2016年2月19日金曜日

【短詩時評 十三形】久保田紺と吉田知子-わたしに手を合わせるおまえは誰だよ- /  柳本々々



 私が道へ出ると人々がざわめいた。知っている人も知らない人もいる。私は彼らにちょっと頭をさげてから歩き出した。人々は自然に私の進路を空けてくれる。肩を軽く触られた。いや、投げられた硬貨が私の体に当ったのだった。前からも後からもお金がとんでくる。私は歩き続けた。次第に人が多くなり、硬貨の数も増す。近くの人は柔らかく投げあげるが、遠い人は力をこめてぶつける。頭にゴツンと強い衝撃があった。硬貨ではない。顎に当った石が足もとに落ちる。
  (吉田知子「お供え」『お供え』福武書店、1993年)

  転がりやすいかたちに産んであげましょう  久保田紺
  (『大阪のかたち』川柳カード、2015年)

久保田紺さんの句集『大阪のかたち(川柳カード叢書③)』(川柳カード、2015年)は、序文を樋口由紀子さん、跋文を小池正博さんが書かれているんですが、樋口さん小池さんお二人のそれぞれの言葉から久保田紺さんの川柳の或る〈イメージのかたち〉が浮かび上がってくるように思うんです。そこからきょうは始めてみようと思うので、ちょっとお二人のことばを引用してみます。

 生きていくうちにはどうしようもないものが必ずある。なんだかわけのわからない事象にも出会う。最後まで割り切れないものが残ったり、どういえばいいのかわからない感情だってある。それらをああだからこうだからととやかく言うのではなく、てのひらをそっと広げるように、さりげなく見せる。
  (樋口由紀子「てのひらをそっと広げる」『大阪のかたち』)

  人は天使でも悪魔でもなく善悪のグレーゾーンで生きている。どうでもいいことはどうでもいいのであり、しかし本質的なことだけで生きていけるかというと、そうでもない。人さまざまの姿に応じて紺の川柳も千変万化する。
  (小池正博「人間というグレーゾーン-久保田紺の川柳」前掲)

お二人の言葉からあえて紺さんの川柳の共通のイメージを抽出してみるならばそれは、《アバウトなものはアバウトにしておけ》という《Let it be》=《アバウトはなすがままにしろ》ということだと思うんです。それが久保田紺さんの川柳なんだと。樋口さんの「ああだからこうだからととやかく言うのではなく」や、小池さんの「グレーゾーンで生きている」っていうのがそれを示している。性急な〈かたち〉を取らずに、〈アバウトさ〉のなかを〈どう〉生きてゆくか。それを紺さんの川柳は問いかけている。言語で裁断するのではない、価値に白黒つけるのでもない。〈グレー〉というかたち化できないかたちのなかでどう言葉にならない〈さりげない〉言葉を紡いでゆくのか。

この句集のタイトルは『大阪のかたち』です。そこには「かたち」とついている。だけれども、タイトルに《かたち》と記し、その《かたち》をたえず志向しながらも、その《かたち》を《かたち》化させないこと、それが久保田紺さんの川柳の風景なんじゃないかと思うんです。〈かたち〉をたえず追いかけながらもその〈かたち〉を手に入れられない場所に〈あえて〉ふみとどまること。

たとえばこんな句をあげてみます。


  見覚えのない人に手を合わされる  久保田紺


「手を合わされて」いるので、そこには《かたち》があります。たとえばそれは「お祈り」という〈形〉式になるかもしれない。でもそれが「見覚えのない人」によって形象化されることにより、わたしが所持できる《かたち》にはならない。

ここには《かたち》をめぐる問題があると同時に、《誰が》その《かたち》を所有するのかという《かたちの所属/所有》の問題がある(その意味で句集に『大阪《の》かたち』と所属・所有の助詞「の」が使われていることは象徴的です)。

それはいったい《だれの》かたちなのか。《わたしのかたち》にならない《かたち》。


  キリンでいるキリン閉園時間まで  久保田紺

  ショッカーのおうちの前の三輪車  〃

  どこの子やと言われたときに泣くつもり  〃

  貸したままの傘は私を忘れない  〃


ここには《かたち》をめぐる所属と所有の問題があります。「キリン」というかたちは誰のものなのか。ショッカーのおうちの前の三輪車は誰が所有しているものなのか。「どこの子や」と所属をきかれたときに私のかたちはどうなるのか。傘の所有者が変わるとき、記憶のかたちはどうなるのか。


問題はそれらが《どうしたって》わたしのかたちにならないところにある。それは《大阪のかたち》のように、《誰か/何か/どこかのかたち》にしかならないのです。しかしその《Xのかたち》にどうしたって《わたし》は関わってしまう。それが久保田紺さんの川柳です。そしてそれが「見覚えのない人に手を合わされる」かたちなのです。だから「手を合わ」せる人間は「X」でなければならない。その所有/所属を問いかけるためには「見覚え」があってはならない。


こうした《私のものにならないかたち》と関わってしまう《わたし》を描きつづけた作家に吉田知子がいます。吉田知子は短篇のなかでたえず突然投げ込まれた不条理な空間を設定し、そのなかでいったい《わたしが手にできるものはなんなのか》を問いかけていました。

 毎日お花をあげるのに、毎日誰かが全部捨ててしまって、と言う声がする。 
 背中に大きな石が当って私は前のめりに転びかけた。 
 小さな子供が走ってきて私のまんまえで私の顔めがけて石を投げる。ふりむくと私の後にも横にも人間の壁ができていた。私の周囲だけが丸くあいている。手を合わせている人、石を投げる人、私に触ろうとする人。皆、口々に何か言っている。ようやく「お供え」と言っているのだとわかった。
  (吉田知子「お供え」前掲)

わけもわからないうちにわけもわからない人間たちから「手を合わせ」られ、〈かたち〉としていつの間にか自らが〈お供えもの〉=神様になってしまう吉田知子の「お供え」。ここには〈かたち〉が先行してしまえば〈わたしのかたち〉が〈だれかのかたち〉へ脱-所有化されてしまう恐怖がある。所有・所属の助詞「の」は、形式化のありようによってすぐに簒奪されてしまうのです。だれかに〈暴力的に〉手をあわせられ、祈られることによって。〈お供え〉とは対象そのものを〈神様化〉することによってその対象を所有化しようとする〈暴力性〉も秘めている。お祈りすることは、ときに、暴力でもあるのです。


さりげない日常的な行為と、非日常的な暴力行為のアクセスポイントが久保田紺と吉田知子の表現にはある。


  おばちゃーんと手を振るライフルを提げて  久保田紺 


じゃあ、〈かたち〉に奪われない〈かたち〉はないのでしょうか。〈かたち〉はいつも誰かに奪われてしまうのか。紺さんの川柳はそれに対してなにか応答を投げかけてはいないのか。


  ポップコーンになれず残っているひとつ  久保田紺


破裂することによりさまざまなかたちの位相をみせる「ポップコーン」。でもその「ポップコーン」にさえもなれない「残っているひとつ」としての〈かたち未満のかたち〉がここにある。それがどんな〈かたち〉かはわからない。わからないけれど、どこにも回収されない「ひとつ」の〈かたち〉です。「ポップコーン」という名詞に所有されない、集合的表象にも所属しえない「ひとつ」の〈かたち〉なのです。

わたしはこう思うんです。この句集はタイトルに「かたち」とふりながらも、ついに〈かたち〉を手に入れようとはしなかった。しかし、そのようにして〈しか〉たどりつけない〈かたち〉で、〈かたち〉を手に入れようとしたんだと。その意味でこの句集はずっとあなたに〈Xのかたち〉を問いかけているのです。

〈かたち〉はいったい誰が所持しているのかを。「X《の》かたち」の《の》を浮き彫りにすること。

ひとはどれだけおびただしい〈かたち〉を奪われようと、最後までたったひとつだけ残る《かたちにならないかたち》がある。誰にも手渡すことも明け渡すこともできない「わたしの(かたち)」の《の》がある。その《の》こそが、久保田紺さんがこの句集を通して手にいれた《かたち》なんじゃないかと、おもう。

  その大阪はわたしのと違います  久保田紺

 私は石段を降りた。人々が何かを待っていた朽ちかけた神社を通り過ぎる。もう薄暗かった。小さな滝へさしかかった。暗い。道はあるが、いつまでも同じような林の中の道である。完全に日が暮れたら何も見えなくなるだろう。私はあせった。自分のせわしない息づかいばかり聞こえる。この道をどれだけ歩いたらいいのか。どこからあのワラビのはえている傾斜地へ曲ればいいのか。あそこには目印になるようなものは何もなかった。この暗さでは上の方の人家も見えないだろう。もう行き過ぎたのかも知れない。いや、もっと道のりがあった。こうやってわけもわからずに百年歩いている、と思う。
  (吉田知子「迷蕨」『お供え』前掲)




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