2014年3月7日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む9】  ラプンツェル塔から降りる(『鶉』感想)/ 石川美南

昔あるところに過剰な自意識を分厚く身にまとって生きている人がおりまして、まあ、彼でも彼女でも構わないのだが、そいつときたら「寂し」と一言書くにも、「寂し」なんて言うと過度にセンチメンタルだと思われやしないかとか、いや一周回って存外かっこよく響くんじゃなかろうかとか、いちいちぎくしゃくと考えずにはいられない。要は、だいぶ面倒くさい奴なのである。自意識まみれの言葉をラプンツェルの塔のごとく積み上げたそいつが、ある日『鶉』という小さな句集を手にする。1ページ、2ページとめくって、ラプンツェルはすっかり参ってしまう。長年の肩凝りが一気に取れたみたいな気持ちになって、思わずあはははと笑い出すのだ。

一回も負けぬ気でゐる相撲かな 
秋蝉や死ぬかも知れぬ二日酔ひ 
困るほど生姜をもらひ困りけり 
爽やかな空振りを積み重ねけり 
天高しこれが社長のキャデラック

秋から冬、春、夏と季節を巡る構成になっている『鶉』の、秋の章から拾っただけでも、この楽しさ。一回も負けぬ気合いで臨んで一回戦でころりと転がされたり(たぶん)、大騒ぎした翌朝すさまじい二日酔いでぐったりしたり、困るほど生姜をもらって困ったり。「爽やかな空振り」とは、あるいは失恋の記憶かもしれないが、何だか相撲も秋蝉も生姜もみんな「爽やかな空振り」めいて見える。いずれも人生の華々しくない部分を切り取っていながら、あくまでも爽やかなのだ。社長のど派手なキャデラックを前にしても僻んだり揶揄したりせず「これが、あの!」と素直に驚いてみせる、朗らかなキャラクターがいい。

絵が好きで一人も好きや鳳仙花 
ばつたんこ手紙出さぬしちつとも来ぬ 
一人は寂し鹿が立ち鹿が立つ

「一人きり」の境地を書くときも、ひりひりした自意識を盛り込まず、むしろ人懐こささえ感じさせるのが特徴だ。ラプンツェルは俳句のことをよく知らないけれども、「ばったんこ」や「鹿」など、季語の入れ方にも振りかぶったところがなくて、ごく自然に馴染んでいるように思われる。

念のため付け加えておくと、『鶉』の作者である西村麒麟という人は、おそらく、自意識が人より低いという訳でもないし、修辞にこだわりがない訳でもない(「鹿が立ち鹿が立つ」という言い回しの巧みさ!静かに立ち並ぶ鹿たちの細い脚が見えるようだ)。ただ、自意識を聳え立たせるように書くことをよしとせず、すこーんとひらけた境地を目指す、そういう美学の持ち主なのだと思う。

上野には象を残して神の旅 
冬至の日墨で描かれし人動く 
ことごとく平家を逃がす桜かな

仄かにファンタジックなこれらの句も、『鶉』の中に置かれていると、不思議なほど素直に腑に落ちる。

秋晴や会ひたき人に会ひに行く

そうか、会いに行くのか。とラプンツェルは頷いた。明日の朝、目が覚めて晴れていたら、塔を降りてちょっと出かけてみようかな。丸善の句集コーナー辺りをうろうろしていたら、麒麟さんとばったり会えるかもしれない。





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