヌードになり、鎧が外されたようにみえてくる。しかしひらがなにしたからと言って意味は降りて来ない。まずは親近感を持ち声にしてみる。何度も復唱する。再び凝視してみる。

通常であれば、上から素直に主格を探し句意をかみしめるだろう。しかし、この句は隠れた助詞の読み方により主格が覆される。後半の「父なる杭ひとつ」を主格とし「晩鴉を撒き散らす」という読みを推奨したい。「撒き散らす」は空一面にカラスが飛び交っている様子、ヒッチコックの映画『鳥』のようなサイコサスペンスである。赤赤とした空にけたたましく飛ぶ黒いカラス。父であろう杭が、大地の男根そのもの、あるいは人柱のように打込まれている。社会のために枯渇して死んだ男の碑かもしれない。その上をカラスが祭のように飛び交うのである。

「晩鴉(ばんあ)」という言葉に漢語からくる瀟洒で知的な響きがある(*1)。それに対して「撒き散らす」は乱暴と言えば乱暴な負の印象である。鴉は、腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の化身のように言い伝えられ、悪や不吉の象徴として描かれることが多い。しかし、その逆に神話・伝承では、世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」として崇められてきた鳥でもある。ここでは「晩鴉」を神の化身と捉えたい。まるで祭であるかのように鴉が鳴き叫ぶその異様な景は、家を、国を、社会を支えてきた孤独な男である父への「挽歌(ばんか)」と掛詞になっていなくもない。『男たちの挽歌』(1986年香港・チョウユンファ主演)はハードボイルド映画だけれど、『眞神』は俳句のハードボイルドである。烏(からす)を撒き散らすのではなく敢て「晩鴉」を撒き散らしたことにその緊張感が生まれているのだろう。

母に続く、父の登場である。

再び高柳重信の『遠耳父母』より父の句を引く。

沖に
父あり
日に一度
沖に日は落ち

重信の父は沖に遠い。敏雄の父は大地に根付き生活臭、家族臭がある。そして『眞神』の中の母は女、父は男として位置を示してくる。重信、敏雄の両者が父母を題材にした句を意識的に発表していることに互いの影響力を大いに感じ、それぞれの精神的内部を垣間見る像として浮かび上がってくるようだ。『眞神』の中の父、母の句のプロローグである。

そして助詞を省いた敏雄の句に、「言葉」の力を信じようとする厳格な姿勢が伺える。散文的な内容、句意よりも言葉。雰囲気ではなく言葉。欲しいのは言葉。言葉がもたらす響き、陰影、情念、知性、過去、未来・・・言葉の力を改めて推し進め句意を排除しているようでもある。『眞神』が難しいと思うのは、この助詞の省略、切れをどう読むかにより読者の品格すらも疑われる怖さも秘めるからだ。言葉が一句の中で回転し、無言に立ち上がり器械体操のように動きだす。読者自身が着地点を定めるしかない。それが昭和48年発刊以来『眞神』はいまだ人気の句集である所以だろう。

「晩鴉撒きちらす」を司祭のように飛び交う鴉たちの光景と思うと、上掲句は『眞神』のタイトルとなった、#55句目の「草荒す眞神の祭絶えてなし」と呼応するように思えてきた。『現代俳句全集 四』(立風書房)に収録された『眞神』ではこの#6「晩鴉撒きちらす」を冒頭句に配置換えしている。改めて#55句目で再検証したい。

*1)「晩鴉(ばんあ)」は夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスである。戴復古の詩に「煙草茫茫帶晩鴉」の一文がある。「遠くの霞んだ草むらは、ぼうっとして果てしなく、夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスの姿が長く列になって続いている。」というものである。「晩鴉」は、人に例えるならば晩年、季節ならば秋だろうか。

7. 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

七句目にして俳句で見慣れた言葉に出くわし懐かしくもあり安心もする。穴のリフレインとともに蝉と蟻の季重ねは、逆に古典的ともいえよう。

確かに蝉の穴は蟻の穴よりも静かである。蝉は地上にでるまでに数年を費やし、自力で土を掻き除けて地上にでる。蝉の穴は蟻の穴よりも深く暗く大きい。「よりしづかなる」とう表現により、「意外にも蝉の穴の方が静かではないか」という驚きとも読み取れる。また闇である穴を比較し涅槃の選択をしているようにも読める。

蝉の幼虫における地下生活は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ恐るべき小動物である。蝉の地中での生活実態はまだ明らかになっていないことが多いらしい。穴を詠みつつ命の時間を暗示している点は見落とせないだろう。充分にアフォリズム的な深読みを読者それぞれが楽しめる。

深読みをしてみよう。イソップ童話の「アリとキリギリス」の結末はさまざま改変がされ続けているらしいが最も有名なのは、ウォルト・ディズニーの短編映画で、アリが食糧を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏するというもの。地中海南欧沿岸のギリシアで編纂された原話では本来「アリとセミ」である。冬まで生きられないセミがクライマックスで食糧を懇願する矛盾はあるが、掲句に重ねるならば、地中に出たセミから物乞いされたアリが、「永年地中にいたセミが穴からやっと出て行ったが、静かであると同時に物寂しい」とアリ自身が思っているという見方も考えられなくもない。

蟻の穴は迷路のように複雑で沢山の同胞がうごめいている。『蟻の兵隊』(2006年/監督:池谷薫)というドキュメンタリー映画の中で日本軍残留を強いられ蟻のようにただ黙々と戦ったという証言が脳裏をよぎる。蝉の穴は大きく暗く深く、まもなく、あるいはすでに命が消えているかもしれない。涅槃として考えるならばどちらがよいのだろうか。両者とも過酷な涅槃の穴である。

上梓から39年目の『眞神』の地中で過ごした蝉の幼虫は今年もしずかに地上に這出てしずかな穴を残すのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿