2013年8月30日金曜日

【俳句時評】 僕たちのもう怖くない「加藤郁乎」について / 外山一機

加藤郁乎句集『了見』(書肆アルス)が刊行された。二〇〇五年から亡くなるまで(二〇一二年)の全句を収録した遺句集である。巻末に付された「編集余禄」によれば、加藤は「句はまとめてある」と遺言し句集の題も「了見」と定めていたという。

 
 ぼんじやりと酒しみわたる蝸牛の忌 
 色里は色かくしてやひとしぐれ 
 さはやかに程よく勃ちてめいりやす 
 しぐるゝや銀座に古書肆あるべかり 
 松に月こゝろないぞへ月の松 
 俳諧は十六むさし父の恩 
 巻を措くわたしは俳句けふの月

 仁平勝は『了見』所収の「しぐるゝや七つ下りの雨女」をとりあげ、江戸時代の洒落を恋の句に仕立てた加藤の手腕を「解説」しているが(「俳句時評」『読売新聞』二〇一三・七・二九夕刊)、「加藤郁乎」についてのこの種の評言によって自らを慰めようと企む目ざとい小心者ははたして僕だけであろうか。

 加藤郁乎は遊び過ぎて、俳句の何も信じていないのである。昔江戸に遊び呆けた俳人がいて、その俳人が愚直に遊びの日々を信じてものにした句集が『江戸櫻』であると、加藤郁乎は偽書をでっちあげてみたのである。(中上健次「文芸時評」『ダ・カーポ』一九八九・七) 
 「滑稽の初心を終生わすれずにいた点、鬼貫は芭蕉をこえている」(滑稽の初心)と看破した加藤郁乎の第11句集『初昔』は現代俳句の異風にして正統である。前句集『江戸櫻』において「当たり前を吐くのが江戸前の俳味である」と俳諧風流の本筋、無用の用、無楽の楽を語ったイクヤワールドの展開を矜持して余すところがない。(大井恒行『図書新聞』一九九八・九)

 こうした世界がやはり『了見』においても揺るぎなく構築されているかのような気がするのは、それが間違いであるかどうかということ以上に、おそろしいことだ。こうした「偏見」は、一方で加藤自身が欲してきたものであるけれども、僕たちもまたそのように読むことで自らを慰撫し続けてきたのではないか。

あらためて思うのは、加藤の作品や営為を「俳諧」という言葉で語ることの不毛さである。それは結局ほとんど何も言っていないのに等しい。高柳重信は「加藤郁乎を評すると、それは古今の俳人の誰とも似ていないということであろう」といい(「編集後記」『俳句研究』一九八三・七)、江里昭彦は加藤を「エイリアン」と呼んだが(「俳句の近代は汲み尽くされたか」『未定』一九九〇・五)、「俳諧」などという評言をもって加藤を語ることは、「エイリアン」の襲来をなんとか自分たちの手持ちの言葉で解釈しようとした彼ら自身の苦悩をそのまま曝すような何とも痛ましい行為ではなかったか。

郁乎には、彼を前衛俳句の一員のごとく見なす誤解が永らくつきまとっていまして、それが誤解であることをこれから説明しますが、でもその誤解のおかげで彼は俳句界に着地できたともいえる。(前掲「俳句の近代は汲み尽くされたか」)

僕は加藤郁乎が「俳諧」や「江戸」という言葉で評されるときその座りのよさのなかに、加藤を「前衛俳句」と評したときのそれとは異質でありながらも、しかし「俳句界に着地」させようとする評者の不用意さを感じるのである。とはいえ、こうした事態がどこか見えにくいのは、「エイリアン」自身が「俳諧」で解釈してくれと言わんばかりの振る舞いをしていたことにある。

 俳句の生みの親とでもいうべき俳諧、その俳諧の根本義である滑稽の風をさしおいて俳句を云々するなど、じつに、いや、実は滑稽というものだろう。極言するまでもなく、どこかがおかしいからこそ「俳」の趣があり、従ってどこもおかしくないような俳句なんか成り立つわけがない。(加藤郁乎「自作ノート」『現代俳句全集』第一巻、立風書房、一九七七)

だが、たとえば『出イクヤ記』以降の加藤について、それがいかにも「Uターンともいうべき、一八〇度の捻り」らしくみえはじめたとき(木村聰雄「連続それとも………」『未定』一九九〇・五)、安堵した俳人がいなかったとは僕には思えない。しかしそれは加藤の作品が提示していたはずの「俳諧」や「江戸」などという言葉では本来いいおおせるはずがないものを、そう呼ぶことで隠蔽してしまっているだけで、結局のところそのような批評など評者と加藤の出来レースに過ぎまい。

 そういえば『豈』(二〇一三・一)が「加藤郁乎は是か非か」なる特集を組んでいたが、ずいぶんと悠長な問いである。僕たちの現在はそのような問いがもたらした正と負の遺産のなかにこそあるのであって、だから、そのような問いが成立したかつてへと思いを及ぼすことの方がよほど重要ではないかと思う。換言すれば、「加藤郁乎」をいかようにも見限れるこの種の問いが成立するまさにそのとき、より具体的に言えば、「加藤郁乎以後などという価値観の神話が本当は何の意味も持たなくなった」(夏石番矢「うたげのあとのよだれ」『未定』一九九〇・五)という認識が持たれるようになったそのときのそれぞれの作家のまなざしの精度と性質について考えることこそが、僕たちにはより切実な問題なのではないだろうか。

 新興俳句運動そのものは、はなはだ雑多な性格を有していたものではあったが、富沢赤黄男を代表とする優れた幾人かの俳人における新興俳句運動に対する認識の中には、俳諧連句の発句の概念(遺制)をもって俳句を規定しようとする、それまで流布されていた俳句観を根本から問い直し、発句とは直結しない新たな俳句への創造と言う方向が、はっきり見据えられていた。高柳重信の戦後の多行表記への試行も、言えば、富沢赤黄男らとのこの試みを、さらに拡大・実践したものということができる。ところが、こと加藤郁乎は、富沢赤黄男・高柳重信が紡ぎ出し、事実、戦前から戦後への俳句を代表するに足る仕事として定立したこの方向に、必ずしも沿ったものとして自らの句業を位置づけてはいないのである。位置づけないというより、それは、むしろ逆の方向と言うべきところから、富沢赤黄男・高柳重信に遭遇する結果になっているのである。(沢好摩「句集『球体感覚』と加藤郁乎」『俳句研究』一九八〇・四)

 僕は、ひとり加藤郁乎の「俳諧」「発句」という言葉を畏怖する。(略)
 加藤が「俳諧」と言い「発句すなわち俳句」と言うとき、それは従来の俳句享受史を経てきていないものであり、加藤の内部で俳句原初の可能性を把握し得た故のものである。芭蕉を経た従来の俳句享受史ではなく、加藤郁乎を経ることによって始まる享受史を、「滑稽」の中に加藤は見据えようとしているのではなかろうか。(林桂「加藤郁乎掌論」『俳句研究』一九七九・七)

『出イクヤ記』以降の加藤が「俳諧」という語をもって論じられることは少なくなかったが、同時代の評言を読んでもその「俳諧」なるものの内実ははっきりしない。というよりもむしろ、いまだ名付けえない何ものかについて、それを「俳諧」の名で呼んでいたようにさえ思われる。思えば、加藤郁乎の「俳諧」が取り沙汰されていたちょうどそのころ、三橋敏雄の「俳諧」もまた彼らにとって重要な問題として見えてきていたのであったが、沢は坪内稔典が三橋敏雄について論じるなかで用いた「俳諧的技法」という言葉について次のように述べていた。

俳句が俳句として成立するためには、いわゆる反俳句的なものとの葛藤をエネルギーとするような地平に立たねばならない。(略)そういう葛藤を持続している時だけ、俳句は新たに更新され、輝く。そのような葛藤が沈潜したあとには、いわゆる俳句的熟成が進み、また、そのぶんだけ俳句の危機がつのってゆく。(略)その作品の熟成ぶりと安定性において、三橋敏雄は結果的に俳諧的技法を内に呼び込んでいる。(「昭和40年代と三橋敏雄Ⅰ」『俳句研究』一九八一・九)

沢はまた「「俳諧的技法」とは或る固有の技法を指し示すことばとして受けとめるのではなく、俳句が今日という時代の詩としての根拠を見出しえないままに書かれる俳句作品をその内側から支えている言語規範の総称として理解する方がいいのではないだろうか」とも書いている(「続・戦後派の功罪」『俳句研究』一九八三・五)。まだなにも見えてきていないことをもってようやく自恃となしえたような彼らの現在にあって「加藤郁乎」や「三橋敏雄」とは重要な問題の謂であったにちがいないが、「加藤郁乎」や「三橋敏雄」を思考するなかで見えてきたものをそれぞれ「俳諧」という名で呼ぶとき、それは名付けえないはずものを名付けていくような危うさをはらんでいたように思う。そうした営為は坪内稔典の『過渡の詩』(牧神社、一九七八)や仁平勝の『詩的ナショナリズム』(富岡書房、一九八六)に見られるような定型論を生み出した営為とも無縁ではない。彼らはあのとき俳句形式の本質的な部分を問うていたのであり、林のいう「畏怖」とはそのように問う者こそが知ることのできるものであったろう。いわばこの「畏怖」は加藤のみならず俳句形式に対する「畏怖」でもあったのだが、不思議なのは、彼らがその「畏怖」を「畏怖」のままに自らのうちに抱え込み続けることができなかったことである。「俳諧」にせよ、坪内の「過渡の詩」や仁平の「幻股」にせよ、彼らは自らの「畏怖」をそのように解釈する言葉を持つことで自らのその後を準備していたようにも思う。あるいは表現行為とはこの種の賭けに身を投じていく行為の謂であるのかもしれない。しかし、そうであればこそ、僕には彼らのこうした言葉がついに何ものをも示していなかったのではないかというおそれと向き合うことで、ようやく彼らの―ひいては僕たち自身の―表現行為への批評の端緒を見出せるように思われるのである。

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