2018年2月23日金曜日

【巻頭急報】兜太逝く          筑紫磐井

 2月21日に金子兜太逝くの報が飛んだ、1月に入院して一時退院したと聞いたが、2月に誤嚥性肺炎で再び入院し、20日午後11時47分に亡くなったものである。
 熊谷市の病院では、改善が見られないことから親しい人々を呼ぶように指示したが、その時情報の行き違いから、一部の報道では兜太死亡の報道が流れたという。すぐ訂正の報道がなされたが、それからいくばくもなく本当に死亡してしまったのである。
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 兜太が公衆の目に姿を現した最後は、11月23日の現代俳句協会創立70周年記念全国俳句大会・記念式典・祝賀会であったろう。表彰を受け、秩父音頭をうたって退出したが、この時は終始車いすに座っていた。
 しかし私たちに限って言うと、12月13日に、熊谷にある兜太邸を訪問しインタビューをしている。自宅では車いすを使うこともなく、ソファーに座り、長い座談も疲れることなくこなしてくれた。恒例なのかもしれないが、最後のもてなしに、再び秩父音頭を歌ってくれた。我々がタクシーで帰るときは玄関まで見送ってくれたのだが、なかなかタクシーは来ず、かなりの長時間立って見送ってくれたのだ。
 「海程」の人々や雑誌社の人も年末年始の訪問は控えていたのではないかと想像されるから、本当に我々が普通の客として訪れた最後の人間であったかもしれない、ましてインタビューなどは最後のものといってもいいかもしれない。
 私の心づもりは、「海程」の終刊を決めて、その後は自由に生きるといっていたところから、虚子の姿に重なるものを感じた。虚子は晩年ホトトギスの選者を高浜年尾に譲った後、本拠を次女立子の「玉藻」に移し、「虚子俳話」や「立子へ」を連載したのだが、特に私の関心があるのが若いホトトギスの作家たちと「研究座談会」を開き、ホトトギスだけではない俳壇全体を展望した戦後俳句を語っていることである。
 新しい生活に入る兜太にはこうした余人にまねのできない仕事があるはずだと思い、会うたびに勧めていたが、なかなか決断は得られなかった。実はこの時第1回目としてわずかではあるが話を切り出してみた。師事した楸邨、親近しながらも格闘した草田男に比較して、同じ人間探求派の石田波郷についてはあまり語られていないが、どう感じていたのか、というのが私の関心としてあり、それなりの話を聞くことができた。いずれそれはどこかで発表されるのではないかと思う。
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 虚子と比較したのは別でもない、さすがに最近は大時代的は表現は見られなくなったが、たぶん兜太の死は昔なら「巨星墜つ」と評されるかもしれない。虚子に似ているからだ。あるいは新聞の見出しに倣えば、「戦後俳句が終わった」ということもできるかもしれない。もっとも兜太邸を一緒に訪れた人たちと話をすると、戦後俳句とは何であったのかまでさかのぼる話となってしまったが、どんな結論を出そうとも、兜太をぬきにはできないことは間違いないだろう。
 兜太が逝ったことによる「『戦後』のあと」を我々はどう見ていけばいいのだろうか。