2013年3月8日金曜日

二十四節気論争(6)――日本気象協会と俳人の論争――/筑紫磐井編

第4群 節気・季語の根本論


24節気を論じて行く過程で節気・季語の根本論に遡って行く意見が出てきた。太陽暦の採用の間違い、気象協会や俳人たちも含めての季節区分の間違い、あるいはアンケートを採った俳人たちの中には無季派の方もいるところから24節気不要、季語不要等の意見も提出された。
極論のようにも見えるが、根本的な点での問題提起と考えておきたい。

〈①暦を旧暦にすべき〉

●暦を旧暦に直すべき。先ずは5節句が分かりやすいかも。真冬の7草粥、桃のない雛祭り、生えたばかりの菖蒲、梅雨最中の7夕、見ているだけで暑い菊人形…まともな俳句が作れません(-_-#)
●太陽の運行に基く24節気と月の満ち欠けとを組み合わせた太陽太陰暦(所謂旧暦)はとても優れたもので長年我が国の季節と付き合ってきた古人の生活によく合っていた。農業に携わる人が減った今でも十分使用に堪えるものと思っている。グレゴリオ暦は世界標準という意味では外せないけれども太陽太陰暦を見直してもいいのでは?

〈②欧米の考え方を入れたのが間違い〉

●立春・立秋が厳寒・猛暑期にあるというのは考え方の違いに過ぎません。「峠」の考え方をしてみるといいのです。寒さの峠、暑さの峠をこえるのがちょうど立春・立秋の頃です。日本における「24節気千3百年の歴史」をわれわれの時代に変更するというのは、日本の暮らし・文化への冒涜です。それより急務なのは、明治初期に導入された欧州文化のシーズンと、極東文化の季節の混同を正すことです。晩夏・初秋にサマーバケーションを直訳で入れた、など。日本気象協会には、天気予報での「『暦の上では』秋」という言い方を改めて頂きたいと思います。「立秋です。暑さのピーク・峠を越えます。早朝散歩に出てみて下さい。秋の象徴である露がおりていますよ」とでも呼び掛けて頂きたいと思います。
(別件)1番の問題は立冬なのです。これは温暖化問題。日本文学で重要な「紅葉」が今や初冬の景色と化しています。磐井さん、当日発言したいなー。牙城

〈③季節区分することが間違っている〉

●季節の言葉は大切にすべきだと思います。24節気は美しい名称が多く、失いたくありません。現状の気象変化に節気を当てはめるのではなく、その節気の言葉を感じたとき、出会ったときに詠みたいものです。季感はグラデーション、流れです。四季にこだわらず沖縄歳時記にあるように月ごとにまとめた歳時記でよいのではないかと思っています。これは夏の季語、いや秋だというやり取りはおかしいのではないかと思うのです。気象変化は地球規模でこれからも変わってきます。四季ごとに4角4面に編集する従来の歳時記を考え直すことを提案します。季語と現状のギャップは旧暦に基づいていることが問題のひとつではないかと思っています。

〈④24節気だからといって季語ではない〉

●昭和9年初版の高濱虚子編『新歳時記』には24節気のうち季題(季語)として採用されているのは、立春、立夏、立秋、立冬、啓蟄、夏至、冬至、小寒、大寒の9つにすぎません。その理由として「序」のなかで虚子は「季はあるには相違ないが俳句の季題としては不適当なものである」と退けています。よって「ホトトギス」および伝統俳句協会系の俳人たちの多くは、24節気72候を季題として諷詠しないようです。一方、現代俳句協会編の歳時記および俳人協会と密接な関係にある角川書店刊(現角川学芸出版刊)の合本俳句歳時記には全項目に例句が収録されております。現在の俳句作者たちが作句の拠り所としている歳時記に掲載されているか否かで、このような違いが生まれることこそを探究すべきであろうかと思います。よって今回の日本気象協会の判断が俳人および歳時記編纂者に影響を与えうるか否か、を問うべきではないでしょうか。

〈⑤24節気は不要である〉

●俳人以外は、必要としていない言葉という気もします。
●必要ないです

〈⑥季語は制度であり間違っている〉

●季語自体、いまや極めて制度的な言語に成り下がっている。表現者は少なくとも制度的言語を脱する試みを行なわなければ、伝統の更新は不可能である。24節気と季語は実は似て非なるものだ。人間の生活の知恵として24節気は切実なものである。季語は元々遊芸の約束ごとに過ぎない。

〈⑦24節気以外の季節問題〉

●夏至、冬至のように気象上ぴったりするものもあれば、少し頭を傾げたくなるものもある。しかし24節気についてはあまり抵抗を感じない。むしろ、例えば「7夕」「お盆」などについて各俳句協会のはっきりとしたまとまった意見を示すべきだと思う。先頭に立ってまとめる俳人はいないのか?人集め、金集めに躍起になり、肝心の俳句の基本を忘れているのではないか。残念である。
○7夕は7月7日になっていますが、本来は8月中旬頃では?よく星の見える時に移動した方がいいのでは?季語は秋です。同じ事が朝顔にも言えます。朝顔市は夏。朝顔は秋です。

第5群 いずれにも属しない意見

〈①24節気アンケートの設問の問題〉

●このアンケートに関してですが、問[い]7を必須にするのは、おかしいとおもいます。「〝新しい季節の言葉〟をつくる必要がない」と上でこたえた人の意思を無視した質問だとおもいます。

〈②不明な回答〉

●地球温暖化そのた[他]で、気象の変化が見られる。地球上に住んでいる私達は季節に敏感であって欲しいと思う。しかし、俳句を創る時はあまり節気は気にしない。
○太陽黄径から理解している。個々の名称については良く判らない。
○現在、特に勉強をしていませんが、気をつけていこうと思います。
○なんとなく知っているというのが実情です。1度詳しく、どういうものか教えて頂きたいと思います。
○このことについては全く無知というレベルですが、俳句を始めて関心が持てるようになりました。
○虚子の日盛の会のことを知りました。
○気象の知識は英会話などと同じで、あれば便利だが、無いからといって、駄目であるとは言えない。

考察

気象協会は、24節気は古代中国で成立したため日本の季節感と合致しないところがあり(本当に合致しないかどうかについては4.(2)を参照)、現代の日本にはなじみの薄い節気の呼称があることを理由に在来の24節気を見直すべきことを主張している。

アンケート〈意見〉では、気象協会が提案した在来の24節気見直しに反対するものが圧倒的に多かった。

見直し反対論では、具体的理由を挙げていないものもあるが、「24節気は伝統である」、(ずれが生じるとしても)「日本人独特の季節感である」、「文化として残すべきである」を理由に掲げるものが多かった。この問題を契機に、「もっと24節気を普及したい」という意見もあった。気象協会の提案に対しては、在来の季節感と在来の24節気が結びついているものであるから、24にこだわって24節気を「新しく作ることは余計である」、むしろ「24節気と無関係に季節のことばを作ればよい」という批判的な意見も強かった。

気象協会の提案については、在来の24節気を新しい24節気に作り直すことに賛成の意見は皆無であった。ただ協会が指摘している、季節感がずれているとか難しい用語が多いという点については「1部は変更すべきである」という意見も若干あった。24節気に新旧「2つあってよい」という意見もあるが、提出された意見の記述をよく分析すると、〈旧24節気と新24節気と2つあってよい〉という意見は少なく、〈在来の24節気と新しい季節のことば(24節気とは言わない)〉があってよいというものであり、言いかえれば「節季と無関係に作ればよい」という意見とも共通している。

なお、反対論、賛成論の両者に対して「どうでもよい、淘汰されるから」という虚無的な意見も少数あった。

24節気を論じて行く過程で節気・季語の根本論に遡って行く意見が出てきた。「暦を旧暦にすべき」「欧米の考え方を入れたのが間違い」「季節区分が間違っている」という現代の季節にかかわる制度そのものに懐疑的な意見もあった。また俳句に関しては花鳥諷詠派や無季俳句の立場に立つ人々も回答していただいたところから「24節気だからといって季語ではない(虚子が定めたものが季語・季題である)」「24節気は不要である」「季語は制度であり間違っている」という意見も当然出てきた。また24節気以外の季節問題として、現代において季節感は存在しなくなったり、混乱している実情を述べている意見が補足的記述も含めて多かった。

    *     *

以上をまとめれば、俳人たちは在来の24節気に代えて気象協会が提案するような新しい24節気が必要であるとする意見は少なく、まして新24節気を必要とする積極的な理由が俳人たちから挙がってくることはなかった。

ただし、在来の24節気と無関係に新しい季節のことばが生まれることについては否定的ではない。アンケート回答でも、新しい季節の言葉ができたら季語として使いたいという回答が多かった。
 現在気象協会は、新しい24節気を提案することを断念して、季節のことばを定めるために公募をはじめているという(毎日新聞9月27日付記事)。これはこれで否定するものではない、問題は気象協会は、季節のことばを公募し、選定・発表するというが、その優秀作品について「著作権等1切」が気象協会に帰属するものとすると説明していることである。いままで、俳人や評論家により創出された季語は沢山ある(「秋の夜」「万緑」など)が、未だかつて季語に著作権を主張した人はいない。気象協会が何を意図しているか極めて危惧されるのである。

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