2015年11月27日金曜日

【短詩時評 第なな回】な譚-榊陽子とみっつの〈な〉を探して- / 柳本々々



榊(陽子)は、私川柳の個我や怨嗟や情念などとは殆ど無縁の後発世代であり、いま、川柳の今日的な興趣を愉しんでいる最中である。
  (石田柊馬「違った表情-榊陽子の川柳」『川柳木馬』146号・2015秋)

ベタ、言葉遊び、破礼句、悪意、社会性、コトバ化と、現代川柳の要素をオールマイティーに操れる選手ですな、榊クンは。
  (飯島章友「川柳プロレス中継-榊陽子VS川柳-」前掲)

句の中の“犯す”とか“痙攣”“太腿地獄”“姦通罪”に“分泌液”という言葉。日活ロマンポルノの題名かっていう位に、これでもかと言葉でずりずり、ごりごりし過ぎちゃって?でも、ここらの際どい言葉が句の中で浮かずにちゃんとバランス取ってるとこがスゴくない?
  (酒井かがり「わけいってわけいって白雪姫の闇-榊陽子の戯れ言-」『川柳杜人』247号・2015秋)

「バランス感覚」と「作者としての直感」が榊(陽子)の強みである。「靴」「さなぎ」「ナカジマくん」「焼きナス」「ササキサン」などのチョイスは、この直感とバランス感覚によって引き出されている。
  (兵頭全郎「脱げてしまった靴のその後-榊陽子のバランス感覚-」前掲)

「ササキサン」の下の部分は以前から出来ていたんです。上五をずっと考えていたんですが締切ぎりぎりになって浮かんできたのが「ササキサン」でした。
  (榊陽子「川柳ステーション2014 破調の品格」『おかじょうき』2014年10月号)

さいきん、川柳界では榊陽子さんの特集があちこちの柳誌で組まれています。たとえば(これは去年だけれども大きなイベントとして)『おかじょうき』(2014年10月号)において榊さんをゲストに迎えた「川柳ステーション2014」におけるトークセッション「破調の品格」(榊陽子・徳田ひろ子・奈良一艘・むさし・Sin)があり、今年では『川柳木馬』(第146号・2015秋)に石田柊馬さんと飯島章友さんが榊さんの川柳に関する歴史的論考・言語的考察を、『川柳杜人』(247号・2015秋)に兵頭全郎さん、酒井かがりさんのやはり言語的論考とカテゴリー的考察が載っています。

つまり、いま、榊さんの川柳を〈どう〉読むかをめぐっていろんな言説が敷設されているわけです(おそらく榊陽子さんが言説化される際にいまいちばん語られている主題は榊さんの川柳の〈バランス感覚〉のように思います)。

で、榊さんの川柳についてわたしも今回考えてみたいんですが、榊さんのよく引用される句のひとつが次の句なのではないかと思うんですね。

ササキサンを軽くあやしてから眠る  榊陽子

この句は第十七回杉野十佐一賞大賞作品なんですが、この句には「ササキサン」という名前表記のふしぎなあり方と、〈あやす〉という名前表記という表面さに終わらない身体的関わり(あえていえば中身志向)が見いだせます。

「ササキサン」(名前へのタッチ)と、「軽くあやしてから」(中身へのタッチ)と、「眠る」という名前/中身の境界からの奈落(タッチの縫合)がワンセットになっている句なのではないかとおもうんですよ。

で、このふたつの〈な〉、〈名前〉と〈中身〉というふたつのトピックから榊さんの川柳をみてみたいとおもうんです。

まずは、〈な〉まえ(名前)。

名はすすき姓に訛りを引きずって  榊陽子
腰から下は連名にしておきました  〃
  (『川柳木馬』146号・2015秋)

榊さんの川柳のなかの〈名前〉ってなんなのかというとひとつは〈身体性〉です。それは決して表面にとどまっていず、「訛りを引きず」るものであったり、「腰から下」がリンクしていくものでもあったりする。つまり、別の言い方をするなら、〈名前〉というのは〈拘束具〉なんですね。自分が自分だけで完結せず、故郷や他者に勝手にリンクしていってしまうもの、それが〈名前〉です。

ですから、「ササキサン」という「ササキさん」でもなく「ささきさん」でもない分節しがたい名前表記は「ササキサン」自体が「ササキサン」としかいることができないような〈拘束性〉をひとつ表しているようにおもうんですよ。「ササキサン」は「ササキさん」にも「佐々木さん」にも「笹木さん」にも「榊さん」にも「ささきさん」にも、なれない。「ササキサン」と名付けられてしまった以上、「ササキサン」は「ササキサン」なのです。わたしたち読み手にはこれ以上の分節は許されていません。

では、ふたつめの〈な〉かみ(中身)にうつりましょう。

ちょっとだけおもちゃ売り場で臓腑見せ  榊陽子 
口中によからぬ犬を飼っており  〃 
視聴覚教室に舌はいらないの  〃
  (前掲)

榊さんの川柳において、どうも〈中身〉というのは〈場所違い〉と関係があるらしいんですね。たとえば「おもちゃ売り場」で「見せ」られる「臓腑」、「口中」の「よからぬ犬」、「視聴覚教室」の不要な「舌」。どれも中身が〈あるべき場所〉と違うために〈不要感〉が漂っています。

つまり言い換えるなら、これら〈中身〉は場所を間違えているために〈中身〉たりえていないのではないか、ということができるように思います。

榊さんのササキサンの句には、「軽くあやしてから」と書いてありました。
しかし「軽く」と程度の軽重まで書かれていながら、わたしたちには「ササキサン」を措定することはできないので〈なにを・どう〉「あやして」いるのかという実態=中身がわかりません。「ササキサン」が猫なら、赤ん坊なら、大人なら、人形なら、わかります。でも、「ササキサン」は「ササキサン」に拘束されたままで、わたしたちがそれを開封することはできないのでこの〈あやす〉はブラックボックスになっている。〈中身〉がわからないのです。

ひとつめの〈な〉は、名前の拘束として。
ふたつめの〈な〉は、中身の錯綜として。

ここで最後の〈な〉を用意してみたいとおもいます。ファイナル〈な〉は、〈な〉らく(奈落)です。

すすり泣く儀式からずり落ちる  榊陽子 
どの子ともはぐれるように歩き出す  〃 
歯を見せてバッタは死んでゆくんだね  〃

榊さんの川柳には、〈ならく〉があります。「ずり落ちる」、「はぐれるように歩き出す」、「死んでゆく」。「儀式」、「どの子とも」、「バッタ」=〈類〉といった〈全体性〉から〈はぐれる〉こと。

ササキサンの句の結語は、「眠る」でした。これはもう語り手が〈語り〉をやめ〈た〉ことをあらわしています。語り手は眠りの奈落に落ちたので、それ以上は語らない、ササキサンの意味も語らない、あやすの意味も語らない、ということです。

こうした〈語りの禁制〉(意味をさぐることの禁忌)が榊さんの川柳にはあるような気がします。「ササキサン」は「ササキサン」でしかないじゃないか、と。

だから、わたしたちは榊陽子の川柳を読むたびにひとつの〈奈落〉をみているようにおもうのです。そこが意味の行き止まりなんだけれども、その奈落に落ちることをあなたは受け入れられますか、と。

ずり落ちて・はぐれて・死んでも、クールでいられますか。それとも、それでもやっぱり、節操もなくはしたなく意味を求めずにはいられませんか、と。

どう、なんでしょうか。

書き込むためのカレンダーが眼の前にあったとしても、書き込まないでいられるのでしょうか。
わたしは、どう、だろ。

はしたなくひかりかがやくカレンダー  榊陽子
  (前掲)

あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなければ子供達。無力な王子と王女。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにたたずみ続けるだけだ。
  (岡崎京子「ノート あとがきにかえて」『リバーズ・エッジ 愛蔵版』宝島社、2008年)  (前掲)

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