2012年12月27日木曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する / 北川美美 13.14.15

13. 冬帽や若き戦場埋もれたり

日本陸軍の冬帽子に「椀帽」というものがある。フェルト製のお椀型になっているもので星のマークがついている。またソ連軍が被る耳アテ付の毛皮帽を満州北部に渡った筆者の父の19歳の写真からも確認することもできる。

この句の「戦場」が満州を意識しているのかは定かではないが、極寒の地に散った青年は確かに多い。敏雄にとり戦争句を詠みつづけることは戦友への鎮魂であった。「埋もれたり」という下五により、嘆き、落胆、人を埋葬すること、雪に埋もれてしまうことを想像し、戦争が人々の記憶の彼方に埋もれてしまうという危惧をも感じる。

若き兵その身香し戰の前 『弾道』
支那兵が銃を構へて来り泣く 〃

戦火想望俳句と全く異なる戦後の戦争俳句を詠むことを敏雄は『眞神』で確立したのである。敏雄の戦争詠は20年のスパンで変貌していく。


14. 針を灼く裸火久し久しの夏

夏の句である。けれど郷愁の夏を詠んだ句と読む。

「灼く」「裸火」「夏」、更に「針」まで登場し灼熱地獄の拷問を連想する言葉たちである。
突然の措辞「久し久し」が痛々しいまでにやさしく感じられる。言葉による飴と鞭である。

囲いの無い火が「裸火(はだかび)」である。「裸火厳禁」という札はよく見かけたが、「はだかび」という読みに気が付くと、妙に艶めかしい。火(ひ)が裸(はだか)という捉え方がさすが源氏物語の時代の妖艶さに感心しきりである。「裸火」の場景をランプの囲いガラスを外して針を焼いている船内と想像した。敏雄が船内のランプの火で針を焼いているのである。

「久し久し」と懐かしんでいる様子が伝わるが、子供の頃、母が傍で針を焼いていた記憶を言っていると読める。母親が敏雄の為に針を灼いて消毒をしている姿。それを今、自分が火を見つめながら針を灼いている。燃えている火をみつめると様々なことを想う人間の心理状態をよく観察している。

掲句は大人になった作者が母親(あるいは乳母、養母など)を女という対象として捉え郷愁の中で優しい気持ちになっている感覚になる。しかし、掲句は何もそのようなことを書いていない、言っていないのだ。

15. 夏蜜柑双涙かわくばかりなる

「反対の言葉を置いてみる。」掲句から山本紫黄との会話を思い出した。紫黄に書いた俳句(らしきもの)を見ていただくと、右手にぐい飲みを持ったまま無言で数分過ごし、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。あまり俳句の話を自分からしなかったが、時に実作の極意らしきことを語る時は遠慮がちに「と三橋さんがよく言っていた。」と必ず付け加えていた。

涙は流れるものであるが、ここでは乾いている。「涙」という言葉から感じるものは、「悲しい」「滲みる」「流れる」「しょっぱい」などであるが、それが「乾く」とどうなるのか。「乾く」とは、「心」「荒野」「砂漠」・・・と言葉の連鎖が不思議な感覚を産む。下五の「ばかりなる」の措辞が絶妙である。「乾く」までは考えたとしても「ばかりなる」がどうすれば降りて来るだろうか。何度もこの句を唱えて凝視していると、反語を使用した、

鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ   渡邊白泉

がその先にみえる。

涙が乾くという表現により、逆に涙が流れ続け、心があらわになり、悲しみがどこまでも続いているような感覚が生まれる。夏蜜柑が心のかたちのように、すぐそこに置かれているように思えてくる。敏雄のことを「三橋さん、三橋さん」と嬉しそうに思い出していた紫黄が妙に懐かしい。会いたいのに会えないのは辛い。双涙かわくばかりなる。

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