2015年6月26日金曜日

【時評】極私的な「読み」の意志 ―堀切実の「高柳重信」論から考える― /外山一機



 『連歌俳諧研究』(俳文学会、二〇一五・三)に堀切実が「『多行形式俳句』という挑戦―高柳重信論―」を寄稿している。俳文学者が真っ向から高柳重信を論じるのは珍しいことだ。金子兜太はこの論考にふれ「小生も俳句とは別の多行詩と受取っている」と自らの共感するところを述べたが(「高柳重信のこと」『俳句』二〇一五・六)、高柳の多行形式が「俳句とは別の多行詩」であるという点について、堀切自身は次のように書いている。

 高柳重信が、近代の「写生」主義俳句を超克して、「暗喩」による心象の造型表現をねらって考案した「多行形式」俳句は、近代俳句史上に燦然として異彩を放ち続ける一つの偉業であり、今日からみても、その詩的世界の魅力は十分に感じられる。けれども、伝統俳句の発展的な継承という視点からみると、それは、高柳が意識の中で一つの範とした連句的世界の豊饒さとは無縁のままで終わってしまっただけでなく、その基本となる発句(俳句)の表現構造とも明らかに別種なものとなったのであった。

 多行形式を「発句(俳句)」とは異なるものであると述べる堀切と、それに同意する金子と、この両者の意図するところを安易に同一視することはできまい。だがここではその問題はひとまずおいて、僕自身の抱いた違和感―それも妙に感傷的な思いを伴った違和感―を記しておきたい。

 僕は堀切の高柳論が大きく間違っているとは思わない。むしろ、高柳には発句に対する誤解があったのではないかという指摘、さらにはその誤解や「切れ」の機能といった観点から、高柳の「多行形式」俳句の可能性のみならずその限界にまで踏み込んで論じた本論考は興味深いものであった。にもかかわらず、堀切の論考から想起される「高柳重信」像に対する違和感をどうしても拭いさることができなかったのはなぜだろう。この論考はたしかに理に適っている。けれどもどうやら、僕がみずからのうちに「高柳重信」の像を結ぼうとするとき、それはもう少し理に適わない、そしてもう少しナイーブな方法で行われていたようである。もっと言えば、堀切の「高柳重信」論を読んだ後の僕は、いまや、そのようなやり方でしか像を結びたくないような極私的な「読み」の意志が僕のうちに働いていたのを認めないわけにはいかなくなってしまった。だから僕は何かひどく正しいものに気圧されたような、悲しい気持ちでこの論考を読み終えたのであった。もとよりそうした僕の個人的な感情に基づくどのような発言もこの論考に対する真っ当な批評たりうるはずがない。だが、真っ当な論理で展開された堀切の「高柳重信」論に対して悲しくなってしまうという事態を招いたものは、そのような僕の極私的な「読み」とそこから立ち上がる僕なりの―「論」というにはあまりにナイーブな―「高柳重信」論なのであった。

 たとえば堀切は、高柳が「『暗喩』という方法によって表現すべきもの」として「子規以降の近代俳句が失った連句的な豊饒な詩の思想」を見据えていたとする。そしてこれを「執拗に言及している」例として高柳の「俳句形式における前衛と正統」を引きながら、次のように述べている。

要するに、子規の提唱によって新しく誕生すべき俳句は、脇以下の豊饒な付合の世界から独立するがゆえに、その豊饒な世界の内実をも吸収した詩でなければならないという一種の仮説である。それは「未知なる前途」への挑戦と聞こえてくる。(略)
つまり、子規のめざしたものだと高柳が推測する新しい俳句は、ほとんど未だ「幻の俳句」に終ってしまっているのであり、もし、これがほんとうに実現されるなら、そこに〝前衛〟にして〝正統〟な俳句の道筋がつけられるということになるというのである。

堀切はさらに、高柳がこれと同趣旨のことを述べている例として「自作ノート」(『現代俳句全集』第三巻、立風書房、一九七七)を挙げている。堀切が想定していたのはおそらく「自作ノート」の次の箇所であろう。

 その頃の僕が俳句形式について必死に考えていたのは、連句の冒頭を占める発句を、そのまま俳句に引き写しにすることからの脱却であった。これは、明治以降の俳人が、連句形式の脇句以下を切り捨て、発句を完全に独立せしめる道を選んだときから、俳句形式はまったく新しい性格の詩型となったという認識を、いっそう深めてゆこうとするものであった。連句の脇句以下を断念することで新しく成立した俳句形式は、当然ながら、その断念の意義を絶えず反芻しなければ、たちまち堕落の淵に沈んでしまう危険を伴っていた。また、その断念の意義を反芻するということは、その認識を不断に更新しようとする強靭な意志の現われでなければならなかった。これを別の言葉で言えば、俳句形式を一貫して方法的に追求しようとすることであった。

 ここで高柳は「明治以降の俳人が、連句形式の脇句以下を切り捨て、発句を完全に独立せしめる道を選んだときから、俳句形式はまったく新しい性格の詩型となったという認識を、いっそう深めてゆこうとするものであった」と述べているが、この種の認識について堀切は「子規の時代には(略)連句からすっかり切り離された発句の独立性は、もはや自明のことなのであった」と指摘する。そのうえで、「子規の俳句革新を特別視する高柳の思い込みが働きすぎている」として、次のようにいう。

子規によって提唱された近代俳句の出発点に、連句の世界の有していた豊饒さをそのまま享受してゆこうとする姿勢を見届けようとする高柳重信の発言―そこから導かれる〝未知の俳句〟とか〝幻の俳句〟への期待には、そうした意味で本質的に無理があったとみられる。またその延長線上に出現した高柳自身の「多行形式俳句」にしても、連句的世界の豊饒さを背負うには、あまりにも荷が重すぎるものであったろう。少数の賛同者は得たものの、高柳の同時代の一般俳人たちが抵抗なく入ってゆける表現形式ではなかったのであり、高柳以後、大きく発展的に継承されることにならなかったのも止むを得なかったことであろう。

なるほど、その通りかもしれない。だが、それならばなぜ、高柳はその「無理」を押し通したのだろうか。そして、その理由を高柳の無知にのみ見てよいものだろうか。
先の引用部分のなかで高柳は「その頃の僕が俳句形式について必死に考えていたのは、連句の冒頭を占める発句を、そのまま俳句に引き写しにすることからの脱却であった」とも述べている。思えば、僕にとってより切実な「高柳重信」とは、むしろこの直前の部分に記された「その頃」の記述にこそ宿るものなのであった。

 『前略十年』の後半から『蕗子』にかけては、あの悲劇的な大戦の激化と、それに続く敗戦、そして戦後の混乱期が、そのまま該当する。その間の僕は、しばしば病床で死に顔していたが、いささかの生き心地を覚えるのは、たまたま俳句形式について考えている時間だけであることに、いつしか気がつくのであった。戦争が終り、とりあえず多くの青年たちが、その生死を切実に思うことから解放され、たとえ困難は多くとも将来に向かってそれぞれの設計を立てはじめる頃になっても、なお僕の明日という日は、いまだに暗澹たる闇の彼方にあって、それが果たして来るかどうかさえ覚束なかったのである。
 おそらく、僕は、そういう状況の中で、みずからの切実な表現としての俳句形式を、はっきりと意識的に選んだのではないかと思う。

断念の意義を反芻するということは、その認識を不断に更新しようとする強靭な意志の現われでなければならなかった」という高柳の言葉は、俳句形式に対してのみ発せられたものではない。それは、他の青年のように戦場に行くこともできず、戦後も明日を夢見ることなく「死に顔」をしていた生のなかで、何よりも己に対して厳しく発せられた言葉であったろう。したがって、「これは、明治以降の俳人が、連句形式の脇句以下を切り捨て、発句を完全に独立せしめる道を選んだときから、俳句形式はまったく新しい性格の詩型となったという認識を、いっそう深めてゆこうとするものであった」という言葉もまた、俳句形式についてのみ述べたものではあるまい。高柳にとって、俳句形式について思考するということは己の生について思考する行為と不即不離のものなのではなかったか。高柳の俳句形式論は高柳の生のありように裏打ちされたものであり、だから、高柳にとって俳句形式について語るということは、その都度自らを支える生への意志の強度を確かめていくような切実な行為であったのではあるまいか。とすれば、高柳が「無理」を押し通したのはごく自然な行きかたであったろうし、また、その「無理」は「無理」であるゆえに、いっそう美しいものとなるのである。そしてここにおいて、「子規の俳句革新を特別視する高柳の思い込み」はその美を支えるうえで欠くべからざる要件へと反転する。

堀切は「多行形式」を「高柳以後、大きく発展的に継承されることにならなかったのも止むを得なかった」と述べているが、それは堀切のいうように「〝未知の俳句〟とか〝幻の俳句〟への期待」に「本質的に無理があった」からではあるまい。むしろ、「本質的に無理があった」はずの「〝未知の俳句〟とか〝幻の俳句〟への期待」をそれでも押し通すほどの必然性を、高柳以後の書き手の多くが遂に持ち得なかったためではなかったか。

 それにしても、「高柳重信」を読むとはいったいいかなる営みの謂であろうか。僕は、僕自身を含め、むやみに感情的で個人的な「高柳重信」論を他に押し付けようとする者を嫌悪するが、その一方で、そのような読みかたでしか読めないというような、きわめて私的で切実な読む行為の意味について顧みずにはいられない。たとえば『重信表―私版高柳重信年表』(俳句評論社、一九八〇)、『高柳重信散文集成』(全一七冊、夢幻航海社、一九九七~二〇〇二)をはじめ高柳に関する数々の資料編纂を行いつつ、高柳亡き後、現在もなお高柳重信研究誌ともいうべき『夢幻航海』の発行を続ける岩片仁次の尽忠などは、「高柳重信」を読むということがいかなることなのかを示唆するものであろう。

 しかし、もし仮りに、俳句、乃至は、高柳重信が降霊し、集中に、これこそ、老いつつもいまだ少年なる岩片仁次の可憐なる一句であるということ、ひそかに呟くあらんか。高柳重信亡きいま、その降霊を呼ばんと、敢えて一文を草した次第である。

 高柳の一七回忌の日付をもって上梓された岩片の第四句集『砂塵亭残闕』(夢幻航海社、一九九九)の序文である。この自序には「偽・大宮伯爵」なる署名が付されている。「大宮伯爵」とはむろん高柳重信の謂であろう。高柳の序文を得られなかったという不遇は、岩片においては「高柳重信」を「降霊」せしめ遂に「偽・大宮伯爵」の序文を得るという僥倖へと転じたのであった。同書にはまた高柳の句を踏まえた作品が散見されるが、「日本海軍・偽拾遺」なる作品を制作するほどの岩片にとって「高柳重信」を読む行為とは、自らの詠む行為と不可分のものなのだ。

そして僕たちは、岩片のこうした仕事がごく少数の者に対してのみ差し出されたものであることを忘れてはならないだろう。岩片の編著作はいずれもごく少部数の発行だが、ここには岩片の羞恥と諦念と哀しみがある。だが、自らの志を理解する者がごく少数であることを認めつつも、岩片がそれを自らの矜持となしてきたのもまた事実であろう。

 あるいは高橋龍の場合はどうであろうか。たとえば高橋は高柳が編集長を務めた『俳句研究』の編集後記をまとめた『俳句の海で 『俳句研究』編集後記集』(ワイズ出版、一九九五)の上梓に尽力したが、同書巻末に次のように記している。

 集成にはコピー機という便利な道具があるので、それを用いれば簡単なのだが、なぜか私は前時代的な筆写という方法にこだわったのだ。それは、筆写という体感によって、高柳さんの文体を学び、かつ、その時間に高柳さんとの対話ができると思ったからである。(「遂にの人生―「あとがき」に代えて」)

 そういえば岩片も高柳の文章を公立図書館で発見した際、それを二日間にわたって筆写した、と記している(「少年探偵団 ―高柳重信散文集成散らしがき」『日本古書通信』二〇〇九・一一)。この辺りの個人的な思い入れは、僕や他の人間が口をはさめる類のものではあるまい。彼らはこのように極私的な営みとして「高柳重信」を読み、自らの「高柳重信」を育んでいったのである。それはやや異様な光景であって、だからこそ僕はこうした営みをひどく嫌悪もし、同時に敬せずにはいられないのである。むろん彼らの思い入れは独善といえば独善である。しかしその独善が、「高柳重信」への尽忠にとどまらず、ときに俳句形式への尽忠にまで突き抜けていくことがあるのを、いまの僕は心に留めておきたい気がしている。

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