2014年4月25日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む21】  「鶉」感想 /太田うさぎ

西村麒麟さんと「読む会」という小さな集まりを重ねてまもなく三年になる。読書会と言っても肩肘張ったものではない。基本メンバーは三-四名。毎回一冊の句集、最近は一人の俳人を課題として各自20句と逆選5句を持ち寄り、句会の合評のようなことをするだけだ。ときどきゲストに来て頂くこともある。何しろ会場が酒亭で初めからお酒を片手に話すものだから、粛々と進行している筈が半ばからワヤワヤになってしまう。毎回きちんと終わったことがないが、それもまた楽しからずやの会である。

この不真面目な会が長続き出来ているのも麒麟さんが要になってくれているからに他ならない。彼は毎度課題句集のほかに1-2冊の資料を用意してきては、さまざまなオマケ情報を齎してくれる。草田男が吊し上げの目に合うホトトギスの座談会、松本たかしの色好みなど、一体どこで仕入れて来たんだと思うような、どーでもいーといえばどーでもいーことを実に活き活きと語るのである。また、会を離れて顔を合わせるときにも、相生垣瓜人のヘン顔写真を携帯していたり、籾山梓月の俳句を幾つも暗誦しては涎を零さんばかりだったり。一口に俳句好きと言ってもいろいろなタイプがあって、作るのが好きな人も読むのが好きな人もいてそれぞれだけれど、麒麟さんは作るとか読むとかを超えて、俳句という宇宙をまるごと愛でているように見える。


記念すべき第一句集『鶉』はそんな麒麟さんの俳句愛が詰まった句集だ。

へうたんの中に見事な山河あり 
鈴虫の籠に入つて遊ぶもの 
人知れず冬の淡海を飲み干さん 
陶枕や無くした傘の夢を見て 
玉子酒持つて廊下が細長し

読む会では、麒麟さんと私はときどき年長のメンバーに「ふっ、この句の良さはオンナコドモには分かるまい。」と一括りにされる。二十代の若者と一緒くたにされて嬉しくないわけがない。然し、『鶉』を読んだら気づいたのである。麒麟はコドモなんかじゃなかった。仙人だ。コドモのイノセンスと見えるのは、実は仙人の稚気なのだ。これらの句が何よりの証拠。瓢箪の中の山河とはそのまま俳句という詩型のメタファーとして捉えられないこともないだろうけれど、麒麟さんはたぶんそんなことは考えていない。瓢箪の中の山河に遊び、虫籠の竹ひごの隙間をするりと抜ける。風景でも人事でも、自己の内面でも、実在だの実存だのがテーマになることはあっても、「有り得ないこと」をこれだけありそうにしかも楽しげに詠む人は滅多にいまい。琵琶湖を飲み干すなど無駄にスケールが大きいのだが、人知れず馬鹿でかいことをしてのけて且つ飄然としている、というのはもしかすると麒麟さんが俳人として目指しているところだったりして。陶枕の句には中国の古い逸話のような趣きがあり、陶枕に頭を乗せたことがない私にもそのひやりとした感触が伝わってくる。玉子酒ですら麒麟さんの手にかかると奇妙なパワーを持って、変哲もない廊下を常ならぬ寸法に歪めてしまうかのようだ。とにかく、この手の「そんなこと誰も考えない」句をこの人は実に上手くしてのけて読者の私を喜ばせてくれる。

春風や一本の旗高らかに 
貝寄風や旅の続きを一歩一歩 
火取虫戦ふための本の山

一方、こうした青春性に満ちた句も。「よろよろ」「少しの力少し出す」など、ある種のへたれ感が麒麟俳句の特徴の一つだけれど、中にこんな真っ直ぐな抒情が紛れ込んでくるとオバサンはキュンとしちゃうのである。石田波郷新人賞作家という履歴にも頷くのである。一句目、春の空に高くはためく旗の清潔さ。二句目は「一歩一歩」の字余りがいかにも踏みしめて前進する足取りを思わせて巧みだ。麒麟家における蔵書の家屋占有率はどうなっておるのか、と常々余計な心配をしているのだが、好事家めいた顔の裏にはこんな闘志が秘められていたのだった。ちょろっと覗く本音の部分が面白い。

それぞれの春の灯に帰りけり
掛軸の山河が遠し夕蛙 
冬ごもり鶉に心許しつつ
『鶉』は楽しい句集だし、実際にそのまま「楽し」と詠んだ句もかなり目に付く。でも楽しさの強調がその蔭に棲む感情を浮き彫りにさせることもある。麒麟句は全体に人を詠んで優しいが、自分一人に立ち返るときその句はなにがしかのさみしさを纏わずにはいられないようだ。春灯の句、句会や飲み会がはねて「じゃあね、またね」と別れていく。一人ひとりの帰る先にふんわりと灯る明かりはあたたかいけれど、この余韻のせつなさはなんだろう。一緒にいてどれほど楽しくても個々の幸せは分かち合えないのだとでもいうように。掛軸の山河は瓢箪の中の山河にも通じる、麒麟さんにおける桃源郷とも取れる。憧憬と現実との心の距離を測るように夕蛙が置かれている。冬ごもりの句は、心を許せる友達がいないのか」という突っ込みを半ば期待している感がなくはないけれど、人には見せない心の表情を見せる相手が鶉というのはまあ、実に俳味があるというか。

天上へ鶯笛は届くかな
私が一つ麒麟さんに胸を張れることがあるとしたら八田木枯に引き合わせたことだろう。木枯さんの訃報が届いたとき麒麟さんはたまたま鶯笛の句を作っていたと聞いている。そのうちの一句がこのように美しい姿を得た。故人を慕う気持を西村麒麟一流の無邪気な措辞で表現した佳吟と思う。読み返す度、澄み切った悲しみが輝く針先のように胸に突き刺さる。

さて、逆選も揚げなくては。

朝寝してしかも長湯をするつもり
若いんだからもっとしっかりしなさい!と言いたい訳ではない。そんな贅沢、私だってしたい、ということでもなく。この緩い世界を昇華させるのはよっぽどの手練れか芸達者にならないと。「してしかも」あたりの冗長麒麟さんならいずれ老練な手際で大向うを唸らせることも出来るに違いない。でも、そっち行っちゃっていいのかナ?と首を傾げもする。ま、いずれにしてもちょっと未消化な句ではないでしょうか。

青年期過ぎつつありぬソーダ水

逆選は必ずしも否定や駄目出しとは限らない。「読む会」ではむしろ気になる、どうしても引っかかるという句を逆選に取り上げることもある。例えばこの句。キュンキュン度が高いだけに用心用心。どうしても富安風生の「一生のたのしきころのソーダ水」や星野立子の「娘等のうかうか遊びソーダ水」を思い出す。麒麟さんの句はこれらの句への挨拶だろう。ただ、風生や立子の句が第三者的視線なのに対して、麒麟句は自分のことを(少なくとも俳句上は)語っているのであり、その場合「ソーダ水」はナルシスティックな甘さを帯びてしまうんではないかなあ、と思う次第。

とまれ『鶉』は随所に麒麟さんの個性が顔を出す愛すべき句集だ。ひとの句をとんと覚えられなくなったぼんやり頭にもするりと入ってくる。入ったが最後抜けないのだからタチが悪い。拙い感想はそろそろ切り上げて愛唱句で締めくくろう。

青饅や我ら静かに盛り上がる 
清盛が釣りに釣つたり桜鯛 
秋蟬や死ぬかもしれぬ二日酔ひ 
一人は寂し鹿が立ち鹿が立つ 
ぜんざいやふくら雀がすぐそこに 
初湯から大きくなつて戻りけり

 初句集を出してまた大きくなるのね。改めておめでとう。



【筆者略歴】

  • 太田うさぎ (おおた・うさぎ)

1963年東京生まれ。「豆の木」「蒐」「雷魚」会員。現代俳句協会会員。
共著に『俳コレ』(2011年、邑書林)。




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