2015年5月15日金曜日

【おじぎの冒険】おじぎをすれば何も見えなくなる(のかな)、おじぎをすればなにもわからなくなる(のかな)-長嶋有『句集 春のお辞儀』をめぐる-/ 柳本々々


彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行なうのである。 
  (カール・マルクス、岡崎次郎訳「商品と貨幣」『資本論1』大月書店、1972年、p.138)

エストラゴンは、頭を両足のあいだにつっこんで、胎児のような格好になる。 
(サミュエル・ベケット、安堂信也/高橋康也訳『ゴドーを待ちながら』白水社、2013年、p.136)

たぶん、今目覺めた。
此處(ここ)は、何處(どこ)だらう。
私は何をしてゐるのだらう。
私は生暖かい液體に浸つてゐる。
私は目を閉ぢてゐるのだらうか。
目を開けてゐるのだらうか。
私は軆(からだ)を丸くして、液體に浸つてゐる。
 
  (京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社、2003年、p.10)

控えめな春のお辞儀を拝見す  長嶋有 

  (『句集 春のお辞儀』ふらんす堂、2014年)


〈おじぎ〉とは、いったい、なんなのでしょうか。

たとえば夏目漱石の『門』において、妻が夫の〈おじぎ〉のようなまるまった身体を〈そっと〉目撃しています。

細君は障子の硝子の処へ顔を寄せて、縁側に寝て居る夫の姿を覗いて見た。夫はどう云う了見か両膝を曲げて海老の様に窮屈になっている。そうして両手を組み合わして、その中へ黒い頭を突っ込んでいるから、肘に挟まれて顔がちっとも見えない。
  (夏目漱石『門』)

妻に目撃された宗助はみずからの身体のありようには、気が付いていないかもしれません。たぶん、みずからのまるまってゆく存在様式に気がついていない。考えてみれば彼は〈門〉をくぐれないひとです。門を通り抜けることも、門をあきらめることもできず、カフカの「掟の門」のように門のしたに途方にくれてたたずむひとだった。なぜ、か。

それはこうもいえたのではないでしょうか。かれは、まるまるひとだったから、と。直進のベクトルをもっていない。だから、〈門〉とは身体的に相性がわるい。通り抜けるひとではなく、円環(まるま)るひとだったから。でも、それでも、ひとは、丸まる。なぜ、か。

ひとは、おじぎしたしゅんかん、まるまっていくしゅんかん、じぶんの身体をみうしなっていきます。だからそれはまるまろうとする身体的過程でありながら、みずからの身体を掻き消してゆく挙措もふくんでいる。でもその一方でふだんのおもてだったからだのありかたをかきけすことで、新たなフェーズを知覚できるかもしれない。丸まる、ということは、みずからの身体をかきけしつつも、あたらしいもうひとつの〈世界〉の様式に気づいていくことになるかもしれない。

近藤耕人さんがやはりまるまる身体の多いベケットの論考のなかで、ヴァレリーの「身体に関する素朴な考察」における「第四の身体」について次のように説明しています。

われわれには〈わたしの-身体〉と、〈他者がわれわれに見る身体〉と、〈解剖して認識する身体〉という三つの身体のほかに、〈現実の身体〉とも〈想像の身体〉とも名づけられるような、〈第四の身体〉というようなものがあるという。それはちょうど渦巻がそれを形成する水と区別できないように、未知の、認識できない、不可解な環境と不解分のものであり、その認識不能の対象を〈第四の身体〉と名づける。それはなにやら不条理なもので、精神の言語では意味づけ不可能で、なにか〈非存在〉を想定しなければならない。〈第四の身体〉とはその〈非存在〉の受肉であるという。「《あるものはみな》、どうしようもなく、《なにかそこにあるはずのもの》をわれわれから覆い隠している」。 

  (近藤耕人「身体と言葉のコギト」『ユリイカ』1982年11月号、p.125)

〈おじぎ〉、〈まるまること〉とは、じつはこの「〈非存在〉の受肉」に近いのではないでしょうか。

わたしの身体が消えつつも、それまであった非存在への知覚を、消える身体を過程しながら獲得してゆく、あらたな知覚のありかた。そしてその知覚様式が長嶋有さんの句集『春のお辞儀』にはあふれているのではないか。まるまることで。

実際、〈おじぎ〉をやってみるとわかるのですが、〈おじぎ〉というのは、視覚を遮断することにもつながっています。もちろん、〈おじぎ〉というのは身体的なコミュニケーションの手段として、礼節的身体としてあるのですが、すこしその角度を変えてみると、〈世界〉への非コミュニケーション、〈世界〉からのシャットダウンとしても〈おじぎ〉はある。

とくに〈俳句〉という〈視覚経験〉が特権化される場所にあって、あえて〈おじぎ〉が句集にもちこまれるということが興味深いことなのではないかと思うのです(もしかするとこの〈おじぎ的シャットダウン〉の対極にあるのが佐藤文香さんの句集タイトル『君に目があり見開かれ』かもしれません。〈君に目があり見開かれ〉の反対のことをしろ! といわれたら、すかさず〈おじぎ〉をすればいいわけです。私の〈眼〉を閉じるために)。

具体的に長嶋さんの句集から、〈おじぎ的シャットダウン〉される句をみてみます。

はるのやみ「むかしこのへんは海でした」  長嶋有 
春昼の知らないうちに切った指  〃 
右頬に飴寄せたまま夏に入る  〃 
アイスキャンデー当たりが出ればもう晩夏  〃

れら句には〈知らない/見えない〉という位相が見出されるようにおもうんです。「「むかしこのへんは海でした」」と語られたときに、聴き手は〈知らない〉わけです。そこには〈知らない、しかし、ここにたしかにあったはずの海〉がある。「知らないうちに」指を切ったとしても、知覚や視覚の記憶はないけれども、〈傷〉はいまここにある。飴も口に含めば視覚経験はないけれど、しかし味覚としていまここにある。アイスキャンデーの当たりもそれはつねに潜勢態として眼にはあらわれないかたちで潜っているわけですが、でも〈当たり〉としてマテリアルなものとしていま舐めている/握っているかもしれないという可能態としての〈いまここ〉の感覚があります。

見ることを否定することによって(つまり、〈おじぎ〉することによって、まるまることによって)、もうひとつ潜勢態としてもぐっている様相にちかづいていく。大澤真幸が社会学とは何かに関する説明でこんなことをいっていました。

すぐに言語化され意識される層、つまりさしあたって見えている層が、表層である。しかし、その下に、もう一つの層、身体的な層がある。…… 
社会的な経験を〈見る〉ためには、ある意味では、見ることを否定しなくてはならない…。経験の深層に到達するためには、表層における視点を離れ、もう一つ別の視点に移らなくてはならない。
 
 
  (大澤真幸「〈社会学すること〉の構造」『社会学のすすめ』筑摩書房、1996年、p.8-10)

表層と深層。見ることを否定することによって〈見る〉ことを獲得すること。そういえばこんな句がありました。

エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン  長嶋有

なぜ「エアコン」が「大好き」なのか。それは〈見ること〉を否定するものだからではないかとおもうのです。

エアコンの仕組みやシステムはわたしたちにはわからない。それは〈冷気〉として感受されるだけです。だからわたしたちは飾られたリボンと同じようにエアコンを〈表層〉として愛している(実際、〈表層〉的冷気こそが、肝心なわけです)。エアコンはもちろんメカニズムを内包しているので〈深層〉的なのですが、エアコンの前に立ったわたしたちはそれを〈表層〉として、あいする。深層を、知りたいわけではない。冷気を、体感したい。

でもこの〈表層〉に満ちた句には、やはり〈深層〉を考えざるをえないような「大好き」という〈内面〉がある。〈見えない・世界〉において、〈大好き〉という〈深み〉の表出がある。

「飾るリボン」も〈表層〉です。「リボン」を「飾る」〈内面〉はあるかもしれないけれど、その〈内面〉は「リボン」からはみえてこない。ましてや、髪を縛るのではなく、「部屋に飾る」のであっては〈内面〉はなおさらみえない。「飾る」という〈見える〉かたちではあるのだけれど「二人で」「部屋に」「飾る」という本来の「リボン」の使用価値からのズラしによって〈見えない〉〈深層〉が出てくる。

〈見ない〉ことのなかで〈見る〉ことを発見してゆくこと。〈表層〉を通して〈深層〉をうけと(ってしまえ)ること。おもいがけないおじぎやうつぶせを通して。見ない状態にすれば、なんだって見えてくるから(その位相に身を置くこと)。たとえば、

うつぶせで開くノートの先に海  長嶋有

だから逆に〈おじぎ的主体〉が〈見ること〉にあえて臨むならば、それは〈倒錯〉されたかたちで〈見る〉ことになるとおもうのです。まったく逆のかたちで。〈ない〉ものを〈見る〉かたちで。つまり、

毒のない蛇をわざわざ観にゆけり  長嶋有

しかしここでもおそらく〈おじぎ〉が現れているのです。蛇を観るときはちょっと腰をかがめます。ちゅうごしです。つまり、しぜんと、それは、いわゆる、〈それ〉になっていくわけです。おじぎ、に。

やはり、〈おじぎ〉とは、なんなのでしょう。丸まることとは。

見えないことから、見えることへとつながっていくあるひとつの〈世界〉の〈見え方〉、シャットダウンするちから、外にいても内を感じる感性。

わたしは、長嶋有さんの小説をあらためて読み返しながら、こんなふうにも思ったりしました。
〈おじぎ〉とは、どんな外部にいても、どれだけ外にいても、「エアコン大好き」的な〈わたし〉として出歩くことができる持ち運び可能なポータブル・インドアなのではないのか、と。おじぎとは、持ち運び可能な身体的部屋なんじゃないかと。

自宅の真ん中で体育座りをしていると、足ばかりどんどん成長しているように思えてくる。……
「体育座り」とやっと思いついたのでそういうと、弟は
「暗いなあ」といって笑った。
「暗いよ、私は」私も笑った。
そういう意味では弟と同じで私もまったく変わっていない。とにかく外出しないのだ。
 
  (長嶋有「サイドカーに犬」『猛スピードで母は』文春文庫、2005年、p.47)



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