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2015年9月18日金曜日

【短詩時評第二話】小池正博と綱のつけられない動物(的比喩)たち-はじめにもなかがあった、もなかは神と共にあった、もなかは神であった- 柳本々々





 




父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し  寺山修司
  (「花粉航海」『新潮10月臨時増刊 短歌 俳句 川柳 101年 1892~1992』1993年10月)



みんないる森には死んだ犬もいる  竹井紫乙
  (『句集 ひよこ』編集工房 円、2005年)


情愛の対象となっている動物の多くは、顔が平らで表情がある、また直立することができるという点において、擬人的特徴を有している。つまりこれらの動物は、人間と動物の中間に位置するような曖昧な特徴(半人間、半動物)を持ち合わせているという点において、両義的である。
 (渡辺守雄「メディアとしての動物園-動物園の象徴政治学」『動物園というメディア』青弓社ライブラリー、2000年、p.36-7)



動物たちが私を見つめている。まさしく、比喩形象のあるなしにかかわらず。あのものたちは繁殖し、私のテクストが、人からそう信じこまされそうになるほど次第に「自伝的」になるにつれ、次第に野性的に私の顔に飛かかるようになってきた。
  (ジャック・デリダ、鵜飼哲訳『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』筑摩書房、2014年、p.72)

「第3回川柳カード大会」(2015年9月12日)において小池正博さんと「現代川柳の可能性」というタイトルのもとで対談をしてきました。

そのときに小池さんが自選五句としてあげておられたのが〈動物〉をめぐる五句だったんですね。ちょっと当日配布されたレジュメからあげてみましょう。

水牛の余波かきわけて逢いにゆく  小池正博 
都合よく転校生は蟻まみれ  〃 
カモメ笑ってもっともっと鷗外  〃 
洪水が来るまで河馬の苦悩教  〃
ジュール・ヴェルヌの髭と呼ばれる海老の足  〃 

  (「第三回川柳カード大会・小池正博自選五句」レジュメから)

以前、ここでお話しした岡野大嗣さんの歌集にも『サイレンと犀』という〈犀=動物〉が出てきますし、安福望さんの短歌画集『食器と食パンとペン』にも動物がたくさん出てきます。

そこには、短詩と動物の関係をめぐる主題がありそうです。あえていうならば、なぜ短詩と動物は親和性が高いのかという問題もそこにはありそうです。

ちょっと具体的に小池さんのさきほどの自選句から一句引いて考えてみます。

都合よく転校生は蟻まみれ  小池正博

この句をあたまから読んでいくと「都合よく転校生は」までは意味生成的にすっと行きますが、「蟻まみれ」で意味的に引っかかる仕組みになっています。「蟻まみれ」ってどういうことなんだろう、ってことです。これは或いは「熊まみれ」「犀まみれ」「貘まみれ」「象まみれ」「キリンまみれ」「ハシビロコウまみれ」でも引っかかるはずです。

ここを引っかからないようにするためにはたとえば「泥まみれ」にすると意味的にはすっと行きます。転校生が泥まみれになっている情景はあたまにすぐにイメージすることができる。ところが17音しかない定型で、独特な動物的比喩を使われた場合、それが「キリンのように」といった直喩でもない限り、意味構築をするのに大きなエネルギーやカロリーを必要とすることになります。

つまり、動物的比喩というのは、定型17音というその句のなかで、すっと行かせないためのノイズを立てるための装置になっているのです。ただ大事なのは、ノイズ=雑音のこの《雑》の部分です。このノイズの《雑》こそが、意味の引き出しをさまざまに開けることを可能にします。

たとえば「都合よく転校生は泥まみれ」なら「泥」というありふれた象徴(たとえば〈恥辱〉とか)でしかありませんが、「泥」を「蟻」に置換するだけで、そこには換喩(土、砂糖、労働、死骸など隣接したことばをひきこむ)や隠喩(羽虫、のみ、うじ、蜂、軍隊など類似したことばをひきこむ)や提喩(虫全体、自然界全体、環境全体、地球全体など大きく展開したことばをひきこむ)などいろんな喩によって空間を拡張することができます。動物的比喩はノイズであることによってそこから《雑》な空間を多方向的に(いい意味でぎょうぎがわるいかたちで)拡散することができるのです。

定型詩における動物的比喩の大切な点にそうした雑食的ノイズ性があるように思います。それは少ない音律のなかでそれでもさまざまなスイッチを駆動させるための定型詩が〈発見〉した意味的〈暴力〉でもあったように思います(ここでの〈暴力〉とはふだんとは違った言葉の組み立て方を積極的に模索することです)。

そういう動物的ノイズから定型の空間は拡張される。動物がいることによって定型空間がなまもの/いきもののように伸縮されるということです。

ここまではレトリックとしての動物を考えてきたのですが、修辞だけでなく、文化的枠組みの面からも少し考えてみましょう。文化のなかでたえず再現=表象されている動物。

たとえば少し極端な言い方をすれば、動物をこんなふうな言い方であらわすこともできるかもしれません。動物とは圧倒的に理解不能な他者である、と。

動物は言語を話しません。だから、じつは、動物的比喩というのはへんないいかたなんですよね。動物と比喩(=言語)というのは本来的に葛藤しあうものなのではないかとおもうわけです。比喩は言語レトリックであるのだけれども、そうした言語レトリックの向こう側の彼岸にいるのが〈非言語的動物〉です。動物は比喩の動物園に懐柔できないような、あちら側にいる非言語存在なのです。そしてその意味で〈他者〉であるわけです。

ですから、〈動物的比喩〉が使われたときに、そこでつきつけられているのは、ある意味で〈語る存在〉としてのわれわれでもあるはずです。

動物を比喩の動物園として飼い馴らしていたはずだったのに、川柳という定型詩においては語りきれなかった〈動物〉が〈語るわれわれ〉と拮抗し、対峙する。定型は、語らない動物にも語るわれわれにも、どちらにも与しないし、味方もしない。ただ率直に、暴力的に、比喩に押し込められないかたちで、動物たちは飛び出してくる。「動物/的比喩」という矛盾をその角でつきやぶって。

これは川柳においては動物だけではありません。たとえば食べ物なんかもそうです。石田柊馬さんの暴力誘発性(ヴァルネラビリティー)にあふれた「もなか」とバイオレンスをめぐる連作をみてみたいと思います。

先頭になるのを恐れているもなか  石田柊馬 
積まれても耐えろと叱られるもなか  〃 
岬までの道をもなかはがんばって  〃 
グラフなどもなかに突きつけてみても  〃 
号令をあびてひび割れるもなか  〃 
もなかもなかもなか苦しい詩語がある  〃 
Wクリックしたなもなかを潰したな  〃 
  (『セレクション柳人2 石田柊馬集』邑書林、2005年)  

小池さんの川柳に動物がたくさんでてくるように、柊馬さんの川柳には食べ物がたくさんでてきます。

でも大事なのは、動物や食べ物が〈そのまま〉でいられないということです。動物に綱をつけたり、皿のうえに食べ物をいつまでも乗せることができない、愛玩するためのものではない動物、食べるためのものではない食べ物、それが川柳における動物や食べ物です。

川柳のなかでは動物園やレストランのように消費的に動物や食べ物を囲い込むことができない。むしろ動物や食べ物の記号の氾濫によってわれわれの主体的立場があやうくなるのが川柳なのです。

だからこれら動物や食べ物の比喩をあえてまとめるならば、川柳においてはいつも比喩が飼い馴らせずに暴力的になるということなのではないかと思います。柊馬さんの連作でしいたげられているのは実はもなかではなくて、言語をあるコードにしたがっていつまでも語り、そのコードで動物や食べ物を檻に/皿に囲い込もうとする言語存在としてのわれわれかも知れないのです。

川柳は〈不健全さ〉をいつもどこかに抱えていますが、〈不健全さ〉をかかえもつことによってわたしたちに〈意味の健全さ〉を問いかけてきます。ほんとうにその意味の組み立て方は自明のことなのか、そこまで健康的な意味の組み立て方をしてなにか忘れているもの、抑圧しようとしているものはないのかと。

考えてみれば、そもそも動物というのは言語や文化で囲い込まれたキャラクターとしての部分と、それに相反するような、わたしたちを一発であやめるバイオレンスな部分としての両義的な存在としてつねにわたしたちをみつめています。

動物は想像的(イメージ)かつ現実的(リアル)なのです。

では、キャラクターに特化されたもっとも有名な童話の熊と、バイオレンスに特化された有名な童話作家の熊を比較してみてみましょう。

「プー、きみ、朝おきたときね、まず第一に、どんなこと、かんがえる?」 
「けさのごはんは、なににしよ? ってことだな。」とプーが言いました。「コブタ、きみは、どんなこと?」 
「ぼくはね、きょうは、どんなすばらしいことがあるかな、ってことだよ。」 
プーは、かんがえぶかげにうなずきました。 
「つまり、おんなじことだね。」と、プーは言いました。 
  (A.A.ミルン、石井桃子訳「クリストファー・ロビンが、プーの慰労会をひらきます。そして、わたしたちは、《さよなら》をいたします」『クマのプーさん』岩波少年文庫、1956年、p.245)

ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。 
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」 
もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。 
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。

ディズニーの『クマのプーさん』(或いはミルン『クマのプーさん』)のプーさんとクリストファー・ロビンのような共に生きること(共生の可能性/共死の不可能性)を模索するのも動物のありかたですし、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の小十郎と熊のような共に死ぬこと(共死の可能性/共生の不可能性)を模索するのも動物を通してです。

立ち上がる熊にんげんの背中して  八上桐子 


  (「第三回川柳カード大会・現代川柳の魅力-私の好きな川柳十句(柳本選出句)」レジュメから)

この八上さんの句の「熊/にんげん/(人間・ニンゲン)」のように動物はつねに〈あわい〉の領域(川上弘美『神様』『神様2011』)で、わたしたちを一発であやめるバイオレンスと(ヒッチコック『鳥』)、しかしわたしたちにすえながくいのちを与えてくれる存在として描かれています(手塚治虫『火の鳥』)。

表象における熊について木村朗子さんの次の指摘があります。

3・11直後の文学界では、クマのイメージがくり返し召還されていたということがあった。…いずれの作品にも動物としての熊ではなくて、人間社会と折り合おうと思考する熊が登場する。…クマの物語はいつも人間と自然界との関係を結びなおし考え直させるものだった。
  (木村朗子「被爆社会を生き延びるための小説」『震災後文学論』青土社、p.100-111)

わたしたちは〈動物まみれ〉〈比喩まみれ〉の存在としてことばを語りつづけながらなんども表現領域のなかで動物と再会を果たしますが、それらの〈再会〉がどのように恣意的に組織されているかを問い直すのも、また、〈動物〉であるようにおもいます。動物は〈このわたし〉にいつも境界線を、境界線の引き方そのものを問い直してくるのです。

最後に少し私的で動物的なことをお話するのを許してもらえるのであればわたしにとって2015年の夏は、岡野大嗣さんと新井英樹『The World Is Mine』の超巨大熊、安福望さんと白土三平『シートン動物記』のリアリズム熊をめぐったととととライヴの動物トーク、竹井紫乙第二句集『白百合亭日常』の「あとがき」を書くためにずっと読み続けた紫乙さんの第一句集『ひよこ』の〈悪い動物〉としてのひよこたち、小池正博さんの川柳と動物園から逃走しつづける動物的比喩をめぐった第三回川柳カード大会の動物対談、といったふうに定型詩と動物をめぐる〈動物まみれの夏〉でした。
そしてその動物まみれの夏の終わりに、ルッカリーのような大会会場で、言語と動物まみれのわたしは石原ユキオさんにお会いしたのです。

春の昼ひよこまみれになりやすい  石原ユキオ
  (「ルッカリー」)



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