2014年3月7日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む10】 麒麟と瓢箪 / 関悦史


へうたんの中に見事な山河あり   西村麒麟 
へうたんの中に無限の冷し酒 
はなはだ縁起でもない思いつきだが、この人の忌日は「瓢箪忌」であろうなと思った。

初めての趣味に瓢箪集めとは
句集全篇、三十代の若さでことさら芝居しているふうでもなく飄々たる酒仙ぶりだが、初めての趣味が瓢箪集めとなると、志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」を連想しないわけにはいかない。

 子供が年齢不相応の瓢箪集めに耽って父に怒られる話である。

秋蝉や死ぬかも知れぬ二日酔ひ

 年齢不相応なものにどうにも惹かれてしまう己が抱えた違和感や、ことによったら周囲からの無理解による悲しみ、おかしみも全て呑み込んだがゆえの、妙に堂に入った飄逸少年ぶりなのだろう。いや、少年が酒を飲んではいけないのだが。

絵が好きで一人も好きや鳳仙花

 ところで「清兵衛と瓢箪」の清兵衛は瓢箪を取り上げられた後、今度は絵に耽り始める。絵が好きで一人も好きと、ことさら世を拗ねているわけではないが、どことなくヘンな並列である。ヘンなままの安寧と自足である。

 だが、清兵衛の父は、息子の絵描き三昧にも小言を言い始めるのだ。

父は我がTシャツを着て寝正月 
花石榴父のお客はみな怖し 
とぼけた描き方ではあるが、奇妙な趣味嗜好を持つべく定められてしまった息子にとって、父との距離感はなかなか微妙なものがあるのである。

 嫁までもらう年になってしまってからぬけぬけと「怖し」と句にしてしまう、それが麒麟の処世術ってわけね、となぜかエヴァの登場人物のような口調で呟きそうにもなる。

嫁がゐて四月で全く言ふ事無し
「全く言ふ事無し」は念押しのような、そこから少しずれ出ているような、安寧自足をそれ自体がはぐらかして俳句にしてしまう特有の麒麟語法であろう。欠落、欠損がなくとも句因に事欠くことがないのである。

虫籠の茄子に虫が集まらず
たとえばこの句などは、虫が来ないという欠損を詠んでいるように見えるが、この句の中心は「全く言ふ事無し」と同じ位相にずれ出てしまった「茄子」の妙な存在感の方なのである。

初湯から大きくなつて戻りけり
安寧自足がそのまま俳諧的ずらしにつながる機微を、最も端的にあらわしたのがこの句であろう。思いつきではなく、瓢箪にかかわりあってしまうような若者の実存と、これは確かにどこかでつながりあった方法なのだ。

すぐそこで蟹が見てゐるプロポーズ
蟹が何と思ってプロポーズを見ているか知らないが、かわりにこちらが頑張れ頑張れと声をかけたくなるような、長閑な間抜けさ横溢した必死の場面であって、高度成長期の喜劇映画に通じる味わいだが、なんでそんなものを連想させるかといえば、とぼけ、ふざけた中に自ずから、時代離れした或る品のよさが漂っているからである。

 私は疎いのだが、麒麟は落語も好きだったのではなかったか。そういえば、芝居というよりは「一人」の自足があふれてくるような風合いは落語っぽくもあり、句はどれもマクラなのか本題に入ったのかわからないような、地のままの部分と型の部分の境目の、瓢箪のくびれのような部分で上演されているような気がしなくもない。


●追記……「瓢箪忌」だが、山本紫黄忌が既にそう呼ばれているそうである。



【筆者紹介】

  • 関悦史(せき・えつし)

1969年茨城県生。2002年第1回芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞。2009年第11回俳句界評論賞受賞。同年「豈」同人。2011年句集『六十億本の回転する曲がつた棒』刊、翌2012年同書で第3回田中裕明賞。共著『新鋭俳人アンソロジィ2007』(北溟社)、『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』(以上、邑書林)、『虚子に学ぶ俳句365日』『子規に学ぶ俳句365日』(以上、草思社)。





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